絢辻さんを救いたい話 作:紳士
翌朝。
教室へ入って最初に見たのは、絢辻さんの席だった。
もう来ている。
窓から差し込む朝の光の中、いつも通り背筋を伸ばして椅子に座り、机の上には創設祭の資料を何枚も広げていた。確認を終えた紙を揃え、付箋を貼り、近くに来た実行委員へ必要なものだけを渡していく。昨日、教室に残っていた刺々しい空気も、夜の神社で見た表情も、そこには何一つ残っていなかった。
「絢辻さん、昨日の飾りここまで終わったよ」
「ありがとう。後で確認しておくね」
「今日も残った方がいい?」
「ううん、無理しなくて大丈夫。昨日たくさん手伝ってもらったし、自分の予定を優先してね」
柔らかな笑顔と穏やかな声に、話しかけた女子生徒も「分かった」と笑って席へ戻っていった。入れ替わるように別の生徒が資料を持ってくると、絢辻さんはそちらにも同じように応じる。誰かが困らないよう先回りして、必要な言葉を必要な分だけ返していた。
「おはよ、湊」
「おはよう」
自分の席へ向かう途中、薫に声をかけられた。返事をしながらも、視線が斜め前へ戻ってしまう。
「……朝から絢辻さんのこと見すぎじゃない?」
「そんな見てた?」
「見てた」
薫は僕と絢辻さんを交互に眺めたものの、それ以上は何も聞かなかった。僕が鞄を机に置いたところで、ちょうど絢辻さんがこちらを向く。
目が合った。
『あなたをあたしのものにします』
『その代わり、あたしをあげる』
昨夜の声が蘇る。続いて浮かんだのは、自分の言葉だった。
『その契約は、受けられない』
僕が返さなかった言葉まで、その後ろについてくる。
絢辻さんが資料を机に置き、こちらへ歩いてきた。
「おはよう、望月君」
「……おはよう」
「昨日はごめんね。帰る前、ちょっと感情的になっちゃって」
予想していなかった言葉に、返事が一拍遅れた。
「え?」
「気にしないで。私が変なことを言っただけだから」
私。
昨夜は一度も聞かなかった方の呼び方だった。
「でも、あれは――」
「もう大丈夫だよ。望月君は何も悪くないから」
遮り方まで優しかった。拒むような強さはどこにもないのに、その先へ入っていけない。
絢辻さんは自然に視線を外し、手にしていた資料へ目を落とす。
「それより、昨日確認してもらった備品ね。数は合ってたよ。ありがとう」
「……うん」
「今日は部活あるんだよね。なら、そっちを優先して。創設祭の方は私たちで大丈夫だから」
聞き覚えのある言葉だった。予定があるなら、そちらを優先する。自分の時間は自分で決める。僕が彼女へ何度も言ってきたことだ。
「絢辻さん。昨日の話、僕はまだ――」
予鈴が鳴った。
廊下にいた生徒たちが一斉に教室へ流れ込み、机を引く音と話し声が周囲を満たす。絢辻さんは時計を見上げ、それから僕へ申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。もう始まるから」
そのまま自分の席へ戻っていく。僕は何も返せないまま、その背中を見送った。
怒られる方が、まだ話せたかもしれない。
◇
午前中、昨日の言い争いについて正面から何かを言う人はいなかった。だからといって、何も起きていないわけでもない。
移動教室の支度をしていた時、絢辻さんが近づくと、それまで話していた女子たちの声が途切れた。別の休み時間には、昨日の作業について尋ねた相手から必要以上に素っ気ない返事が返ってくる。
「昨日の窓側の飾り、どこまで終わったか分かる?」
「さあ。私じゃなくて他の人に聞けば?」
「そっか。分かった、ありがとう」
絢辻さんはそれだけ返し、手元の作業表に何かを書き込んでから別の机へ向かった。挨拶を返されなくても、自分からはする。確認が必要なら普通に話しかける。声も表情も、むしろ普段より柔らかいくらいだった。
露骨な悪口を言われるわけではないし、誰か一人が「無視しよう」と号令をかけているわけでもない。昨日言い争った二人の周りだけ、薄い膜のようなものができている。話しかければ返事はする。近くに来れば少し静かになる。その程度の距離が、教室の一角に残っていた。
絢辻さんは、一度もそれを気にした様子を見せなかった。
◇
