絢辻さんを救いたい話 作:紳士
雨が降った次の日の朝は、普段より空気が澄んでいるように感じられた。
冬であることに変わりはない。
むしろ、濡れた地面から残った熱まで奪われているのか、駅から学校までの道は昨日よりも寒かった。
そのせいだろうか。
校門を通り抜けてからも、僕は両手を制服のポケットへ入れたまま歩いていた。
「おはよう、望月君」
先に聞こえた声へ顔を向ける。
昇降口の手前に、絢辻さんがいた。
昨日と同じ黒く長い髪は、風に乱されることなく背中へ落ちている。片腕には何冊かのノートとファイルを抱え、もう片方の手で鞄を持っていた。
「おはよう、絢辻さん」
「今日は傘、忘れてない?」
「降らないだろ、今日は」
「そういう問題かな」
「一応、入れてきたよ」
「一応なんだ」
「昨日の今日だからね」
絢辻さんは、確認するように僕の鞄へ目を向けた。
見ただけで中身まで分かるはずはない。
けれど、何となくもう忘れ物ができないような気分になる。
「それなら安心ね」
「心配してたの?」
「また私の傘へ入ってきたら困るでしょう?」
「入れてくれたのは絢辻さんじゃないか」
「でも、望月君は断らなかったよね」
「そりゃ、雨に濡れるよりはいいから」
「ふふっ。正直でよろしい」
軽く笑った後、絢辻さんは先に昇降口へ入っていった。
昨日までなら、朝に挨拶をするだけで会話が続くことはほとんどなかったと思う。
今のやり取りも、何か特別な話をしたわけではない。
ただ、昨日の出来事を二人とも覚えていた。
それだけで少し嬉しく思えるのは、僕自身が絢辻さんを意識し始めているからなのだろうか。
意識。
口にしてみると、思っていた以上に恋愛へ近い言葉に聞こえる。
まだ、そこまでではない。
多分。
「朝から何を一人で難しい顔してんだ?」
靴を履き替えていると、後ろから梅原に肩を叩かれた。
「寒いなと思って」
「そういう顔じゃなかったぜ」
「じゃあ、眠いなと思ってた」
「もっと違うな」
「人の顔を勝手に分析しないでくれる?」
「絢辻さんを見ながら考え事をしていたように見えたが」
僕は無言で上履きへ足を入れた。
梅原の目が、面白そうに細められる。
「なるほど」
「何も言ってないよ」
「否定もしなかったな」
「朝から説明するのが面倒なだけ」
「照れなくてもよい。俺はいつでも恋愛相談を受け付けているぞ」
「梅原に相談したら、話が余計にややこしくなりそうだ」
「失敬な。俺ほど男女の機微に精通した男は、この学校にそうはいない」
「実践経験は?」
「知識と実践は別物だ」
「やっぱり信用できないな」
梅原と並んで教室へ向かう。
二年A組へ入ると、純一は既に席についていた。
教科書を開いているわけでも、誰かと話しているわけでもない。
机へ頬杖をつき、どこか上の空で窓の外を眺めている。
「おはよう、純一」
「ああ。おはよう、湊」
返事はあった。
ただ、普段より僅かに遅い。
「どうしたの?」
「何が?」
「ぼうっとしてたから」
「いや。別に何でもないよ」
そう言った後、純一の口元が緩んだ。
何でもない人間が浮かべる表情には見えない。
「昨日は森島先輩と、どこまで行ったんだ?」
梅原が僕たちの間へ入り込む。
「どこまでって、普通に話しただけだよ」
「ほう。普通に」
「その言い方やめろよ」
「具体的には?」
「言わない」
「大将と俺の仲ではないか」
「言ったら絶対にからかうだろ」
「からかうのではない。祝福だ」
「梅原の祝福は信用できない」
純一はそう答えながらも、本気で嫌がっている様子ではなかった。
森島先輩と何があったのかは分からない。
けれど少なくとも、悪い出来事ではなかったらしい。
少し前までの純一なら、森島先輩の名前が出るだけでもっと慌てていた気がする。
今も照れてはいる。
ただ、その中に昨日まではなかった余裕が混ざっていた。
前へ進んでいる。
そのことを、改めて実感する。
「湊はどうなんだ?」
純一がこちらを見る。
「僕?」
「昨日、絢辻さんと帰ったんだろ?」
「何故それを?」
「見ていたからだ」
梅原が胸を張った。
「昇降口から二人仲良く出ていく姿をな」
「見てたなら声をかければよかっただろ」
「そんな野暮なことができるか」
「普通に帰る方向が同じだっただけだよ」
「相合い傘もしていただろう?」
「そこまで見てたの?」
「雨が降り始めたから、俺も慌てて駅へ向かっていたのだ」
