絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第六話 テチョウ

 

 雨が降った次の日の朝は、普段より空気が澄んでいるように感じられた。

 

 冬であることに変わりはない。

 

 むしろ、濡れた地面から残った熱まで奪われているのか、駅から学校までの道は昨日よりも寒かった。

 

 そのせいだろうか。

 

 校門を通り抜けてからも、僕は両手を制服のポケットへ入れたまま歩いていた。

 

「おはよう、望月君」

 

 先に聞こえた声へ顔を向ける。

 

 昇降口の手前に、絢辻さんがいた。

 

 昨日と同じ黒く長い髪は、風に乱されることなく背中へ落ちている。片腕には何冊かのノートとファイルを抱え、もう片方の手で鞄を持っていた。

 

「おはよう、絢辻さん」

 

「今日は傘、忘れてない?」

 

「降らないだろ、今日は」

 

「そういう問題かな」

 

「一応、入れてきたよ」

 

「一応なんだ」

 

「昨日の今日だからね」

 

 絢辻さんは、確認するように僕の鞄へ目を向けた。

 

 見ただけで中身まで分かるはずはない。

 

 けれど、何となくもう忘れ物ができないような気分になる。

 

「それなら安心ね」

 

「心配してたの?」

 

「また私の傘へ入ってきたら困るでしょう?」

 

「入れてくれたのは絢辻さんじゃないか」

 

「でも、望月君は断らなかったよね」

 

「そりゃ、雨に濡れるよりはいいから」

 

「ふふっ。正直でよろしい」

 

 軽く笑った後、絢辻さんは先に昇降口へ入っていった。

 

 昨日までなら、朝に挨拶をするだけで会話が続くことはほとんどなかったと思う。

 

 今のやり取りも、何か特別な話をしたわけではない。

 

 ただ、昨日の出来事を二人とも覚えていた。

 

 それだけで少し嬉しく思えるのは、僕自身が絢辻さんを意識し始めているからなのだろうか。

 

 意識。

 

 口にしてみると、思っていた以上に恋愛へ近い言葉に聞こえる。

 

 まだ、そこまでではない。

 

 多分。

 

「朝から何を一人で難しい顔してんだ?」

 

 靴を履き替えていると、後ろから梅原に肩を叩かれた。

 

「寒いなと思って」

 

「そういう顔じゃなかったぜ」

 

「じゃあ、眠いなと思ってた」

 

「もっと違うな」

 

「人の顔を勝手に分析しないでくれる?」

 

「絢辻さんを見ながら考え事をしていたように見えたが」

 

 僕は無言で上履きへ足を入れた。

 

 梅原の目が、面白そうに細められる。

 

「なるほど」

 

「何も言ってないよ」

 

「否定もしなかったな」

 

「朝から説明するのが面倒なだけ」

 

「照れなくてもよい。俺はいつでも恋愛相談を受け付けているぞ」

 

「梅原に相談したら、話が余計にややこしくなりそうだ」

 

「失敬な。俺ほど男女の機微に精通した男は、この学校にそうはいない」

 

「実践経験は?」

 

「知識と実践は別物だ」

 

「やっぱり信用できないな」

 

 梅原と並んで教室へ向かう。

 

 二年A組へ入ると、純一は既に席についていた。

 

 教科書を開いているわけでも、誰かと話しているわけでもない。

 

 机へ頬杖をつき、どこか上の空で窓の外を眺めている。

 

「おはよう、純一」

 

「ああ。おはよう、湊」

 

 返事はあった。

 

 ただ、普段より僅かに遅い。

 

「どうしたの?」

 

「何が?」

 

「ぼうっとしてたから」

 

「いや。別に何でもないよ」

 

 そう言った後、純一の口元が緩んだ。

 

 何でもない人間が浮かべる表情には見えない。

 

「昨日は森島先輩と、どこまで行ったんだ?」

 

 梅原が僕たちの間へ入り込む。

 

「どこまでって、普通に話しただけだよ」

 

「ほう。普通に」

 

「その言い方やめろよ」

 

「具体的には?」

 

「言わない」

 

「大将と俺の仲ではないか」

 

「言ったら絶対にからかうだろ」

 

「からかうのではない。祝福だ」

 

「梅原の祝福は信用できない」

 

 純一はそう答えながらも、本気で嫌がっている様子ではなかった。

 

 森島先輩と何があったのかは分からない。

 

 けれど少なくとも、悪い出来事ではなかったらしい。

 

