絢辻さんを救いたい話 作:紳士
四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴った。教師が教室を出ていくのとほぼ同時に、張り詰めていた空気が緩んでいく。
教科書を閉じる音や机を寄せる音が重なり、鞄から弁当箱を取り出す者、購買へ向かうために急いで教室を出ていく者が一斉に動き始めた。昼休みは、朝の短い休憩とは比べものにならないほど騒がしい。
「湊、今日はどうする?」
純一が自分の席から振り返った。その手には財布が握られている。
「購買?」
「うん。梅原が焼きそばパンを確保しに行くって」
「確保って言い方をするほどのものかな」
「甘いぞ、望月」
いつの間に移動してきたのか、梅原が僕たちの机の横へ立っていた。妙に真剣な顔で腕を組み、こちらを見下ろしている。
「昼休みの購買は戦場だ。少しの油断が、その日の昼食を菓子パン一個に変えてしまう」
「昨日、普通に二個買えてただろ」
「あれは俺の経験と読みがあったからこそだ」
「最後の一個を一年生と取り合ってなかった?」
純一が呆れたように聞くと、梅原は少しも悪びれず胸を張った。
「譲り合いの精神について語り合っただけだ」
「一年生の方が引いてたけど」
「先輩としての威厳が伝わったんだろう」
ものは言いようだな。
僕は机の横に掛けた鞄へ手を伸ばした。今日は弁当を持ってきていない。普段から毎日用意してもらっているわけではなく、購買か食堂で済ませることも多かった。
「僕も行くよ。何か残ってればいいけど」
「よし。ならば急ぐぞ、同志たちよ」
梅原が教室の出口へ身体を向け、純一も席を立つ。僕も財布を確認しようとした、その時だった。
「望月君」
自分の名前を呼ばれ、顔を上げる。
机の横に絢辻さんが立っていた。胸の前には、白い布に包まれた四角い物を抱えている。大きさから考えれば、弁当箱だろうか。
「少しいいかな?」
「え? 今から?」
「うん。昼休みの間に」
「どうしたの?」
「ちょっと、昨日のことで」
昨日と聞いて、放課後の教室で彼女の仕事を手伝ったことを思い出す。けれど、確認が必要になるようなことはなかったはずだ。書き写した名簿も、最後に二人で確認している。
「時間はかからないから」
「うん。分かった」
僕は鞄から手を離し、純一へ顔を向けた。
「悪い。先に行ってて」
「ああ、うん」
純一は僕と絢辻さんを交互に見た。梅原も同じように、妙に真剣な表情でこちらを見ている。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
純一が視線を逸らしたところで、梅原が僕の肩へ手を置いた。
「望月。達者でな」
「購買に行くだけだろ」
「俺たちはいつでも、お前の帰還を待っているぞ」
「話が大げさなんだよ」
そこで絢辻さんが梅原へ柔らかな笑顔を向けた。
「梅原君。購買へ行くなら、早くしないと売り切れてしまうんじゃない?」
「その通りだ!」
梅原はあっさり僕の肩から手を離した。
「行くぞ、大将!」
「急に戻るなよ」
純一は苦笑しながらも、梅原に続いて教室を出ていった。二人の背中が扉の向こうへ消える。
「面白い人たちね」
「一緒にいると疲れることもあるけどね」
「でも、仲がいいんでしょう?」
「まあね」
ふざけている時間の方が長い。それでも、何かあった時に頼るなら、最初に顔が浮かぶ二人でもある。
「それで、昨日のことって?」
「ここだと少し落ち着かないから、場所を変えてもいい?」
周囲を見る。昼休みに入ったばかりの教室には、まだ多くの生徒が残っていた。絢辻さんが僕へ声をかけたことで、露骨ではないものの、こちらを気にしている者もいる。
「もちろん」
「じゃあ、ついてきて」
絢辻さんは白い包みを抱えたまま教室を出た。僕もその後を追う。
