絢辻さんを救いたい話 作:紳士
次の日の放課後。
部活を終えた僕は、駅へ続く道を一人で歩いていた。
辺りは既に暗くなり始めている。完全な夜というほどではないが、建物の影へ入れば足元が見えにくくなる程度には日が落ちていた。冬至が近いからだろう。夏なら、同じ時刻でもまだ明るかったはずだ。
商店街を通る道ではなく、公園を横切る方を選んだのも、少しでも早く駅へ着きたかったからだった。別に急ぐ予定があるわけではない。ただ、部活の後はなるべく早く家へ帰りたくなる。
身体を動かしている間は気にならなかった寒さも、練習が終わった瞬間から急に存在を主張し始める。上着を着ているとはいえ、汗の引いた身体へ冬の風が入り込む感覚は、あまり気持ちのいいものではない。
「今日は、いつもより疲れたな……」
大会が近いわけでもない。特別厳しい練習だったわけでもない。ただ、視聴覚室の片づけで遅れた昨日の分まで走ろうと、少しだけ張り切りすぎたらしい。
僕は部内で目立つ選手ではない。練習へ少し遅れたところで、顧問から軽く注意される程度だった。それでも、遅れた分を何となく取り返しておきたくなる。
誰かに求められたわけではない。
むしろ、そういうところが気にしすぎだと言われる理由なのだろう。
「きゃっ!」
公園の奥から、女性の短い悲鳴が聞こえた。
足が止まる。
大声というほどではなかった。遊んでいた子どもが転んだとか、虫を見つけたとか、その程度でも出る声かもしれない。
冬の夕方とはいえ、周囲に人が全くいないわけでもない。わざわざ自分が確認する必要はないだろう。
そう考えながらも、結局、僕は声のした方へ足を向けていた。
放っておいたら気になる。
以前、絢辻さんへ話した通りだった。
公園の中央には、小さな広場がある。その周囲へ植えられた低い木々を抜けると、ベンチや水飲み場が並んでいた。
人影は二つ。
一人は、小型犬のリードを手にした年配の女性。
もう一人は。
「本当に申し訳ありません!」
「いえ。大丈夫ですから」
聞き覚えのある声だった。
絢辻さんが、片足を僅かに持ち上げた状態で立っている。制服姿。片腕には鞄を抱え、もう片方の手でスカートの端を少し持ち上げていた。持ち上げているといっても膝が見えるほどではなく、裾が何かへ触れないようにしているだけらしい。
対する小型犬は、状況など何も理解していない様子で、飼い主の足元を元気に歩き回っていた。
「でも、お靴が……」
「少し洗えば落ちると思います。ワンちゃんも、悪気があったわけではないでしょうし」
「本当にごめんなさいね。ほら、あなたも謝りなさい!」
女性がリードを軽く引く。
犬は一度だけ絢辻さんを見上げ、それから何事もなかったように鼻を地面へ近づけた。謝罪する気は、少なくとも今のところなさそうだ。
「気にしないでください」
絢辻さんは笑っていた。
いつもの、相手を安心させる笑顔。
女性は何度か頭を下げた後、犬を連れて公園の出口へ向かっていった。
その姿が十分に離れたところで、絢辻さんの笑顔が消えた。
「……最悪」
小さく呟く。
随分と感情のこもった声だった。
「絢辻さん?」
「え?」
声をかけると、絢辻さんが勢いよく振り返った。
「望月君?」
「うん」
驚いた顔のまま、彼女が僕と公園の出口を交互に見る。
「いつからいたの?」
「最後の方だけ。何か悲鳴が聞こえたから」
僕は彼女の足元へ視線を落とす。
片方の革靴。つま先から側面にかけて、濡れたような跡がついている。
雨は降っていない。近くに水たまりもない。
先ほどまでいた小型犬。
状況を合わせれば、何が起きたのかは何となく理解できた。
「もしかして、犬に――」
「おしっこを引っ掛けられたのよ」
僕の言葉を遮り、絢辻さんが答えた。
怒っている。
いつもの笑顔がないことを差し引いても、分かりやすいほどに怒っている。
「それは……災難だったね」
「今、笑いそうになったでしょう?」
「なってないよ」
「口元が動いた」
僕は反射的に公園の水飲み場へ視線を逸らした。