「傘は?」
「持っていなかった」
「それなら、見てないで走った方がよかったんじゃないか」
「おかげで家へ着いた時には濡れ鼠だった」
「自業自得だろ」
梅原は咳払いをし、話を戻す。
「それで、どうだった?」
「どうって?」
「絢辻さんと一つの傘へ入った感想だ」
「狭かった」
「それだけか?」
「僕の右肩が濡れた」
「そういうことを聞いているのではない!」
「なら何を聞いてるんだよ」
「肩が触れたとか、いい香りがしたとか、そういうものがあるだろう!」
「朝から声が大きいよ」
周囲を見る。
幸い、教室には既に多くの生徒が集まっており、僕たちだけが目立っているわけではない。
それでも、近くの女子生徒が一度こちらを見た。
「少しは恥じらいを持ってくれるかな」
「望月も持つべき感想を持て」
「持つべき感想って何だよ」
「でも、緊張はしたんだろ?」
純一に尋ねられる。
梅原とは違い、からかうというより純粋に気になっているようだった。
「……まあ、少しは」
「ほら見ろ!」
「梅原は黙ってて」
「それで?」
「それだけだよ。本当に一緒に帰っただけ」
肩が触れたことは覚えている。
近くで見た横顔も。
濡れていない側へ傘を傾けてくれたことも。
わざわざ二人へ話すほどではないと思う一方で、どうにも話したくないという気持ちも少しあった。
自分だけが知っていることとして、残しておきたい。
そう考えたところで、僕は一度思考を止めた。
昨日一緒に帰った程度の相手に、随分と勝手なことを考えている。
「おはよう、みんな」
教室へ入ってきた高橋先生の声で、話はそこで途切れた。
生徒たちがそれぞれ自分の席へ戻っていく。
僕も梅原の席から離れ、自分の椅子へ腰を下ろした。
ふと、教室の前方を見る。
絢辻さんは高橋先生から何かを受け取り、すぐに内容を確認していた。
僕たちの話が聞こえていた様子はない。
それを確認して、少しだけ胸を撫で下ろす。
別に聞かれて困るようなことは話していない。
そう自分へ言い聞かせながら、僕は机の中から教科書を取り出した。
◇
「それじゃあ、移動するぞ」
六時間目の授業を終えた教師が教室を出ていく。
次の時間は、視聴覚室を使った特別講義だった。
そのまま終礼になるため、教室へ戻ってくる必要はないらしい。
クラスメイトたちは鞄を持ち、順番に廊下へ出ていった。
「湊、早く行こうぜ」
純一が教室の入口から声をかける。
「先に行ってて。筆箱が見つからない」
「また?」
「またとは何だよ」
「この前はシューズ忘れてただろ」
「今回は机の中にあるはずだから」
「本当に整理した方がいいんじゃないか?」
「絢辻さんと同じこと言うなぁ」
純一は苦笑すると、梅原と一緒に先へ向かった。
机の中へ手を入れる。
教科書を一度取り出し、その下を探る。
筆箱は奥の方に押し込まれていた。
「あった」
立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。
教室には、もうほとんど人が残っていなかった。
窓が閉まっているか。
暖房が消えているか。
気にはなったが、最後に出る生徒が全て確認する決まりではない。
それでも、誰もいない教室で暖房だけが動き続けているのを見ると、少し落ち着かない。
電源を切り、窓の鍵を簡単に確かめる。
こういうことをしているから、遅れるのだろう。
分かっていても、見つけた以上は放っておけなかった。
教室を出る。
視聴覚室は別棟にあるため、渡り廊下を通らなければならない。
急げば、まだ講義が始まる前には着けるはずだ。
階段へ向かおうとしたところで、足元に何かが落ちているのが見えた。
「ん?」
黒い長方形。
最初は、小さなノートに見えた。
けれど、表紙には留め具がついている。手に取ってみれば、教科書よりも一回り小さく、意外と厚みがあった。
「手帳かな」
誰かが移動する途中で落としたのだろう。
周囲を見る。
廊下には誰もいない。
少し先にある階段から、クラスメイトたちの声だけが聞こえていた。
追いかければ、落とした人に間に合うかもしれない。
ただ、誰の物か分からなければ声もかけられない。
表紙に名前は書かれていなかった。
勝手に開くのはよくない。
職員室か、視聴覚室で先生へ渡すのが一番だろう。
そう考え、手帳を鞄へ入れようとした。
その時、留め具が外れていることに気づいた。
持ち方が悪かったのか、手帳が僕の手の中で開く。