廊下には教室以上に多くの生徒が行き交っていた。購買へ急ぐ者、友人を呼ぶ者、食堂の席を確保するために走って教師から注意されている者。その中を、絢辻さんは慌てることなく歩いていく。
「どこへ行くの?」
「中庭。今日は天気もいいし、教室よりは静かだと思う」
「寒くないかな」
「日が当たっているところなら大丈夫。風も弱いみたいだから」
そこまで確認しているらしい。
校舎を出ると、冬の空気は冷たかったが、言われた通り風はほとんどなかった。中庭へ差し込む昼の日差しも、思っていたより暖かい。
何組かの生徒がベンチや花壇の縁に座って昼食を取っているものの、教室の騒がしさに比べれば十分静かだった。絢辻さんは校舎の壁際に設置されたベンチへ向かう。
「ここでいいかな」
「うん」
二人で並んで座った。近すぎるわけではない。それでも、普段の教室より互いの距離が近く感じる。
絢辻さんが膝の上へ白い包みを置き、結び目をほどいた。中から現れたのは、黒い二段の弁当箱だった。飾り気は少ないが、表面には目立った傷もなく、綺麗に手入れされている。
「望月君、今日のお昼は?」
「購買で何か買おうと思ってたけど」
「まだ買ってないのね」
「うん。絢辻さんに呼ばれたから」
「それなら、ちょうどよかった」
そう言って、絢辻さんは弁当箱を僕の方へ差し出した。
「どうぞ」
「……どうぞ?」
「望月君のお昼」
「僕の?」
「昨日のお礼に作ってきたの」
一瞬、言われた意味を理解できなかった。弁当箱を見て、次に絢辻さんを見る。彼女はいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「これを、絢辻さんが?」
「そうだけど」
「全部?」
「全部」
「僕のために?」
聞き直すたびに、絢辻さんの返事が少しずつ短くなっていく。
「昨日手伝ってもらったお礼よ」
「いや、でも……昨日は一時間も手伝ってないだろ」
「時間の長さは関係ないでしょう?」
「弁当を作ってもらうほどのことじゃないと思うけど」
僕が戸惑っていると、絢辻さんは弁当箱を差し出したまま僅かに首を傾げた。
「望月君にとってはそうかもしれないけど、私にとっては助かったの。受け取ってくれない?」
「受け取りたいけど……」
「けど?」
「絢辻さんの負担が増えてないかなって」
昨日、仕事が多いことを気にして手伝った。その結果、今朝は僕のために弁当を作る時間まで使わせてしまったのなら、何となく本末転倒な気がする。
「なるほど」
絢辻さんは、僕の言葉へ納得したように一度頷いた。
「望月君は、そういうことを気にしてたのね」
「気にするだろ、普通」
「私は普通だとは思わないけど。お礼をもらえるなら、素直にもらう人の方が多いんじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど」
僕がまだ迷っているのを見て、絢辻さんは弁当箱へ視線を落とした。
「それに、無理をして作ったわけじゃないよ。普段より少し早く起きただけ。家事のついでに作れるものにしたから、大した負担でもないの」
「家事のついで……」
「だから、気にしなくて大丈夫」
説明に不足はない。それでも僕が手を伸ばさずにいると、絢辻さんは少しだけ困ったように眉を下げた。
「私が、手伝ってもらったままだと落ち着かないの」
「落ち着かない?」
「借りを作ったままみたいで」
「僕は借りを作ったつもりはないよ」
「望月君になくても、私にはあるの」
柔らかい口調だった。けれど、その部分だけは譲るつもりがないらしい。
「だから、これは私が納得するためのお礼。受け取ってもらった方が助かるの」
「そこまで言われたら、断れないな」
「よかった」
絢辻さんの笑みが少し深くなる。
