絢辻さんを救いたい話 作:紳士
六時間目の終了を知らせるチャイムが、視聴覚室の中へ鳴り響いた。
「それでは、今日の講演はここまでです。講師の先生に、もう一度拍手をお願いします」
高橋先生の言葉に合わせ、教室中から拍手が上がる。
僕も周囲に続いて手を叩きながら、前方へ視線を向けた。壇上では、講師として来ていた男性が何度も頭を下げている。
話の内容は、進路選択について。高校を卒業した後、何を基準に進む道を決めるのか。興味、適性、将来性。聞いている間は、それなりに参考になると思っていた。
ただ、こういう話を聞いた直後だけは将来について真剣に考えるのに、数日も経てば日々の課題や部活へ意識が戻ってしまう。少なくとも僕は、そういう人間だった。
「それじゃあ、教室へ戻るぞ」
誰かが席を立つ。
それを合図にしたように、視聴覚室の空気が一気に緩んだ。机の脚が床を擦る音、鞄を持ち上げる音。講演中に話せなかった分まで取り戻すように、生徒たちの声が飛び交い始める。
「湊、行こう」
純一が、少し離れた席から僕へ声をかけた。その隣には梅原も立っている。
「先に戻ってて」
「何か忘れ物?」
「今日は違うよ」
純一が首を傾げる。僕は答える代わりに、視聴覚室の前方へ目を向けた。
高橋先生が講師の男性と話している。その少し後ろで、絢辻さんが他の生徒たちが使った机と椅子を確認していた。
昨日の朝、誰も手を挙げなかった片づけ。結局、もう一人の担当者が決まったという話は聞いていない。
「片づけを手伝ってから行くよ」
「そういえば、昨日言ってたやつか」
純一も絢辻さんの姿へ目を向けた。
「部活は大丈夫?」
「少しくらいなら」
「なら、先に行ってるよ」
「うん」
純一はそれ以上何も聞かなかった。
梅原が何か言いたそうにこちらを見ていたが、純一に肩を押され、そのまま視聴覚室を出ていった。
他の生徒たちも、次々と廊下へ流れていく。薫は友人と話しながら教室を出る途中で僕に気づき、小さく手を振った。僕も軽く手を上げて返す。
数分もしないうちに、さっきまで埋まっていた座席のほとんどが空になった。
最後の生徒が扉を閉める。
急に、部屋が広くなったように感じた。
「望月君?」
絢辻さんが、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
「片づけ。手伝おうと思って」
一瞬、彼女の視線が僕の後ろへ向く。他に残っている生徒を探したのだろう。
けれど、室内にいるのは高橋先生と講師の男性、それから僕たちだけだった。
「部活は?」
「あるよ」
「だったら、行った方がいいんじゃない?」
「少しくらい遅れても大丈夫だから」
絢辻さんはすぐには納得しなかった。僕の顔を見た後、前方で話している二人へ一度だけ視線を送る。
「昨日、あたしからは頼まないって言ったよね」
声量は小さい。高橋先生たちには聞こえていないだろう。
僕は一度頷いた。
「覚えてるよ」
「それなのに残ったの?」
「頼まれなかったから、残らないっていうのも違う気がして」
「どう違うの?」
「……上手く説明できないけど」
絢辻さんは、少し呆れたように目を細めた。その表情は、教室で他の生徒へ向けているものよりも遠慮がない。
「昨日、先生へ相談したことを気にしてる?」
「それも少しはあるかな」
「罪滅ぼし?」
「そこまで大げさじゃないよ」
僕は近くの机へ手をかける。
視聴覚室は、普段の教室とは机の並び方が違っていた。講演のために前方へ詰められ、通路も広く取られている。元の位置は、床へ貼られた小さな目印を見れば分かりそうだった。
「一人でこれを全部戻すのは、大変だろ」
「一人でもできるよ」
「できるかどうかじゃなくて」
「じゃあ何?」
そこで言葉に詰まる。
助けたいから、と言えば簡単だった。でも、それだけでは少し違う気がした。
「二人なら早く終わるから」
それ以上、特別な理由は浮かばなかった。
困っている人を助けたい。絢辻さんが気になる。頼まれなくても、自分で決めたかった。どれも間違いではない。
ただ、口に出せば出すほど、もっともらしい言葉を後から付け足しているような気もした。
「それだけ?」
昨日も聞かれた言葉だった。
「それだけだよ」
今度は、すぐに答える。
絢辻さんは、僕の顔を数秒見つめた。
「本当に?」
「多分」
「そこで曖昧になるのね」