「あっ」
挟まれていた小さな紙が床へ落ちた。
一枚。
その後を追うように、もう一枚。
僕は慌ててしゃがみ込んだ。
床に落ちた紙を拾う。
ただのメモ用紙だった。
創設祭に必要な備品。
クラスごとの進捗状況。
先生へ確認する項目。
綺麗な字で、隙間なく予定が書き込まれている。
これだけで、持ち主が誰なのか何となく分かった。
手帳の開いたページへ視線を移す。
右上には、小さく名前が書かれていた。
絢辻詞。
「絢辻さんのか」
拾った紙を元の位置へ戻そうとする。
どのページに挟まれていたのか。
少なくとも、今開いている場所ではないように見えた。
前後のページを確認するくらいなら――。
そう思い、紙の端をつまんだまま一枚だけめくる。
そこで、指が止まった。
先ほどまでの予定表とは違う。
書かれている字は同じだった。
丁寧で、整っていて、読み間違える隙もない文字。
それなのに、内容だけが僕の知っている絢辻さんと結びつかなかった。
クラスメイトの名前。
その横に続く、短い文章。
誰と誰が親しい。
誰は頼めば断れない。
誰は自分が評価される話へ弱い。
誰へ何を任せれば、本人が自分から動いた形にできるのか。
簡潔にまとめられていた。
悪口。
そう言ってしまえば、近い部分もあった。
けれど、感情のままに相手を貶しているわけではない。
もっと冷静で、具体的。
人を見て。
覚えて。
必要に応じて使い分けるための記録。
まるで、クラス全体を動かすための説明書のようだった。
自分の名前を見つけた。
望月湊。
読まない方がいい。
頭では分かっていた。
けれど、自分の名前が目に入ってしまった以上、意識だけを外すことはできなかった。
――気が弱く、頼み事を断りにくい。
――周囲の反応を気にする。
――仕事は丁寧。理解も早いため補助には使える。
――ただし、必要以上にこちらを気にする傾向あり。
「……僕のことまで」
自分でも分かっていた部分だった。
分かっていたからこそ、他人の言葉として書かれていると妙に胸へ刺さる。
便利な補助。
その表現自体は、間違っていない。
僕から手伝うと言ったのだ。
絢辻さんが無理に押しつけたわけではない。
それでも。
昨日、一緒に帰りながら話したことまで、何かの判断材料にされていたのだろうか。
弁当も。
笑顔も。
傘へ入れてくれたことも。
頭の中へ浮かんだ疑問を、すぐに打ち消す。
この一ページを見ただけで、全てを同じものだと決めつけるのは違う。
何より、僕は今、人の手帳を勝手に読んでいる。
落とし主を確認するところまでは仕方がなかった。
けれど、今は違う。
自分の名前を見つけたからといって、その先まで読む権利などない。
僕は慌てて手帳を閉じた。
「何をしているの?」
すぐ後ろから、声が聞こえた。
心臓が跳ねる。
振り返る。
絢辻さんが立っていた。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ黒い髪。
表情には、いつものような穏やかな笑みが浮かんでいる。
「絢辻さん」
「それ、私の手帳だよね?」
声も柔らかい。
けれど、視線だけが僕の手元から動かなかった。
「廊下に落ちてたんだ。持ち主が分からなくて、開いたら紙が落ちて――」
「見たの?」
僕の説明を遮る。
笑顔は消えていない。
「……少し」
「どのくらい?」
「名前を確認した後に、別のページを一枚」
「読んだ?」
「読むつもりはなかったけど、自分の名前が見えて」
「読んだのね」
言い訳を重ねるほど、余計に悪く聞こえる。
僕は頷いた。
「ごめん」
「そう」
絢辻さんが、こちらへ一歩近づいた。
手を差し出す。
「返して」
「うん」
手帳を渡す。
絢辻さんは受け取ると、挟まれていた紙が全て揃っているかを確認した。
一枚ずつ。
普段と同じように、丁寧な動作で。
ただ、紙を押さえる指先には普段より力が入っていた。
「何が書いてあったか、覚えてる?」
「全部は」
「望月君のことは?」
「……覚えてる」
「そう」
手帳を閉じる。
絢辻さんは、それを胸元で抱えた。
「困ったな」
口元へ手を添え、僅かに首を傾げる。
先生やクラスメイトの前でなら、誰もが本当に困っているのだと思うだろう。
僕も昨日までなら、そう見えたはずだ。
「誰かに話す?」
「話さないよ」
「どうして?」
「どうしてって……話す理由がないから」