「気のせいだと思う」
「こっちを見て言いなさい」
どうやら、その動作自体が答えになってしまったらしい。
「ごめん。状況が少し予想外だっただけで」
「それを笑ってるって言うんじゃない?」
「絢辻さんでも、こういうことが起きるんだなと思って」
絢辻さんの眉がぴくりと動く。
「どういう意味?」
「犬も近づけないような雰囲気があるから」
「むしろ近づいてきた結果がこれなのよ!」
絢辻さんが、持ち上げていた足を少し動かす。靴を地面へ下ろしかけ、すぐに顔をしかめて再び浮かせた。
「中まで入ったの?」
「少しだけ」
「靴下も?」
「……聞く必要ある?」
別に変な意味で尋ねたわけではない。ただ、足元を見たまま質問したせいか、少し失礼なことを聞いたような気もしてきた。
「洗った方がいいかと思って」
「靴の縁に少しかかっただけ。直接はほとんど大丈夫」
「なら、あそこの水道で洗えば落ちそうだね」
「そうしようと思ってる」
水道までは、ここから十数メートル程度。遠いわけではない。
「じゃあ、行こうか」
「行けるなら、とっくに行ってるわよ」
「え?」
絢辻さんが浮かせた靴を嫌そうに見る。
「この足を地面へつけたくないの」
「でも、片足で行くのは危ないだろ」
「だから困ってるの」
苛立たしそうに答える一方で、浮かせた片足だけで立ち続けることにも疲れてきたらしい。何度か小さく身体が揺れている。
「肩、貸そうか?」
「肩?」
「僕につかまって、片足で少しずつ移動するとか」
「余計に時間がかかるでしょう?」
確かに、その距離を跳ねるように進むのは現実的ではない。
「じゃあ、靴を脱いで歩く?」
「地面が冷たいし、汚い」
「確かに」
舗装されているとはいえ、公園の地面だ。雨上がりではないが、砂や落ち葉が散っている。靴下のまま歩く場所ではなかった。
考えられる方法は、あと一つ。
ただ、それを僕から提案していいものかは少し迷った。
「何?」
絢辻さんが僕を見る。
「さっきから、何か考えてる顔をしてるけど」
「水道まで運ぼうか?」
「どうやって?」
一度言葉を飲み込んでから、口にする。
「おんぶ」
一瞬。
絢辻さんが何も言わなくなった。
断られるだろう。もしくは、馬鹿にしているのかと怒られるかもしれない。自分でも、少し直接的すぎる提案だったと思う。
「嫌なら、別の方法を――」
「他にあるの?」
「今のところは思いつかない」
「そう」
絢辻さんは、水道までの距離を確認する。続いて、自分の靴。最後に、僕へ視線を向けた。
「絶対に落とさない?」
「それくらいの距離なら」
「それくらい?」
「多分、大丈夫」
絢辻さんの目が細くなる。
「多分をつけないで」
「絶対に落とさないよ」
言い直す。
絢辻さんは、まだ疑うように僕を見ていた。
「変なことも考えない?」
「それは……」
「どうして黙るの?」
思わず答えに詰まる。何も考えないと言い切る方が、かえって怪しい気がした。
「何も考えないと言い切ると、逆に嘘っぽくない?」
「開き直るつもり?」
「そうじゃなくて。女の子を背負うのは初めてだから、緊張くらいはすると思う」
「余計なことまで正直に言わなくていい」
絢辻さんが小さくため息を吐く。
「でも、仕方ないか」
「いいの?」
「ここで片足立ちを続けるよりはね」
許可が出た。
出たのだが。
今度は僕の方が、急に意識してしまう。
提案した時には、ほとんど移動手段としてしか考えていなかった。実際に背負うと決まった途端、話が違って感じられた。
「どうしたの?」
「いや」
「早くして。足が疲れてきたんだけど」
「分かったよ」
僕は絢辻さんへ背中を向け、その場へしゃがみ込んだ。
鞄を前へ回す。部活用の荷物も入っているため、背負ったままでは邪魔になる。
「乗って」
「……本当に大丈夫?」
「さっき絶対に落とさないって言っただろ」
「望月君、運動部だけど運動神経は普通そうだから」
振り返れないまま、少しだけ肩を落とす。
「今、必要のない分析をされた気がする」
