絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第二十七話 ソウセツサイ

 

 12月24日。

 

 校門をくぐる前から、校舎の窓越しに人の声が聞こえていた。

 

 箱を抱えて昇降口へ急ぐ生徒と、空の台車を押して戻ってくる生徒。その間を抜けて校庭を見ると、大きなツリーの下で、脚立を支えている人がいた。上に乗った男子が飾りの向きを変えるたび、地面から指示が飛ぶ。

 

 朝の光の中では、電飾のコードまでよく見えた。昨日まで何度も眺めていたはずなのに、今日が本番だと思うと、まだ灯っていない明かりまで気になってしまう。

 

 入口で立ち止まっていると、後ろから来た生徒に追い越された。僕も鞄を持ち直し、昇降口へ向かった。

 

 教室では、扉に取り付けた飾りが人の出入りに合わせて揺れていた。壁際へ寄せられた机の上に、鋏やテープがまとめてある。昨日残した材料の箱は、もう空になっていた。

 

「入口の右側、もう少し上げてもらえる?」

 

 絢辻さんの声がした。

 

 進行表を持ち、椅子の上に立つ男子へ場所を示している。男子がテープを剥がすと、今度は廊下側へ回って高さを確かめた。

 

「うん、そこ。ありがとう」

 

 僕に気づいたのは、教室へ戻ってきた時だった。

 

「おはよう、望月君」

 

「おはよう。もう始めてたんだ」

 

「来た人からね。鞄を置いたら、そこの箱を運んでもらえる?」

 

 示された箱には、余った材料が詰められていた。持ち上げると、中でテープの芯が転がる。指定された棚の下へ押し込んで戻る頃には、絢辻さんは別の女子と資料を見ていた。

 

「こっちの確認、お願いしてもいい?」

 

「……私が見ていいの?」

 

「うん。数が合わなかったら教えて」

 

 女子は資料を受け取り、机の上に並んだものを数え始めた。

 

 僕も床に残っていた紙片を拾い、自分の持ち場へ戻った。廊下から眺めた時には完成しているように見えたけれど、中に入れば、まだ手を動かすところはいくつもあった。

 

     ◇

 

 最後の飾りを留め終えると、誰かが教室の入口から全体を見て、ようやく頷いた。

 

 椅子から下りた男子が両腕を伸ばす。その脇を通って、僕は使い終わった道具を片づけた。指先に付いたテープの糊がなかなか取れず、親指で擦っていると、廊下へ出ようとする絢辻さんが見えた。

 

「絢辻さん、こっちは終わったよ」

 

「ありがとう。望月君、このあとは受付だったよね?」

 

「うん。交代まではこっちにいる」

 

「じゃあ、お願いね」

 

 廊下の先から、実行委員の生徒が彼女を呼んだ。

 

 絢辻さんはそちらへ返事をしてから、僕へ顔を戻す。

 

「ちゃんと楽しんでね」

 

「絢辻さんも」

 

 彼女は頷くと、進行表を抱え直して廊下へ出ていった。追いかけるように別の生徒が声をかけ、二人で何かを確認しながら階段へ向かっていく。

 

 僕は入口に椅子を置き、当番の表を広げた。

 

 ほどなくして、創設祭の開始を知らせる放送が流れた。

 

 朝まで準備のために行き来していた人たちが、今度は出し物を見て回る人になった。入口の前で足を止める人が増え、廊下の向こうから呼び込みの声も聞こえてくる。

 

 受付に座っているだけで済んだのは、最初のうちだけだった。

 

 場所を尋ねられれば案内し、人が重なれば入口を空けてもらう。ようやく椅子へ戻ろうとすると、今度は知り合いに呼び止められた。壁の時計を見て交代の時間に気づいた時には、用意していた飲み物に一度も口をつけていなかった。

 

 次の当番に席を渡し、ぬるくなったお茶を飲む。

 

 そのまま廊下へ出たところで、待ち構えていた梅原に肩を叩かれた。

 

