絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第九話 ヒメイ

 

 次の日の放課後。

 

 部活を終えた僕は、駅へ続く道を一人で歩いていた。

 

 辺りは既に暗くなり始めている。完全な夜というほどではないが、建物の影へ入れば足元が見えにくくなる程度には日が落ちていた。冬至が近いからだろう。夏なら、同じ時刻でもまだ明るかったはずだ。

 

 商店街を通る道ではなく、公園を横切る方を選んだのも、少しでも早く駅へ着きたかったからだった。別に急ぐ予定があるわけではない。ただ、部活の後はなるべく早く家へ帰りたくなる。

 

 身体を動かしている間は気にならなかった寒さも、練習が終わった瞬間から急に存在を主張し始める。上着を着ているとはいえ、汗の引いた身体へ冬の風が入り込む感覚は、あまり気持ちのいいものではない。

 

「今日は、いつもより疲れたな……」

 

 大会が近いわけでもない。特別厳しい練習だったわけでもない。ただ、視聴覚室の片づけで遅れた昨日の分まで走ろうと、少しだけ張り切りすぎたらしい。

 

 僕は部内で目立つ選手ではない。練習へ少し遅れたところで、顧問から軽く注意される程度だった。それでも、遅れた分を何となく取り返しておきたくなる。

 

 誰かに求められたわけではない。

 

 むしろ、そういうところが気にしすぎだと言われる理由なのだろう。

 

「きゃっ!」

 

 公園の奥から、女性の短い悲鳴が聞こえた。

 

 足が止まる。

 

 大声というほどではなかった。遊んでいた子どもが転んだとか、虫を見つけたとか、その程度でも出る声かもしれない。

 

 冬の夕方とはいえ、周囲に人が全くいないわけでもない。わざわざ自分が確認する必要はないだろう。

 

 そう考えながらも、結局、僕は声のした方へ足を向けていた。

 

 放っておいたら気になる。

 

 以前、絢辻さんへ話した通りだった。

 

 公園の中央には、小さな広場がある。その周囲へ植えられた低い木々を抜けると、ベンチや水飲み場が並んでいた。

 

 人影は二つ。

 

 一人は、小型犬のリードを手にした年配の女性。

 

 もう一人は。

 

「本当に申し訳ありません!」

 

「いえ。大丈夫ですから」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 絢辻さんが、片足を僅かに持ち上げた状態で立っている。制服姿。片腕には鞄を抱え、もう片方の手でスカートの端を少し持ち上げていた。持ち上げているといっても膝が見えるほどではなく、裾が何かへ触れないようにしているだけらしい。

 

 対する小型犬は、状況など何も理解していない様子で、飼い主の足元を元気に歩き回っていた。

 

「でも、お靴が……」

 

「少し洗えば落ちると思います。ワンちゃんも、悪気があったわけではないでしょうし」

 

「本当にごめんなさいね。ほら、あなたも謝りなさい!」

 

 女性がリードを軽く引く。

 

 犬は一度だけ絢辻さんを見上げ、それから何事もなかったように鼻を地面へ近づけた。謝罪する気は、少なくとも今のところなさそうだ。

 

「気にしないでください」

 

 絢辻さんは笑っていた。

 

 いつもの、相手を安心させる笑顔。

 

 女性は何度か頭を下げた後、犬を連れて公園の出口へ向かっていった。

 

 その姿が十分に離れたところで、絢辻さんの笑顔が消えた。

 

「……最悪」

 

 小さく呟く。

 

 随分と感情のこもった声だった。

 

「絢辻さん?」

 

「え?」

 

 声をかけると、絢辻さんが勢いよく振り返った。

 

「望月君?」

 

「うん」

 

 驚いた顔のまま、彼女が僕と公園の出口を交互に見る。

 

「いつからいたの?」

 

「最後の方だけ。何か悲鳴が聞こえたから」

 

 僕は彼女の足元へ視線を落とす。

 

 片方の革靴。つま先から側面にかけて、濡れたような跡がついている。

 

 雨は降っていない。近くに水たまりもない。

 

 先ほどまでいた小型犬。

 

 状況を合わせれば、何が起きたのかは何となく理解できた。

 

「もしかして、犬に――」

 

「おしっこを引っ掛けられたのよ」

 

 僕の言葉を遮り、絢辻さんが答えた。

 

 怒っている。

 