「手帳には書いてないから安心して」
「余計に傷つくなぁ」
後ろから、絢辻さんが僅かに笑う声が聞こえた。
次の瞬間。
肩へ、両腕が回される。
続いて、背中へ柔らかな重みがかかった。
思っていたより軽い。
いや、女子生徒を背負った経験がないのだから、何と比べて軽いと思ったのかは分からない。少なくとも、部活で運ぶ器具よりは軽かった。
「立つよ」
「うん」
絢辻さんの膝の裏へ腕を回し、ゆっくりと立ち上がる。身体が傾かないよう、一度足元へ力を入れ直した。
「大丈夫?」
「今のところは」
「何、その言い方」
背中で絢辻さんが少し体勢を直す。
「望月君がふらついたら、すぐに降りられるようにしてるの」
「そんなに信用ない?」
「信用は積み重ねるものなんでしょう?」
「それ、絢辻さんが言った言葉じゃないか」
「だから使ったの」
水道へ向かって歩き始める。
十数メートル。
普段なら何も考えずに歩ける距離だった。
今は、一歩ずつ妙に意識する。
絢辻さんの腕が、僕の肩の前で組まれている。歩くたび、背中へ伝わる重みが僅かに動き、黒い髪の一部が僕の頬へ触れた。
石鹸に似た匂い。
以前、相合い傘で歩いた時にも感じたものだった。
「望月君」
「何?」
「身体が固い」
「落とさないようにしてるんだよ」
耳元で絢辻さんが小さく息を吐く。
「普通に歩けば大丈夫でしょう?」
「背負われてる側は気楽だな」
「そう?」
声に僅かに笑いが混じった。
「ところで望月君」
「今度は何?」
「手」
「手?」
何を言われるのか分からず、足を少しだけ緩める。
「変なところ、触ってないでしょうね?」
反射的に、自分の手へ意識が向いた。
両腕は膝の裏を支えている。それ以外の場所へ触れているつもりはない。
「触ってないよ」
「本当に?」
「本当に」
「さっきから妙に緊張してるし」
絢辻さんの声が、わざと疑うような響きを帯びる。
「女の子を背負うのが初めてだって言っただろ」
「ふうん」
背中で、絢辻さんがわざとらしく少し身体を動かした。
「ちょっ、動かないで。危ないって」
「どうして?」
「落としたら困るから」
「それとも」
耳元へ顔を寄せたのか、声が一段近くなる。
「あたしが動くと、何か困ることでもあるの?」
「何でそうなるんだよ」
思わず声が大きくなった。
すぐ後ろから、小さな笑い声が聞こえる。
「あら。動揺してる」
「してない」
「してるでしょう?」
「してないって」
否定するほど、絢辻さんの笑い声が楽しそうになる。
「怪しいわね」
「絢辻さん」
「なあに?」
「絶対楽しんでるだろ」
「さあ?」
完全に楽しんでいる声だった。
さっきまで犬に靴を汚されて、本気で機嫌を悪くしていた人と同じとは思えない。
「もう少しで着くから、大人しくしてて」
「命令するの?」
「お願い」
「どうしようかな」
僕は前を見たまま、長く息を吐いた。
「絢辻さん……」
名前を呼ぶと、背中からまた笑い声が聞こえた。
次の瞬間。
絢辻さんが大きく息を吸う気配がした。
嫌な予感がする。
「みなさーん、ここに変態がいますよー!」
「ちょっ、絢辻さん!」
夕方の公園に、思っていた以上によく通る声が響いた。
反射的に足を止める。
「何するんだよ!」
「だって、面白いんだもの」
「誰か来たらどうするの?」
「望月君が変態だと思われるだけでしょう?」
あまりにも当然のように言われ、思わず振り返りそうになる。
「僕しか被害を受けてないよね?」
「嫌なら下ろせば?」
「下ろしたら、水道まで行けないだろ」
「じゃあ我慢しなさい」
「横暴すぎる……」
絢辻さんは僕の抗議など気にした様子もない。
「もう一回言おうか?」
「絶対やめて」
「変態」
「それもやめて」
背中から笑い声が聞こえる。
「望月君、顔赤くなってない?」
「後ろから見えないだろ」
「あ、図星?」
「……違うよ」
少し間を置いてから返したせいか、絢辻さんの声がさらに楽しそうになる。
「返事が遅かった」