「おお、湊。やっと終わったか」

 

「待ってたの?」

 

「一人で回っても張り合いがねえだろ」

 

 梅原の手には、折り目のついた案内があった。いくつもの場所に丸がついていて、余白には何か書き込まれている。

 

「ずいぶん調べたね」

 

「五つまで絞った」

 

「全部回るつもり?」

 

「そのために迎えに来たんだよ」

 

 当たり前のように言われた。

 

 梅原は案内を畳むと、僕の返事を待たずに歩き始める。隣へ追いつく間にも、別の教室から呼び込みの声が飛んできた。

 

「そういや、大将を見てねえな」

 

「純一?」

 

「朝から一度も。お前は?」

 

 僕も首を横に振った。昨日は話したけれど、今日はまだ顔を見ていない。

 

「用事があるんじゃない?」

 

「だろうなあ」

 

 梅原は妙に納得した声を出し、案内をもう一度開いた。

 

「まあいい。俺たちは俺たちで楽しもうぜ」

 

 最初に連れていかれたのは、輪投げをやっている教室だった。

 

 机を並べた向こう側に、点数を書いた的が置かれている。近くの的は十点、奥の的は三十点。輪を五つ投げて、その合計を競うらしい。

 

 前の人が簡単そうに入れていたので、僕も最初は奥を狙った。

 

 輪は的の先に当たり、乾いた音を立てて床へ落ちた。

 

「力みすぎだって」

 

「まだ一投目だよ」

 

 梅原の声を背中で聞きながら、次は手前へ投げる。そちらは入ったものの、残りも思うようにはいかなかった。最後の一つが三十点の的に引っ掛かり、どうにか四十点で終える。

 

 代わった梅原は、輪を手に取るなり袖をまくった。

 

「見とけよ。こういうのはな、手首が大事なんだよ」

 

 言いながら放った輪が、的を一つも通らず向こうへ抜けた。

 

 僕は声を出して笑ってしまい、すぐに睨まれた。

 

 結局、梅原の点数は僕を下回った。教室を出てからも、最後の輪は惜しかっただの、床が滑っただのと言っている。その言い訳を聞いているうちに、廊下の突き当たりまで来ていた。

 

 そこには、校内で撮影した写真が並んでいた。

 

 写真の下にある紙をめくると、撮影場所が分かるようになっている。階段の手すり、窓枠の一部、傷のついた扉。毎日通っている学校なのに、そこだけを切り取られると意外に分からなかった。

 

 梅原と二人で特別教室の扉だと予想した写真は、僕たちの教室の後ろの扉だった。

 

 答えを見てから、二人とも黙った。

 

「……こんな傷あったか?」

 

「今日帰ったら見てみよう」

 

 そのあとも、廊下で知り合いに捕まり、勧められるまま予定にない教室へ入った。案内についた丸は、半分も消えていない。

 

 それでも、次を急ぐ気にはならなかった。

 

 携帯電話が震えたのは、梅原と食べ物を買って、一息ついた頃だった。

 

 画面に絢辻さんの名前が出ている。

 

『今から少し休憩。東側の階段の踊り場にいるね』

 

 読み終えるより先に、梅原が僕の顔を覗き込んできた。

 

「呼び出しか?」

 

「うん。ちょっと行ってくる」

 

「じゃあ俺は、まだ見てねえところに行くわ」

 

 梅原は残っていた一口を食べ、案内を取り出した。別れる時に何か言いかけたようだったけれど、結局、ひらひらと手を振っただけだった。

 

     ◇

 

 絢辻さんは、踊り場の窓際に立っていた。

 

 両手で紙コップを包み、階段を上がってくる人を眺めている。朝から抱えていた進行表はなかった。僕に気づくと、コップを片手に持ち替えて手を上げる。

 

「ごめんね。急に呼んで」

 

「ちょうど食べ終わったところだったから」

 

「梅原君と?」

 

「うん。どうして分かったの?」

 

