絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第三話 テツダイ

 

「まだ開いてるかな……」

 

 僅かに息を切らしながら、階段を上る。

 

 冬の夕暮れは早い。

 

 窓の外では、琥珀色だった空が少しずつ薄紫へ変わり始めている。校庭からは運動部の掛け声や、用具を片づける音が聞こえていた。

 

 僕が所属している陸上部も、つい先ほど終わりの挨拶を済ませたところだ。

 

 活動時間そのものは、普段より短かった。

 

 日が落ちれば足元が見えにくくなるし、気温が下がりすぎれば身体も思うようには動かない。冬場は基礎練習が中心になるとはいえ、暗くなってから無理に走って怪我でもしたら意味がなかった。

 

 部員たちは既に部室へ戻り、着替えや片づけを始めている。

 

 その中で僕だけが、校舎へ引き返していた。

 

「教室に置いてくるかな、普通……」

 

 自分へ向けてぼやく。

 

 探しているのは、練習用のシューズだった。

 

 今朝、荷物を整理した時に机の横へ掛け、そのまま持っていくのを忘れてしまったらしい。

 

 今日一日は、普段履いているスニーカーでどうにか練習を終えた。

 

 走れないわけではない。

 

 けれど、地面を踏んだ感覚も、蹴り出す時の力の伝わり方も、いつもとは微妙に違っていた。

 

 僕は部内で特別速いわけではない。

 

 大会で名前が知られている選手でも、部員を引っ張る主将でもなかった。

 

 だからこそ、道具くらいはきちんと揃えておきたい。

 

 明日の朝練でも同じことになるのは避けたかった。

 

 二年生の教室が並ぶ階へ着く。

 

 昼間は多くの生徒が行き交う廊下も、今はほとんど人の気配がない。

 

 教室の扉は、遠目にも閉まっているように見えた。

 

「鍵、掛かってたら職員室か……」

 

 余計な手間を想像しながら、二年A組の前まで歩く。

 

 扉へ手をかける。

 

 抵抗はなかった。

 

「開いてる。よかった」

 

 小さく息を吐き、そのまま扉を引いた。

 

 教室の中は、夕日に染まっていた。

 

 窓側の机や椅子が長い影を作り、黒板には最後の授業で書かれた文字が薄く残っている。

 

 さっさとシューズを取って帰ろう。

 

 そう思って一歩入ったところで、僕は足を止めた。

 

「あれ……」

 

 教室には、先客がいた。

 

 窓側の一番後ろではない。

 

 いくつかの机を寄せ、その上へ書類を広げている生徒。

 

 長い黒髪が、夕日を受けて淡く光っている。

 

 絢辻さんだった。

 

 こちらへ背を向けたまま、何枚もの紙へ順番に目を通している。

 

 一枚を読み、別の紙へ何かを書き込む。

 

 確認を終えたものは左側へ。

 

 まだ手をつけていないものは右側へ。

 

 動作に迷いがない。

 

 僕が扉を開けた音にも気づいていないのか、それとも気づいた上で作業を続けているのか。

 

 どちらにしても、かなり集中しているようだった。

 

 朝も進路調査用紙を確認していた。

 

 クラス委員としての仕事。

 

 創設祭実行委員としての仕事。

 

 放課後になって一時間近く経っているのに、まだ終わっていないらしい。

 

 普段、僕は部活があるため、放課後の教室へ長く残ることは少ない。

 

 だから知らなかっただけで、絢辻さんにとっては珍しいことではないのかもしれない。

 

 成績がよく、運動もできる。

 

 教師からの信頼も厚い。

 

 誰かが面倒に感じる役割を、自分から引き受ける。

 

 それを周りへ見せつけることもない。

 

 同じ高校生なのに、自分とは随分違って見える。

 

 窓から入った弱い風が、絢辻さんの髪を静かに揺らした。

 

 黒い髪の向こうで、白い紙が夕日に照らされている。

 

 朝に見た夢の色が、一瞬だけ頭をよぎった。

 

「……何を見てるんだか」

 