「面白い話題になるかもしれないよ。完璧なクラス委員長は、裏ではクラスメイトをあんなふうに見ていますって」
「そんな言い方はしない」
「でも、書いてあったことは事実でしょう?」
穏やかな口調のまま。
絢辻さんは、また一歩近づいた。
自然と僕は一歩後ろへ下がる。
背中が教室の扉へ触れた。
これ以上は下がれない。
絢辻さんは、僕の目の前で立ち止まった。
近い。
昨日、同じ傘へ入った時と距離自体は変わらないかもしれない。
けれど、今は緊張の理由が全く違った。
「拾った手帳を勝手に読んでおいて、随分都合がいいのね」
「それは、本当に悪かったと思ってる」
「謝れば終わり?」
「終わるとは思ってないよ」
「じゃあ、どうするの?」
答えが浮かばない。
手帳の内容を忘れる。
そんなことが簡単にできればいい。
けれど、忘れると言ったところで信用されないだろう。
「少なくとも、誰にも言わない」
「信用できると思う?」
「思えないなら、どうすればいい?」
僕が尋ねると、絢辻さんの目が僅かに細くなった。
笑顔の形は残っている。
ただ、今のそれは教室で見ていたものとは違った。
相手を安心させるためではない。
こちらがどう反応するのか、楽しむような笑み。
「望月君って、思ったより素直ね」
声の高さが僅かに下がる。
話し方そのものは変わっていない。
けれど、その一言だけで、目の前にいる相手が先ほどまでとは別人のように感じられた。
「……絢辻さん?」
「何?」
「いつもと、少し違う」
「当たり前でしょう?」
絢辻さんは、僕の胸元へ手帳の角を軽く押し当てた。
「見たんだから」
黒い表紙が制服越しに触れる。
「これが、あたし」
一人称。
それが変わったことへ気づくまで、少し時間がかかった。
「教室で笑って、頼み事を聞いて、みんなが困らないように働いているのも私」
手帳が、もう一度胸元を押す。
「こんな手帳を作って、誰に何を頼めばいいか考えているのも、あたし」
「……うん」
「何、その返事」
「何て言えばいいか分からなくて」
「気持ち悪いとか、騙されたとか、あるでしょう?」
騙された。
その言葉が、一番近いのかもしれない。
昨日まで僕が見ていた絢辻さんと、手帳の中にいた絢辻さんは違う。
けれど、どちらかが全て嘘だとは思えなかった。
創設祭を成功させるために残っていたこと。
僕へ弁当を作ったこと。
雨の中で傘へ入れてくれたこと。
それらまで、手帳の存在だけでなかったことにはならない。
「驚いてはいるよ」
「それだけ?」
「僕が勝手に読んだ側だから、怒るのも違う気がする」
「本当にそう思ってるの?」
「うん」
「へえ」
絢辻さんは、一度僕から離れた。
拘束されていたわけでもないのに、ようやく息がしやすくなる。
「それとも、あたしに嫌われたくないから?」
「……それも、少しはあるかもしれない」
正直に答える。
絢辻さんは、予想していなかったように一度瞬きをした。
すぐに口元が緩む。
「やっぱり、望月君って面白いね」
「褒められてる?」
「さあ?」
絢辻さんは、閉じた手帳の表紙を指でなぞった。
「でも、口だけなら何とでも言えるよね」
「そうだね」
「なら、約束して」
「誰にも言わないって?」
「それだけじゃ足りない」
絢辻さんは周囲を確認する。
廊下には、まだ誰もいない。
視聴覚室へ向かったクラスメイトたちの声も、もうほとんど聞こえなくなっていた。
「これからも、学校では今まで通りに接すること」
「今まで通り?」
「みんなの前では、普通のクラスメイト。余計なことを言わない。変な目で見ない。それから――」
一度、言葉を切る。
「あたしが頼んだことには、できるだけ協力する」
「それ、最後の部分が増えてない?」
「口止め料だと思えば?」
「払うのは僕なんだ」
「秘密を知ったのは望月君でしょう?」
確かに、原因はこちらにある。
ただし、これからも頼み事を引き受け続けるというのは、少し違う気もした。
「無理なことは無理って言うよ」
「断れるの?」
「……努力する」
「そこは断るって言い切るところでしょう?」
絢辻さんが、小さく笑った。
昨日見た笑い方とも、教室で見る笑顔とも違う。
遠慮がない。
相手へどう見えるのかを、あまり気にしていない笑い方だった。
「手帳に書いた通りね」
「気が弱くて、頼み事を断れない?」
「それから、必要以上に気にする」
「当たってるから何も言えないな」