「さっき二人で歩いてるのが見えた」

 

 僕の方は気づかなかった。

 

 隣へ立つと、紙コップから紅茶の匂いがした。窓の下に置かれた空き箱を避け、壁へ背を預ける。階段を通る人たちの足音が近づき、また遠ざかっていった。

 

「どこに行ったの?」

 

 尋ねられて、輪投げと写真の展示の話をした。

 

 梅原が手首について語った直後に外したところで、絢辻さんは口へ運びかけたコップを下ろした。笑うのを待ってから続きを話すと、今度は僕の点数を聞いてきた。

 

「四十点」

 

「それって高いの?」

 

「梅原には勝ったよ」

 

「それだけじゃ分からないわ」

 

「僕も、ほかの人の点数までは見てないから」

 

 絢辻さんはまだ笑っていた。コップの縁に口をつけながら、窓の外へ目を向ける。校庭では昼食を持った生徒たちが、空いている場所を探して歩いていた。

 

「絢辻さんは、もう食べた?」

 

「さっき。本部で食べてたら、途中で二人も同じものを持って戻ってきたの」

 

「人気だったんだ」

 

「勧めたの、あたしだからね」

 

 彼女が買った店の場所を聞いている途中、階段を下りてきた女子が足を止め、確認が済んだことを伝えた。絢辻さんがお礼を言うと、女子は僕にも会釈して下りていった。

 

 それからしばらく、二人で窓の外を眺めた。

 

 下の階から笑い声が響く。踊り場に吊るされた紙の飾りが、人の通るたびに揺れた。僕はその端が窓枠に引っ掛かったのを指で外し、また壁へ戻った。

 

 絢辻さんが紅茶を飲み終え、腕時計を見る。

 

「そろそろ戻るね」

 

「絢辻さん」

 

 壁から離れかけたところで呼び止めると、彼女は顔をこちらへ向けた。

 

「夜、一緒に回ろうよ」

 

 空になった紙コップが、指先で傾いた。

 

「……夜?」

 

「うん。さっき話したところも、まだ見てないところも。絢辻さんと回りたい」

 

 階段を上がってきた生徒が、僕たちの前を通り過ぎた。

 

 絢辻さんはそちらへ場所を空けてから、もう一度僕を見た。

 

「本部の交代が済んだら、時間が取れると思う」

 

「じゃあ、そのあとで」

 

「分かった。連絡するね」

 

 彼女は階段へ向かい、数段下りたところで振り返った。

 

「輪投げ、どこの教室?」

 

 場所を答えると、頷いて下りていった。

 

 どうやら、最初の行き先は決まったらしい。

 

     ◇

 

 午後の当番へ戻ると、教室は午前中より混んでいた。

 

 交代の生徒から必要なことを聞き、空いていた場所に荷物を寄せる。受付で同じ案内を繰り返しているうちに、言葉を間違えて隣の女子に笑われた。その女子もすぐあとで同じ間違いをして、今度は僕が笑う番になった。

 

 窓の外が暗くなり始めたのは、次の交代が近づいた頃だった。

 

 向かいの校舎で電飾が点き、ガラスに小さな光が並んでいく。廊下へ出た生徒がそれを見つけ、友達を呼んでいた。入口に立っていた僕にも、教室の中から誰かが外を見るよう声をかけてきた。

 

 朝は目についたコードが、もうよく見えない。

 

 その代わり、窓辺を縁取る明かりが、校舎の奥まで続いていた。

 

 当番を終え、次の人へ席を譲ったあとで携帯電話を確認した。まだ連絡は来ていなかったので、空いた紙コップを片づけ、鞄の中を整理する。

 

 振動に気づいた時には、すぐに手を伸ばしていた。

 

『本部前にいるわ』

 

 短い文章を読み、携帯電話を閉じる。

 

 廊下へ出てから、自分がずいぶん速く歩いていることに気づいた。階段を下りてくる人に道を譲り、通り過ぎるのを待ってから、また本部へ向かった。

 