 僕は小さく頭を振った。

 

 別に、絢辻さんを観察するために戻ってきたわけではない。

 

 邪魔をしないよう静かに自分の席へ向かう。

 

 机の横を見ると、探していた袋がそのまま掛かっていた。

 

 中を確かめる。

 

 シューズも入っている。

 

「よし」

 

 これで用事は終わった。

 

 鞄へ袋を入れ、教室を出ようとする。

 

 その時だった。

 

 窓の隙間から、先ほどより強い風が吹き込んだ。

 

 教室のカーテンが大きく膨らむ。

 

 同時に、絢辻さんの机の上から数枚の紙が舞い上がった。

 

「あっ――」

 

 絢辻さんが声を上げる。

 

 一枚は机の下へ。

 

 一枚は通路へ。

 

 もう一枚は、窓の方へ向かって空中を滑っていく。

 

 身体が先に動いていた。

 

 窓へ向かった紙の進路へ入り、両手で挟む。

 

 残りの紙も床へ落ちる前に一枚を拾い、机の脚へ引っかかった紙へ足を伸ばした。

 

 運動後で身体が温まっていたおかげかもしれない。

 

 全てを空中で取れたわけではないが、教室の外や窓の外へ飛んでいくことは防げた。

 

「危なかった……」

 

 拾った紙を見る。

 

 創設祭の企画書らしい。

 

 乱雑に扱わないよう、紙の端を揃える。

 

「ごめん、勝手に見たわけじゃないから」

 

 念のため先に伝えながら、絢辻さんの机へ近づく。

 

 絢辻さんは少し驚いた表情で、僕を見ていた。

 

「望月君。まだ学校にいたの?」

 

「うん。部活で使うシューズを教室に忘れてて」

 

「そうだったんだ」

 

「これは、ここに置けばいいかな?」

 

「ええ。そこへお願い」

 

 言われた場所へ紙を戻す。

 

 机の端を使い、縦と横を揃えてから置いた。

 

「ありがとう。窓を少し開けたままにしていたのを忘れてたみたい」

 

「外に飛ばなくてよかったよ」

 

「本当に。書き直しになったら、さすがに困ってたかな」

 

 絢辻さんは胸へ手を当て、小さく息を吐いた。

 

 珍しい表情だった。

 

 朝の教室では、何が起きても余裕を崩さないように見えていた。

 

 今も取り乱しているわけではない。

 

 それでも、紙が飛びかけた瞬間には、普通に焦っていたらしい。

 

「窓、閉めようか?」

 

「お願いしてもいい?」

 

「もちろん」

 

 僕は窓際へ向かい、開いていた窓を閉める。

 

 途端に風の音が遠くなった。

 

 静かになった教室では、校庭から聞こえる掛け声と、時計の針が進む音だけが残った。

 

「これで大丈夫」

 

「ありがとう、望月君」

 

「うん。それじゃ――」

 

 別れの言葉を口にしかける。

 

 その時、机の上へ広がった書類が目に入った。

 

 先ほど拾った企画書だけではない。

 

 進路調査用紙。

 

 クラス名簿。

 

 創設祭で使うらしい資料。

 

 ファイルの中にも、まだ何枚もの紙が挟まっている。

 

 朝からずっと仕事をしていたのだろうか。

 

 少なくとも、僕が部活へ行っている間も、絢辻さんはここで作業を続けていたことになる。

 

 純一の言葉を思い出す。

 

 困っている人を助ける。

 

 落とし物を拾う。

 

 話すきっかけなんて、その辺りにあるかもしれない。

 

 紙を拾った。

 

 それで終わりでもいい。

 

 絢辻さんは、助けを求めているわけではない。

 

 本人が選んで引き受けた仕事だ。

 

 余計なことを言えば、邪魔になるかもしれない。

 

「……絢辻さん」

 

「何?」

 

 絢辻さんが首を傾げる。

 

 一度声をかけてしまった以上、今さら何でもないとは言いにくい。

 

「僕にも、何か手伝えることってあるかな」

 

