絢辻さんを救いたい話 作:紳士
次の日の朝。
僕は自分の席へ鞄を置くよりも先に、教室の中を見回していた。
探している相手は、すぐに見つかった。
絢辻さんは教卓の前に立ち、高橋先生と何かを話している。
腕の中には数枚の紙と、薄い青色のファイル。先生の説明へ何度か頷きながら、空いている手で手帳らしきものへ文字を書き込んでいた。
朝から忙しそうだ。
昨日もそうだった。
いや、多分、昨日だけではないのだろう。
僕が今まで気づいていなかっただけで、絢辻さんは毎朝ああやって、誰かに頼まれたことや自分がやるべきことを確認していたのかもしれない。
「朝から熱心だな、望月」
隣から聞こえてきた声に、僕は反射的に視線を逸らした。
「何が?」
「何がって、俺はまだ何も言ってないぜ?」
梅原が、いかにも面白いものを見つけたような笑みを浮かべている。
僕は持っていた白い包みを、自分の身体の陰へ隠した。
……しまった。
今の動作は、見られたくないものを持っていると、自分から教えてしまったようなものだ。
「ほほう」
「何でもないよ」
「その手に持っている物について、俺は一言も触れていないが?」
「顔に書いてあったから」
「では聞こう。昨日、絢辻さんから賜ったという、その聖なる箱をこれからどうするつもりだ?」
「普通に返すだけ」
「普通に、ねぇ」
梅原の視線が白い包みへ落ちる。
昨日の夜、家に帰ってから弁当箱を洗った。
洗剤で丁寧に洗い、水気を拭き取り、しばらく乾かしてから元の布へ包み直した。
最初は適当に結ぼうと思っていた。
けれど、昨日絢辻さんが直してくれた包み方を思い出し、結局何度かやり直した。
本人へ返すだけなのだから、そこまで気にする必要はない。
少し曲がっていたところで、怒られることもないだろう。
そう思っていたはずなのだが、どうにも適当なまま持ってくることができなかった。
「中に何か入れたのか?」
「弁当箱しか入ってないよ」
「お礼のお礼は?」
「そういうのを始めたら、いつまで経っても終わらないだろ」
「甘いな望月。こういう時は菓子折りの一つでも――」
「朝から何の話をしてるんだ?」
純一が鞄を肩に掛けたまま、僕たちのところへやってきた。
「望月が、絢辻さんとの次の一手について相談したいらしい」
「言ってない」
「弁当箱を返すんだろ?」
純一は僕の手元を見て、すぐに事情を理解したらしい。
「うん。昨日借りたから」
「ちゃんと洗った?」
「もちろん」
「それなら大丈夫じゃないか?」
「大将」
梅原が、呆れたように首を振る。
「弁当箱を返して終わりでは、物語は進まんのだよ」
「何の物語だよ」
「若き男女の青春物語だ」
「勝手に始めないでくれるかな」
「しかし事実、手作り弁当を食べたのだろう?」
「仕事を手伝ったお礼にね」
「二人きりで?」
「中庭で」
「それを世間では昼食デートと――」
「梅原君」
穏やかな声だった。
それなのに、梅原の背筋が目に見えて伸びた。
僕も声の方向へ顔を向ける。
いつの間に話を終えたのか、絢辻さんが僕たちの近くに立っていた。
「お、おはようございます、絢辻さん」
「おはよう、梅原君」
笑顔だ。
いつも通りの、柔らかくて人当たりのいい笑顔。
ただし梅原は、つい先ほどまで自分が何を話していたのか思い出したらしい。
「じゃ、じゃあ俺は朝の用事があるので!」
「用事なんてあったか?」
純一が尋ねる。
「今できた!」
梅原は自分の席へと戻っていった。
逃げた。
そう表現するのが一番近い速さだった。
「おはよう、絢辻さん」
純一が軽く手を上げる。
「おはよう、橘君。望月君も」
「おはよう」
「三人で何を話してたの?」
「梅原が変なことを言ってただけだよ」
「変なこと?」
絢辻さんは首を傾げた。
艶のある黒髪が、肩から僅かに流れる。
朝の光が窓から差し込んでいたが、その髪は光を透かすというより、表面で静かに反射しているように見えた。
綺麗だ。
そんな感想が自然と浮かんだ後で、僕は視線を手元へ戻した。
じっと見ていると、また梅原に余計なことを言われそうだ。
