絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第二十五話 ツタエル

 

 廊下を駆けていく足音が、階段の方へ遠ざかっていく。

 

 僕は熱を持ち始めた頬にも触れず、半分開いた扉を見ていた。机の上には、絢辻さんが途中まで切っていた飾りと、乱れた資料が残されている。床まで落ちたペンは、机の脚に引っかかって止まっていた。

 

「……湊?」

 

 振り返ると、教室の入口に純一が立っていた。中へ入りかけた足を止め、僕の顔を見る。その視線が頬に留まり、眉が寄った。

 

「今、絢辻さんとすれ違ったんだけど。何かあった?」

 

「……間違えた」

 

 純一は返事をせず、廊下の先を振り返った。僕もそちらへ目を向けたが、もう足音は聞こえなかった。別の教室で机を動かす音だけが、壁越しに伝わってくる。

 

「追わなくていいの?」

 

「来ないでって言われた」

 

 口にすると、さっきの声が蘇った。僕が呼び止めても、絢辻さんは振り返らなかった。昨日も追いかけないでと言われ、その背中を見送った。

 

 今ここに残れば、また一人で考えるのだろう。何がいけなかったのか。どう言えばよかったのか。昨日もそうやって考えて、今日は話そうと決めていた。

 

 それなのに、まだ一度も伝えていない。

 

 純一は自分の席まで行き、机の中からノートを取り出した。鞄へしまいながら、こちらを見る。

 

「湊は、どうしたい?」

 

 開いた扉の向こうへ目を戻した。絢辻さんが最後に見せた顔を思い出すと、足がすくむ。追いついても、また帰れと言われるかもしれない。何を話せば聞いてもらえるのかも分からなかった。

 

 それでも、話したかった。

 

「追う」

 

「……そっか」

 

 純一が入口から身体をずらした。僕は鞄を肩に掛け直し、扉へ向かう。床のペンが目に入ったが、拾おうとはしなかった。

 

「ごめん、先に行く」

 

「うん」

 

 横を通り抜け、廊下へ出た。階段へ向かって走り始めると、鞄が腰にぶつかった。揺れないように片手で押さえ、そのまま踊り場を曲がった。

 

     ◇

 

 下の階に、絢辻さんの姿が見えた。手すりの向こうを黒い髪が横切り、昇降口の方へ消えていく。

 

「絢辻さん!」

 

 返事はなかった。

 

 階段を下りきった時には、彼女は靴箱の前にいた。上履きをしまう手が止まり、こちらを見る。僕だと分かると、すぐに顔を背けた。

 

「来ないでって言ったじゃない」

 

「ごめん。でも、まだ伝えてないことがある」

 

「もう聞きたくない」

 

 絢辻さんは靴を履き、外へ出た。僕も履き替えて後を追う。急いだせいで踵がうまく入らず、一度しゃがまなければならなかった。

 

 昇降口を出ると、冷気が頬に刺さった。校門へ向かう背中は十数メートル先にある。追いかけてきた僕の足音が聞こえたのか、彼女の歩調が速くなった。

 

「昨日、欲しいって言われて嬉しかった!」

 

 絢辻さんの足が止まった。

 

 追いつく手前で僕も止まる。彼女は背を向けたままだったが、鞄を持つ腕が身体の横へ下がった。

 

「そばにいてほしいって言われたのも、一緒にいるのが好きだって言ってくれたのも。全部、嬉しかった」

 

 声が上ずっていた。校舎の方から誰かが来たら聞こえるだろうと思ったが、もう口にした後だった。呼吸を整えながら待っていると、絢辻さんが振り返った。

 

「……今さら、何よ」

 

「昨日、言えばよかった」

 

「今日だって言えたじゃない」

 

「うん」

 

 彼女は僕を睨んだ。僕も顔を上げたままでいたが、続く言葉が出てこなかった。謝ろうとしているのに、こちらが困った顔をしてどうするのだろう。鞄の紐を握っていた指を離し、もう一度息を吸った。

 

「ごめん。絢辻さんが言ってくれたことに、ちゃんと返事をしなかった」

 

 絢辻さんの唇が動いた。けれど、言葉にはならなかった。視線が一度足元へ落ち、また僕に戻ってくる。

 

「……それなのに、あたしがどうしてあんなことを言ったのかは、分かるつもりだったのね」

 

 頷くまでに時間がかかった。

 

 さっきの教室で、僕は彼女の顔を見ながら説明していた。自分の気持ちは言わないまま、彼女の気持ちについては言葉にできると思っていた。

 

「勝手に決めた。あれも、ごめん」

 

 絢辻さんは何も返さず、僕から顔を背けた。

 

 校門の内側から話し声が近づいてきた。数人の生徒が並んで歩いてくる。僕が道の端へ寄ると、絢辻さんも鞄を身体へ引き寄せた。

 

 生徒たちは僕たちに挨拶をし、駅の方へ通り過ぎていった。絢辻さんは会釈を返した後、その背中が離れるまで黙っていた。

 

「……場所、変えましょう」

 

「うん」

 

 彼女が先に歩き出す。僕は後を追い、校門を離れたところで隣に並んだ。

 

 向かったのは、昨日と同じ道だった。

 

     ◇

 

 神社の石段を、絢辻さんが先に上っていく。昨日は途中で何度も立ち止まり、僕を振り返っていた。今日はそのまま上まで行き、境内の端にある石の柵へ向かった。

 