 いつもの笑顔がないことを差し引いても、分かりやすいほどに怒っている。

 

「それは……災難だったね」

 

「今、笑いそうになったでしょう?」

 

「なってないよ」

 

「口元が動いた」

 

 僕は反射的に公園の水飲み場へ視線を逸らした。

 

「気のせいだと思う」

 

「こっちを見て言いなさい」

 

 どうやら、その動作自体が答えになってしまったらしい。

 

「ごめん。状況が少し予想外だっただけで」

 

「それを笑ってるって言うんじゃない?」

 

「絢辻さんでも、こういうことが起きるんだなと思って」

 

 絢辻さんの眉がぴくりと動く。

 

「どういう意味?」

 

「犬も近づけないような雰囲気があるから」

 

「むしろ近づいてきた結果がこれなのよ!」

 

 絢辻さんが、持ち上げていた足を少し動かす。靴を地面へ下ろしかけ、すぐに顔をしかめて再び浮かせた。

 

「中まで入ったの?」

 

「少しだけ」

 

「靴下も?」

 

「……聞く必要ある?」

 

 別に変な意味で尋ねたわけではない。ただ、足元を見たまま質問したせいか、少し失礼なことを聞いたような気もしてきた。

 

「洗った方がいいかと思って」

 

「靴の縁に少しかかっただけ。直接はほとんど大丈夫」

 

「なら、あそこの水道で洗えば落ちそうだね」

 

「そうしようと思ってる」

 

 水道までは、ここから十数メートル程度。遠いわけではない。

 

「じゃあ、行こうか」

 

「行けるなら、とっくに行ってるわよ」

 

「え?」

 

 絢辻さんが浮かせた靴を嫌そうに見る。

 

「この足を地面へつけたくないの」

 

「でも、片足で行くのは危ないだろ」

 

「だから困ってるの」

 

 苛立たしそうに答える一方で、浮かせた片足だけで立ち続けることにも疲れてきたらしい。何度か小さく身体が揺れている。

 

「肩、貸そうか?」

 

「肩?」

 

「僕につかまって、片足で少しずつ移動するとか」

 

「余計に時間がかかるでしょう?」

 

 確かに、その距離を跳ねるように進むのは現実的ではない。

 

「じゃあ、靴を脱いで歩く?」

 

「地面が冷たいし、汚い」

 

「確かに」

 

 舗装されているとはいえ、公園の地面だ。雨上がりではないが、砂や落ち葉が散っている。靴下のまま歩く場所ではなかった。

 

 考えられる方法は、あと一つ。

 

 ただ、それを僕から提案していいものかは少し迷った。

 

「何?」

 

 絢辻さんが僕を見る。

 

「さっきから、何か考えてる顔をしてるけど」

 

「水道まで運ぼうか?」

 

「どうやって?」

 

 一度言葉を飲み込んでから、口にする。

 

「おんぶ」

 

 一瞬。

 

 絢辻さんが何も言わなくなった。

 

 断られるだろう。もしくは、馬鹿にしているのかと怒られるかもしれない。自分でも、少し直接的すぎる提案だったと思う。

 

「嫌なら、別の方法を――」

 

「他にあるの?」

 

「今のところは思いつかない」

 

「そう」

 

 絢辻さんは、水道までの距離を確認する。続いて、自分の靴。最後に、僕へ視線を向けた。

 

「絶対に落とさない?」

 

「それくらいの距離なら」

 

「それくらい?」

 

「多分、大丈夫」

 

 絢辻さんの目が細くなる。

 

「多分をつけないで」

 

「絶対に落とさないよ」

 

 言い直す。

 

 絢辻さんは、まだ疑うように僕を見ていた。

 

「変なことも考えない?」

 

「それは……」

 

「どうして黙るの?」

 

 思わず答えに詰まる。何も考えないと言い切る方が、かえって怪しい気がした。

 

「何も考えないと言い切ると、逆に嘘っぽくない?」

 

「開き直るつもり?」

 

「そうじゃなくて。女の子を背負うのは初めてだから、緊張くらいはすると思う」

 

「余計なことまで正直に言わなくていい」

 

 絢辻さんが小さくため息を吐く。

 

「でも、仕方ないか」

 

「いいの?」

 

「ここで片足立ちを続けるよりはね」

 

 許可が出た。

 

 出たのだが。

 

 今度は僕の方が、急に意識してしまう。

 

