絢辻さんを救いたい話 作:紳士
「まだ開いてるかな……」
ぼそっと呟きながら、僕は急ぎ足で階段を上がる。
時は夕暮れ。 琥珀色が空を包み、殆どの人が一日の終わりを感じる時間。 多くの生徒は既に帰宅しており、外から聞こえる部活動の活動音だけが校内に音を立てている。 とは言っても季節も季節だ。 部活動が活動できる時間は少ないし、現に僕の所属している陸上部は終わりの挨拶を始めている。
そんな中、僕は何をしているかと言うと『シューズ探し』である。 僕が専門とする種目は走る方なので、いかんせん専用の物でないと上手く走ることができない。 今日一日用いたスニーカーでそれは実感した。 そこで明日の朝練で困らないよう、先に手を打っておこうっていう魂胆だ。
若干息を切らしながら、自分の教室を見つける。
「良かった。 開いてる……」
ホッと一息して、教室の扉へと向かう。
さっさとシューズだけ取って帰ろう。 そう思って扉を開けた。
あれ……誰か座っている。
後方から確認して気付く。 夕焼けの光を薄っすらと反射しているあの長い黒髪は絢辻さんのだ。
普段僕は教室に居残ることが少ないから知らなかったのだろう。 クリスマスの実行委員に、クラス委員長。 教室で遅くまで残ってやっているのは当然のことだ。 放課中に終わる仕事なのであれば、先生もわざわざボランティアを募らないのだから。
絢辻さんは僕が立てた扉の音を気にしない様子で、黙々と紙類に目を通し、何かメモを取っているようだった。 明らかに集中している。
成績優秀で、運動神経も抜群。 先生や生徒からの評判も良く、他の人が面倒臭がるようなことを率先してできる人。 加えて誰かに頼ることもなく、同じ学生として孤高な存在でもある人。 窓から吹く風が、そんな気品ある彼女をより優美に映していた。
……と、何を見惚れてるんだか。 そんな用件で来たわけじゃないのに。
僕は小さく頭を横に振り、作業をしている彼女の邪魔をしないよう静かに自分の席へ向かう。
ビュオオオオォ……
「あっ———」
入り込んできた大きな冷風に、思わず僕は声を漏らした。 寒かったからだとか情けない理由ではない。
向かって前方、即ち絢辻さんの右隣。 その机上に置かれた数枚の紙が、風によって煩雑に飛ばされたからだった。 落ち葉のように空中で一回転する紙。 そのまま滑るように流れていく紙。
それぞれバラバラに散らばる紙を、気づいたら僕は足を動かして
僕は手元に集まったその紙を、机を用いて縦横のサイズを揃えながら絢辻さんに尋ねた。
「これは、ここに置いておけばいいかな?」
「あ……うん、ありがとう」
ちょっと驚いたような様子を見せた後、絢辻さんは目を細めて嬉しそうに笑う。
「それじゃ」 喉まで出かけた別れの挨拶を僕は飲み込んだ。
業後既に一時間を過ぎているのにも関わらず、彼女は教室に残っている。 それも、僕たちクラス、そして学校のために……だ。
「絢辻さん」
僕の呼びかけに、彼女は首を傾げる。
「僕にも……手伝えることってあるかな」
柄にもなさそうな事かもしれない。 もしかしたら、何か目的があるのかもと思われたかもしれない。 それでも僕はその言葉を発した。
「うーん、私としては嬉しい限りなんだけど、望月君もまだ部活あるでしょ? だから……」
「ううん、部活なら丁度終わったところだよ。 それにシューズを取りに来たついでだからさ、折角なら手伝わせて欲しい」
僕は自分の机の横にかけられたシューズ袋を指差しながら、そう説明をする。 すると絢辻さんは納得したような顔で首を縦に振り、僕に何枚か束ねられた紙を渡して言った。
「それなら、お願いしようかな。 あと少しなのが中々終わらなくてね」
気遣いなのかわからないが、苦笑いで彼女は答えた。
「なら良かったよ。 ……あ、この紙は進路調査用紙だよね」
渡された紙を見ながら僕は彼女に確認する。
「えぇ、この名簿表にそれぞれの生徒の志望校を書いて欲しいの」
彼女は一緒に置いてあった名簿表を追加で僕に渡した。
名簿表中のいくつかの枠は、絢辻さんらしい綺麗な字で既に埋められている。
「分かった。 絢辻さんは?」
「私はまだ実行委員の企画書をまとめないといけないから」
「えっ……す、すごいね……」
これで仕事はもう終わりかな、と思って引き受けた自分に呆れる。
素で動揺している声を出した僕に対し、絢辻さんは平然とした様子で答えた。
「全然、いつもやってることだから。 書き終わったらまた声かけてくれるかな?」
「うん、わかったよ」
「それじゃ、お願いします」
わずかに微笑んだ後、絢辻さんは早速作業に取り掛かる。
せめて足は引っ張らないようにな……そんな思いで僕も作業に取り掛かった。
……よし、書き漏れもない。 これで大丈夫だろう。
にしても、こんなことをほぼ毎日やっているとは……立候補しているとは言え、他人事ではあまり済ませちゃいけない気もするなぁ。
「絢辻さん終わったよ」
机にペンの音を立てて、僕は終了の合図を知らせる。
「お疲れ様。 私も丁度終わったところ」
ファイルに紙を差し込みながら、彼女は言葉を返した。
「あとはこれを先生に持っていけばいいのかな」
「えっ……」
紙をまとめて立ち上がった僕に、絢辻さんは珍しく戸惑った様子を見せた。
「ご、ごめん。 何か抜け落ちてる?」
咄嗟に名簿を見せてみるが、絢辻さんは「そうじゃない」とでも言いたげに首を横に振る。
「ううん、ちょっと驚いただけ。 ありがとう望月君。 でもその名簿は大丈夫よ、私が持っていくから」
ついでに先生に用事があるのだろう。 それに僕が届けてしまう事で、手柄がまるで僕のものみたいになってしまうのも、なんだか後味が悪い。
「そっか……こっちこそいい気分転換になったよ。 ありがとう絢辻さん」
潔く身を引き、僕の方からも礼を告げる。 すると絢辻さんは何に引っかかったのか、微かに口元を綻ばせて笑った。
「ふふっ、どうしてあなたが礼を言うの。 ……それじゃあまた明日ね」
「うん、また明日」
互いに別れを告げ、各々教室を出る。 早速職員室の方へと向かっていった絢辻さんを遠目に、僕はシューズ袋を片手に階段を降った。
今日は運がいいことに絢辻さんと話せたぞ。
心なしか階段の踊り場に差し込む片鱗の夕焼けが、より暖かく、そして眩しいものに感じられた。