僕は差し出されていた弁当箱を受け取った。見た目より、僅かに重い。
「開けてもいい?」
「そのために持ってきたんだから」
「それもそうか」
膝の上へ弁当箱を置き、上段の蓋を開ける。
「……すごい」
思わず声が出た。
白いご飯が綺麗に詰められ、片側には梅干し。黒ゴマも均等に振られている。続けて下段を開けると、小さめのハンバーグにから揚げ、卵焼き、ウィンナーへベーコンを巻いたもの。ブロッコリーやミニトマトまで入っており、色合いも整えられていた。
余ったものを詰めただけには、とても見えない。
「これ、本当に僕が食べていいの?」
「まだ言ってる」
「だって、想像してたより本格的だったから」
「お弁当なんだから、このくらい普通でしょう?」
「僕の知ってる普通とは少し違うかも」
料理ができる人にとっては、これが普通なのだろうか。少なくとも、購買の焼きそばパンを巡って騒いでいる僕たちとは、昼食に対する基準が違いそうだ。
「味は普通かもしれないけど」
「見た目の時点で、もう普通以上だよ」
「食べる前に褒めすぎると、あとで困るんじゃない?」
「絢辻さんの方が緊張するってこと?」
「望月君が感想に困るってこと」
逃げ道を先に塞がれた気分だった。
絢辻さんが包みの中から箸を取り出し、僕へ差し出す。
「これも使って」
「ありがとう」
箸を受け取ったものの、どれから食べるべきか迷った。作った本人が隣にいる。しかも、こちらの反応を気にしていないように見せながら、少しだけ視線が弁当箱へ向いていた。
「どうしたの?」
「最初に何を食べようかと思って」
「好きなものからでいいんじゃない?」
「それが分からないから迷ってるんだよ」
「自分の好きなものが分からないの?」
「そうじゃなくて、全部美味しそうだから」
絢辻さんが少し目を細めた。
「そういう答えが自然に出るなら、望月君は女の子に困らなそうね」
「本当にそう思っただけだよ」
「そういうことにしておきましょうか」
完全には信じられていないらしい。
「じゃあ、この中ならどれが一番気になる?」
絢辻さんが弁当箱を覗き込む。
「ハンバーグ、から揚げ、それともウィンナーのベーコン巻き?」
「三つから選ぶの?」
「最初の一口をね」
改めて見比べる。ハンバーグは表面へ綺麗な焼き色がついている。から揚げは冷めても衣が崩れていない。ウィンナーのベーコン巻きは、一本ずつ爪楊枝で丁寧に留められていた。
「ベーコン巻きかな」
「どうして?」
「一番手間がかかってそうだから」
「他の二つにも手間はかかってるけど?」
「あ」
答えを間違えた。
そう思った時には遅かった。絢辻さんの笑顔は変わっていない。ただ、どこか試すような目をしている。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってる。冗談よ」
「絢辻さんの冗談、少し分かりにくいな」
「望月君が気にしすぎなんじゃない?」
「それは否定できないかも」
ベーコン巻きを一つ取り、口へ運ぶ。
噛んだ瞬間、ウィンナーの皮が小さく弾けた。ベーコンの塩気に、僅かに甘い味つけ。冷めているのに脂っこくはなく、弁当のおかずとして食べやすい。
「美味しい」
「本当?」
「うん。ベーコンの味が強すぎないし、冷めてても食べやすい」
「ちゃんとした感想を言うのね」
少し意外そうに言われ、僕は箸を持ったまま笑った。
「ちゃんと食べたからね」
「ただ美味しいって言うだけかと思ってた」
「それじゃ信用してもらえなさそうだったし」
「そんなことないよ」
そう答える絢辻さんの表情は、少しだけ満足そうに見えた。やはり、感想は気になっていたらしい。
「絢辻さんは食べないの?」
「私の分もあるよ」
白い包みの中から、もう一つ小さな弁当箱を取り出した。同じ黒色だが、僕に渡されたものより一回り小さい。