思わず視線を逸らす。
「自分でも、全部は分かってないから」
「何それ」
絢辻さんの口元が僅かに緩んだ。笑われたというより、呆れた結果、そのまま笑ってしまったように見えた。
「まあいいわ」
彼女も、反対側の机へ手をかける。
「手伝いたいなら、止めない」
「ありがとう」
「どうして望月君がお礼を言うの?」
「手伝わせてもらえるから」
絢辻さんが今度こそ呆れたように息を吐く。
「やっぱり変」
言いながらも、本気で嫌がっている様子はなかった。
「それじゃあ、まず机を元の位置へ戻しましょう。床の印に脚を合わせて」
「分かった」
「椅子は後でまとめて動かした方が早いから、今は端へ寄せておいて」
「うん」
絢辻さんは室内を見渡し、作業の順番を頭の中で組み立てているらしい。視線が手前の机から奥へと流れていく。
「それと、前から順番にやって。適当に動かすと通路が塞がるから」
「……僕、まだ何もしてないよね?」
「始めてから間違えられるよりいいでしょう?」
「信用がないなぁ」
「効率の問題よ」
絢辻さんは既に、一つ目の机を動かし始めていた。
僕も反対側から持ち上げる。見た目ほど重くはない。ただ、片側だけを引けば床へ大きな音が響く。
互いに持ち上げるタイミングを合わせ、目印の位置まで運んだ。
「ここ?」
「もう少し右」
「このくらい?」
「行きすぎ」
僕は机を戻しかけて、絢辻さんを見る。
「細かいね」
「全部ずれていたら、最後には大きく曲がるでしょう?」
「確かに」
言われた通り、机の脚を印へ揃える。
絢辻さんは一歩下がり、全体を確認した。
「うん。大丈夫」
「一台目から結構時間かかったな」
「最初だけよ。位置が決まれば、それを基準にできるから」
次の机へ移る。今度は先ほどよりも早く終わった。
三台目、四台目。同じ動作を繰り返しているうちに、自然と互いの動くタイミングが分かってくる。
僕が机の片側へ手を伸ばせば、絢辻さんは反対側へ回る。持ち上げる時も、どちらかが声をかける必要はなくなっていた。
少し持ち上げ、前へ運び、床の目印へ合わせる。
単純な作業。それでも一人でやるのと二人でやるのとでは、進む速さが全く違う。
「望月君」
「何?」
「そっち、少し下げて」
「うん」
言われた通り机を動かす。
「そこで止めて」
「はい」
絢辻さんが机の位置を確認しながら、ふと僕を見る。
「素直ね」
「手伝いに来て逆らう理由がないから」
「普段からそのくらい素直なら扱いやすいのに」
手が止まりかけた。
「……今、何て?」
絢辻さんは何食わぬ顔で机から手を離す。
「褒めたのよ」
「扱いやすいって聞こえたけど」
「気のせいじゃない?」
「絶対に違うと思う」
絢辻さんは、何事もなかったように次の机へ向かう。横顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
多分、わざとだ。手帳へ書いてあったことを気にしている僕へ、あえて似た言葉を使っている。
「性格悪いなぁ」
思ったことが、口から漏れた。
絢辻さんの足が止まる。
まずい。
そう思った時には遅かった。
彼女がゆっくりと振り返る。
「今、何て言ったの?」
笑顔だった。
ただ、僕の知っているいつもの笑顔ではない。
「……聞こえてた?」
「残念ながら」
「独り言だよ」
笑顔のまま、絢辻さんが一歩だけこちらへ近づく。
「内容を聞いてるの」
「言わない方がいいと思う」
「言いなさい」
逃げる場所はない。机を挟んでいるとはいえ、視線だけで逃げ道を塞がれているような気がした。
「少しだけ、性格が悪いなと思った」
「少しだけ?」
「そこを確認するの?」
絢辻さんの笑顔が、ほんの少し深くなる。
「いい度胸ね」
「絢辻さんが先にからかったんだろ」
言い返した後で、昨日ならここまで口にできなかっただろうと思う。
手帳を見た直後、初めて彼女の遠慮のない言葉を聞いた時は、何を返せばいいのかも分からなかった。今も緊張はしている。
ただ、何を言っても急に別人へ変わるわけではない。そう分かった分だけ、少し話しやすくなっていた。
絢辻さんは僕の顔を見た後、小さく息を吐いた。
「昨日までは、もっと大人しい人だと思ってた」
「僕も、絢辻さんはもっと優しい人だと思ってたよ」
「優しいでしょう?」
「自分で言うんだ」
絢辻さんは当然だと言いたげに胸を張る。