 絢辻さんは窓際に立っていた。

 

 僕を見つけると、見ていた窓から離れる。昼間とは違って、ガラスには外の景色よりも廊下の人影が映っていた。

 

「お待たせ」

 

「大丈夫。あたしも今、出てきたところ」

 

「どこから行こうか」

 

「輪投げ」

 

「決めてたんだ」

 

「気になるじゃない。四十点がどのくらいなのか」

 

 そう言って、僕の隣へ並んだ。

 

 昼に梅原と通った廊下を、今度は絢辻さんと歩く。途中で見かけた出し物の話をすると、彼女は入口の飾りを見上げたり、教室の中を覗いたりした。そのたびに僕も足を緩めた。

 

 輪投げの教室には、まだ何組か並んでいた。順番を待つ間、彼女は前の人の投げ方を見ていたが、輪が床に落ちると、その位置まで目で追った。

 

「そんなに真剣に見るもの?」

 

「やるなら勝ちたいもの」

 

「僕に?」

 

「ほかに誰がいるのよ」

 

 順番が来ると、絢辻さんは渡された輪を両手に分けた。

 

 最初の輪は手前の的を越えた。そのあとも、縁に当たって落ちたり、わずかに逸れたりして、点数になったのは奥に入った一つだけだった。

 

 三十点。

 

 受付の生徒がそう告げると、絢辻さんは的を見たまま黙った。

 

「惜しかったね」

 

「もう一回やる」

 

 返事が早かった。

 

 後ろには次の組がいたので、一度列を離れて並び直す。僕が笑いを堪えていると、絢辻さんは前を向いたまま言った。

 

「何か言いたい?」

 

「別に。付き合うよ」

 

「その顔、覚えておくから」

 

 二回目は、輪を持つ位置を変えていた。

 

 勢いよく投げるのをやめ、的の少し上を狙うように腕を動かす。二十点と三十点に一つずつ入って、最後の輪を投げ終える前に僕の点数を越えた。

 

 五十点と聞いた絢辻さんが、こちらを振り返る。

 

 何も言われていないのに、言いたいことは十分伝わった。

 

「はい、負けました」

 

「素直でいいわね」

 

「二回やったけどね」

 

「望月君もやれば?」

 

 そう返されると、急にもう一度投げたくなった。

 

 入口の列と時計を見比べ、僕は教室の外を指した。

 

「……ほかも回ろう」

 

 絢辻さんは満足そうに頷いた。

 

     ◇

 

 教室を出てからも、的に当たった輪の音が耳に残っていた。

 

 絢辻さんは二回目の投げ方について話していたが、僕がそれなら先に教えてほしかったと言うと、競争相手に教えるわけがないと返してきた。さっきまでの結果を思い出したのか、廊下を曲がる時にも笑っている。

 

 そのまま、昼に見た写真の展示へ寄った。

 

 僕たちの教室の扉を写した一枚の前で、絢辻さんはすぐに足を止めた。

 

「これ、うちの教室ね」

 

「もう分かったの?」

 

「毎日見てるじゃない」

 

「僕と梅原、二人とも間違えたんだけど」

 

 彼女は写真と僕を見比べた。

 

「毎日、どこを見て入ってるの?」

 

 答えを知っていても、そんなに簡単には分からないと思う。

 

 僕が写真を見直している間に、絢辻さんは隣の一枚へ移った。こちらはまだ見ていない。僕も横へ並び、写っている窓枠を眺めた。

 

「図書室?」

 

「窓の外に、こんな木あったかな」

 

 彼女は首を傾げ、写真の隅を指さした。

 

 そこに写っているものを見ようとして、彼女の肩に自分の肩が触れた。どちらもそのまま、窓の向こうに見える枝を覗き込む。

 

 候補を二つまで絞ってから、下の紙をめくった。

 

 答えは、そのどちらでもなかった。

 

「難しいね、これ」

 

「望月君が連れてきたんでしょ」

 