四時間目は体育だった。男子はグラウンドを持久走、女子はその一角でドッジボールをしている。男子は指定された周回数を走り切れば終わりで、順位を競う授業でもない。
僕は普段通りのペースで走り始めた。以前、絢辻さんの前で格好をつけようとして、1200メートルの序盤から飛ばし、後半できっちり失速したことがある。同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。
一周目。女子のコートでは、もう試合が始まっていた。
二周目に入り、直線で何気なくそちらを見る。片側の内野にいるのは、絢辻さん一人だった。反対側にはまだ大勢残っている。
最初は、単に試合がそう進んだだけだと思った。けれど、次に見た時も、その次に見た時も、ボールは絢辻さんの方へ飛んでいた。昨日、教室で言い争っていた女子の一人が投げたあと、隣と顔を見合わせて笑っている。
コーナーへ入ると女子側は視界から外れた。腕時計を見る。まだ周回は残っている。
三周目。
再びコートが見える。状況は変わっていなかった。絢辻さんが足元へ来た球を避け、その直後に外野から飛んできたもう一球を身体を反らしてかわす。
偶然で片づけるには、偏りすぎている。
僕は一度大きく息を吸った。残っている距離と今の脚の感覚を確かめ、次の直線からペースを上げる。前を走っていた男子を一人抜き、コーナーでは崩さず、直線でもう一段速くした。
次に女子側が見えた時、相手側にいた薫がコートの中央付近で足を止めていた。近くの女子と何か話しているらしい。何を言っているのかまでは聞こえない。
僕はその横を走り過ぎる。
さらに一周。今度は薫が絢辻さんの側にいた。外野では薫と仲の良い田中さんもボールを追っている。さっきまで一人だった絢辻さんの横に薫が立ち、それだけでコートの空気は変わって見えた。何度かボールが行き来するうちに、相手側の人数も減っている。
僕はペースを落とさなかった。
次に見えた時には、薫の姿が内野から消えていた。残っているのは、また絢辻さん一人。それでも相手側も、もう数人しかいない。
最後のコーナーへ入る。
呼吸はかなり上がっていた。脚にも負荷が溜まっている。それでも、以前みたいに動かなくなる感覚はない。
直線の先にゴールのラインが見える。同時に、女子のコートも視界に入った。
昨日、教室で絢辻さんと言い争っていた女子がボールを持っている。大きく腕を引き、そのまま投げた。
真っ直ぐ、絢辻さんの身体へ向かう。
絢辻さんも気づいた。身体を横へ逃がそうとする。
一歩、遅い。
僕はラインを越え、そのまま足の向きを変えた。さっきまで周回するために動かしていた脚を、そのままコートへ向ける。
ボールが迫り、絢辻さんとの間へ入った。
両手に強い衝撃が走る。
「……っ!」
腕ごと後ろへ押された。胸の前で抱え込み、どうにか落とさず止める。一瞬、周囲の声が遠くなり、荒い呼吸だけが自分でもうるさいほど聞こえた。
腕の中を見る。
ボールはちゃんと残っている。
「……間に合った」
「望月君……?」
背後から声がした。振り返ると、絢辻さんが目を見開いている。
「もう……何してるの? 走り終わったばかりだよね」
「終わったから来たんだよ」
「でも、そんなに息切らして……」
「ちょっと急いだから」
絢辻さんの視線が僕の顔から、さっきまで走っていたコースへ移る。
「……途中から、ずいぶん速かったよね」
「見えてた?」
「走ってるんだから、そりゃ見えるよ」
返しは柔らかい。それでも、その表情には戸惑いが残っていた。
コートの外から薫の声が飛んでくる。
「湊、そこまで来たなら最後までやりなさいよ!」
「言われなくても、そのつもり」
「何よ、今日はやる気あるじゃん」
抱えていたボールを持ち直すと、相手側から不満そうな声が上がった。
「何それ。望月君まで?」
「男子の方は終わったから」
「だからって入る?」
「入るよ」
「庇ってるだけじゃん」
僕は一度相手を見た。
「そう見えるなら、それでもいいよ」
女子生徒が顔をしかめる。
背後から、絢辻さんの声がした。
「望月君、本当に無理しなくていいよ?」
「無理してない」
「でも――」
