絢辻さんを救いたい話 作:紳士
次の日の朝。教室へ入った僕は、鞄を机へ置くよりも先に、無意識に一人の姿を探していた。
「田中君、これ。今日の一時間目に提出だから、忘れないでね」
「あっ、悪い。完全に忘れてた」
「昨日も先生が言ってたでしょう?」
「そうだっけ?」
「もう。次からは自分で覚えておいてね」
教室の中央付近で、何枚かのプリントを腕に抱えた絢辻さんが、クラスメイトへ一枚を手渡している。
柔らかな声。相手を責めすぎない程度の注意。言われた男子生徒も、悪びれた様子で頭を掻きながら笑っていた。
いつもの絢辻詞。真面目で、親切で、周囲の人間が困るよりも前に気づき、頼まれていないことであっても自然に手を差し伸べる。
教師からも生徒からも信頼されている、二年A組のクラス委員長。少なくとも、みんなの目にはそう見えている。昨日までの僕の目にも。
『これが、あたし』
耳の奥へ、昨日の声が蘇る。普段より少し低い声。僕の反応を確かめるような黒い瞳。手帳の角を制服越しに押し当てられた感触まで、まだ妙にはっきりと残っていた。
今、目の前にいる絢辻さんと、昨日の絢辻さん。同じ顔。同じ声。同じ人。そう分かっているはずなのに、二つを上手く重ねられない。
「おはよう、望月君」
「あ……おはよう」
気づけば、絢辻さんがこちらを向いていた。いつから見られていたのだろう。
「どうしたの?」
「何が?」
「何だか難しい顔をしていたから」
不思議そうに首を傾げる。その動きに合わせ、肩へ掛かっていた長い黒髪が僅かに流れた。
昨日までと何も変わらない。むしろ、何も変わっていなさすぎる。
「少し寝不足なだけだよ」
「そうなの?」
「うん」
「授業中に寝ないようにね。また高橋先生に起こされるよ」
「気をつける」
「ならいいけど」
絢辻さんは、いつものように穏やかに笑った。そのまま僕の横を通り過ぎる。
肩が並んだ瞬間。
「見すぎ」
耳へ届く程度の、小さな声だった。
「え?」
反射的に振り返る。けれど絢辻さんは、既にこちらへ背中を向けていた。
「佐藤さん、提出するプリントは持ってきた?」
「うん。ちょっと待って」
何事もなかったかのように、次の生徒へ声をかけている。
今の一言を聞いたのは、おそらく僕だけだ。聞き間違いでもない。昨日、二人きりになった時と同じ、少し低く、遠慮のない声。
それを確認したことで、胸の奥に残っていた曖昧な疑いが消えた。
昨日の出来事は夢ではない。
僕は彼女の手帳を見た。彼女は自分のことを「あたし」と呼んだ。そして僕は、それを誰にも話さないと約束した。
「湊、おはよう」
前方から声をかけられる。顔を向けると、純一が自分の席へ鞄を置くところだった。
「おはよう、純一」
「眠そうだな」
「そんなに?」
「眠そうというか、ぼうっとしてる」
絢辻さんにも似たようなことを言われた。思っていた以上に、顔へ出ているらしい。
「少し考え事をしてただけ」
「何かあったのか?」
「大したことじゃないよ」
嘘ではない。大したことではないと、自分で決めてしまえば。
「そうか?」
「うん」
純一は、それ以上追及しなかった。言いたくないことを無理に聞き出すような人ではない。
助かったと思う反面、少しだけ申し訳なくなる。今までなら、何か変わったことがあれば純一や梅原へ話していたかもしれない。少なくとも、一人で抱えたまま考え続けることは少なかった。
けれど、今回のことは違う。
話さないと約束したから。それだけではなく、何となく、話したくないと思っている。
絢辻さんを守りたいのか。自分だけが知っているものとして残しておきたいのか。そこまでは、自分でも分からなかった。
「純一こそ、今日は随分機嫌がよさそうだね」
「え?」
「何かあった?」
少しだけ話題をずらす。
純一は一度視線を逸らし、それから小さく笑った。
「別に。何もないよ」
「その顔で?」
「湊も同じことを言ってただろ」
「僕は笑ってなかったと思うけど」
「そうだったかな」