 提案した時には、ほとんど移動手段としてしか考えていなかった。実際に背負うと決まった途端、話が違って感じられた。

 

「どうしたの?」

 

「いや」

 

「早くして。足が疲れてきたんだけど」

 

「分かったよ」

 

 僕は絢辻さんへ背中を向け、その場へしゃがみ込んだ。

 

 鞄を前へ回す。部活用の荷物も入っているため、背負ったままでは邪魔になる。

 

「乗って」

 

「……本当に大丈夫?」

 

「さっき絶対に落とさないって言っただろ」

 

「望月君、運動部だけど運動神経は普通そうだから」

 

 振り返れないまま、少しだけ肩を落とす。

 

「今、必要のない分析をされた気がする」

 

「手帳には書いてないから安心して」

 

「余計に傷つくなぁ」

 

 後ろから、絢辻さんが僅かに笑う声が聞こえた。

 

 次の瞬間。

 

 肩へ、両腕が回される。

 

 続いて、背中へ柔らかな重みがかかった。

 

 思っていたより軽い。

 

 いや、女子生徒を背負った経験がないのだから、何と比べて軽いと思ったのかは分からない。少なくとも、部活で運ぶ器具よりは軽かった。

 

「立つよ」

 

「うん」

 

 絢辻さんの膝の裏へ腕を回し、ゆっくりと立ち上がる。身体が傾かないよう、一度足元へ力を入れ直した。

 

「大丈夫?」

 

「今のところは」

 

「何、その言い方」

 

 背中で絢辻さんが少し体勢を直す。

 

「望月君がふらついたら、すぐに降りられるようにしてるの」

 

「そんなに信用ない?」

 

「信用は積み重ねるものなんでしょう?」

 

「それ、絢辻さんが言った言葉じゃないか」

 

「だから使ったの」

 

 水道へ向かって歩き始める。

 

 十数メートル。

 

 普段なら何も考えずに歩ける距離だった。

 

 今は、一歩ずつ妙に意識する。

 

 絢辻さんの腕が、僕の肩の前で組まれている。歩くたび、背中へ伝わる重みが僅かに動き、黒い髪の一部が僕の頬へ触れた。

 

 石鹸に似た匂い。

 

 以前、相合い傘で歩いた時にも感じたものだった。

 

「望月君」

 

「何?」

 

「身体が固い」

 

「落とさないようにしてるんだよ」

 

 耳元で絢辻さんが小さく息を吐く。

 

「普通に歩けば大丈夫でしょう?」

 

「背負われてる側は気楽だな」

 

「そう?」

 

 声に僅かに笑いが混じった。

 

「ところで望月君」

 

「今度は何?」

 

「手」

 

「手?」

 

 何を言われるのか分からず、足を少しだけ緩める。

 

「変なところ、触ってないでしょうね?」

 

 反射的に、自分の手へ意識が向いた。

 

 両腕は膝の裏を支えている。それ以外の場所へ触れているつもりはない。

 

「触ってないよ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「さっきから妙に緊張してるし」

 

 絢辻さんの声が、わざと疑うような響きを帯びる。

 

「女の子を背負うのが初めてだって言っただろ」

 

「ふうん」

 

 背中で、絢辻さんがわざとらしく少し身体を動かした。

 

「ちょっ、動かないで。危ないって」

 

「どうして?」

 

「落としたら困るから」

 

「それとも」

 

 耳元へ顔を寄せたのか、声が一段近くなる。

 

「あたしが動くと、何か困ることでもあるの?」

 

「何でそうなるんだよ」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 すぐ後ろから、小さな笑い声が聞こえる。

 

「あら。動揺してる」

 

「してない」

 

「してるでしょう?」

 

「してないって」

 

 否定するほど、絢辻さんの笑い声が楽しそうになる。

 

「怪しいわね」

 

「絢辻さん」

 

「なあに?」

 

「絶対楽しんでるだろ」

 

「さあ?」

 

 完全に楽しんでいる声だった。

 

 さっきまで犬に靴を汚されて、本気で機嫌を悪くしていた人と同じとは思えない。

 

「もう少しで着くから、大人しくしてて」

 

「命令するの?」

 

「お願い」

 

「どうしようかな」

 

 僕は前を見たまま、長く息を吐いた。

 

「絢辻さん……」

 