「歩いてるからだよ」
「ふうん」
信じていない。
それどころか、さらにからかう材料を探しているようにしか聞こえなかった。
「絢辻さん、さっきまで怒ってなかった?」
「怒ってるわよ」
「楽しそうだけど」
「望月君をからかうのと、犬に怒ってるのは別でしょう?」
肩へ回された腕に、少しだけ力が入る。
「器用だなぁ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「ほら。早く行って」
僕は止まっていた足を再び動かす。
「誰のせいで止まったと思ってるの?」
「望月君が動揺するからでしょう?」
「僕のせいになったの?」
「そうね」
即答だった。
「理不尽だ……」
再び歩き始める。
耳元から、まだ小さな笑い声が聞こえていた。
学校でクラスメイトに囲まれている時には、たぶんしない笑い方だった。
相手を安心させるためでもない。感じよく見せるためでもない。
ただ、僕が困っているのが面白いから笑っている。
性格がいいとは言えない。
なのに。
何故だか、嫌ではなかった。
「落ちたら困るのは、あたしだもの」
「僕も困るよ」
「どうして?」
「怪我させたら気になるから」
絢辻さんの声から、少しだけからかう調子が薄れた。
「また、それ」
「何?」
「気になる、気になるって」
耳の近くで声が聞こえる。
普段より、ずっと近い。
振り返ることはできない。もし今顔を横へ向ければ、すぐそこに絢辻さんの顔があるはずだった。
「望月君は、一生何かを気にしてそう」
「否定できないな」
「疲れない?」
「疲れる時もあるよ」
少し考えるような間が空く。
「やめればいいのに」
「できたら苦労してない」
「それなら、あたしが利用しても文句は言えないね」
「それは別の話だろ」
絢辻さんが、僕の肩へ額を軽く当てる。
「断ればいいでしょう?」
「努力はするよ」
「まだ言ってる」
笑っているのか。単に姿勢を安定させただけなのか。
背中を向けているため、表情は分からなかった。
水道へ到着する。
「着いたよ」
「じゃあ、下ろして」
再びしゃがむ。
絢辻さんの足が地面へつかないように注意しながら身体を下げる。
彼女は綺麗な方の足だけを先に地面へ置き、僕の肩から腕を離した。
背中から重みがなくなる。
少しだけ寒くなったように感じた。
単純に、密着していた分の体温がなくなっただけだろう。
「思ってたより、ちゃんと運べたわね」
「疑いすぎだよ」
「一応、褒めたつもり」
「一応なんだ」
絢辻さんは汚れた靴を見た後、少しだけ視線を逸らした。
「ありがとう」
最後だけ、小さな声だった。
「どういたしまして」
僕は水道の蛇口をひねる。
冬の水が勢いよく流れ出した。
「冷たそうだな」
「見れば分かるでしょう?」
「触らなくても?」
「水道の水が温かいと思う?」
絢辻さんが呆れたように僕を見る。
「もしかしたら、ということも」
「ないわよ」
絢辻さんは片足で立ったまま、汚れた靴を脱いだ。
僕の肩へ片手を置き、姿勢を支える。
「これ、持ってて」
脱いだ靴を渡される。
「僕が洗おうか?」
「そこまでしなくていい」
「でも、その状態だと洗いにくいだろ」
絢辻さんは片足のまま水道と靴を見比べ、少し迷う。
「……そうね」
やがて、靴を差し出した。
「ちゃんと綺麗にして」
「注文が多いなぁ」
「持ち主として当然の要求よ」
靴の表面へ水を流す。
濡れた部分を直接触らないようにしながら、何度か角度を変える。幸い、汚れはすぐに落ちたように見えた。
「このくらいでいい?」
「もう少し」
「まだ?」
「念のため」
僕は靴を裏返しながら水を流す。
「形が変わりそうだけど」
「それは困る」
「じゃあ、このくらいにしておこう」
水を止める。
濡れた靴を軽く振った。もちろん、それだけで乾くわけではない。
「履くには濡れてるね」
「分かってる」
絢辻さんが、少し嫌そうに靴を見る。
「タオルあるよ」
「どうして?」
「部活帰りだから」