「最初から二人分作ってきたんだ」
「一人分も二人分も、そこまで手間は変わらないから」
「そういうものなのかな」
「そういうものよ」
絢辻さんも箸を取り出し、自分の弁当箱を開けた。中身は僕のものとほとんど同じだったが、おかずの数は僕の方が少し多い。
「僕の方が多くない?」
「部活をしている男子なんだから、そのくらい食べるでしょう?」
「そこまで考えてくれたんだ」
「お昼が足りなかったら、お礼にならないもの」
何でもないことのように言う。けれど、僕が運動部に所属していることまで考え、量を変えている。やはり、ただ余ったおかずを詰めたわけではなさそうだった。
「朝、何時に起きたの?」
「いつもとそんなに変わらないよ」
「何時?」
「どうしてそこが気になるの?」
「負担になってないか確認したいから」
絢辻さんは箸を止め、僕を見る。
「またそれ?」
「気になるものは仕方ないだろ」
「五時半くらい」
「早いな」
「普段から六時前には起きてるから、三十分くらいしか変わらないよ」
「その三十分が大きいと思うけど」
そこで絢辻さんが、少しだけ呆れたように僕の名前を呼んだ。
「望月君」
「はい」
「せっかく作ったんだから、心配するより食べてくれる?」
「分かりました」
「よろしい」
笑顔のまま注意され、言われた通りから揚げを取る。
衣には僅かに生姜の風味があり、肉も固くなっていない。次に食べたハンバーグはしっかりした味つけで、ご飯とよく合う。卵焼きは少し甘かった。
「どれが一番好き?」
「難しいな」
「三つしかないのに?」
「本当にどれも美味しいから」
「またそういう答え」
絢辻さんが疑うようにこちらを見る。
「今回は本当だよ」
「さっきも本当だって言ってなかった?」
「ずっと本当のことしか言ってない」
絢辻さんは僕の顔を少しだけ見つめた。嘘をついていないか確かめるような視線だ。
やがて小さく息を吐き、自分の卵焼きを口へ運ぶ。
「じゃあ、そういうことにしておくね」
「信用がないなぁ」
「まだ望月君のことを、そこまで知っているわけじゃないから」
「それは僕も同じだけど」
「そうね」
そこで会話が途切れた。
周囲からは他の生徒たちの話し声が聞こえる。校舎の二階から誰かを呼ぶ声や、食事を終えた運動部らしい生徒がボールを蹴る音も混じっていた。
二人で弁当を食べている。ただそれだけなのに、教室で一緒に作業をした時とは違う緊張がある。
食事は、本来もっと気を抜いてするものだと思う。けれど、箸の持ち方や食べる速度まで見られているような気がして、無意識に姿勢がよくなっていた。
「食べにくい?」
絢辻さんが尋ねた。
「どうして?」
「さっきから、少し動きが固いから」
「見られてると思うと緊張するんだよ」
「私、そんなに見てた?」
「少し」
絢辻さんは自分でも気づいていなかったらしく、一度瞬きをした。
「ごめんなさい。味が気になって」
「それなら仕方ないか」
「普段は誰と食べてるの?」
「純一と梅原が多いかな。薫が混ざることもある」
「楽しそうね」
「騒がしいよ。今日も焼きそばパンを確保するとか言ってたし」
梅原の姿を思い出したのか、絢辻さんが小さく笑う。
「梅原君らしい」
「絢辻さんは?」
聞き返すと、少し考えてから答えが返ってきた。
「教室で食べることが多いかな。仕事があれば、そのまま机で済ませることもあるし」
「一人で?」
「誰かと一緒の時もあるよ」
間違ったことは言っていない。けれど、普段から特定の友人と昼食を取っているわけではないように聞こえた。
「寂しくない?」
口にしてから、少し踏み込みすぎたと思った。
絢辻さんの箸が止まる。
「一人で食べることが?」
「うん」
「別に。一人なら静かだし、時間も自由に使えるでしょう?」