「僕がこっちに来たかったから」
絢辻さんが口を閉じた。何か言いかけたように唇が動いたあと、こちらから目を逸らす。
「……そっか」
それだけ答え、僕の隣へ並んだ。
試合が再開する。内野には僕と絢辻さん、外野には田中さんがいる。コートの外では薫が何か声を飛ばしていて、さっきまでの嫌な静けさはもう消えていた。
何度かボールが行き来したあと、最後の一人が投げた球を僕が受け止める。そのまま隣へ差し出した。
「絢辻さん、最後」
「え?」
絢辻さんはボールを受け取り、相手を見る。一度だけ持ち直してから、腕を振った。
真っ直ぐ飛んだ球が、相手の脚に当たる。
乾いた音のあと、ボールが地面を転がった。
「……勝った?」
外野から田中さんの声が聞こえる。
薫が両手を上げた。
「ほら! 正選手にしとけばよかったでしょ!」
「棚町さん、もう当たってるよ」
「細かいこと言わない!」
田中さんが小さく笑い、僕もつられて口元を緩める。絢辻さんもほんの少しだけ笑った。
それでも僕と目が合った瞬間には、その表情はすぐに朝からの柔らかなものへ戻った。
◇
体育の後、教室へ戻る生徒の列に混じって廊下を歩いた。走った後の熱がまだ身体に残っていて、開け放たれた窓から入る冬の風が心地よかった。
隣を歩いていた薫が、大きく息を吐く。
「感じ悪っ」
「まだ怒ってる?」
「当たり前でしょ。昨日ムカついたなら昨日言えばいいのよ。ああいうの一番嫌い」
「まあ、それは僕もそう思う」
答えると、薫が急に僕の顔を覗き込んだ。
「あんた、それより途中から露骨に速くなってたわよね」
「……見てたの?」
「見えるっての。急に何人も抜き始めたんだから」
「まあ、ちょっと」
「ちょっとねえ」
意味ありげに笑われる。
「何だよ」
「別にー?」
薫はそれ以上言わず、少し前を歩く絢辻さんへ目を向けた。その隣には田中さんがいる。
「田中さん、ありがとう。外野からずっと助けてくれたよね」
「あ……うん。でも、私ほとんど役に立ってないし」
「そんなことないよ。ちゃんと最後までいてくれたし」
田中さんは照れたように俯き、上履きの先を見ながら歩いた。
「……ああいうの、嫌だったから」
絢辻さんの足が少し緩む。
「そっか。ありがとう、田中さん」
「うん」
「でも、もう大丈夫だよ。気にしないでね」
また、その言葉だった。
◇
昼休み、絢辻さんは教室にいた。
屋上には行かない。僕と昼食を食べる約束もない。それ自体は何もおかしくないはずなのに、教室の斜め前にいるだけの姿が随分遠く見えた。
弁当を食べ終えた彼女は、一人で創設祭の資料を確認している。周囲では何人かが机を寄せて昼食を続け、窓際からは笑い声が聞こえていた。いつもの昼休みの教室だ。
僕は席を立ち、彼女の机の横まで歩いた。
「絢辻さん、朝の話なんだけど」
「ああ、昨日のこと?」
「うん。僕は気にしてる」
資料の端を揃えていた手が一瞬だけ止まった。
「本当に気にしなくていいよ」
「昨日、僕の言い方が悪かった」
「そんなことないって」
「あるよ」
絢辻さんは少し困ったような顔をした。
「私はもう大丈夫だから」
「大丈夫って――」
「昨日は、私が勝手に期待しただけなの」
指先が紙の角を押さえる。
「期待?」
「忘れて。変なこと言ったよね、私もどうかしてたの。だから、もう忘れてくれていいから」
「忘れられないよ」
絢辻さんが顔を上げる。
「どうして?」
言葉が喉まで出る。
昨日返せなかったもの。
嬉しかった。
そばにいてほしいと言われて嬉しかった。
僕を欲しいと言われたことも。
「僕は――」
「絢辻さん」
別の方向から声が飛んだ。
創設祭の資料を持った男子が、机の横に立っている。
「これ、午後までに確認してほしいんだけど」
「うん、今見るね」
絢辻さんはすぐに立ち上がった。資料を受け取る前に、僕へ振り返る。
「ごめんね。また後で」
「……うん」
それだけ残し、男子生徒と教卓の方へ歩いていった。
◇
放課後、創設祭の準備には昨日より多くの生徒が残った。
教室の前では色紙を切る班が机を寄せ、窓側では装飾品が種類ごとに箱へ分けられている。床には養生用の新聞紙が広げられ、黒板の端に書かれていた作業項目にも次々と横線が増えていった。昨日より人の出入りも多く、紙を切る音やテープを引き出す音が絶えない。