鞄から、練習後に使うための予備のタオルを取り出す。今日使ったものとは別。少し小さいが、靴の水分を拭き取る程度なら十分だろう。
「新品?」
「洗ったものだよ」
「なら借りる」
思わず笑う。
「そこは確認するんだ」
「使用済みの汗がついたタオルを渡されたら嫌でしょう?」
「さすがに渡さないよ」
タオルで靴の表面を拭く。
僕がそのまま作業していると、絢辻さんが不思議そうにこちらを見た。
「望月君が拭くの?」
「途中までやったから」
「変なところで律儀ね」
「絢辻さんが片足で立ってる方が危ないだろ」
絢辻さんは僕の肩へ置いた手に少しだけ体重を預ける。
「肩につかまってるから大丈夫」
実際、絢辻さんの手はまだ僕の肩へ置かれている。
細い指。
制服の上からなので、手の温度まではほとんど分からない。それでも、そこに触れられていることを意識すると、急に手元がぎこちなくなった。
「動かないでよ」
「動いてないよ」
「今、靴を落としかけたでしょう?」
「気のせい」
絢辻さんの眉が上がる。
「今日の望月君、気のせいが多いわね」
水分を十分に拭き取り、靴を返す。
完全に乾いたわけではないが、履いて歩ける程度にはなったと思う。
絢辻さんが靴へ足を入れる。何度か爪先を動かし、感触を確かめた。
「どう?」
「少し湿ってる」
「それは仕方ないよ」
もう一度爪先を動かした後、絢辻さんが頷く。
「まあ、さっきよりはずっとまし」
「よかった」
使用したタオルをビニール袋へ入れ、鞄へ戻す。
「あとで洗って返すね」
「タオル?」
「そう」
「別にいいよ。家で洗うから」
絢辻さんが、少し意外そうに僕を見る。
「私の靴を拭いたのに?」
いつの間にか、一人称が戻っていた。
近くを、犬を散歩させている別の人が通り過ぎる。
絢辻さんは、その人へ気づいたのかもしれない。それとも、もう二人きりで話す必要がなくなったからなのか。
細かい違い。
以前なら気づかなかった。
今は聞こえるたび、少しだけ耳へ残る。
「じゃあ、明日返して」
「分かった」
「忘れないでね」
「絢辻さんじゃあるまいし」
彼女が足を止める。
「どういう意味?」
「忘れ物をしなさそうって意味」
「望月君と違ってね」
「付け加えなくてもよかっただろ」
絢辻さんが小さく笑う。
公園の入口へ向けて、二人で歩き始めた。先ほどまで犬へ怒っていたことなど、もう表情からは分からない。
「さっきの人に、怒らなかったんだね」
「飼い主の人?」
「うん。絢辻さん、かなり怒ってたのに」
「犬にね」
絢辻さんは前を向いたまま答える。
「飼い主には?」
「ちゃんと謝っていたでしょう?」
「それはそうだけど」
「わざとじゃないのに、怒ったって仕方ないじゃない」
その答えが少し意外で、思わず横顔を見る。
「意外と優しいんだ」
「意外は余計」
「手帳を見た後だと、少しだけ」
口にしてから、失敗したと思った。
あまり人のいない公園とはいえ、完全に二人きりではない。それに、手帳のことを気軽に話題へ出すべきでもなかった。
絢辻さんの歩みが、ほんの一瞬だけ遅くなる。
「手帳に何を書いていても」
声は小さかった。
「何でもかんでも怒鳴り散らすような人間じゃないわよ」
「うん。ごめん」
「また謝る」
僕は少しだけ歩幅を緩める。
「嫌だったかなと思って」
「だったら、最初から言わないことね」
「気をつける」
数歩、会話のない時間が続く。
公園の出口が近づく。
「でも」
絢辻さんが言った。
「今のは、本当に気にしなくていい」
「どっち?」
「手帳のことを出したこと」
思わず彼女を見る。
「いいの?」
「全部避けられるのも、それはそれで不自然でしょう?」
絢辻さんは前を向いている。
「ただし、場所は考えて」
「分かった」
それで話が終わったと思ったところで、彼女がもう一度口を開く。
「それから」
「まだある?」
「今日のことは、誰にも言わないで」
予想していたお願いだった。
「犬のこと?」
「それ以外に何があるのよ」
「おんぶしたことも?」