 言ってから、少し柄にもないことを口にした気がした。

 

 普段の僕なら、自分からこういう役割へ入り込むことは少ない。

 

 頼まれれば手伝う。

 

 誰もいなければ動く。

 

 けれど、既に誰かがきちんと進めているところへ、自分から混ざることはほとんどなかった。

 

 絢辻さんは一度瞬きをした。

 

「手伝ってくれるの?」

 

「うん。大したことはできないと思うけど」

 

「でも、まだ部活があるんじゃない?」

 

「今日はもう終わったよ。シューズを取りに来ただけだから」

 

 机の横から持ってきた袋を軽く持ち上げてみせる。

 

「それに、ここまで来たついでだし。急いで帰らないといけないわけでもないから」

 

「ついでにしては、随分親切ね」

 

 絢辻さんは少し困ったように笑った。

 

「迷惑だった?」

 

「ううん。そんなことない」

 

 彼女は机の上へ視線を落とす。

 

 残っている書類を確認し、少し考える。

 

「正直に言うと、助かるかな」

 

「なら、よかった」

 

「あと少しのはずなんだけど、そのあと少しがなかなか終わらなくて」

 

「こういうのって、増える時は一気に増えるよね」

 

「分かる?」

 

「僕の場合は宿題とかだけど」

 

「それは溜めているだけじゃない?」

 

「……否定はできないなぁ」

 

 絢辻さんが小さく笑う。

 

 朝、ファイルの整理について言われたことを思い出した。

 

 どうやら彼女の中では、僕は既に少しだらしない人間として認識されているらしい。

 

「それじゃあ、お願いしようかな」

 

 絢辻さんは書類の束から数枚を取り出した。

 

「これは、朝確認していた進路調査用紙だよね」

 

「ええ」

 

 渡された用紙を見る。

 

 二年A組の生徒が提出したものだった。

 

 第一志望。

 

 第二志望。

 

 進学か就職か。

 

 保護者の確認。

 

 それぞれの欄へ、クラスメイトたちの字で記入されている。

 

「こっちの名簿に、第一志望の学校名を書き写してもらってもいい?」

 

 絢辻さんが、別の一覧表を僕へ差し出す。

 

 何人かの欄には、既に学校名が記入されていた。

 

 整った、読みやすい字。

 

 一目で絢辻さんが書いたものだと分かる。

 

「学校名だけでいい?」

 

「うん。未定って書いてある人は、そのまま未定。就職希望の人は、この欄へ丸をつけて」

 

「分かった」

 

「読めない字があったら、無理に判断しないで聞いてね」

 

「そこまで信用ない?」

 

「朝のファイルを見た直後だから、少しだけ」

 

「整理整頓と読解力は別だと思うけどなぁ」

 

「冗談よ」

 

 柔らかい笑顔のまま言われる。

 

 一瞬、本気で注意されているのかと思った。

 

 ただ、朝よりも僅かに言葉が軽い。

 

 二人しかいない教室だからだろうか。

 

「絢辻さんは?」

 

「私は、創設祭の企画書をまとめるから」

 

「まだそっちもあるんだ」

 

「今日中に先生へ渡しておきたいの。明日は他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから」

 

「……本当に仕事が多いね」

 

「そうかな?」

 

「進路調査と、クラス委員の仕事と、創設祭の企画書でしょ。僕なら、どれか一つ忘れてると思う」

 

「それは忘れないで」

 

「たとえ話だよ」

 

 絢辻さんは平然とした表情で、自分の席へ戻る。

 

「こういうのは、予定を立てて順番に終わらせれば大丈夫。毎年ずっと続くわけでもないし」

 

「いつもやってることみたいに言うね」

 

「似たようなものよ。先生から集めた資料を整理したり、クラスの意見をまとめたり」

 

「それをいつもって言うんじゃないかな」

 

「そうかもしれないけど」

 

 絢辻さんはペンを手に取る。

 

「誰かがやらないと終わらないから」

 

 特別なことではない。

 

 彼女の口調は、そう言っているようだった。

 