「何でもないよ。それより、これ」
白い包みを差し出す。
「昨日の弁当箱。洗ってきた」
「あ、ありがとう」
絢辻さんは、少し意外そうな顔をしてから受け取った。
「今日じゃなくてもよかったのに」
「借りたままだと気になるから」
「望月君らしいね」
「そうかな?」
「そういうところ、昨日から何となく分かってきたかな」
昨日から。
たった一日で何が分かったのだろう。
気にはなったが、本人へ尋ねるほどのことでもない気がした。
絢辻さんは包みを一度持ち上げ、形を確認する。
「ちゃんと包めてる」
「昨日、教えてもらったから」
「覚えてたんだ」
「何度かやり直したけどね」
「そこまでしなくても、普通に持ってきてくれればよかったのに」
「曲がってたら、また整理整頓について言われそうだったから」
「私、そんなに細かいことを言う人に見える?」
見える。
一瞬でそう思った。
けれど、口に出すのは少し危険な気もする。
「……きちんとしてる人には見えるよ」
「随分考えた答えね」
「慎重に言葉を選んだんだよ」
「そういうことにしておくね」
絢辻さんは薄く笑い、弁当箱を自分の鞄へ入れた。
その時、鞄の中に黒い表紙のようなものが見えた。
教科書か、ノートだろうか。
特に変わったところもないため、すぐに意識から外れた。
「それじゃ、私も準備があるから」
「うん」
「昨日は本当にありがとう、望月君」
「僕も弁当、美味しかったよ」
「それならよかった」
絢辻さんは、満足そうに目を細めた。
そのまま自分の席へ戻っていく。
周囲の生徒へ挨拶を返し、尋ねられたことへすぐに答える。
僕と話していた時と、同じ笑顔。
少なくとも、表面上は。
「湊」
純一が、小声で僕を呼んだ。
「何?」
「結構、仲良くなったんだな」
「昨日少し話しただけだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
純一は、何か納得していないような表情をした。
けれど、それ以上は追及せず、自分の席へ戻っていった。
僕も教科書を机へ出す。
始業まで、あと数分。
黒板の横に掛けられた時計を確認してから、何となく絢辻さんの席へ目を向けた。
彼女は既に、次の授業の準備を終えていた。
こちらを見てはいない。
当然だ。
僕も前へ向き直る。
昨日は少し話をして、弁当を作ってもらった。
今朝は、それを返した。
それだけだ。
それだけなのに、純一から「仲良くなった」と言われたことが、少しだけ頭へ残った。
◇
「橘君、今日の放課後は空いてる?」
昼休みの少し前。
移動教室から戻ってきたところで、森島はるか先輩が教室の入口から顔を覗かせた。
教室が、目に見えてざわついた。
他学年の生徒が訪ねてくること自体は、それほど珍しいことではない。
けれど、相手が森島先輩となれば話は別だった。
長い黒髪。
日本人離れした整った顔立ち。
立っているだけで周囲の視線を集める華やかさ。
何より本人は、自分が注目されていることなど気にしていないように、教室の中へ向かって明るく手を振っていた。
「橘くーん」
「は、はい!」
純一が勢いよく立ち上がる。
後ろの机へ膝をぶつけ、短い音が鳴った。
「痛っ」
「大丈夫?」
「大丈夫です!」
「じゃあ、放課後ね」
「はい!」
「約束だからね」
森島先輩は笑顔を残し、そのまま廊下の向こうへ去っていった。
数秒間の静寂。
その後、教室中の視線が一斉に純一へ集中した。
「橘君、森島先輩と何かあるの?」
「放課後ってどこ行くの?」
「いつの間に仲良くなったんだよ!」
近くの生徒たちが純一を取り囲む。
純一は顔を赤くしながら、何でもないと何度も繰り返している。
もちろん、誰も信じてはいない。
「大将……」
梅原が、感極まったように目元を押さえた。
「ついにここまで」
「親みたいな反応だね」
「俺は大将の成長を、誰よりも近くで見てきた男だからな」
「数日前まで一緒に校舎裏で嘆いてただけだろ」
「男の友情とは時間ではない。密度なのだよ」
言っていることは、それらしく聞こえなくもない。
内容はほとんどないのだが。