 顔を見合わせて笑い、紙を元へ戻した。

 

 ひと通り見終えたところで、絢辻さんの携帯電話が鳴った。

 

 画面を確認し、その場で短く返事を送る。続けて届いた文章を読んでから、顔を上げた。

 

「ごめん。すぐそこまで行ってきてもいい?」

 

「うん。ここにいるよ」

 

 彼女が廊下の角を曲がったあと、僕は窓際へ寄った。外ではツリーの前に人が集まり始めている。校舎から出ていった生徒が友達を見つけ、手を振りながらそちらへ走っていった。

 

 数分して、絢辻さんが戻ってきた。

 

「お待たせ」

 

「今度は外に行かない?」

 

 窓の向こうを示すと、彼女もツリーを見た。

 

「いいわね。上着を取ってこようか」

 

     ◇

 

 上着を取りに戻ってから、二人で校舎の外へ出た。

 

 風が頬に触れた途端、廊下との温度の違いが分かった。前を歩いていた生徒も肩を縮め、連れの人を急かしている。

 

 途中で温かい飲み物を買い、僕はココア、絢辻さんはミルクティーの缶を持った。指を添える場所を変えながら歩くと、冷えていた手にじわじわと熱が戻ってくる。

 

「望月君、そっち甘そうね」

 

「絢辻さんのも甘いと思うけど」

 

「ココアほどじゃないわ」

 

「勝負するところ、そこにもあるの?」

 

 絢辻さんは缶に口をつけ、答えなかった。

 

 僕もココアを一口飲む。歩くうちに缶を持つ手が温まり、縮めていた肩から力が抜けていった。

 

 校庭へ出ると、ツリーの明かりが見えた。

 

 離れたところからでも十分に大きかった。枝に沿って並んだ光の間に、赤や金の飾りが浮かんでいる。その前で立ち止まる人も多く、僕たちは人の流れから外れた場所へ寄った。

 

「……綺麗」

 

 絢辻さんが缶を胸元に持ったまま、見上げていた。

 

 僕も上まで目で追う。朝、脚立の上で向きを直していた飾りがどれだったのか、もう分からなかった。どれも明かりを受けて、枝の間で揺れている。

 

「上の方まで、ちゃんと見えるんだね」

 

「下から見た時に隠れないように、何度か直したから」

 

「あれ、大変そうだった」

 

「近くで見てる人と、離れて見てる人で、言うことが違うのよ」

 

 僕は朝の脚立を思い出した。

 

 少し離れた場所で写真を撮ろうとしている人がいたので、二人で横へずれる。移った先では、枝に隠れていた飾りが見えた。絢辻さんも気づいたらしく、視線を上げ直していた。

 

 しばらく、そのまま眺めた。

 

 缶を持つ手が冷えてきたら、両手で包む。近くの人たちが立ち去ると、空いた場所へ別の二人がやってきた。音楽の合間に笑い声が混じり、見上げてばかりいた首を戻した時には、ずいぶん時間が経っていた。

 

 隣を見ると、絢辻さんもこちらを向いたところだった。

 

「寒くない?」

 

「そろそろ戻ろうか」

 

 彼女は頷き、残っていたミルクティーを飲んだ。

 

 缶を捨てて校舎へ戻るまで、僕たちは特に話をしなかった。人とすれ違う時に間を空け、その人が通り過ぎると、また隣へ戻る。昇降口が近づくにつれ、地面に落ちた二人の影が短くなった。

 

 先に靴を履き替え、上がり口の脇で待つ。

 

 絢辻さんはローファーを靴箱へしまうと、僕の隣へ来た。

 

     ◇

 

 教室へ上着を置きに寄ると、入口の青い飾りが目に入った。

 

 廊下の電飾が映って、昼間とは違う色に見える。絢辻さんも僕の視線を追い、その下で足を止めた。

 

「夜の方が合ってるね、これ」

 

「そうね」

 

 彼女は廊下側へ一歩戻り、全体を見直した。

 