 実際、絢辻さんにとっては当たり前なのだろう。

 

 誰かに褒められるためではなく。

 

 自分がやると決めたから、最後まで終わらせる。

 

「それじゃ、お願いします」

 

「うん。分からなかったら聞くよ」

 

 僕も空いている机へ座り、作業を始めた。

 

 進路調査用紙を一枚取る。

 

 氏名を確認。

 

 名簿から同じ名前を探す。

 

 学校名を書き写す。

 

 最初は、一人分を終えるだけでも少し時間がかかった。

 

 けれど、何人か進めるうちに要領が分かってくる。

 

 同じ学校を志望している生徒も多い。

 

 見覚えのある名前なら、漢字を一から確認する必要もない。

 

 教室には、二本のペンが紙の上を走る音が響いていた。

 

 会話はない。

 

 だからといって、気まずくもなかった。

 

 絢辻さんは作業へ集中している。

 

 僕も邪魔にならないよう、自分の手元へ意識を向けた。

 

 白い紙の上を、黒い文字が順番に埋めていく。

 

 何もなかった欄へ、一つずつ情報が収まっていく。

 

「望月君」

 

「うん?」

 

「佐藤さんのところ、第二志望を書いてる」

 

「えっ」

 

 確認する。

 

 本当だった。

 

「危なかった……」

 

「早めに気づいてよかったね」

 

「見てたの?」

 

「少し前に顔を上げたら、ちょうど目に入っただけ」

 

「足を引っ張らないようにしようと思ってたのに」

 

「一つ間違えたくらいで、足を引っ張ったとは言わないよ」

 

「絢辻さんなら間違えなさそうだけど」

 

「私だって間違えることはあるわ」

 

「そうなの?」

 

「どういう意味?」

 

 絢辻さんがこちらを見る。

 

 笑顔は変わらない。

 

 けれど、返答を間違えてはいけない気がした。

 

「完璧に見えるから」

 

「それは買い被りすぎ」

 

「でも、クラスのみんなもそう思ってると思うよ」

 

「そう見えているなら、きちんとできているってことかな」

 

 絢辻さんは、それだけ言って企画書へ視線を戻した。

 

 否定も、謙遜も、それ以上はしなかった。

 

 きちんとできている。

 

 確かにそうなのだろう。

 

 ただ、その言葉が妙に耳へ残った。

 

 それからは、同じ間違いをしないよう注意しながら作業を進めた。

 

 何度か読みにくい字について絢辻さんへ尋ねる。

 

 彼女はその度に手を止め、元の用紙と見比べて答えてくれた。

 

 途中、僕が知らない学校名を見つけた時には、場所や学科まで簡単に説明した。

 

 さすがに全てを知っているわけではないだろうが、進路に関する資料もかなり読み込んでいるらしい。

 

「絢辻さんは、もう志望校決めてるの?」

 

「一応ね」

 

「やっぱり早いな」

 

「望月君も書いていたでしょう?」

 

「候補を書いただけだよ。まだ本当にそこへ行くかは分からない」

 

「でも、成績から考えれば無理な選択ではないと思う」

 

「僕の成績、知ってるの?」

 

「クラス委員だからって、全員の点数を調べてるわけじゃないよ」

 

 絢辻さんが少し笑う。

 

「授業で当てられた時も大体答えてるし、テストの順位も何となく耳に入るから」

 

「なるほど」

 

「クラスで四番か五番くらいでしょう?」

 

「多分、それくらい」

 

「十分じゃない」

 

「上に絢辻さんがいると、あんまりそう思えないけど」

 

「私と比べる必要はないでしょう?」

 

 もっともな返答だった。

 

 けれど、絢辻さんが言うと妙な説得力がある。

 

「望月君は、部活も続けてるんだし」

 

「普通の部員だけどね」

 

「普通に続けるのも、簡単なことじゃないと思うよ」

 

「絢辻さんに言われると嫌味に聞こえないのがすごいな」

 

「嫌味を言ったつもりはないもの」

 

「うん。分かってる」

 