「それはそうだけど」
絢辻さんは不思議そうに僕を見る。
「望月君は、一人じゃ食べられないの?」
「食べられるよ。ただ、誰かと食べる方が多いだけ」
「それなら、今日はいつもと違うね」
「絢辻さんもね」
「そうなるかな」
絢辻さんは僅かに微笑んだ。笑顔そのものは教室で見るものと同じだった。それでも、何となく今の方が自然に見えた。
「昨日も思ったんだけど」
僕はハンバーグを一口食べてから言う。
「絢辻さんって、意外と冗談を言うんだね」
「意外?」
「もっと真面目な話しかしない人かと思ってた」
「随分堅い人だと思われていたのね」
絢辻さんは少し可笑しそうに笑った。
「クラス委員の時しか話したことなかったから」
「望月君だって、思っていたよりよく話すよね」
「そう?」
「もっと大人しい人だと思ってた」
「大人しい方だと思うけど」
そう答えると、絢辻さんの視線が少しだけ細くなる。
「梅原君たちと話している時は、そうでもないでしょう?」
「聞いてたの?」
「同じ教室にいるんだから、聞こえる時もあるよ」
どの会話を聞かれていたのか。朝の高橋先生についての話だろうか。それとも、お宝本五冊で純一の味方をするという話だろうか。どちらにしても、あまり聞かれたい内容ではない。
「変なこと言ってなかった?」
「それは、どうでしょう」
絢辻さんは答えず、意味ありげに微笑んだ。
「気になるんだけど」
「普段の行いを振り返ってみたら?」
「振り返りたくないなぁ」
「なら、知らない方が幸せかもしれないね」
この笑顔で言われると、何を知っているのか余計に分からない。
僕は誤魔化すようにご飯を口へ運んだ。
しばらくして、弁当箱の中身はほとんどなくなった。最後に残していた卵焼きを食べ、箸を置く。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「本当に美味しかったよ。ありがとう、絢辻さん」
「全部食べてくれたなら、作った甲斐があったかな。どういたしまして」
今度は僕が礼を言う番だった。
絢辻さんは自分の弁当箱を閉じ、布で包み直す。僕も同じようにしようとしたところで、彼女に止められた。
「あ、それは望月君が持って帰って」
「弁当箱を?」
「明日、返してくれればいいから」
「洗って?」
「もちろん」
当然のように返され、僕は思わず苦笑した。
「そこは僕が洗うんだ」
「当然でしょう?」
「作ってもらったんだから、それくらいはするけど」
「なら問題ないね」
白い布の上へ黒い弁当箱を置く。包み方が分からず、一度手が止まった。
「こう?」
「角がずれてる」
「結べれば一緒じゃない?」
「持ち運んでる途中で傾くでしょう」
絢辻さんが身体を寄せ、布の端を整える。
僕の手元へ伸びた黒い髪が、肩からさらりと落ちた。
距離が近い。ほのかに、石鹸のような香りがした。
意識した途端、どこへ視線を向ければいいのか分からなくなる。
「ここを先に折って。それから反対側を重ねるの」
「う、うん」
絢辻さんは僕の動揺には気づいていないようだった。手早く布を整え、最後に結び目を作る。
「これで大丈夫」
「ありがとう」
「望月君、こういうの苦手なの?」
「普段は適当に鞄へ入れてるから」
「朝のファイルといい、もう少し整理した方がよさそうね」
「またそこへ戻るのか」
「共通した問題でしょう?」
「否定しにくいな」
包まれた弁当箱を受け取る。
絢辻さんは立ち上がり、制服のスカートへついた小さな埃を払った。
「そろそろ戻ろうか」
「そうだね」
昼休みは、既に半分以上過ぎていた。
二人で校舎へ戻る。廊下へ入ると、中庭よりも騒がしい声が耳へ戻ってきた。
二年A組の教室へ近づいたところで、僕は隣を歩く絢辻さんへ声をかける。
「絢辻さん」
「何?」