 僕は開いた扉の向こうへ目をやった。黒板の棚には、青い帽子をかぶった雪だるまがいる。周りが賑やかになったせいで、準備中に置いた時よりも小さく見えた。

 

「そっちも、ちゃんと残ってるよ」

 

 絢辻さんに言われ、雪だるまを見ていたことに気づかれたのだと分かった。

 

「誰かが持っていくとは思ってないけど」

 

「気になるんでしょ」

 

 僕は否定せず、教室へ入った。

 

 鞄の近くへ上着を置き、棚の前を通る。青い帽子は相変わらず傾いていた。直そうか迷ったが、結局そのままにした。

 

 振り返ると、絢辻さんが入口で待っていた。

 

 明日も、彼女に話したいことができるのだろう。

 

 そんなことを考えながら戻ると、絢辻さんは僕の顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない。行こう」

 

 廊下へ出ると、さっきよりも人が減っていた。見ていない教室の方を指しかけたところで、終了が近いことを知らせる放送が流れた。

 

 絢辻さんが足を止め、時計を見る。

 

「あたし、そろそろ本部に戻るね」

 

「うん」

 

「まだ見てないところ、あったのに」

 

 案内の方へ目を向けてから、彼女は僕を見た。

 

「でも、輪投げはできたからいいか」

 

「勝てたから?」

 

「もちろん」

 

 最後まで言い返されて、僕は笑った。

 

 絢辻さんも笑い、それから本部のある方へ向き直る。数歩進んだところで、一度だけ振り返った。

 

「一緒に回れてよかった」

 

 僕が返事をする間、彼女は待っていた。

 

「僕も」

 

 絢辻さんは頷き、廊下の角へ消えた。

 

 そのあともしばらく、僕は同じ場所に立っていた。言いかけた言葉が、喉の近くに残っている。

 

 帰る前に、伝えたい。

 

     ◇

 

 創設祭の終了を告げる放送は、教室へ戻ったところで聞いた。

 

 廊下から拍手が起こり、誰かがそれに合わせて手を叩く。入口に立っていた生徒が最後の客を見送り、開いたままだった扉を半分閉めた。

 

 机の上に、片付けるものが次々と集まってくる。

 

 使った道具を分け、借りていたものを返す。壁から飾りを外すと、テープの跡が残っていた。爪で端を起こして剥がしている間に、隣ではもう机を運び始めている。

 

 さっきまで人を呼び込んでいた入口に、今度は畳んだ箱が重ねられた。

 

 本部の近くへ道具を返しに行くと、絢辻さんの声が聞こえた。戻ってきた実行委員と話し、確認の済んだところへ印をつけている。

 

 こちらから声をかける前に、別の生徒が資料を持ってきた。

 

 僕は返すものを担当の人へ渡し、教室へ戻った。

 

 片付けが落ち着くと、机をいくつか寄せて打ち上げの準備が始まった。

 

 運ばれてきたケーキの箱を見つけ、誰かが歓声を上げる。紙皿とフォークを配っている横で、薫が切り分けられた大きさを見比べていた。

 

「ちょっと、こっち小さくない?」

 

「同じだよ」

 

「じゃあ交換して」

 

 近くにいた田中さんが笑いながら、別の皿を差し出した。

 

 僕も飲み物を受け取り、空いていた机の端へ寄った。チョコレートのケーキにフォークを入れると、昼から動き回っていた分なのか、いつもより甘く感じた。

 

 今日の話は、誰かが一つ始めるとすぐに別の話へ移った。

 

 受付で間違えたことを持ち出され、言った本人も同じことをしたと返す。隣から割り込んできた梅原には、輪投げで負けた話をしてやった。

 

「お前だって四十点だろ」

 

「梅原よりは取ったよ」

 

「くそ。もう一回やっときゃよかった」

 

 僕はフォークを止めた。

 

 的の前で、もう一回やると言い切った絢辻さんを思い出した。

 