 短い会話を挟みながら、作業は進んだ。

 

 最後の用紙を確認する。

 

 学校名を書き写し、元の紙と見比べる。

 

 書き漏れはない。

 

「……よし」

 

 ペンを机へ置く。

 

「絢辻さん、終わったよ」

 

「本当?」

 

 絢辻さんも顔を上げた。

 

「お疲れ様。私も、ちょうど終わったところ」

 

 彼女の前には、綺麗に揃えられた企画書が置かれている。

 

 僕が書き写している間に、全てまとめ終えたらしい。

 

「最後に、一度だけ一緒に確認してもいい?」

 

「もちろん」

 

 二人で名簿と用紙を見比べる。

 

 先ほどの間違い以外に、書き直すところはなかった。

 

「大丈夫そうね」

 

「よかった」

 

「望月君、こういう作業は丁寧なんだね」

 

「朝のファイルの印象を引きずってない?」

 

「少しだけ」

 

「やっぱりか」

 

 絢辻さんは、完成した名簿をファイルへ挟む。

 

 机の上に残っていた紙も種類ごとにまとめ、手早く鞄へ入れていった。

 

「これは、あとは先生に持っていけばいいのかな?」

 

 僕も立ち上がり、名簿を手に取る。

 

「うん。職員室へ――」

 

 絢辻さんが言いかけて、少しだけ動きを止めた。

 

「どうしたの?」

 

「え?」

 

「今、何か忘れたみたいな顔してたから」

 

「そんな顔してた?」

 

「ほんの少しだけ」

 

 自信はなかった。

 

 ただ、普段の絢辻さんなら、次に何をするか迷うようには見えない。

 

 だから、一瞬の間が気になった。

 

 僕は持っていた名簿を見せる。

 

「これじゃなかった?」

 

「ううん。名簿は大丈夫」

 

 絢辻さんはすぐに首を横へ振った。

 

「ちょっと驚いただけ。ありがとう、望月君。でも、それは私が持っていくから」

 

「僕が行ってもいいよ。ここまで手伝ったんだし」

 

「先生へ確認したいこともあるから、私が行った方が早いの」

 

「ああ、なるほど」

 

 それなら僕が持っていっても、余計な手間を増やすだけだ。

 

「分かった」

 

 名簿を絢辻さんへ渡す。

 

「今日は本当にありがとう。予定より早く終わったよ」

 

「こっちこそ、いい気分転換になった」

 

「どうして望月君がお礼を言うの?」

 

「シューズを取りに来ただけだったのに、何となく一日を有効に使えた気がするから」

 

「ふふっ。少し大げさじゃない?」

 

「そうかも」

 

 絢辻さんは僅かに口元を綻ばせた。

 

 教室で多くの人へ向けている笑顔より、少しだけ力が抜けているように見えた。

 

 そう思ったのは、二人しかいない教室の静けさのせいかもしれない。

 

 それぞれ荷物を持ち、教室を出る。

 

 絢辻さんが鍵を閉めた。

 

「私は職員室へ行くから、ここで」

 

「うん」

 

「それじゃあ、また明日ね。望月君」

 

「また明日、絢辻さん」

 

 絢辻さんは書類を抱え、職員室のある方向へ歩いていく。

 

 僕はシューズ袋を片手に、階段へ向かった。

 

 踊り場の窓から、夕日の最後の光が差し込んでいる。

 

 来た時よりも弱くなったはずなのに、不思議と少し暖かく見えた。

 

 今日は、運がよかった。

 

 忘れ物をしなければ、放課後の教室へ戻ることもなかった。

 

 風が吹かなければ、絢辻さんの書類を拾うこともなかった。

 

 純一が言っていたように、きっかけというものは案外、その辺りに転がっているのかもしれない。

 

 もっとも。

 

 この時の僕は、今日の出来事をそこまで特別なものだとは考えていなかった。

 

 クラスメイトの仕事を少し手伝った。

 

 ただ、それだけ。

 

 それでも階段を下りる足取りが、来た時より僅かに軽くなっていた。

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