絢辻さんが足を止めた。
僕も少し遅れて立ち止まる。
「特に、それ」
「どうして?」
「どうしてって……」
絢辻さんは、すぐには続きを言わなかった。
教室でなら、いくらでも自然な理由を並べられそうな人なのに、珍しく少しだけ言葉へ詰まっている。
「変な噂になったら困るでしょう?」
「僕と?」
「誰とでも」
「そっか」
何となく。
先ほどまでとは違う意味で、少しだけ残念に思った。
何を期待していたのか。
自分でも、すぐには分からない。
「何、その反応」
「別に」
「何か言いたそう」
絢辻さんが探るようにこちらを見る。
「絢辻さんも、そういうことは気にするんだなと思って」
「当たり前でしょう?」
「人の目は気にしないのかと思ってた」
言った瞬間。
違う。
むしろ、人からどう見られるかを誰より気にしている。
手帳の内容も、普段の振る舞いも、僕が秘密を話さないか警戒したことも。
全て、そこへつながっている。
「……ごめん。今のは違った」
「何が?」
「絢辻さんは、人の目を気にしないんじゃなくて」
言葉を探す。
「気にしてないように見せるのが上手いのかなって」
絢辻さんの表情から、笑みが消えた。
怒っている。
そう思い、一歩だけ距離を取ろうとする。
「望月君」
「うん」
「余計なところを見るって、前にも言ったよね?」
声は低い。
「言われた」
「なら、少しは直して」
「努力する」
絢辻さんが僅かに目を細める。
「そればっかり」
本気で怒っている時とは、少し違うように感じた。
絢辻さんは再び歩き始める。
僕も隣へ並ぶ。
「でも」
彼女は、こちらを見ないまま続けた。
「今日、来てくれたことは助かった」
「悲鳴が聞こえたからね」
「普通なら、知らないふりをする人もいるでしょう?」
「声が聞き覚えあった気がしたから」
そう答えると、絢辻さんが横目でこちらを見る。
「本当?」
「近づいてから分かったんだけど」
「何それ」
絢辻さんが呆れたように息を吐く。
「結局、誰の声か分からないまま来たってこと?」
「そうなるね」
「やっぱり、お人好し」
「気にしいって言ってほしいな」
僕の訂正を、絢辻さんは簡単に切り捨てる。
「どっちでも同じよ」
「違うと思うけど」
公園を出る。
僕たちの帰る方向は途中まで同じだった。自然と並んだまま、駅へ続く歩道へ進む。
数分前。
背中に感じていた重み。肩へ回されていた腕。すぐ近くで聞こえた声。
思い出さないようにすると、余計にはっきり浮かんでくる。
「望月君」
「何?」
「今、変なこと考えてない?」
「考えてないよ」
少し遅れて答えたせいで、絢辻さんの視線が鋭くなる。
「返事が遅かった」
「疲れてるんだよ」
「ふうん」
絢辻さんは、疑うように僕を見る。
その後、何かを思いついたように口元を緩めた。
「今日のことを誰かに話したら、望月君の手帳の評価へ追加しておくから」
「何て?」
「女子を背負うと動揺して、まともに話せなくなる」
「それ、さっき自分で証明しようとしてなかった?」
絢辻さんがわざとらしく首を傾げる。
「あら、何のこと?」
「公園中に変態がいるって知らせた人がいたよね」
「気のせいじゃない?」
「今日、気のせいを便利に使いすぎじゃない?」
僕が呆れて言うと、絢辻さんは悪びれもしない。
「望月君に言われたくないわ」
「それに、もう手帳には書かないんじゃなかった?」
「別の手帳を作るかもしれないでしょう?」
「やめてよ」
一瞬だけ間を置いて、絢辻さんが笑う。
「冗談」
「分かりにくいなぁ」
「望月君の反応が面白いから」
そう言って笑う。
学校でクラスメイトへ見せる、綺麗に整った笑顔ではない。
少し意地が悪く。
さっき僕を変態扱いした時のように、ただ自分が面白いから笑っている。
この笑い方にも、少しずつ慣れてきた。
慣れてきたことがいいことなのかは、まだ分からない。
ただ。
以前よりも、こちらの笑顔の方が見たいと思い始めていることだけは。
そろそろ、認めてもいいのかもしれなかった。