薫も残り、田中さんも窓側の机で装飾を仕分けていた。
「これ、線に沿って切ればいい?」
「うん。多少ずれても大丈夫だから、お願いしてもいい?」
「りょーかい」
薫が鋏を動かす横で、田中さんは装飾を一つずつ箱へ分けていく。絢辻さんは二人にも他の生徒にも同じように丁寧に説明し、終わった作業には印をつけ、余った材料を別の机へ移していた。午前中にあった教室の薄いよそよそしさも、作業が始まってしまえば邪魔になるほどではなかった。
「田中さん、そこまでで大丈夫だよ。ありがとう」
「まだできるよ?」
「家の用事あるんだよね、無理しなくていいよ。今日だけでも十分助かってるから」
田中さんが迷うように手元を見ると、絢辻さんは安心させるように笑った。
「本当にありがとう。後は私がやるから」
僕は持っていた箱を机に置き、作業表を覗き込んだ。
「絢辻さん、残りどれくらい?」
「大した量じゃないよ」
「見せて」
「望月君は部活でしょ。もう行った方がいいよ」
「もう少しなら時間あるけど」
「遅れたら困るじゃない。自分の予定を優先するって言ってたよね」
絢辻さんは笑顔のまま、僕の方へ作業表を見せることなく閉じた。
「それに、今日は私から何も頼んでないよ」
僕は一度口を閉じた。
「……そうだね」
「だから大丈夫。行ってらっしゃい」
今ここで残れば、彼女の言葉を無視することになる。
「分かった」
鞄を取る。
「薫、田中さん。ごめん、先行くね」
「おー。部活頑張って」
「またね、望月君」
田中さんが小さく手を振る。
扉の前でもう一度振り返ると、絢辻さんは別の生徒の机に身を屈め、切り終えた飾りを確認していた。僕の方は見なかった。
◇
部活が終わり、着替えを済ませて昇降口へ向かった。
校舎内はもう静かだった。窓の外は暗く、運動部の掛け声も昼間よりずっと遠い。下校する生徒が何人か玄関へ向かい、靴箱の扉を閉める音が響いている。
自分の靴箱の前まで来て、足が止まった。
明日は創設祭だ。
昨日、高橋先生は余裕がないと言っていた。今日の放課後にかなり進んだとしても、絢辻さんの言う「大した量じゃない」を、そのまま信じる気にはなれない。
携帯電話を開くが、連絡はない。
当然だった。
今日は一度も、彼女から私的なメールが来ていない。
『頼んだら何でも聞くわけじゃないくせに、自分で決めて手伝う』
昨日、神社で言われた言葉が浮かんだ。
僕は携帯を閉じ、靴箱から手を離して踵を返した。
◇
教室棟へ戻る途中、階段で薫と鉢合わせた。
「湊? まだ帰ってなかったの?」
「薫こそ。準備は?」
「さっきまでね。絢辻さんに帰らされた」
「帰らされた?」
薫は親指で階段の上を示した。
「『ここまでで大丈夫。ありがとう』って。恵子も家の用事で先に帰ったし、担当が終わった人から帰してた」
「絢辻さんは?」
「まだ残ってる。ほぼ一人」
嫌な答えだった。
「明日の朝でいい作業は回すって言ってたけど、絶対自分で残りやる気じゃん」
階段の踊り場に、少しだけ沈黙が落ちた。下の階から誰かが歩く音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。
薫が僕の顔を見る。
「それより、なんかあった? 今日の絢辻さん、あんたにだけ妙によそよそしくない?」
「……ちょっとね」
「喧嘩?」
「多分。僕が失敗した」
薫は少しだけ目を見開いた。
「珍し」
「ひどいな」
「だって湊、こういう時って大体考えすぎて何もしない方じゃん」
「否定できない」
「今回は何かしたんだ?」
「した。で、失敗した」
薫はしばらく僕を見ていたが、やがて手すりから身体を離した。
「なら、自分で何とかしな」
「そうする」
「じゃ、頑張って」
肩を軽く叩かれる。
薫はそれ以上聞かず、階段を下りていった。
◇
教室には、明かりが一つだけ残っていた。
廊下の電灯もところどころ消されていて、扉の小窓から漏れる白い光だけが床に四角く落ちている。中を見ると、絢辻さんが一人で残っていた。