 名前を呼ぶと、背中からまた笑い声が聞こえた。

 

 次の瞬間。

 

 絢辻さんが大きく息を吸う気配がした。

 

 嫌な予感がする。

 

「みなさーん、ここに変態がいますよー!」

 

「ちょっ、絢辻さん!」

 

 夕方の公園に、思っていた以上によく通る声が響いた。

 

 反射的に足を止める。

 

「何するんだよ!」

 

「だって、面白いんだもの」

 

「誰か来たらどうするの?」

 

「望月君が変態だと思われるだけでしょう?」

 

 あまりにも当然のように言われ、思わず振り返りそうになる。

 

「僕しか被害を受けてないよね?」

 

「嫌なら下ろせば?」

 

「下ろしたら、水道まで行けないだろ」

 

「じゃあ我慢しなさい」

 

「横暴すぎる……」

 

 絢辻さんは僕の抗議など気にした様子もない。

 

「もう一回言おうか?」

 

「絶対やめて」

 

「変態」

 

「それもやめて」

 

 背中から笑い声が聞こえる。

 

「望月君、顔赤くなってない?」

 

「後ろから見えないだろ」

 

「あ、図星?」

 

「……違うよ」

 

 少し間を置いてから返したせいか、絢辻さんの声がさらに楽しそうになる。

 

「返事が遅かった」

 

「歩いてるからだよ」

 

「ふうん」

 

 信じていない。

 

 それどころか、さらにからかう材料を探しているようにしか聞こえなかった。

 

「絢辻さん、さっきまで怒ってなかった?」

 

「怒ってるわよ」

 

「楽しそうだけど」

 

「望月君をからかうのと、犬に怒ってるのは別でしょう?」

 

 肩へ回された腕に、少しだけ力が入る。

 

「器用だなぁ」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

「ほら。早く行って」

 

 僕は止まっていた足を再び動かす。

 

「誰のせいで止まったと思ってるの?」

 

「望月君が動揺するからでしょう?」

 

「僕のせいになったの?」

 

「そうね」

 

 即答だった。

 

「理不尽だ……」

 

 再び歩き始める。

 

 耳元から、まだ小さな笑い声が聞こえていた。

 

 学校でクラスメイトに囲まれている時には、たぶんしない笑い方だった。

 

 相手を安心させるためでもない。感じよく見せるためでもない。

 

 ただ、僕が困っているのが面白いから笑っている。

 

 性格がいいとは言えない。

 

 なのに。

 

 何故だか、嫌ではなかった。

 

「落ちたら困るのは、あたしだもの」

 

「僕も困るよ」

 

「どうして?」

 

「怪我させたら気になるから」

 

 絢辻さんの声から、少しだけからかう調子が薄れた。

 

「また、それ」

 

「何?」

 

「気になる、気になるって」

 

 耳の近くで声が聞こえる。

 

 普段より、ずっと近い。

 

 振り返ることはできない。もし今顔を横へ向ければ、すぐそこに絢辻さんの顔があるはずだった。

 

「望月君は、一生何かを気にしてそう」

 

「否定できないな」

 

「疲れない?」

 

「疲れる時もあるよ」

 

 少し考えるような間が空く。

 

「やめればいいのに」

 

「できたら苦労してない」

 

「それなら、あたしが利用しても文句は言えないね」

 

「それは別の話だろ」

 

 絢辻さんが、僕の肩へ額を軽く当てる。

 

「断ればいいでしょう?」

 

「努力はするよ」

 

「まだ言ってる」

 

 笑っているのか。単に姿勢を安定させただけなのか。

 

 背中を向けているため、表情は分からなかった。

 

 水道へ到着する。

 

「着いたよ」

 

「じゃあ、下ろして」

 

 再びしゃがむ。

 

 絢辻さんの足が地面へつかないように注意しながら身体を下げる。

 

 彼女は綺麗な方の足だけを先に地面へ置き、僕の肩から腕を離した。

 

 背中から重みがなくなる。

 

 少しだけ寒くなったように感じた。

 

 単純に、密着していた分の体温がなくなっただけだろう。

 

「思ってたより、ちゃんと運べたわね」

 

「疑いすぎだよ」

 

「一応、褒めたつもり」

 

「一応なんだ」

 

 絢辻さんは汚れた靴を見た後、少しだけ視線を逸らした。

 

「ありがとう」

 

 最後だけ、小さな声だった。

 