やはり何かあったらしい。おそらく、森島先輩のことだろう。ただ、純一も話すつもりはないようなので、僕もそれ以上は尋ねなかった。
互いに何かを隠している。言葉にすれば少し寂しい気もする。けれど、全てを話さなければ友人ではない、ということでもないのだろう。
「おはよう、皆さん」
高橋先生が教室へ入ってくる。
僕たちは会話を切り上げ、それぞれの席へ戻った。椅子へ腰を下ろす直前、何となく絢辻さんの方を見る。
彼女は高橋先生へ集めたプリントを渡しながら、今日の予定を確認していた。その横顔に、昨日見たものを探そうとしている自分に気づく。
今度は、先に視線を逸らした。
◇
「皆さん、少しいいですか?」
朝のSTが終わる直前、高橋先生が手元の出席簿を閉じた。既に鞄へ手を伸ばしていた生徒たちが、仕方なさそうに動きを止める。
「明日の六時間目ですが、視聴覚室で講演があります。授業が終わった後に、机と椅子を元の位置へ戻す人を二人決めておきたいんですけど」
先生が教室内を見回す。同時に、何人かが不自然に目を逸らした。
僕も机の中へ視線を落とす。片づけ自体は、そこまで大変な仕事ではない。ただ、授業が終わればそのまま部活へ行きたい。わざわざ自分から手を挙げるほどのことでもなかった。
誰かがやるだろう。
教室全体へ、言葉にはされない考えが薄く広がっている。
「先生。私がやります」
予想していた声が聞こえた。顔を上げると、絢辻さんが真っすぐ手を挙げていた。
「絢辻さん?」
「明日の実行委員会は少し遅い時間からなので、大丈夫です」
「でも、絢辻さんには他にもお願いしている仕事があるでしょう?」
「このくらいなら、すぐに終わりますから」
「そう言って、いつも引き受けちゃうんだから」
高橋先生は困ったように眉を下げる。一方の絢辻さんは、いつものように穏やかに笑っていた。
誰かがやらなければ終わらない。以前、彼女はそう言っていた。
手帳を見る前なら、単純に責任感が強いのだと思っただろう。今は、別の理由まで考えてしまう。
他の誰かへ任せるより、自分でやった方が早い。説明して、終わるのを待って、間違いがないか確認して、結局自分が直すことになるのなら、最初から一人でやればいい。
手帳の中にあったクラスメイトへの評価を思い出せば、そう考えていても不思議ではなかった。もちろん、それは僕の想像でしかない。
「もう一人、誰かいませんか?」
高橋先生の問いかけに、教室は再び静かになる。
手を挙げるべきだろうか。
昨日、頼み事にはできるだけ協力すると約束した。けれど、絢辻さんから直接頼まれたわけではない。
僕には部活もある。少しくらい遅れたところで問題はないだろうが、進んで遅刻する理由にもならなかった。
絢辻さんの方を見る。
彼女は、こちらを見ていない。僕が手を挙げることを期待している様子も、助けを求める様子もなかった。
少なくとも、表面上は。
迷っている間に、始業前の予鈴が鳴った。
「仕方ないですね。今日中に、もう一人決めておいてください」
「分かりました」
絢辻さんが頷く。
高橋先生が教室を出ていく。その途端、クラスメイトたちは何事もなかったように次の授業の準備を始めた。机や椅子を片づける人間が、まだ決まっていないことなど忘れたように。
結局、絢辻さんが一人でやることになるのだろうか。
そう思った時、絢辻さんが一度だけこちらを見た。
目が合う。
僕が何かを言うよりも先に、彼女は教科書へ視線を戻した。
頼みたいのか。頼むつもりがないのか。それとも、僕がどうするのかを見ているのか。
ほんの一瞬の視線へ、考えられるだけの意味を重ねてしまう。
こういうところが、手帳へ書かれていた理由なのだろう。
自覚すると、少しだけ嫌になった。
◇
昼休み。僕は職員室の前で、扉を見つめていた。
「……何を聞くつもりなんだ」
小さく呟く。もちろん、答えてくれる人はいない。
絢辻さんについて、誰かへ相談したい。そう思って、ここまで来た。