 少し前までの純一なら、森島先輩の名前が出るだけでもっと慌てていた気がする。

 

 今も照れてはいる。

 

 ただ、その中に昨日まではなかった余裕が混ざっていた。

 

 前へ進んでいる。

 

 そのことを、改めて実感する。

 

「湊はどうなんだ?」

 

 純一がこちらを見る。

 

「僕?」

 

「昨日、絢辻さんと帰ったんだろ?」

 

「何故それを?」

 

「見ていたからだ」

 

 梅原が胸を張った。

 

「昇降口から二人仲良く出ていく姿をな」

 

「見てたなら声をかければよかっただろ」

 

「そんな野暮なことができるか」

 

「普通に帰る方向が同じだっただけだよ」

 

「相合い傘もしていただろう?」

 

「そこまで見てたの?」

 

「雨が降り始めたから、俺も慌てて駅へ向かっていたのだ」

 

「傘は?」

 

「持っていなかった」

 

「それなら、見てないで走った方がよかったんじゃないか」

 

「おかげで家へ着いた時には濡れ鼠だった」

 

「自業自得だろ」

 

 梅原は咳払いをし、話を戻す。

 

「それで、どうだった?」

 

「どうって?」

 

「絢辻さんと一つの傘へ入った感想だ」

 

「狭かった」

 

「それだけか?」

 

「僕の右肩が濡れた」

 

「そういうことを聞いているのではない!」

 

「なら何を聞いてるんだよ」

 

「肩が触れたとか、いい香りがしたとか、そういうものがあるだろう!」

 

「朝から声が大きいよ」

 

 周囲を見る。

 

 幸い、教室には既に多くの生徒が集まっており、僕たちだけが目立っているわけではない。

 

 それでも、近くの女子生徒が一度こちらを見た。

 

「少しは恥じらいを持ってくれるかな」

 

「望月も持つべき感想を持て」

 

「持つべき感想って何だよ」

 

「でも、緊張はしたんだろ?」

 

 純一に尋ねられる。

 

 梅原とは違い、からかうというより純粋に気になっているようだった。

 

「……まあ、少しは」

 

「ほら見ろ!」

 

「梅原は黙ってて」

 

「それで?」

 

「それだけだよ。本当に一緒に帰っただけ」

 

 肩が触れたことは覚えている。

 

 近くで見た横顔も。

 

 濡れていない側へ傘を傾けてくれたことも。

 

 わざわざ二人へ話すほどではないと思う一方で、どうにも話したくないという気持ちも少しあった。

 

 自分だけが知っていることとして、残しておきたい。

 

 そう考えたところで、僕は一度思考を止めた。

 

 昨日一緒に帰った程度の相手に、随分と勝手なことを考えている。

 

「おはよう、みんな」

 

 教室へ入ってきた高橋先生の声で、話はそこで途切れた。

 

 生徒たちがそれぞれ自分の席へ戻っていく。

 

 僕も梅原の席から離れ、自分の椅子へ腰を下ろした。

 

 ふと、教室の前方を見る。

 

 絢辻さんは高橋先生から何かを受け取り、すぐに内容を確認していた。

 

 僕たちの話が聞こえていた様子はない。

 

 それを確認して、少しだけ胸を撫で下ろす。

 

 別に聞かれて困るようなことは話していない。

 

 そう自分へ言い聞かせながら、僕は机の中から教科書を取り出した。

 

     ◇

 

「それじゃあ、移動するぞ」

 

 六時間目の授業を終えた教師が教室を出ていく。

 

 次の時間は、視聴覚室を使った特別講義だった。

 

 そのまま終礼になるため、教室へ戻ってくる必要はないらしい。

 

 クラスメイトたちは鞄を持ち、順番に廊下へ出ていった。

 

「湊、早く行こうぜ」

 

 純一が教室の入口から声をかける。

 

「先に行ってて。筆箱が見つからない」

 

「また?」

 

「またとは何だよ」

 

「この前はシューズ忘れてただろ」

 

「今回は机の中にあるはずだから」

 

「本当に整理した方がいいんじゃないか?」

 

「絢辻さんと同じこと言うなぁ」

 

 純一は苦笑すると、梅原と一緒に先へ向かった。

 

 机の中へ手を入れる。

 

 教科書を一度取り出し、その下を探る。

 

 筆箱は奥の方に押し込まれていた。

 

「あった」

 

 立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。

 