「お弁当まで作ってあげたのに」
「それを出されると何も言えないな」
「でしょう?」
満足そうに頷く。
結局、言い負かされたような形になる。納得できない部分はある。ただ、不思議と嫌な気分ではなかった。
「ほら。手が止まってる」
「止めたのは絢辻さんだろ」
「人のせいにしない」
僕は諦めて机へ手を戻す。
「理不尽だなぁ」
再び作業へ戻る。
机を全て元へ戻した頃には、視聴覚室の前方で話していた高橋先生たちの姿もなくなっていた。いつの間にか講師の男性を見送ったらしい。
扉の近くには、持ち帰る予定だった資料だけが置かれている。
「次は椅子ね」
「これは一人で二脚ずつ運べそうだな」
「無理に持って落とさないでよ」
「それくらいは大丈夫だよ」
二脚を重ね、両手で持ち上げる。重くはない。そのまま机の前へ運ぶ。
「ほら」
少し得意げに言うと、絢辻さんは椅子ではなく僕の顔を見た。
「まだ一回目でしょう?」
「最初に信用してくれてもいいのに」
「信用は積み重ねるものよ」
「手帳を勝手に読んだ人間が言うのもあれだけど、その言葉は少し刺さるな」
口にした瞬間、絢辻さんの動きが僅かに止まった。
僕も椅子を置きながら、言わない方がよかったかもしれないと思った。手帳のことへ、無理に触れる必要はなかった。
「ごめん」
「すぐ謝るのね」
「嫌だったかなと思って」
絢辻さんは僕を見た後、静かに椅子を一脚持ち上げた。
「嫌なら、そう言うわ」
「うん」
「それに、勝手に見たのは事実でしょう?」
責めるような声ではなかった。
「なら、忘れないで」
「忘れないよ」
「そう」
短い返事。
怒ってはいないようだった。けれど、先ほどまでよりも会話が少し遠くなる。
僕は次の椅子へ手を伸ばした。
手帳を見たこと。秘密を知ったこと。それが二人の間へ近づくきっかけになったのは間違いない。
ただ、近づいたからといって、何を言ってもいいわけではない。そこを勘違いしてはいけない気がした。
「望月君」
「うん?」
「どうして、先生に相談したの?」
昨日も聞かれた質問だった。
「昨日答えたと思うけど」
「どう接したらいいか分からなかったから、でしょう?」
「うん」
絢辻さんは椅子を置き、次に運ぶものへ視線を移す。こちらを見ないまま、続きを尋ねた。
「それで、分かった?」
何でもない会話のようにも聞こえる。けれど、答えを誤魔化してはいけないような気がした。
「分からないままかな」
「何それ」
「だって、昨日までと同じようには見られないし」
僕も椅子を持ち上げる。
「だからって、昨日見た方だけが本当だとも思わない」
絢辻さんの顔が、僅かにこちらへ向いた。
「どういう意味?」
「教室で笑ってる絢辻さんも、今こうして僕をからかってる絢辻さんも、どっちも絢辻さんなんだろ」
少しの間、彼女は何も言わなかった。
「……随分簡単に言うのね」
「難しく考えても、答えが出なかったから」
「考えるのをやめただけ?」
「そうかもしれない」
絢辻さんが小さく息を吐く。
「適当」
「でも、無理にどっちかを嘘だって決めるよりはいいと思う」
最後の椅子を机の前へ置く。
椅子の背もたれを持ち、他の列と位置を揃える。
返事はなかった。
顔を上げる。
絢辻さんは、まだ椅子を持ったまま立っていた。
「絢辻さん?」
「……何でもない」
いつもより短い声。
彼女は僕の隣を通り、残っていた椅子を置いた。そのまま背もたれへ手をかけ、数センチだけ位置を動かす。
「これで終わりね」
「確認しなくていい?」
僕が聞くと、絢辻さんは当然のように視聴覚室の後方へ目を向けた。
「するに決まってるでしょう?」
「だよね」
二人で視聴覚室の後ろへ下がる。
机の列、椅子の位置、前方まで続く通路。大きくずれているところはなさそうだった。
「右から二列目。三番目の机が少し斜め」
「分かるの?」
「見れば分かるでしょう?」
言われた場所へ目を凝らす。
「僕には全部真っすぐに見えるけど」
「望月君の目は信用できないね」
「また信用を積み重ね直しか」
言われた机へ向かい、少しだけ角度を直す。
「これで?」
絢辻さんは後ろから確認してから頷いた。
「うん。大丈夫」
教卓に置かれていた資料をまとめる。僕も自分の鞄を持ち上げた。
「思ってたより早く終わったね」
「二人だったから」
「珍しく素直に認めるんだ」