「どういたしまして」

 

 僕は水道の蛇口をひねる。

 

 冬の水が勢いよく流れ出した。

 

「冷たそうだな」

 

「見れば分かるでしょう?」

 

「触らなくても?」

 

「水道の水が温かいと思う?」

 

 絢辻さんが呆れたように僕を見る。

 

「もしかしたら、ということも」

 

「ないわよ」

 

 絢辻さんは片足で立ったまま、汚れた靴を脱いだ。

 

 僕の肩へ片手を置き、姿勢を支える。

 

「これ、持ってて」

 

 脱いだ靴を渡される。

 

「僕が洗おうか?」

 

「そこまでしなくていい」

 

「でも、その状態だと洗いにくいだろ」

 

 絢辻さんは片足のまま水道と靴を見比べ、少し迷う。

 

「……そうね」

 

 やがて、靴を差し出した。

 

「ちゃんと綺麗にして」

 

「注文が多いなぁ」

 

「持ち主として当然の要求よ」

 

 靴の表面へ水を流す。

 

 濡れた部分を直接触らないようにしながら、何度か角度を変える。幸い、汚れはすぐに落ちたように見えた。

 

「このくらいでいい?」

 

「もう少し」

 

「まだ?」

 

「念のため」

 

 僕は靴を裏返しながら水を流す。

 

「形が変わりそうだけど」

 

「それは困る」

 

「じゃあ、このくらいにしておこう」

 

 水を止める。

 

 濡れた靴を軽く振った。もちろん、それだけで乾くわけではない。

 

「履くには濡れてるね」

 

「分かってる」

 

 絢辻さんが、少し嫌そうに靴を見る。

 

「タオルあるよ」

 

「どうして?」

 

「部活帰りだから」

 

 鞄から、練習後に使うための予備のタオルを取り出す。今日使ったものとは別。少し小さいが、靴の水分を拭き取る程度なら十分だろう。

 

「新品?」

 

「洗ったものだよ」

 

「なら借りる」

 

 思わず笑う。

 

「そこは確認するんだ」

 

「使用済みの汗がついたタオルを渡されたら嫌でしょう?」

 

「さすがに渡さないよ」

 

 タオルで靴の表面を拭く。

 

 僕がそのまま作業していると、絢辻さんが不思議そうにこちらを見た。

 

「望月君が拭くの?」

 

「途中までやったから」

 

「変なところで律儀ね」

 

「絢辻さんが片足で立ってる方が危ないだろ」

 

 絢辻さんは僕の肩へ置いた手に少しだけ体重を預ける。

 

「肩につかまってるから大丈夫」

 

 実際、絢辻さんの手はまだ僕の肩へ置かれている。

 

 細い指。

 

 制服の上からなので、手の温度まではほとんど分からない。それでも、そこに触れられていることを意識すると、急に手元がぎこちなくなった。

 

「動かないでよ」

 

「動いてないよ」

 

「今、靴を落としかけたでしょう?」

 

「気のせい」

 

 絢辻さんの眉が上がる。

 

「今日の望月君、気のせいが多いわね」

 

 水分を十分に拭き取り、靴を返す。

 

 完全に乾いたわけではないが、履いて歩ける程度にはなったと思う。

 

 絢辻さんが靴へ足を入れる。何度か爪先を動かし、感触を確かめた。

 

「どう?」

 

「少し湿ってる」

 

「それは仕方ないよ」

 

 もう一度爪先を動かした後、絢辻さんが頷く。

 

「まあ、さっきよりはずっとまし」

 

「よかった」

 

 使用したタオルをビニール袋へ入れ、鞄へ戻す。

 

「あとで洗って返すね」

 

「タオル?」

 

「そう」

 

「別にいいよ。家で洗うから」

 

 絢辻さんが、少し意外そうに僕を見る。

 

「私の靴を拭いたのに?」

 

 いつの間にか、一人称が戻っていた。

 

 近くを、犬を散歩させている別の人が通り過ぎる。

 

 絢辻さんは、その人へ気づいたのかもしれない。それとも、もう二人きりで話す必要がなくなったからなのか。

 

 細かい違い。

 

 以前なら気づかなかった。

 

 今は聞こえるたび、少しだけ耳へ残る。

 

「じゃあ、明日返して」

 

「分かった」

 

「忘れないでね」

 

「絢辻さんじゃあるまいし」

 