「怒らないの?」
「少しは傷ついたよ」
「そう」
「でも、嘘じゃないだろ」
「自覚があるのね」
「あるから困ってるんだよ」
絢辻さんは僕の顔を見た。
先ほどまでのように試しているのではなく、本当に少し不思議そうだった。
「変な人」
「絢辻さんには言われたくないな」
「今、あたしに言い返した?」
「思ったことを言っただけ」
「ふうん」
絢辻さんが、再び一歩近づく。
「少し慣れてきたみたいね」
「まだ緊張してるよ」
「だったら、ご褒美でもあげようか?」
「ご褒美?」
「胸でも触る?」
「えっ」
理解するまで、一秒ほど必要だった。
絢辻さんの視線が、自分の胸元へ落ちる。
すぐに僕は顔を逸らした。
「何を言ってるんだよ!」
「冗談なのに」
「それは冗談でも言わないだろ!」
「顔、赤くなってる」
「なるよ、普通!」
「梅原君たちとは、いつもこういう話をしてるんじゃないの?」
「聞いてたの?」
「同じ教室だもの。全部ではないけどね」
どこまで知られているのか。
今朝だけでなく、その前の会話まで聞かれていた可能性がある。
「安心して。誰にも言わないから」
「そっちも秘密にしてくれるんだ」
「望月君が約束を守ればね」
完全に主導権を握られている。
それでも、先ほどまで感じていた息苦しさは少し薄れていた。
手帳を見た直後は、昨日までの絢辻さんが全て消えてしまったように思えた。
実際には消えていない。
今は、今まで見せていなかった部分が表へ出ているだけ。
ただし、こちらの方が扱いにくいことは間違いなさそうだった。
「最後に確認するね」
絢辻さんが言う。
「望月君が見たものは?」
「誰にも言わない」
「違う」
「違うの?」
「見てないの」
無理がある。
ただ、そう答えなければ終わらないのだろう。
「僕は何も見てない」
「私には裏があった?」
「……ない」
「本当に?」
絢辻さんが顔を近づける。
黒い瞳が、僕の反応を確かめていた。
「ないよ」
「じゃあ、復唱して」
「何を?」
絢辻さんは、満足そうに目を細めた。
「絢辻さんは裏表のない素敵な人です、って」
あまりにも無理のある言葉だった。
今、この状況で言わせること自体が、その言葉と矛盾している。
けれど、絢辻さんは本気で待っている。
「……絢辻さんは、裏表のない素敵な人です」
「声が小さい」
「誰かに聞かれたら困るだろ」
「それもそうね」
絢辻さんは小さく笑う。
「合格」
「何の試験だったんだよ」
「口止め試験」
「そんなものがあるんだ」
「今作ったの」
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
誰かがこちらへ近づいてくる。
その瞬間だった。
絢辻さんの表情が変わった。
先ほどまで浮かべていた、相手を試すような笑みが消える。
背筋を伸ばし、手帳をファイルの間へ挟む。
足音の主が角から姿を現す頃には、そこにいたのは普段の絢辻詞だった。
「あれ、絢辻さんと望月君。まだ移動してなかったの?」
同じクラスの女子生徒が、僕たちを見て尋ねる。
「望月君が落とし物を拾ってくれたの。今、受け取ったところ」
いつもの声。
いつもの笑顔。
先ほどまでとの落差を知らなければ、何の違和感も抱かなかっただろう。
「先に行ってて。私たちもすぐに向かうから」
「うん。遅れないようにね」
女子生徒は、それ以上気にすることなく歩いていった。
足音が遠ざかる。
絢辻さんは、すぐにはこちらを見なかった。
「……すごいね」
思わず言葉が漏れる。
「何が?」
返ってきた声は、まだ「私」のものだった。
「切り替わるのが」
絢辻さんが僕を見る。
ほんの少しだけ、口角が上がる。
「余計なことを言わない」
今度は、低く。
他の誰にも聞こえない声で。
「約束したでしょう?」
「分かってるよ」
「ならいいの」
絢辻さんは僕の横を通り過ぎ、視聴覚室へ向かって歩き始めた。
「ほら。遅刻するよ、望月君」
振り返った時には、また穏やかな笑顔へ戻っている。
僕も後を追った。
今までと同じように接する。
そう約束した。
けれど、もう昨日までと同じように見ることはできない。
少し前を歩く黒い髪。
誰にでも親切で、仕事ができて、いつも穏やかに笑っているクラス委員長。
その全てが嘘ではない。
ただ、その内側に「あたし」と名乗る絢辻さんがいる。
それを知っているのは、おそらく今のところ僕だけだった。