けれど、手帳について話すことはできない。昨日見た彼女のことも同じ。それらを伏せたまま、一体何を相談すればいいのだろう。
絢辻さんは、どんな人なのか。そんな曖昧な質問をすれば、彼女を気にしている男子生徒だと思われるかもしれない。
実際、気にしていないとは言えない。だからこそ、否定するのも難しかった。
「入らないの?」
「うわっ」
急に横から声をかけられ、身体が跳ねる。
顔を向けると、教材を抱えた高橋先生が、不思議そうに僕を見ていた。
「望月君よね? 職員室の前で何をしてるの?」
「あの、先生に少し聞きたいことがあって」
「私に?」
「はい」
「授業の質問?」
「授業というより……人のことというか」
自分でも、ひどく曖昧な答えだと思う。
高橋先生は僅かに首を傾げた。
「とりあえず、中へ入りましょうか」
先生の後に続き、職員室へ入る。昼休み中のため、席を外している教師も多い。残っている教師たちは弁当を食べたり、机へ向かって書類を作ったりしていた。
高橋先生は抱えていた教材を机へ置く。
「それで、どうしたの?」
「絢辻さんのことなんですけど」
「絢辻さん?」
先生の目が少し大きくなる。その後、何かに気づいたように口元を緩めた。
「なるほど」
「何がですか?」
「ううん。続けて」
多分、何かを勘違いされている。けれど、ここで強く否定するのも違う気がした。
「先生から見て、絢辻さんって、無理をしているように見えることはありますか?」
「無理?」
「最近、仕事が多そうなので」
「ああ。進路調査の名簿も手伝ってくれたのよね」
「知ってたんですか?」
「絢辻さんから聞いたわ。望月君が手伝ってくれたから、早く終わったって」
僕がいないところでも、手伝ったことを先生へ伝えていたらしい。何も言わず、自分一人で終わらせたことにもできたはずだ。
手帳を知った後でも、その事実は変わらない。
「先生は、絢辻さんに頼みすぎてると思うことはないですか?」
「あるわよ」
思っていたよりも早い返答だった。
「だから気をつけているつもりなんだけど、本人が先に気づいて引き受けてくれることも多いの。さっきの片づけも、他の人にお願いしたかったんだけどね」
「絢辻さん、自分から引き受けますよね」
「そうなの」
高橋先生は、小さく息を吐いた。
「頼んだことは完璧にしてくれるし、こちらが言う前に必要なことへ気づいてくれる。先生としては本当に助かるけど、その分、無理をしていないか心配になる時もあるわ」
「無理してるように見えますか?」
「見せないのよね」
その言葉が、胸へ残った。
「大丈夫ですって笑われたら、それ以上は言いにくいでしょう?」
大丈夫な自分を見せる。周囲が、それを疑わないように。
絢辻さんの笑顔を思い浮かべる。昨日までなら、ただ頼もしいと思っていた。今は、その奥に別の何かを探してしまう。
「本人へ聞いてみたら?」
「え?」
「望月君は、絢辻さんが頑張りすぎているんじゃないかって心配してるんでしょう?」
「そこまでは……」
「気になっているのね」
「そう言われると、少し違うような」
「違うの?」
「違わないかもしれませんけど」
自分で何を答えているのか、分からなくなってくる。
高橋先生は、僕の反応を見て楽しそうに笑った。
「望月君は優しいから、誰かが頑張りすぎていると気になるのね」
「優しいというより、気にしすぎるだけだと思います」
「それも、悪いことばかりじゃないでしょう?」
昨日、絢辻さんにも似たようなことを言われた。
「先生」
職員室の入口から、聞き覚えのある声がした。身体が僅かに固まる。
「頼まれていた資料を持ってきました」
「あら、絢辻さん。ありがとう」
絢辻さんが、何冊かのファイルを抱えて入ってくる。最初に高橋先生へ視線を向け、その後、すぐ隣に立っている僕を見た。
「望月君もいたんだ」
「うん」
「先生に用事?」
「少しね」
「ふうん」
笑顔は変わらない。ただ、最後の一言だけが少し短く聞こえた。
「ちょうど、絢辻さんの話をしていたところなの」