 教室には、もうほとんど人が残っていなかった。

 

 窓が閉まっているか。

 

 暖房が消えているか。

 

 気にはなったが、最後に出る生徒が全て確認する決まりではない。

 

 それでも、誰もいない教室で暖房だけが動き続けているのを見ると、少し落ち着かない。

 

 電源を切り、窓の鍵を簡単に確かめる。

 

 こういうことをしているから、遅れるのだろう。

 

 分かっていても、見つけた以上は放っておけなかった。

 

 教室を出る。

 

 視聴覚室は別棟にあるため、渡り廊下を通らなければならない。

 

 急げば、まだ講義が始まる前には着けるはずだ。

 

 階段へ向かおうとしたところで、足元に何かが落ちているのが見えた。

 

「ん?」

 

 黒い長方形。

 

 最初は、小さなノートに見えた。

 

 けれど、表紙には留め具がついている。手に取ってみれば、教科書よりも一回り小さく、意外と厚みがあった。

 

「手帳かな」

 

 誰かが移動する途中で落としたのだろう。

 

 周囲を見る。

 

 廊下には誰もいない。

 

 少し先にある階段から、クラスメイトたちの声だけが聞こえていた。

 

 追いかければ、落とした人に間に合うかもしれない。

 

 ただ、誰の物か分からなければ声もかけられない。

 

 表紙に名前は書かれていなかった。

 

 勝手に開くのはよくない。

 

 職員室か、視聴覚室で先生へ渡すのが一番だろう。

 

 そう考え、手帳を鞄へ入れようとした。

 

 その時、留め具が外れていることに気づいた。

 

 持ち方が悪かったのか、手帳が僕の手の中で開く。

 

「あっ」

 

 挟まれていた小さな紙が床へ落ちた。

 

 一枚。

 

 その後を追うように、もう一枚。

 

 僕は慌ててしゃがみ込んだ。

 

 床に落ちた紙を拾う。

 

 ただのメモ用紙だった。

 

 創設祭に必要な備品。

 

 クラスごとの進捗状況。

 

 先生へ確認する項目。

 

 綺麗な字で、隙間なく予定が書き込まれている。

 

 これだけで、持ち主が誰なのか何となく分かった。

 

 手帳の開いたページへ視線を移す。

 

 右上には、小さく名前が書かれていた。

 

 絢辻詞。

 

「絢辻さんのか」

 

 拾った紙を元の位置へ戻そうとする。

 

 どのページに挟まれていたのか。

 

 少なくとも、今開いている場所ではないように見えた。

 

 前後のページを確認するくらいなら――。

 

 そう思い、紙の端をつまんだまま一枚だけめくる。

 

 そこで、指が止まった。

 

 先ほどまでの予定表とは違う。

 

 書かれている字は同じだった。

 

 丁寧で、整っていて、読み間違える隙もない文字。

 

 それなのに、内容だけが僕の知っている絢辻さんと結びつかなかった。

 

 クラスメイトの名前。

 

 その横に続く、短い文章。

 

 誰と誰が親しい。

 

 誰は頼めば断れない。

 

 誰は自分が評価される話へ弱い。

 

 誰へ何を任せれば、本人が自分から動いた形にできるのか。

 

 簡潔にまとめられていた。

 

 悪口。

 

 そう言ってしまえば、近い部分もあった。

 

 けれど、感情のままに相手を貶しているわけではない。

 

 もっと冷静で、具体的。

 

 人を見て。

 

 覚えて。

 

 必要に応じて使い分けるための記録。

 

 まるで、クラス全体を動かすための説明書のようだった。

 

 自分の名前を見つけた。

 

 望月湊。

 

 読まない方がいい。

 

 頭では分かっていた。

 

 けれど、自分の名前が目に入ってしまった以上、意識だけを外すことはできなかった。

 

 ――気が弱く、頼み事を断りにくい。

 

 ――周囲の反応を気にする。

 

 ――仕事は丁寧。理解も早いため補助には使える。

 

 ――ただし、必要以上にこちらを気にする傾向あり。

 

「……僕のことまで」

 

 自分でも分かっていた部分だった。

 

 分かっていたからこそ、他人の言葉として書かれていると妙に胸へ刺さる。

 

 便利な補助。

 

 その表現自体は、間違っていない。

 

 僕から手伝うと言ったのだ。

 

 絢辻さんが無理に押しつけたわけではない。

 

 それでも。

 