いくつかの机を寄せ、その上いっぱいに飾りや資料を広げている。完成したものを箱へ収め、定規で長さを測り、紙を切る。机の端には処理済みの資料が積まれ、その横にはまだ手のついていない材料が残っていた。人が大勢いたはずの教室には紙を切る音しかなく、昼間よりずっと広く見える。
僕は扉を開けた。
静かな教室に音が響く。
絢辻さんの手が止まった。
「……望月君?」
驚いた顔は、ほんの一瞬だった。
「どうしたの? 忘れ物?」
「違う。手伝いに来た」
沈黙が落ちる。
絢辻さんは壁の時計を見上げたあと、手元の紙を揃えた。
「部活は終わったの?」
「うん」
「そっか、お疲れさま。なら、もう帰った方がいいよ。外も暗いし」
「絢辻さんはいつ帰るの?」
「これが終わったらかな」
机の上へ視線を戻し、切り終えた紙を重ねる。
「全部?」
「うん」
「一人で?」
「大丈夫だよ」
即答だった。
僕は机の上を見た。半分ほど終わった飾り、まだ開けられていない材料の袋、確認待ちの資料。大した量には見えない。
「これ全部、今日やるの?」
「明日の朝に回せるものもあるよ」
「じゃあ、そこまでにして帰ろう」
絢辻さんは困ったように首を傾げた。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に平気だから」
「僕は平気じゃない」
絢辻さんの目が動いた。
「今日ずっと見てたんだ。絢辻さんを」
窓の外で風が吹き、ガラスがかすかに鳴った。
「私は大丈夫だよ」
「またそれだ」
「本当に大丈夫」
「昨日は違っただろ」
絢辻さんの手が止まった。手にしていた紙を机へ置き、少し間を空けてからこちらを見る。
「昨日の話はもう終わったよ」
「終わってない」
「私の中では終わってるの。私が勝手なことを言って、望月君が断った。それだけだよ」
「それだけじゃない」
絢辻さんは新しい紙へ手を伸ばした。
「だから気にしないで。望月君は何も悪くないから」
「悪かったよ。僕の言い方が悪かった」
「そんなことないって」
「ある。昨日、ちゃんと言えてなかった」
「もういいの」
絢辻さんがゆっくり顔を上げた。
「私はもう、その話したくない」
僕は口を閉じた。机の上に並んだ紙と定規を見る。ここで無理に続ければ、彼女が今は聞きたくないと言っていることまで踏み越える。
「……分かった。今は話さない」
「そうしてくれる?」
「うん。でも、これだけ手伝う」
絢辻さんの眉が寄った。
「必要ないよ」
「必要かどうかじゃない。僕が手伝いたい」
絢辻さんは手にしていた紙をゆっくり机へ置いた。
「どうして?」
「一人でやる量じゃないから」
「明日でも間に合うものもあるって言ったよ」
「それなら、一緒に明日に回そう」
「望月君には関係ないよ」
柔らかな声のまま、言葉だけがはっきりと線を引いた。
「関係なくても手伝う。心配だから」
指先から紙が滑り、机に薄い音を立てて落ちた。
「……やめて。そういうこと言うの」
「どうして?」
「私が頼んだ?」
「頼まれてない」
「今日は手伝わなくていいって言ったよね」
「言われた」
絢辻さんは唇を結び、一度息を吐く。机の端に置いていた定規を揃え、散らばっていた紙を一枚ずつ重ねた。
「だったら帰って。お願い。もう私のことは気にしなくていいから」
「無理だよ。気になるから」
絢辻さんの唇が震えた。
「……やめて」
「絢辻さん」
「来なくていいって言ってるじゃない」
「でも僕は――」
「昨日あんなこと言っておいて……」
声が途切れた。
手元で揃えていた紙が止まる。絢辻さんは俯いたまま、机の縁を掴んでいた。
「昨日……あたしが何て言ったか、覚えてる?」
顔が上がった。
今日一日、一度も聞かなかった方の声だった。
「あなたが欲しいって言ったのよ」
「覚えてる」
「あたしをあげるって言った。それを断ったのは望月君よ」
手のひらが机を叩く。広げられていた紙が跳ね、端に置かれていたペンが転がった。
「うん」
「だったら何で来るのよ!」
「それとこれは違う」
「何が違うの!」
「いらないなんて言ってない」
「言ったじゃない!」
「言ってない!」
声が教室に響く。
絢辻さんの目が揺れた。