 彼女が足を止める。

 

「どういう意味?」

 

「忘れ物をしなさそうって意味」

 

「望月君と違ってね」

 

「付け加えなくてもよかっただろ」

 

 絢辻さんが小さく笑う。

 

 公園の入口へ向けて、二人で歩き始めた。先ほどまで犬へ怒っていたことなど、もう表情からは分からない。

 

「さっきの人に、怒らなかったんだね」

 

「飼い主の人?」

 

「うん。絢辻さん、かなり怒ってたのに」

 

「犬にね」

 

 絢辻さんは前を向いたまま答える。

 

「飼い主には?」

 

「ちゃんと謝っていたでしょう?」

 

「それはそうだけど」

 

「わざとじゃないのに、怒ったって仕方ないじゃない」

 

 その答えが少し意外で、思わず横顔を見る。

 

「意外と優しいんだ」

 

「意外は余計」

 

「手帳を見た後だと、少しだけ」

 

 口にしてから、失敗したと思った。

 

 あまり人のいない公園とはいえ、完全に二人きりではない。それに、手帳のことを気軽に話題へ出すべきでもなかった。

 

 絢辻さんの歩みが、ほんの一瞬だけ遅くなる。

 

「手帳に何を書いていても」

 

 声は小さかった。

 

「何でもかんでも怒鳴り散らすような人間じゃないわよ」

 

「うん。ごめん」

 

「また謝る」

 

 僕は少しだけ歩幅を緩める。

 

「嫌だったかなと思って」

 

「だったら、最初から言わないことね」

 

「気をつける」

 

 数歩、会話のない時間が続く。

 

 公園の出口が近づく。

 

「でも」

 

 絢辻さんが言った。

 

「今のは、本当に気にしなくていい」

 

「どっち?」

 

「手帳のことを出したこと」

 

 思わず彼女を見る。

 

「いいの?」

 

「全部避けられるのも、それはそれで不自然でしょう?」

 

 絢辻さんは前を向いている。

 

「ただし、場所は考えて」

 

「分かった」

 

 それで話が終わったと思ったところで、彼女がもう一度口を開く。

 

「それから」

 

「まだある?」

 

「今日のことは、誰にも言わないで」

 

 予想していたお願いだった。

 

「犬のこと?」

 

「それ以外に何があるのよ」

 

「おんぶしたことも?」

 

 絢辻さんが足を止めた。

 

 僕も少し遅れて立ち止まる。

 

「特に、それ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……」

 

 絢辻さんは、すぐには続きを言わなかった。

 

 教室でなら、いくらでも自然な理由を並べられそうな人なのに、珍しく少しだけ言葉へ詰まっている。

 

「変な噂になったら困るでしょう?」

 

「僕と?」

 

「誰とでも」

 

「そっか」

 

 何となく。

 

 先ほどまでとは違う意味で、少しだけ残念に思った。

 

 何を期待していたのか。

 

 自分でも、すぐには分からない。

 

「何、その反応」

 

「別に」

 

「何か言いたそう」

 

 絢辻さんが探るようにこちらを見る。

 

「絢辻さんも、そういうことは気にするんだなと思って」

 

「当たり前でしょう?」

 

「人の目は気にしないのかと思ってた」

 

 言った瞬間。

 

 違う。

 

 むしろ、人からどう見られるかを誰より気にしている。

 

 手帳の内容も、普段の振る舞いも、僕が秘密を話さないか警戒したことも。

 

 全て、そこへつながっている。

 

「……ごめん。今のは違った」

 

「何が?」

 

「絢辻さんは、人の目を気にしないんじゃなくて」

 

 言葉を探す。

 

「気にしてないように見せるのが上手いのかなって」

 

 絢辻さんの表情から、笑みが消えた。

 

 怒っている。

 

 そう思い、一歩だけ距離を取ろうとする。

 

「望月君」

 

「うん」

 

「余計なところを見るって、前にも言ったよね?」

 

 声は低い。

 

「言われた」

 

「なら、少しは直して」

 

「努力する」

 

 絢辻さんが僅かに目を細める。

 

「そればっかり」

 

 本気で怒っている時とは、少し違うように感じた。

 

 絢辻さんは再び歩き始める。

 

 僕も隣へ並ぶ。

 

「でも」

 

 彼女は、こちらを見ないまま続けた。

 