「先生」
止める間もなかった。
絢辻さんの視線が、僕へ向く。
「私の?」
「望月君が、絢辻さんは働きすぎじゃないかって心配してたのよ」
「そこまで直接的には言ってません」
「似たようなものでしょう?」
高橋先生は笑っている。僕にとっては、あまり笑える状況ではない。
「そうだったんだ」
絢辻さんは、少し意外そうに目を細めた。
「望月君、私のことをそんなに気にしてくれてたの?」
「最近、仕事が多そうだから」
「先生へ相談するほど?」
声は柔らかい。その一言だけが、少し胸へ引っかかった。
「ごめん。余計なことだったかな」
「そんなことないよ。心配してくれるのは嬉しいから」
「絢辻さんも、たまには他の人へ頼ってね」
高橋先生が言う。
「さっきの片づけだって、無理に引き受けなくていいんだから」
「無理はしていませんよ」
「ほら。またそう言う」
「本当に大丈夫です」
絢辻さんは、いつものように笑った。高橋先生も、それ以上は強く言えないらしい。
「それじゃあ私、お昼を買ってくるから。二人とも、あまり遅くならないようにね」
「はい」
「分かりました」
高橋先生は財布を手に取り、職員室から出ていった。
先生の姿が見えなくなる。周囲には、まだ他の教師たちが残っている。
絢辻さんは何も言わず、持ってきたファイルを高橋先生の机へ置いた。上下を揃え、近くの書類と混ざらないよう、少しだけ位置をずらす。一つ一つの動作は、いつも通り丁寧だった。
「先生に何を話したの?」
ファイルへ視線を向けたまま、絢辻さんが尋ねる。周囲へ聞かれない程度の、小さな声。
「今、先生が言ったことだけだよ」
「本当に?」
「手帳のことは何も言ってない」
「昨日のことも?」
「言ってないよ」
「なら、どうして相談したの?」
絢辻さんが、ようやく僕を見る。口元には笑みが残っている。ただ、目だけが僕の返事を確かめていた。
「どう接したらいいのか、少し分からなくなったから」
「今まで通りにすればいいって言ったでしょう?」
「今までの僕は、絢辻さんのことを何も知らなかったから」
口にした後、絢辻さんの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「手帳を少し見ただけで、あたしのことを知ったつもり?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何?」
「知らなかったことを、一つ知っただけ」
「一つ?」
「絢辻さんが、僕が思っていたより複雑な人だったこと」
「……それだけ?」
「今のところは」
絢辻さんは、僕の顔を見たまま黙った。
職員室の中では、紙をめくる音や、誰かが湯飲みを机へ置く音が聞こえる。すぐ近くには何人もいるはずなのに、僕たちの周囲だけが少し切り離されたように感じる。
「変な人」
「昨日も言われた」
「昨日より、もっと変」
「悪化してない?」
「普通なら、先生に全部話すか、あたしを避けるでしょう?」
「避けてほしかった?」
「質問に質問で返さない」
「ごめん」
反射的に謝る。
絢辻さんは、僅かに眉を寄せた。
「どうして、あたしへ直接聞かないの?」
「聞いても答えてくれなさそうだから」
「正解」
「ほら」
「でも、先生へ聞かれるよりはまし」
「絢辻さんにとっては?」
「あたしに決まってるじゃない」
迷うことなく言い切った。また、昨日と同じ言葉だった。
どうして使い分けているのかまでは分からない。ただ、普段の彼女よりも、今の方が言葉を選んでいないように聞こえる。
「先生には、もう相談しないこと」
「どうして?」
「あたしのことを、あたしの知らないところで話されるのが嫌だから」
「分かった」
「随分素直ね」
「僕も、同じことをされたら嫌だから」
知らないところで、自分の性格や考えを誰かへ話される。それが愉快ではないことは、手帳へ自分のことを書かれていた僕にも分かった。
「その代わり」
「何?」