「しかし、これで本格的に一人置いていかれたな」
梅原が僕を見る。
「僕?」
「大将は森島先輩。望月は絢辻さん」
「だから、僕の方は何も始まってないって」
「手作り弁当」
「あれはお礼」
「二人きりの昼食」
「場所を変えただけ」
「今朝の仲睦まじい会話」
「弁当箱を返しただけ」
「そうやって全て偶然で片づけるつもりか!」
「事実だから仕方ないだろ」
梅原は、僕の肩を両手でつかむ。
「いいか望月。始まりとは、始まった瞬間には気づけないものなのだ」
「急に真面目そうなことを言うね」
「後になって振り返り、あの時から全てが始まっていたと知るのだよ」
「漫画の読みすぎじゃない?」
「夢がないなぁ」
梅原の手を肩から外す。
ただ、完全に聞き流すことはできなかった。
後になって振り返る。
確かに、そういうことはあるのかもしれない。
何でもないと思っていた一日が、後から考えれば大きな分岐点だった。
昨日、純一の言葉を思い出して絢辻さんへ声をかけたこと。
そのお礼に弁当をもらったこと。
今朝、弁当箱を返したこと。
全部、小さな出来事だ。
一つ一つだけなら、特別な意味などない。
だからこそ、それらをどう受け止めればいいのか分からない。
僕は教室の前方へ目を向けた。
絢辻さんは、数人の女子生徒と話している。
柔らかな笑顔。
相手の話へ丁寧に相槌を打ち、ときどき小さく笑う。
あの輪の中へ、自分から入っていく姿は想像できなかった。
別に入りたいわけではない。
ただ。
昨日のように、二人で話す時間がまたあればいい。
そんなことを、ほんの少しだけ考えた。
◇
その日の放課後、空は昼間から続いていた曇りをさらに濃くしていた。
部活へ向かうため昇降口まで来たところで、校内放送が流れる。
『本日の屋外での部活動は、天候悪化が予想されるため中止とします』
周囲から、不満と歓声が入り混じった声が上がる。
僕は窓の外を見た。
まだ雨は降っていない。
ただ、空一面が暗い雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくない色をしていた。
「朝練したし、今日はいいか」
誰に言うでもなく呟く。
練習がなくなったのなら、急いで残る理由もない。
靴を履き替え、校舎を出る。
冷たい風が頬へ当たった。
朝よりも気温が下がっている。
僕は鞄の中を確認した。
折り畳み傘は入っている。
駅まで降らなければ、使わずに済むだろう。
「望月君?」
後ろから声がした。
振り返る。
校舎の入口に、絢辻さんが立っていた。
片手には鞄。
もう片方には、紺色の傘を持っている。
「今日は部活じゃなかったの?」
「天気が悪くなるから中止だって」
「そうだったのね」
「絢辻さんは、もう仕事終わったの?」
「今日は先生との確認だけだったから」
そう言いながら、絢辻さんは僕の隣まで歩いてくる。
特に待ち合わせていたわけではない。
帰る時間が、偶然重なっただけだ。
「望月君は駅?」
「うん」
「私も途中まで同じ方向だよ」
「そうなんだ」
昨日まで、絢辻さんがどの道を使って帰っているのか考えたこともなかった。
同じクラスなのだから、登下校の時間が重なる可能性はいくらでもあったはずだ。
けれど実際に並んで歩くのは、これが初めてだった。
「一緒に帰る?」
僕は言った。
言ってから、少し直接的だった気がした。
「途中まで同じなら、だけど」
「いいよ」
絢辻さんは、特に迷うことなく頷いた。
二人で校門へ向かう。
部活動が中止になったためか、普段より多くの生徒が同じ時間に下校していた。
前を歩く生徒たちがふざけ合い、少し離れたところから教師の注意する声が聞こえる。
その中で、僕たちの間にはしばらく会話がなかった。
気まずい。
とまではいかない。
けれど昨日の放課後とは違い、今は周りに多くの生徒がいる。
何となく、誰かに見られているような気がした。
実際には、誰も僕たちのことなど気にしていないのだろうが。
「望月君」
「うん?」
「昨日、どうして手伝ってくれたの?」
突然の質問だった。
