絢辻さんを救いたい話 作:紳士
「まだ開いてるかな……」
僅かに息を切らしながら、階段を上る。
冬の夕暮れは早い。
窓の外では、琥珀色だった空が少しずつ薄紫へ変わり始めている。校庭からは運動部の掛け声や、用具を片づける音が聞こえていた。
僕が所属している陸上部も、つい先ほど終わりの挨拶を済ませたところだ。
活動時間そのものは、普段より短かった。
日が落ちれば足元が見えにくくなるし、気温が下がりすぎれば身体も思うようには動かない。冬場は基礎練習が中心になるとはいえ、暗くなってから無理に走って怪我でもしたら意味がなかった。
部員たちは既に部室へ戻り、着替えや片づけを始めている。
その中で僕だけが、校舎へ引き返していた。
「教室に置いてくるかな、普通……」
自分へ向けてぼやく。
探しているのは、練習用のシューズだった。
今朝、荷物を整理した時に机の横へ掛け、そのまま持っていくのを忘れてしまったらしい。
今日一日は、普段履いているスニーカーでどうにか練習を終えた。
走れないわけではない。
けれど、地面を踏んだ感覚も、蹴り出す時の力の伝わり方も、いつもとは微妙に違っていた。
僕は部内で特別速いわけではない。
大会で名前が知られている選手でも、部員を引っ張る主将でもなかった。
だからこそ、道具くらいはきちんと揃えておきたい。
明日の朝練でも同じことになるのは避けたかった。
二年生の教室が並ぶ階へ着く。
昼間は多くの生徒が行き交う廊下も、今はほとんど人の気配がない。
教室の扉は、遠目にも閉まっているように見えた。
「鍵、掛かってたら職員室か……」
余計な手間を想像しながら、二年A組の前まで歩く。
扉へ手をかける。
抵抗はなかった。
「開いてる。よかった」
小さく息を吐き、そのまま扉を引いた。
教室の中は、夕日に染まっていた。
窓側の机や椅子が長い影を作り、黒板には最後の授業で書かれた文字が薄く残っている。
さっさとシューズを取って帰ろう。
そう思って一歩入ったところで、僕は足を止めた。
「あれ……」
教室には、先客がいた。
窓側の一番後ろではない。
いくつかの机を寄せ、その上へ書類を広げている生徒。
長い黒髪が、夕日を受けて淡く光っている。
絢辻さんだった。
こちらへ背を向けたまま、何枚もの紙へ順番に目を通している。
一枚を読み、別の紙へ何かを書き込む。
確認を終えたものは左側へ。
まだ手をつけていないものは右側へ。
動作に迷いがない。
僕が扉を開けた音にも気づいていないのか、それとも気づいた上で作業を続けているのか。
どちらにしても、かなり集中しているようだった。
朝も進路調査用紙を確認していた。
クラス委員としての仕事。
創設祭実行委員としての仕事。
放課後になって一時間近く経っているのに、まだ終わっていないらしい。
普段、僕は部活があるため、放課後の教室へ長く残ることは少ない。
だから知らなかっただけで、絢辻さんにとっては珍しいことではないのかもしれない。
成績がよく、運動もできる。
教師からの信頼も厚い。
誰かが面倒に感じる役割を、自分から引き受ける。
それを周りへ見せつけることもない。
同じ高校生なのに、自分とは随分違って見える。
窓から入った弱い風が、絢辻さんの髪を静かに揺らした。
黒い髪の向こうで、白い紙が夕日に照らされている。
朝に見た夢の色が、一瞬だけ頭をよぎった。
「……何を見てるんだか」
僕は小さく頭を振った。
別に、絢辻さんを観察するために戻ってきたわけではない。
邪魔をしないよう静かに自分の席へ向かう。
机の横を見ると、探していた袋がそのまま掛かっていた。
中を確かめる。
シューズも入っている。
「よし」
これで用事は終わった。
鞄へ袋を入れ、教室を出ようとする。
その時だった。
窓の隙間から、先ほどより強い風が吹き込んだ。
教室のカーテンが大きく膨らむ。
同時に、絢辻さんの机の上から数枚の紙が舞い上がった。
「あっ――」
絢辻さんが声を上げる。
一枚は机の下へ。
一枚は通路へ。
もう一枚は、窓の方へ向かって空中を滑っていく。
身体が先に動いていた。
窓へ向かった紙の進路へ入り、両手で挟む。
残りの紙も床へ落ちる前に一枚を拾い、机の脚へ引っかかった紙へ足を伸ばした。