「聞きたいことがあったら、絢辻さんへ直接聞く」
「答えるとは言ってないけど」
「それでもいいよ」
「本当に変な人」
三度目だった。言葉だけなら、呆れられている。けれど口元には、ほんの僅かに楽しそうな笑みがあった。
「じゃあ、一つ聞いてもいい?」
「内容によるかな」
「どうして、そこまで仕事を引き受けるの?」
朝から気になっていたこと。高橋先生へ聞いたところで、本人にしか答えられない部分。
「前にも言ったでしょう? 誰かがやらないと終わらないから」
「……本当に、それだけ?」
絢辻さんの目が、僅かに細くなった。
「どういう意味?」
「その答え、誰に聞かれても同じことを言いそうだから」
口にしてから、少し踏み込みすぎたと思った。
絢辻さんはすぐには答えなかった。口元には、まだ笑みが残っている。けれど、先ほどまで高橋先生へ向けていたものとは、どこか違って見えた。
「望月君って、時々余計なところを見るよね」
「ごめん」
「褒めてないから」
声が僅かに低くなる。その一言だけで、職員室へ入ってきた時よりも、距離が近くなったように感じた。
「他の人に任せて、失敗されたくないの」
「失敗?」
「説明して、お願いして、終わったか確認して。間違っていたら、結局あたしが直すことになるでしょう?」
「全部の人が失敗するとは限らないだろ」
「失敗しないとも限らない」
「それはそうだけど」
「あたしがやれば、最初から間違えない。少なくとも、人へ任せるより確実なの」
自信ではある。実際、それだけの能力もあるのだろう。
ただ、任せる前から、人が失敗する可能性ばかりを考えている。それは少しだけ、寂しい考え方にも思えた。
「何、その顔」
「どんな顔?」
「かわいそうな人を見るみたいな顔」
「そんなつもりはないよ」
「だったら、やめて」
声が少しだけ低くなる。
僕は慌てて表情を戻そうとした。上手くできたかは分からない。
「ごめん」
「謝らなくていい。あたしは、自分が間違ってるとは思ってないから」
「うん」
「それに」
絢辻さんが一歩、僕へ近づいた。
「望月君みたいに、頼まれてもいないことまで気にする人には、分からないかもしれないね」
「それ、褒めてないよね」
「どう思う?」
「少し馬鹿にされてる気がする」
「少しだけ正解」
昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴る。
職員室にいた教師たちが、次の授業へ向かうため席を立ち始めた。同時に、絢辻さんの表情から先ほどまでの気配が消える。
「そろそろ戻りましょう、望月君」
いつもの声。いつもの笑顔。
その切り替わりを、今度は最初から見ていた。
「うん」
二人で職員室を出る。廊下には、教室へ戻る生徒たちが増えていた。
絢辻さんは、僕の半歩前を歩いている。すれ違う教師へ、丁寧に挨拶をしながら。
「望月君」
「何?」
前を向いたまま、絢辻さんが言う。
「次から聞きたいことがあったら、直接あたしに聞いて」
「答えてくれないんだろ?」
「気が向いたら、答えるかもしれない」
「随分不確かだな」
「先生に相談されるよりはいいもの」
絢辻さんは、一度だけ振り返った。教室で誰かへ向けるものより、少しだけ悪戯っぽい笑みだった。
「それと、明日の片づけ」
「視聴覚室の?」
「あたしからは頼まないから」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
それ以上は答えず、絢辻さんは二年A組の教室へ入っていった。僕も少し遅れて、その後へ続く。
頼まない。だから、手伝わなくても昨日の約束を破ったことにはならない。
自分で決めればいい。
そう言われたような気がした。
もちろん、その言葉の意味をここまで考えている時点で、僕はまた必要以上に気にしているのだろう。
自分の席へ戻りながら、小さく息を吐く。
それでも。
明日、自分がどうするのか。
答えはもう、半分ほど決まっているような気がしていた。