「昨日?」
「教室でのこと」
「仕事が多そうだったから」
「それだけ?」
「それだけって言われると困るけど……」
すぐに答えようとして、少し考える。
困っていたから。
純一に言われたことを思い出したから。
絢辻さんと話すきっかけになると思ったから。
どれも間違いではない。
ただ、最後の理由をそのまま言うのは、少し恥ずかしかった。
「放っておいたら、後で気になると思ったんだ」
「後で?」
「自分は何もせずに帰ったのに、絢辻さんは遅くまで残ってたなって。家に帰ってから考えそうだったから」
「つまり、自分が落ち着くため?」
「そう言われると、あまり聞こえがよくないね」
「でも、そうでしょう?」
「……多分」
否定できない。
誰かのために行動したつもりでも、結局は自分が気になったから動いている。
完全な善意とは言えないのかもしれない。
「いいんじゃない?」
絢辻さんが言った。
「え?」
「誰かのためだけに動ける人なんて、そんなにいないと思うから」
彼女は前を向いたまま歩いている。
「助けた相手に感謝してほしいとか、いい人だと思われたいとか。何かしら自分のためになるから、行動するんでしょう?」
「絢辻さんも?」
「私?」
「誰かの仕事を引き受けたりする時」
絢辻さんは、少しだけ目を細めた。
「そうね」
笑顔だった。
「みんなが困らないようにしたいし、先生にも迷惑をかけたくない。創設祭だって、成功した方が私も嬉しいから」
「やっぱり、ちゃんとしてるな」
「望月君は、すぐそうやって人を買い被るよね」
「買い被ってるかな」
「私だって、自分がやりたいからやってるだけ」
「それなら、僕と同じ?」
「一緒にしないでくれる?」
返事が早かった。
「ひどいな」
「冗談よ」
「また分かりにくいやつだ」
絢辻さんは小さく笑った。
教室で多くの人に見せるものよりも、僅かに目元が緩んでいる。
昨日も見た笑い方だ。
そう思った瞬間、胸の内側が少しだけ軽くなる。
僕と話しているから笑った。
少なくとも、今の笑顔に関してはそういうことになる。
それが何となく嬉しかった。
「望月君って、気にしすぎるところがあるよね」
「よく言われる」
「誰に?」
「家族とか、部活の人とか」
「梅原君たちには?」
「あの二人は、気にしなさすぎるから」
「確かに」
すぐに納得されてしまった。
「でも、そのくらいの方が楽なんじゃない?」
「梅原みたいに?」
「そこまでは言ってないよ」
「今、少し想像しただろ」
「少しだけ」
絢辻さんが、口元へ手を添えて笑う。
長い髪が、歩くたびに背中で揺れている。
白い頬にかかった一房を、指で耳へ掛ける。
それだけの仕草なのに、妙に目へ残った。
美人だから。
簡単に言えば、そういうことなのだろう。
ただ、教室で遠くから見ている時とは少し違う。
近くにいるからこそ、髪が風で僅かに乱れることや、寒さで鼻先が薄く赤くなっていることまで見える。
完璧に見える人にも、当然そういう部分がある。
当たり前のことなのに、少し意外だった。
「私の顔に何かついてる?」
「えっ」
視線に気づかれた。
「いや、何も」
「そう?」
「寒そうだなと思って」
「望月君も同じでしょう?」
「僕は部活用の上着を着てるから」
「じゃあ、貸してくれる?」
「いいよ」
反射的に答え、ファスナーへ手をかける。
「待って」
絢辻さんが、少し驚いたように僕の手を止めた。
「冗談だから」
「そうなの?」
「本当に脱ごうとするとは思わなかった」
「寒いんだろ?」
「少しだけ。傘もあるし、もうすぐ駅だから大丈夫」
「傘は防寒具じゃないと思うけど」
「細かいことを気にするね」
「絢辻さんに言われたくないな」
僕がそう返すと、絢辻さんは一度瞬きをした。
それから、また小さく笑った。
「確かにそうかも」
ぽつり、と頬へ冷たいものが触れた。
空を見上げる。
いつの間にか、雲はさらに暗くなっている。
「降ってきたね」
絢辻さんが傘を開く。
僕も鞄へ手を入れた。
折り畳み傘を探す。
けれど、いつも入れているはずの場所に見当たらない。
「あれ?」