「昨日のことなら、別にこれで返してもらったとは思ってないからね」
「どういう意味?」
「また仕事が大変そうだったら、その時は手伝うよ」
絢辻さんが足を止めた。
「お弁当をもう一度作ってほしいってこと?」
「違うよ」
思わず、すぐに否定する。
「お礼がなくても手伝うってこと」
「……そう」
絢辻さんは僕を少しだけ見つめた。その視線に何を考えているのかまでは分からなかったが、やがていつものように柔らかく笑う。
「その時は、お願いするかもしれないね」
「うん」
絢辻さんが先に教室へ入り、僕も少し遅れて続いた。
「おかえり、望月」
自分の席へ向かおうとしたところで、梅原に呼び止められた。
純一と並び、僕を待ち構えている。二人の机の上には、焼きそばパンとコロッケパンの空袋が置かれていた。
「ただいま」
「遅かったな」
「絢辻さんと昼を食べてたから」
隠すようなことでもないため普通に答えると、梅原の動きが止まった。純一も目を瞬かせている。
「今、何と?」
「絢辻さんと昼を食べてた」
「二人で?」
「うん」
「どこで?」
「中庭」
梅原の視線が、僕の手にしている白い包みへ落ちる。
「何を?」
「弁当」
「その弁当は?」
「絢辻さんが作ってくれた」
梅原が口を閉じた。
教室は変わらず騒がしいはずなのに、僕たちの周囲だけ音が消えたように感じる。純一も何か言おうとして、結局言葉が出てこないらしい。
数秒後、梅原がゆっくりと立ち上がった。
「望月。昨日、何があった?」
「仕事を少し手伝っただけだよ」
「仕事を手伝えば、絢辻さんの手作り弁当が支給されるのか?」
「支給って」
「俺も手伝う!」
「もう終わってるよ」
即答すると、梅原は机へ手をついた。
「なら別の仕事を探す!」
「目的が変わってるだろ」
横で聞いていた純一は、まだ驚いた様子で白い包みを見ている。
「すごいな、湊」
「お礼だって」
「それでも、手作りだろ?」
「うん」
「美味しかった?」
「かなり」
答えた瞬間、梅原が崩れ落ちるように机へ伏した。
「何という格差社会……」
「焼きそばパン買えてたじゃないか」
「そういう問題ではない!」
勢いよく顔を上げた梅原が、僕と純一を交互に指差す。
「大将が森島先輩。望月が絢辻さん。俺だけ何も起きていないじゃないか!」
「僕は何も始まってないよ」
「手作り弁当を食べておいて、その言い分は通らん!」
「本当に昨日のお礼だって」
純一も苦笑しながら梅原を宥める。
「そうだよ、梅原。まだ決まったわけじゃないだろ」
「大将」
「何だ?」
「その余裕が一番腹立たしい」
「何でだよ」
昼休みの終了を予告するチャイムが鳴った。教室の外へ出ていた生徒たちも少しずつ戻り始め、廊下の騒がしさが教室の中へ流れ込んでくる。
「ほら、そろそろ席に戻った方がいいよ」
僕が促しても、梅原はまだ納得していないらしい。
「この話は放課後に詳しく聞くからな」
「話すことなんてないって」
「手作り弁当の中身から、二人の会話まで全てだ」
「絶対に嫌だよ」
即座に断ると、梅原が大げさに身を乗り出す。
「何故だ!」
「何故でも」
「望月、友情というものを――」
「はいはい。もう戻るよ」
梅原の追及を途中で切り上げ、自分の席へ戻った。
机の横へ、白い包みを掛ける。
朝にはなかった物が、そこにある。明日になれば洗って返す。それだけのことだ。
昨日、仕事を少し手伝って、今日はそのお礼をもらった。これで貸し借りはなくなったのだろう。少なくとも、絢辻さんにとってはそういうつもりのはずだ。
けれど、弁当箱を返せば、また彼女と話す理由ができる。
そう考えた時、自分の中に僅かな期待が生まれていることに気づいた。
ただ礼を言い、弁当箱を返すだけだ。きっと、数分もかからない。それなのに、明日のことを考えている自分が少しだけ可笑しかった。