運動後で身体が温まっていたおかげかもしれない。
全てを空中で取れたわけではないが、教室の外や窓の外へ飛んでいくことは防げた。
「危なかった……」
拾った紙を見る。
創設祭の企画書らしい。
乱雑に扱わないよう、紙の端を揃える。
「ごめん、勝手に見たわけじゃないから」
念のため先に伝えながら、絢辻さんの机へ近づく。
絢辻さんは少し驚いた表情で、僕を見ていた。
「望月君。まだ学校にいたの?」
「うん。部活で使うシューズを教室に忘れてて」
「そうだったんだ」
「これは、ここに置けばいいかな?」
「ええ。そこへお願い」
言われた場所へ紙を戻す。
机の端を使い、縦と横を揃えてから置いた。
「ありがとう。窓を少し開けたままにしていたのを忘れてたみたい」
「外に飛ばなくてよかったよ」
「本当に。書き直しになったら、さすがに困ってたかな」
絢辻さんは胸へ手を当て、小さく息を吐いた。
珍しい表情だった。
朝の教室では、何が起きても余裕を崩さないように見えていた。
今も取り乱しているわけではない。
それでも、紙が飛びかけた瞬間には、普通に焦っていたらしい。
「窓、閉めようか?」
「お願いしてもいい?」
「もちろん」
僕は窓際へ向かい、開いていた窓を閉める。
途端に風の音が遠くなった。
静かになった教室では、校庭から聞こえる掛け声と、時計の針が進む音だけが残った。
「これで大丈夫」
「ありがとう、望月君」
「うん。それじゃ――」
別れの言葉を口にしかける。
その時、机の上へ広がった書類が目に入った。
先ほど拾った企画書だけではない。
進路調査用紙。
クラス名簿。
創設祭で使うらしい資料。
ファイルの中にも、まだ何枚もの紙が挟まっている。
朝からずっと仕事をしていたのだろうか。
少なくとも、僕が部活へ行っている間も、絢辻さんはここで作業を続けていたことになる。
純一の言葉を思い出す。
困っている人を助ける。
落とし物を拾う。
話すきっかけなんて、その辺りにあるかもしれない。
紙を拾った。
それで終わりでもいい。
絢辻さんは、助けを求めているわけではない。
本人が選んで引き受けた仕事だ。
余計なことを言えば、邪魔になるかもしれない。
「……絢辻さん」
「何?」
絢辻さんが首を傾げる。
一度声をかけてしまった以上、今さら何でもないとは言いにくい。
「僕にも、何か手伝えることってあるかな」
言ってから、少し柄にもないことを口にした気がした。
普段の僕なら、自分からこういう役割へ入り込むことは少ない。
頼まれれば手伝う。
誰もいなければ動く。
けれど、既に誰かがきちんと進めているところへ、自分から混ざることはほとんどなかった。
絢辻さんは一度瞬きをした。
「手伝ってくれるの?」
「うん。大したことはできないと思うけど」
「でも、まだ部活があるんじゃない?」
「今日はもう終わったよ。シューズを取りに来ただけだから」
机の横から持ってきた袋を軽く持ち上げてみせる。
「それに、ここまで来たついでだし。急いで帰らないといけないわけでもないから」
「ついでにしては、随分親切ね」
絢辻さんは少し困ったように笑った。
「迷惑だった?」
「ううん。そんなことない」
彼女は机の上へ視線を落とす。
残っている書類を確認し、少し考える。
「正直に言うと、助かるかな」
「なら、よかった」
「あと少しのはずなんだけど、そのあと少しがなかなか終わらなくて」
「こういうのって、増える時は一気に増えるよね」
「分かる?」
「僕の場合は宿題とかだけど」
「それは溜めているだけじゃない?」
「……否定はできないなぁ」
絢辻さんが小さく笑う。
朝、ファイルの整理について言われたことを思い出した。
どうやら彼女の中では、僕は既に少しだらしない人間として認識されているらしい。
「それじゃあ、お願いしようかな」
絢辻さんは書類の束から数枚を取り出した。
「これは、朝確認していた進路調査用紙だよね」
「ええ」
渡された用紙を見る。
二年A組の生徒が提出したものだった。
第一志望。
第二志望。
進学か就職か。
保護者の確認。
それぞれの欄へ、クラスメイトたちの字で記入されている。
「こっちの名簿に、第一志望の学校名を書き写してもらってもいい?」