 昨日、一緒に帰りながら話したことまで、何かの判断材料にされていたのだろうか。

 

 弁当も。

 

 笑顔も。

 

 傘へ入れてくれたことも。

 

 頭の中へ浮かんだ疑問を、すぐに打ち消す。

 

 この一ページを見ただけで、全てを同じものだと決めつけるのは違う。

 

 何より、僕は今、人の手帳を勝手に読んでいる。

 

 落とし主を確認するところまでは仕方がなかった。

 

 けれど、今は違う。

 

 自分の名前を見つけたからといって、その先まで読む権利などない。

 

 僕は慌てて手帳を閉じた。

 

「何をしているの?」

 

 すぐ後ろから、声が聞こえた。

 

 心臓が跳ねる。

 

 振り返る。

 

 絢辻さんが立っていた。

 

 いつもと同じ制服。

 

 いつもと同じ黒い髪。

 

 表情には、いつものような穏やかな笑みが浮かんでいる。

 

「絢辻さん」

 

「それ、私の手帳だよね?」

 

 声も柔らかい。

 

 けれど、視線だけが僕の手元から動かなかった。

 

「廊下に落ちてたんだ。持ち主が分からなくて、開いたら紙が落ちて――」

 

「見たの?」

 

 僕の説明を遮る。

 

 笑顔は消えていない。

 

「……少し」

 

「どのくらい?」

 

「名前を確認した後に、別のページを一枚」

 

「読んだ?」

 

「読むつもりはなかったけど、自分の名前が見えて」

 

「読んだのね」

 

 言い訳を重ねるほど、余計に悪く聞こえる。

 

 僕は頷いた。

 

「ごめん」

 

「そう」

 

 絢辻さんが、こちらへ一歩近づいた。

 

 手を差し出す。

 

「返して」

 

「うん」

 

 手帳を渡す。

 

 絢辻さんは受け取ると、挟まれていた紙が全て揃っているかを確認した。

 

 一枚ずつ。

 

 普段と同じように、丁寧な動作で。

 

 ただ、紙を押さえる指先には普段より力が入っていた。

 

「何が書いてあったか、覚えてる?」

 

「全部は」

 

「望月君のことは?」

 

「……覚えてる」

 

「そう」

 

 手帳を閉じる。

 

 絢辻さんは、それを胸元で抱えた。

 

「困ったな」

 

 口元へ手を添え、僅かに首を傾げる。

 

 先生やクラスメイトの前でなら、誰もが本当に困っているのだと思うだろう。

 

 僕も昨日までなら、そう見えたはずだ。

 

「誰かに話す?」

 

「話さないよ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……話す理由がないから」

 

「面白い話題になるかもしれないよ。完璧なクラス委員長は、裏ではクラスメイトをあんなふうに見ていますって」

 

「そんな言い方はしない」

 

「でも、書いてあったことは事実でしょう?」

 

 穏やかな口調のまま。

 

 絢辻さんは、また一歩近づいた。

 

 自然と僕は一歩後ろへ下がる。

 

 背中が教室の扉へ触れた。

 

 これ以上は下がれない。

 

 絢辻さんは、僕の目の前で立ち止まった。

 

 近い。

 

 昨日、同じ傘へ入った時と距離自体は変わらないかもしれない。

 

 けれど、今は緊張の理由が全く違った。

 

「拾った手帳を勝手に読んでおいて、随分都合がいいのね」

 

「それは、本当に悪かったと思ってる」

 

「謝れば終わり?」

 

「終わるとは思ってないよ」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

 答えが浮かばない。

 

 手帳の内容を忘れる。

 

 そんなことが簡単にできればいい。

 

 けれど、忘れると言ったところで信用されないだろう。

 

「少なくとも、誰にも言わない」

 

「信用できると思う?」

 

「思えないなら、どうすればいい?」

 

 僕が尋ねると、絢辻さんの目が僅かに細くなった。

 

 笑顔の形は残っている。

 

 ただ、今のそれは教室で見ていたものとは違った。

 

 相手を安心させるためではない。

 

 こちらがどう反応するのか、楽しむような笑み。

 

「望月君って、思ったより素直ね」

 

 声の高さが僅かに下がる。

 

 話し方そのものは変わっていない。

 

 けれど、その一言だけで、目の前にいる相手が先ほどまでとは別人のように感じられた。

 

「……絢辻さん?」

 

「何?」

 

「いつもと、少し違う」

 