「どうしたの?」
「傘、入れたと思ったんだけど」
鞄の底まで探る。
教科書。
筆箱。
部活で使うタオル。
昨日返却された小テスト。
傘だけがない。
朝、玄関で鞄の横へ置いたところまでは覚えている。
つまり、入れたつもりで置いてきたらしい。
「整理整頓」
隣から、絢辻さんの声が聞こえる。
「今回、鞄の中は関係ないよ」
「忘れ物という意味では同じでしょう?」
「反論できないな」
雨粒が少しずつ増えていく。
駅までは、まだ数分ある。
走れば大して濡れずに済むかもしれない。
「僕は走るよ」
「どうして?」
「どうしてって、傘がないから」
「入ればいいでしょう?」
絢辻さんが傘を、僕の方へ少し傾けた。
「一緒に?」
「他にどうするの?」
「でも、狭くない?」
「望月君が走って風邪を引いたら、昨日のお弁当が無駄になるでしょう?」
「そういう理由?」
「そういう理由」
絢辻さんは、当然のように僕を傘の中へ招いた。
断る方が不自然だ。
「じゃあ、入れてもらうよ」
「どうぞ」
傘の下へ入る。
肩と肩が触れそうな距離。
互いに少し外側へ寄ろうとした結果、僕の右肩だけが傘から出た。
「望月君、濡れてるよ」
「絢辻さんが濡れるよりいいだろ」
「私の傘なんだけど」
「だからこそ」
「変なところで遠慮するのね」
絢辻さんが、さらに僕の方へ近づいた。
肩が僅かに触れる。
制服越しであるため、温度までは分からない。
それでも、触れたという事実だけは妙にはっきりと伝わった。
僕は前を見る。
今、横を向けば近すぎる。
そう意識すると、余計に顔を動かせなくなった。
「緊張してる?」
「……少し」
「正直ね」
「嘘をついても分かりそうだから」
「私を何だと思ってるの?」
「クラスで一番、人のことを見てそうな人」
絢辻さんから、返事はなかった。
聞こえなかったわけではないだろう。
傘を打つ雨音が、少し強くなる。
「そう見える?」
数秒後、絢辻さんが尋ねた。
「うん」
「そう」
短い返事。
横顔には、先ほどまでと同じ穏やかな笑みがあった。
けれど、その笑顔がほんの僅かに固くなったような気がした。
僕の気のせいかもしれない。
触れてはいけないところへ、偶然指をかけてしまったような。
そんな感覚だけが残る。
「絢辻さん?」
「何?」
「いや……何でもない」
「そう」
結局、僕はそれ以上何も聞かなかった。
聞いていいことなのか分からなかったから。
駅の入口へ到着する。
屋根の下へ入ったところで、僕は傘から出た。
「ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
絢辻さんは傘についた水滴を軽く払い、留め具を巻く。
指先まで動きが綺麗だった。
「私はこっちだから」
絢辻さんが、駅とは反対側へ続く道を指した。
「電車じゃないの?」
「駅の近くを通るだけ。家はもう少し先」
「そうなんだ」
「望月君は電車でしょう?」
「うん」
「じゃあ、ここでお別れね」
「今日はありがとう」
「傘のこと?」
「それもあるけど。一緒に帰ったことも」
口にしてから、少し恥ずかしくなる。
ただ一緒に歩いただけで礼を言うのは、変だったかもしれない。
絢辻さんも一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「私も、退屈しなかったよ」
「それならよかった」
「また明日ね、望月君」
「うん。また明日」
絢辻さんは傘を再び開き、雨の中へ歩いていった。
紺色の傘。
その下で揺れる長い黒髪。
何度か人の流れに隠れながら、やがて見えなくなる。
僕はしばらく、その方向を見ていた。
昨日は、仕事を手伝った。
今日は、弁当箱を返し、一緒に帰った。
偶然が重なっただけだ。
それでも。
明日もまた話せるだろうか。
そんなことを考えている時点で、梅原の言葉を完全には笑えなくなっている自分に気づいた。
始まりとは、始まった瞬間には気づけない。
「……漫画の読みすぎだろ」
本人のいないところで、もう一度否定する。
けれど僕の口元は、僅かに緩んでいた。