「僕が断ったのは契約だよ」
「同じじゃない」
「違う」
「何が違うのよ!」
机を挟んで向き合う。
昼間まで人で埋まっていた教室には、僕たち以外誰もいない。窓の向こうから聞こえていた部活の声も、もう遠くなっていた。
「絢辻さんをいらないって言ったんじゃない」
「だったら欲しいって言えばよかったじゃない!」
言葉が止まった。
「……それは」
「言わなかったわよね」
絢辻さんが一歩、机の横へ出る。
「あたしは言ったのに」
声が低くなる。
「恥ずかしかったけど、全部言った。望月君が欲しいって。これからもそばにいてほしいって」
目元が赤くなっていた。
「なのに望月君は、嫌だって言った」
「契約が――」
「そればっかり!」
言葉を叩き落とされる。
「あたしが何言っても、そこしか聞いてなかったんでしょ」
返せなかった。
絢辻さんは僕の顔を見たまま、唇を噛む。
「……ほら」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない!」
机の横を回り込んでくる。
さっきまで二人の間にあった机がなくなった。
「何なのよ。昨日はあたしなんかいらないみたいに突き放して、今日は勝手に走るペースまで上げて来て」
僕は何も言えなかった。
「頼んでもないのに、棚町さんたちと一緒になって庇って」
「僕がそうしたかったから」
「だからそれが分からないのよ!」
もう一歩、距離が縮まる。
「放課後だって、来なくていいって言ったじゃない」
「言われた」
「それなのに戻ってきて!」
「僕が来たかったから」
「またそれ!」
絢辻さんの手が、僕の制服の胸元を掴んだ。
「昨日あんなこと言っておいて……なんなのよ……なんなのよ、あんたは!」
誰もいない教室に声が響く。
「あたしが欲しいなら欲しいって言えばいい! いらないなら放っておけばいい! なのに、何でどっちもしないのよ!」
「絢辻さん」
「あたしはそんなの分からない!」
掴んだ手が離れない。
「何をしたら嫌われるのか分からない。何をしたら来るのかも分からない。だったらせめて決めようとしたのに、それも嫌だって言う」
声が次第に小さくなる。
「なのに今日も来る」
顔が伏せられる。
「……何でよ」
昨日から考えていた。
何がいけなかったのか。
どうして彼女はあんな顔をしたのか。
僕なりに、答えを出したつもりだった。
「絢辻さんは……曖昧なままなのが怖かったんだろ?」
絢辻さんの顔が上がった。
「だから契約なんて形にして、僕がいなくならないようにしたかった。昨日も言ってたじゃないか。何をしたら僕が離れるのか分からないって」
返事はない。
僕は続けた。
「でも、そんなふうに決めなくても――」
乾いた音がした。
頬が横へ弾かれる。
何が起きたのか分からないまま、遅れて熱が走った。
教室が静まり返る。
絢辻さんの右手が、僕と彼女の間に残っていた。
「……あなたに」
声が震えている。
「あなたに、あたしの何が分かるのよ」
何も返せなかった。
「何でも分かったみたいに言わないで」
絢辻さんは胸元から手を離し、一歩下がった。叩いた右手を自分の胸元へ引き寄せ、反対の手で手首を掴む。
「昨日、あたしが何を言っても『契約』しか見てなかったくせに」
「……絢辻さん」
「今日になったら、今度はあたしが怖がってたって?」
口元が歪む。
「勝手に決めないでよ」
僕は口を開きかけた。
けれど、何も出てこなかった。
「もういい」
絢辻さんが机の横に置いていた鞄を掴む。
「待って」
「来ないで!」
鋭い声が教室に響いた。
肩に鞄を掛け、扉へ向かう。足元に落ちていた紙を踏みそうになって一度だけ避け、それでも立ち止まらない。
「絢辻さん。ごめん、今のは――」
「聞きたくない!」
扉が勢いよく開いた。
そのまま廊下へ飛び出していく。
足音が遠ざかる。
開いた扉がゆっくり戻り、半分ほど閉じたところで止まった。
僕は追えなかった。
机の上には、途中まで切られた飾りと乱れた資料が残っている。さっき転がったペンは床まで落ち、その少し先には絢辻さんが避けた紙が一枚、裏返しになっていた。
頬が遅れて熱を持つ。
それでも、触れる気にはならなかった。