「当たり前でしょう?」

 

 絢辻さんは、僕の胸元へ手帳の角を軽く押し当てた。

 

「見たんだから」

 

 黒い表紙が制服越しに触れる。

 

「これが、あたし」

 

 一人称。

 

 それが変わったことへ気づくまで、少し時間がかかった。

 

「教室で笑って、頼み事を聞いて、みんなが困らないように働いているのも私」

 

 手帳が、もう一度胸元を押す。

 

「こんな手帳を作って、誰に何を頼めばいいか考えているのも、あたし」

 

「……うん」

 

「何、その返事」

 

「何て言えばいいか分からなくて」

 

「気持ち悪いとか、騙されたとか、あるでしょう?」

 

 騙された。

 

 その言葉が、一番近いのかもしれない。

 

 昨日まで僕が見ていた絢辻さんと、手帳の中にいた絢辻さんは違う。

 

 けれど、どちらかが全て嘘だとは思えなかった。

 

 創設祭を成功させるために残っていたこと。

 

 僕へ弁当を作ったこと。

 

 雨の中で傘へ入れてくれたこと。

 

 それらまで、手帳の存在だけでなかったことにはならない。

 

「驚いてはいるよ」

 

「それだけ?」

 

「僕が勝手に読んだ側だから、怒るのも違う気がする」

 

「本当にそう思ってるの?」

 

「うん」

 

「へえ」

 

 絢辻さんは、一度僕から離れた。

 

 拘束されていたわけでもないのに、ようやく息がしやすくなる。

 

「それとも、あたしに嫌われたくないから?」

 

「……それも、少しはあるかもしれない」

 

 正直に答える。

 

 絢辻さんは、予想していなかったように一度瞬きをした。

 

 すぐに口元が緩む。

 

「やっぱり、望月君って面白いね」

 

「褒められてる?」

 

「さあ?」

 

 絢辻さんは、閉じた手帳の表紙を指でなぞった。

 

「でも、口だけなら何とでも言えるよね」

 

「そうだね」

 

「なら、約束して」

 

「誰にも言わないって?」

 

「それだけじゃ足りない」

 

 絢辻さんは周囲を確認する。

 

 廊下には、まだ誰もいない。

 

 視聴覚室へ向かったクラスメイトたちの声も、もうほとんど聞こえなくなっていた。

 

「これからも、学校では今まで通りに接すること」

 

「今まで通り?」

 

「みんなの前では、普通のクラスメイト。余計なことを言わない。変な目で見ない。それから――」

 

 一度、言葉を切る。

 

「あたしが頼んだことには、できるだけ協力する」

 

「それ、最後の部分が増えてない?」

 

「口止め料だと思えば?」

 

「払うのは僕なんだ」

 

「秘密を知ったのは望月君でしょう?」

 

 確かに、原因はこちらにある。

 

 ただし、これからも頼み事を引き受け続けるというのは、少し違う気もした。

 

「無理なことは無理って言うよ」

 

「断れるの?」

 

「……努力する」

 

「そこは断るって言い切るところでしょう?」

 

 絢辻さんが、小さく笑った。

 

 昨日見た笑い方とも、教室で見る笑顔とも違う。

 

 遠慮がない。

 

 相手へどう見えるのかを、あまり気にしていない笑い方だった。

 

「手帳に書いた通りね」

 

「気が弱くて、頼み事を断れない?」

 

「それから、必要以上に気にする」

 

「当たってるから何も言えないな」

 

「怒らないの?」

 

「少しは傷ついたよ」

 

「そう」

 

「でも、嘘じゃないだろ」

 

「自覚があるのね」

 

「あるから困ってるんだよ」

 

 絢辻さんは僕の顔を見た。

 

 先ほどまでのように試しているのではなく、本当に少し不思議そうだった。

 

「変な人」

 

「絢辻さんには言われたくないな」

 

「今、あたしに言い返した?」

 

「思ったことを言っただけ」

 

「ふうん」

 

 絢辻さんが、再び一歩近づく。

 

「少し慣れてきたみたいね」

 

「まだ緊張してるよ」

 

「だったら、ご褒美でもあげようか?」

 

「ご褒美?」

 

「胸でも触る?」

 

「えっ」

 

 理解するまで、一秒ほど必要だった。

 

 絢辻さんの視線が、自分の胸元へ落ちる。

 

 すぐに僕は顔を逸らした。

 

「何を言ってるんだよ!」

 