 僕も後に続いた。社殿の前を通り過ぎると、彼女が振り返る。近づきすぎないところで足を止め、肩から鞄を下ろした。

 

「契約は?」

 

 予想していた問いだった。それでも、すぐに答えられなかった。

 

「あれも、受けるつもりで追ってきたの?」

 

「……それは、今も受けられない」

 

 彼女の目つきが険しくなった。説明を重ねそうになり、一度口を閉じる。どうして嫌なのかは昨日も話したし、さっきも繰り返した。

 

「でも、僕も一緒にいたい。絢辻さんと」

 

 柵に添えられていた手が止まった。

 

「図書室で本を読んだ時も、帰りに話してた時も、楽しかった。今日だって、ずっと話したかった」

 

 絢辻さんは僕を見たまま、鞄を持ち替えた。留め具が柵に触れ、硬い音がする。彼女はそこへ目を落とし、鞄を身体の前へ戻した。

 

「……あたしは、いらないって言われたと思った」

 

「いらないなんて、思ってない」

 

「でも、そう聞こえたのよ」

 

「うん。僕、自分が嫌だったところしか返さなかったから」

 

 絢辻さんは視線を上げなかった。

 

 ここへ来る途中も、何度か話しかけようとした。彼女が道を曲がるたび、その横顔を見て、やめた。昨日から言えずにいたことを口にした今も、次の言葉が簡単に出てくるわけではなかった。

 

「あたしだって、あんなことを言うの、簡単じゃなかった」

 

 俯いたままの声だった。

 

「言ってから、恥ずかしくなったわよ。でも、言わなきゃ分からないと思ったから」

 

 僕は頷いた。彼女はこちらを見ていなかったので、声でも「うん」と返した。

 

「なのに、嫌だって言われて……何を言えばいいのか、分からなくなった」

 

 僕は手元の鞄へ目を落とした。教室では、絢辻さんが言葉に詰まるたび、自分の説明を続けていた。今も何か言わなければと思ったが、顔を上げると、彼女が口を開きかけていた。

 

 そのまま待った。

 

 絢辻さんは一度唇を結び、僕を見た。

 

「さっき言ったこと、取り消さないでよ」

 

「一緒にいたいってこと?」

 

「そう」

 

「取り消さないよ」

 

 答えると、彼女は僕の顔を見つめた。やがて柵へ向き直り、そこに置いていた手を離した。指先に白い粉がついたらしく、親指で払っている。

 

 僕も柵の向こうへ目をやった。石段の下に道路が見え、その先には住宅の窓明かりが並んでいた。昨日、彼女が帰っていった方角だった。

 

「……痛い?」

 

 顔を戻すと、絢辻さんの視線が僕の頬に留まっていた。

 

「ちょっと。びっくりした」

 

 彼女は右手を見下ろした。指を曲げ、それから制服の袖口を引く。何か言いかけた声が途切れ、僕はその場で待った。

 

「叩いたのは、ごめんなさい」

 

 顔が上がる。

 

「あれは、あたしが悪かった」

 

「……うん」

 

 僕は頷いた。絢辻さんはまだこちらを見ていたが、やがて鞄へ目を落とした。

 

 首元が窮屈で、上着の襟に手をやる。片側が内側へ折れ込んでいた。直そうとして引っ張ると、絢辻さんがこちらへ手を伸ばしかけた。

 

 目が合い、その手が止まった。

 

「そこ、曲がってる」

 

「こっち?」

 

「逆」

 

 言われた方を直すと、彼女が頷いた。僕は上着の前を整え、手を下ろす。絢辻さんの手も、鞄の持ち手へ戻っていた。

 

 彼女が立つ位置をずらしたので、僕も柵の近くまで進んだ。今度は間を空けず、隣に立った。

 

「今日、体育の時」

 

 絢辻さんが口を開いた。

 

「途中から、走るの速くなってたでしょう」

 

「うん」

 

「こっち、見てたの?」

 

「周回するたびに見えたから」

 

 僕は昼間のコートを思い出した。ボールを受け止めた時の衝撃と、振り返った先にあった驚いた顔。あの時は息が上がって、ろくに話せなかった。

 

「僕が行く前に、薫たちが入ってくれてたけど」

 

「知ってる。ちゃんとお礼も言ったわ」

 

 絢辻さんがこちらを向いた。

 

「今は、望月君の話をしてるの」

 

「……うん」

 

 彼女は口を閉じた。目が合うと、一度だけ視線を逸らした。

 

「来てくれて、嬉しかった」

 

 聞いた途端、胸のあたりに入っていた力が抜けた。返事をしようとして、息だけを吐く。絢辻さんの眉が寄りかけたので、僕は慌てて口を開いた。

 

「聞けてよかった」

 

 彼女は僕を見た後、ようやく口元をほどいた。

 

「朝から、ちゃんと話せばよかったわね」

 

「僕も」

 

 短く答えると、絢辻さんは頷いた。

 

 鞄を持っていた手が冷えていた。反対の手へ持ち替えると、彼女も袖口から出た指を引っ込めた。校門で立ち止まってから、随分時間が経っていた。

 

「戻りましょうか。教室、あのままだし」

 

「うん」

 

 石段へ向かう途中、絢辻さんが歩調を緩めた。僕が隣に並ぶと、また歩き始めた。

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