「手伝ってもらったことまで否定するほど、性格は悪くないつもりだけど」
絢辻さんは、資料を胸元で抱え直した。さっき僕が口を滑らせたことを、どうやら本当に忘れるつもりはないらしい。
「さっきの聞いてたんだ」
「忘れると思った?」
「そうだったら助かったんだけど」
僕が苦笑すると、絢辻さんの口元も僅かに緩んだ。
「ありがとう、望月君」
声が、少しだけ柔らかかった。
教室で誰かへ向けるものと同じようにも聞こえる。ただ、今ここには僕たちしかいない。誰かに見せる必要もないはずだった。
「どういたしまして」
僕は鞄を肩へかけ、扉へ向かう。
「でも、次からは先に頼ってくれた方が助かるかな」
「どうして?」
「手を挙げるか迷わなくて済むから」
「迷ってたんだ」
扉へ伸ばしかけた手を止める。
「部活もあったし」
「それでも残ったのね」
「うん」
絢辻さんはすぐには何も言わなかった。僕も自分で口にしてから、昨日の「頼まない」という言葉を思い返す。
「だから、次は頼んでくれていいよ」
振り返ると、彼女は視聴覚室の中央に立ったまま僕を見ていた。
「頼まれたら断れないのに?」
「無理なことなら断るよ」
「本当に?」
「努力する」
数秒の沈黙の後、絢辻さんが吹き出すように笑った。
「全然成長してないじゃない」
先ほどまでの会話で少し遠くなった距離が、また元へ戻ったような気がした。
「でも、覚えておく」
「何を?」
「望月君は、頼めば手伝ってくれるってこと」
絢辻さんはそう言いながら僕の横まで歩いてくる。どこか楽しそうな顔をしているのが、少しだけ嫌な予感をさせた。
「結局、手帳の評価通りになってない?」
「嫌なら断れば?」
「それが難しいんだよ」
「知ってる」
即答だった。
やっぱり、しっかり利用される側として認識されている気がする。
絢辻さんは、僕より先に視聴覚室を出た。
廊下へ出た瞬間、抱えていた資料を整え、姿勢を正す。遠くから歩いてきた教師へ気づくと、柔らかな笑顔で頭を下げた。
「お疲れ様です」
「絢辻さん、片づけは終わった?」
「はい。望月君が手伝ってくれたので、思ったより早く終わりました」
教師が僕の方を見る。
「そう。ありがとう、望月君」
「いえ」
教師はそれだけ言い、階段の方へ歩いていった。
姿が見えなくなるまで待ってから、僕は隣の絢辻さんを見る。
「ちゃんと、僕が手伝ったって言うんだね」
「言わない方がよかった?」
「そうじゃないけど」
絢辻さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「なら、どうして聞くの?」
「手柄を独り占めする人ではないんだなと思って」
一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした後、絢辻さんの目が細くなった。
「望月君は、あたしを何だと思ってるの?」
「まだ考えてる途中」
「そう」
短く答えた後、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。
「ゆっくり考えれば?」
「答えが出なくても?」
「困るのは望月君だから、あたしは別に」
どうやら答えを教えてくれるつもりはないらしい。
「無責任だなぁ」
「勝手に考えてるのはそっちでしょう?」
否定できなかった。
並んで廊下を歩き、階段の前まで来たところで、絢辻さんが足を止める。
「私は実行委員会へ行くから」
いつの間にか、声が戻っていた。
さっきまで視聴覚室で話していた「あたし」ではなく、廊下で誰かに聞かれても困らない「私」の声。
「望月君は部活でしょう?」
「うん。急がないと」
「遅刻した理由を、私のせいにしないでね」
「しないよ」
絢辻さんは一度だけ頷き、会議室のある方向へ身体を向ける。
「ならいいけど」
「また明日、絢辻さん」
「うん。また明日」
絢辻さんは会議室のある方向へ、僕は昇降口へ向かう階段へ。それぞれ別の方角へ歩き始める。
部活には遅れる。顧問へ何と言われるかは分からない。
けれど、残ったことを後悔はしていなかった。
頼まれなかったから。
自分で決めた。
そのことを絢辻さんがどう受け取ったのかは、結局分からない。
ただ、最後に見せた笑顔は、誰かへ向けるために整えられたものではなかった。
そう思った。
僕の勝手な判断かもしれないけれど。