「冗談なのに」

 

「それは冗談でも言わないだろ!」

 

「顔、赤くなってる」

 

「なるよ、普通!」

 

「梅原君たちとは、いつもこういう話をしてるんじゃないの?」

 

「聞いてたの?」

 

「同じ教室だもの。全部ではないけどね」

 

 どこまで知られているのか。

 

 今朝だけでなく、その前の会話まで聞かれていた可能性がある。

 

「安心して。誰にも言わないから」

 

「そっちも秘密にしてくれるんだ」

 

「望月君が約束を守ればね」

 

 完全に主導権を握られている。

 

 それでも、先ほどまで感じていた息苦しさは少し薄れていた。

 

 手帳を見た直後は、昨日までの絢辻さんが全て消えてしまったように思えた。

 

 実際には消えていない。

 

 今は、今まで見せていなかった部分が表へ出ているだけ。

 

 ただし、こちらの方が扱いにくいことは間違いなさそうだった。

 

「最後に確認するね」

 

 絢辻さんが言う。

 

「望月君が見たものは?」

 

「誰にも言わない」

 

「違う」

 

「違うの?」

 

「見てないの」

 

 無理がある。

 

 ただ、そう答えなければ終わらないのだろう。

 

「僕は何も見てない」

 

「私には裏があった?」

 

「……ない」

 

「本当に?」

 

 絢辻さんが顔を近づける。

 

 黒い瞳が、僕の反応を確かめていた。

 

「ないよ」

 

「じゃあ、復唱して」

 

「何を?」

 

 絢辻さんは、満足そうに目を細めた。

 

「絢辻さんは裏表のない素敵な人です、って」

 

 あまりにも無理のある言葉だった。

 

 今、この状況で言わせること自体が、その言葉と矛盾している。

 

 けれど、絢辻さんは本気で待っている。

 

「……絢辻さんは、裏表のない素敵な人です」

 

「声が小さい」

 

「誰かに聞かれたら困るだろ」

 

「それもそうね」

 

 絢辻さんは小さく笑う。

 

「合格」

 

「何の試験だったんだよ」

 

「口止め試験」

 

「そんなものがあるんだ」

 

「今作ったの」

 

 廊下の向こうから、足音が聞こえた。

 

 誰かがこちらへ近づいてくる。

 

 その瞬間だった。

 

 絢辻さんの表情が変わった。

 

 先ほどまで浮かべていた、相手を試すような笑みが消える。

 

 背筋を伸ばし、手帳をファイルの間へ挟む。

 

 足音の主が角から姿を現す頃には、そこにいたのは普段の絢辻詞だった。

 

「あれ、絢辻さんと望月君。まだ移動してなかったの?」

 

 同じクラスの女子生徒が、僕たちを見て尋ねる。

 

「望月君が落とし物を拾ってくれたの。今、受け取ったところ」

 

 いつもの声。

 

 いつもの笑顔。

 

 先ほどまでとの落差を知らなければ、何の違和感も抱かなかっただろう。

 

「先に行ってて。私たちもすぐに向かうから」

 

「うん。遅れないようにね」

 

 女子生徒は、それ以上気にすることなく歩いていった。

 

 足音が遠ざかる。

 

 絢辻さんは、すぐにはこちらを見なかった。

 

「……すごいね」

 

 思わず言葉が漏れる。

 

「何が?」

 

 返ってきた声は、まだ「私」のものだった。

 

「切り替わるのが」

 

 絢辻さんが僕を見る。

 

 ほんの少しだけ、口角が上がる。

 

「余計なことを言わない」

 

 今度は、低く。

 

 他の誰にも聞こえない声で。

 

「約束したでしょう?」

 

「分かってるよ」

 

「ならいいの」

 

 絢辻さんは僕の横を通り過ぎ、視聴覚室へ向かって歩き始めた。

 

「ほら。遅刻するよ、望月君」

 

 振り返った時には、また穏やかな笑顔へ戻っている。

 

 僕も後を追った。

 

 今までと同じように接する。

 

 そう約束した。

 

 けれど、もう昨日までと同じように見ることはできない。

 

 少し前を歩く黒い髪。

 

 誰にでも親切で、仕事ができて、いつも穏やかに笑っているクラス委員長。

 

 その全てが嘘ではない。

 

 ただ、その内側に「あたし」と名乗る絢辻さんがいる。

 

 それを知っているのは、おそらく今のところ僕だけだった。

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