 笑っていると、梅原は理由を勘違いしたらしく、ますます不満そうな顔をした。

 

「そういや、大将は最後まで見なかったな」

 

「今日はもう来ないんじゃない?」

 

「薄情な奴だぜ」

 

 梅原はそう言って飲み物を口にしたあと、僕の肩越しへ目を向けた。

 

 振り返ると、絢辻さんが教室へ入ってきたところだった。近くの女子から紙コップを渡され、何か尋ねられている。

 

 僕が梅原へ顔を戻すと、彼はケーキを食べていた。

 

 何か言われるかと思ったが、口の中がいっぱいらしく、何も言ってこなかった。

 

 しばらくして、絢辻さんのところへ女子が一人近づいた。

 

 準備中、彼女と言い争っていた子だった。

 

「……お疲れ」

 

「お疲れさま」

 

「ちゃんと終わって、よかったね」

 

 絢辻さんは持っていた紙コップを机へ置いた。

 

「うん。手伝ってくれてありがとう」

 

 女子は頷き、空になっていた皿を二枚重ねた。近くの人からも皿を受け取って、ゴミ袋のある方へ持っていく。

 

 女子が皿を片づけに行くと、田中さんが絢辻さんを呼んだ。

 

 絢辻さんは差し出されたケーキの皿を受け取り、空いていた場所へ入っていく。薫が何か話すと、周りの人と一緒に笑った。

 

 僕も梅原たちの話へ戻った。

 

 教室の向こうで笑い声が上がれば、つられて顔を向ける。飲み物を取りに立つと、別の集まりに引き止められる。誰かが机を叩きながら説明している失敗は、聞いているだけでは何が起きたのかよく分からなかったが、本人まで笑っているので、僕も笑ってしまった。

 

 途中で、絢辻さんと目が合った。

 

 彼女は僕の手元を見て、自分の口の端を指で示した。

 

 紙ナプキンで拭くと、チョコレートがついた。

 

 顔を上げた時には、もう笑われていた。

 

     ◇

 

 打ち上げが終わる頃には、窓の外を歩く人もまばらになっていた。

 

 机を元へ戻し、最後に床を確かめる。菓子の袋の切れ端や、落ちたフォークが見つかった。青い飾りも外され、ほかの飾りと一緒に箱へ収められていく。

 

 黒板の棚の雪だるまだけは、誰も片づけなかった。

 

 梅原はコートを羽織り、鞄を肩へ引っ掛けた。

 

「じゃ、俺は帰るわ」

 

「うん。今日はありがとう」

 

「おう。またな」

 

 扉のところで片手を上げ、そのまま廊下へ出ていった。ほかの生徒も帰り始め、教室のあちこちで別れの挨拶が交わされる。

 

 僕も鞄を取り、上着を着た。

 

 絢辻さんは反対側の机で、使っていた筆記用具をしまっていた。ペンを一本ずつ戻し、机の中を覗いてから鞄を閉じる。

 

 朝から何度も誰かに呼ばれていた彼女の名前を、今は誰も呼んでいなかった。

 

 僕は机の間を抜け、彼女のところへ歩いた。

 

「絢辻さん」

 

 鞄を持ち上げる手が止まる。

 

「うん?」

 

「このあと、少し付き合って」

 

 彼女は僕を見た。

 

 すぐ後ろで椅子を引く音がして、帰ろうとしていた生徒が僕たちの横を通った。二人で通り道を空けると、絢辻さんは鞄を持ち直した。

 

「……いいけど。どこに?」

 

「話したいことがあるんだ」

 

 それまで残っていた教室の声が、妙に遠く聞こえた。

 

 絢辻さんは何も言わずに僕の顔を見ていたが、やがて頷いた。

 

「分かった」

 

 僕が扉へ向かうと、隣に足音が続いた。

 

 廊下へ出て、人のいない方へ歩く。背後の教室から、最後の忘れ物を確かめる声が聞こえてきた。

 

 窓の向こうでは、まだツリーに明かりが灯っていた。

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