絢辻さんが、別の一覧表を僕へ差し出す。
何人かの欄には、既に学校名が記入されていた。
整った、読みやすい字。
一目で絢辻さんが書いたものだと分かる。
「学校名だけでいい?」
「うん。未定って書いてある人は、そのまま未定。就職希望の人は、この欄へ丸をつけて」
「分かった」
「読めない字があったら、無理に判断しないで聞いてね」
「そこまで信用ない?」
「朝のファイルを見た直後だから、少しだけ」
「整理整頓と読解力は別だと思うけどなぁ」
「冗談よ」
柔らかい笑顔のまま言われる。
一瞬、本気で注意されているのかと思った。
ただ、朝よりも僅かに言葉が軽い。
二人しかいない教室だからだろうか。
「絢辻さんは?」
「私は、創設祭の企画書をまとめるから」
「まだそっちもあるんだ」
「今日中に先生へ渡しておきたいの。明日は他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから」
「……本当に仕事が多いね」
「そうかな?」
「進路調査と、クラス委員の仕事と、創設祭の企画書でしょ。僕なら、どれか一つ忘れてると思う」
「それは忘れないで」
「たとえ話だよ」
絢辻さんは平然とした表情で、自分の席へ戻る。
「こういうのは、予定を立てて順番に終わらせれば大丈夫。毎年ずっと続くわけでもないし」
「いつもやってることみたいに言うね」
「似たようなものよ。先生から集めた資料を整理したり、クラスの意見をまとめたり」
「それをいつもって言うんじゃないかな」
「そうかもしれないけど」
絢辻さんはペンを手に取る。
「誰かがやらないと終わらないから」
特別なことではない。
彼女の口調は、そう言っているようだった。
実際、絢辻さんにとっては当たり前なのだろう。
誰かに褒められるためではなく。
自分がやると決めたから、最後まで終わらせる。
「それじゃ、お願いします」
「うん。分からなかったら聞くよ」
僕も空いている机へ座り、作業を始めた。
進路調査用紙を一枚取る。
氏名を確認。
名簿から同じ名前を探す。
学校名を書き写す。
最初は、一人分を終えるだけでも少し時間がかかった。
けれど、何人か進めるうちに要領が分かってくる。
同じ学校を志望している生徒も多い。
見覚えのある名前なら、漢字を一から確認する必要もない。
教室には、二本のペンが紙の上を走る音が響いていた。
会話はない。
だからといって、気まずくもなかった。
絢辻さんは作業へ集中している。
僕も邪魔にならないよう、自分の手元へ意識を向けた。
白い紙の上を、黒い文字が順番に埋めていく。
何もなかった欄へ、一つずつ情報が収まっていく。
「望月君」
「うん?」
「佐藤さんのところ、第二志望を書いてる」
「えっ」
確認する。
本当だった。
「危なかった……」
「早めに気づいてよかったね」
「見てたの?」
「少し前に顔を上げたら、ちょうど目に入っただけ」
「足を引っ張らないようにしようと思ってたのに」
「一つ間違えたくらいで、足を引っ張ったとは言わないよ」
「絢辻さんなら間違えなさそうだけど」
「私だって間違えることはあるわ」
「そうなの?」
「どういう意味?」
絢辻さんがこちらを見る。
笑顔は変わらない。
けれど、返答を間違えてはいけない気がした。
「完璧に見えるから」
「それは買い被りすぎ」
「でも、クラスのみんなもそう思ってると思うよ」
「そう見えているなら、きちんとできているってことかな」
絢辻さんは、それだけ言って企画書へ視線を戻した。
否定も、謙遜も、それ以上はしなかった。
きちんとできている。
確かにそうなのだろう。
ただ、その言葉が妙に耳へ残った。
それからは、同じ間違いをしないよう注意しながら作業を進めた。
何度か読みにくい字について絢辻さんへ尋ねる。
彼女はその度に手を止め、元の用紙と見比べて答えてくれた。
途中、僕が知らない学校名を見つけた時には、場所や学科まで簡単に説明した。
さすがに全てを知っているわけではないだろうが、進路に関する資料もかなり読み込んでいるらしい。
「絢辻さんは、もう志望校決めてるの?」
「一応ね」
「やっぱり早いな」
「望月君も書いていたでしょう?」
「候補を書いただけだよ。まだ本当にそこへ行くかは分からない」
「でも、成績から考えれば無理な選択ではないと思う」
「僕の成績、知ってるの?」
「クラス委員だからって、全員の点数を調べてるわけじゃないよ」
絢辻さんが少し笑う。
「授業で当てられた時も大体答えてるし、テストの順位も何となく耳に入るから」
「なるほど」
「クラスで四番か五番くらいでしょう?」
「多分、それくらい」
「十分じゃない」
「上に絢辻さんがいると、あんまりそう思えないけど」
「私と比べる必要はないでしょう?」
もっともな返答だった。
けれど、絢辻さんが言うと妙な説得力がある。
「望月君は、部活も続けてるんだし」
「普通の部員だけどね」
「普通に続けるのも、簡単なことじゃないと思うよ」
「絢辻さんに言われると嫌味に聞こえないのがすごいな」
「嫌味を言ったつもりはないもの」
「うん。分かってる」
短い会話を挟みながら、作業は進んだ。
最後の用紙を確認する。
学校名を書き写し、元の紙と見比べる。
書き漏れはない。
「……よし」
ペンを机へ置く。
「絢辻さん、終わったよ」
「本当?」
絢辻さんも顔を上げた。
「お疲れ様。私も、ちょうど終わったところ」
彼女の前には、綺麗に揃えられた企画書が置かれている。
僕が書き写している間に、全てまとめ終えたらしい。
「最後に、一度だけ一緒に確認してもいい?」
「もちろん」
二人で名簿と用紙を見比べる。
先ほどの間違い以外に、書き直すところはなかった。
「大丈夫そうね」
「よかった」
「望月君、こういう作業は丁寧なんだね」
「朝のファイルの印象を引きずってない?」
「少しだけ」
「やっぱりか」
絢辻さんは、完成した名簿をファイルへ挟む。
机の上に残っていた紙も種類ごとにまとめ、手早く鞄へ入れていった。
「これは、あとは先生に持っていけばいいのかな?」
僕も立ち上がり、名簿を手に取る。
「うん。職員室へ――」
絢辻さんが言いかけて、少しだけ動きを止めた。
「どうしたの?」
「え?」
「今、何か忘れたみたいな顔してたから」
「そんな顔してた?」
「ほんの少しだけ」
自信はなかった。
ただ、普段の絢辻さんなら、次に何をするか迷うようには見えない。
だから、一瞬の間が気になった。
僕は持っていた名簿を見せる。
「これじゃなかった?」
「ううん。名簿は大丈夫」
絢辻さんはすぐに首を横へ振った。
「ちょっと驚いただけ。ありがとう、望月君。でも、それは私が持っていくから」
「僕が行ってもいいよ。ここまで手伝ったんだし」
「先生へ確認したいこともあるから、私が行った方が早いの」
「ああ、なるほど」
それなら僕が持っていっても、余計な手間を増やすだけだ。
「分かった」
名簿を絢辻さんへ渡す。
「今日は本当にありがとう。予定より早く終わったよ」
「こっちこそ、いい気分転換になった」
「どうして望月君がお礼を言うの?」
「シューズを取りに来ただけだったのに、何となく一日を有効に使えた気がするから」
「ふふっ。少し大げさじゃない?」
「そうかも」
絢辻さんは僅かに口元を綻ばせた。
教室で多くの人へ向けている笑顔より、少しだけ力が抜けているように見えた。
そう思ったのは、二人しかいない教室の静けさのせいかもしれない。
それぞれ荷物を持ち、教室を出る。
絢辻さんが鍵を閉めた。
「私は職員室へ行くから、ここで」
「うん」
「それじゃあ、また明日ね。望月君」
「また明日、絢辻さん」
絢辻さんは書類を抱え、職員室のある方向へ歩いていく。
僕はシューズ袋を片手に、階段へ向かった。
踊り場の窓から、夕日の最後の光が差し込んでいる。
来た時よりも弱くなったはずなのに、不思議と少し暖かく見えた。
今日は、運がよかった。
忘れ物をしなければ、放課後の教室へ戻ることもなかった。
風が吹かなければ、絢辻さんの書類を拾うこともなかった。
純一が言っていたように、きっかけというものは案外、その辺りに転がっているのかもしれない。
もっとも。
この時の僕は、今日の出来事をそこまで特別なものだとは考えていなかった。
クラスメイトの仕事を少し手伝った。
ただ、それだけ。
それでも階段を下りる足取りが、来た時より僅かに軽くなっていた。