「今日、来てくれたことは助かった」

 

「悲鳴が聞こえたからね」

 

「普通なら、知らないふりをする人もいるでしょう?」

 

「声が聞き覚えあった気がしたから」

 

 そう答えると、絢辻さんが横目でこちらを見る。

 

「本当?」

 

「近づいてから分かったんだけど」

 

「何それ」

 

 絢辻さんが呆れたように息を吐く。

 

「結局、誰の声か分からないまま来たってこと?」

 

「そうなるね」

 

「やっぱり、お人好し」

 

「気にしいって言ってほしいな」

 

 僕の訂正を、絢辻さんは簡単に切り捨てる。

 

「どっちでも同じよ」

 

「違うと思うけど」

 

 公園を出る。

 

 僕たちの帰る方向は途中まで同じだった。自然と並んだまま、駅へ続く歩道へ進む。

 

 数分前。

 

 背中に感じていた重み。肩へ回されていた腕。すぐ近くで聞こえた声。

 

 思い出さないようにすると、余計にはっきり浮かんでくる。

 

「望月君」

 

「何?」

 

「今、変なこと考えてない?」

 

「考えてないよ」

 

 少し遅れて答えたせいで、絢辻さんの視線が鋭くなる。

 

「返事が遅かった」

 

「疲れてるんだよ」

 

「ふうん」

 

 絢辻さんは、疑うように僕を見る。

 

 その後、何かを思いついたように口元を緩めた。

 

「今日のことを誰かに話したら、望月君の手帳の評価へ追加しておくから」

 

「何て?」

 

「女子を背負うと動揺して、まともに話せなくなる」

 

「それ、さっき自分で証明しようとしてなかった?」

 

 絢辻さんがわざとらしく首を傾げる。

 

「あら、何のこと?」

 

「公園中に変態がいるって知らせた人がいたよね」

 

「気のせいじゃない?」

 

「今日、気のせいを便利に使いすぎじゃない?」

 

 僕が呆れて言うと、絢辻さんは悪びれもしない。

 

「望月君に言われたくないわ」

 

「それに、もう手帳には書かないんじゃなかった?」

 

「別の手帳を作るかもしれないでしょう?」

 

「やめてよ」

 

 一瞬だけ間を置いて、絢辻さんが笑う。

 

「冗談」

 

「分かりにくいなぁ」

 

「望月君の反応が面白いから」

 

 そう言って笑う。

 

 学校でクラスメイトへ見せる、綺麗に整った笑顔ではない。

 

 少し意地が悪く。

 

 さっき僕を変態扱いした時のように、ただ自分が面白いから笑っている。

 

 この笑い方にも、少しずつ慣れてきた。

 

 慣れてきたことがいいことなのかは、まだ分からない。

 

 ただ。

 

 以前よりも、こちらの笑顔の方が見たいと思い始めていることだけは。

 

 そろそろ、認めてもいいのかもしれなかった。

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バッドエンド後にやり直した人生で、初対面のクラスメイトからなぜか激重感情を向けられている(作者:水島紗鳥)(オリジナル現代/恋愛)

あの日死んだと思っていた俺の人生には彼女しか知らない続きがあったらしい▼高校卒業式の日、受験全落ちと失恋のダブルパンチでどん底だった主人公の忍野瑛人(おしのえいと)は、痴情のもつれが原因で刺されそうになっていた同級生の一色天音(いっしきあまね)を庇って命を落とす。▼だが、気付いた時には三年前である高校入学前の春休みに逆行していた。バッドエンドだった人生をやり…


総合評価:318/評価:7.67/連載:44話/更新日時:2026年08月13日(木) 06:24 小説情報

四角関係(作者:slo-pe)(原作:アオのハコ)

千夏先輩と同学年に、雛ちゃんの幼馴染がいたお話。▼pixiv▼https://www.pixiv.net/novel/series/12880641


総合評価:1333/評価:9/連載:47話/更新日時:2026年08月03日(月) 00:00 小説情報

ヒロイン達の好感度を、何故か友人キャラの俺が知っている(作者:こなひー)(オリジナル現代/恋愛)

https://syosetu.org/novel/392769/▼先日投稿した「ヒロイン達の好感度を友人キャラが知っているのは何故なのか」の長編化版です。▼2章まですでにマルチ投稿済なので、そこまではまとめて投稿します。▼以降は週2話、水曜と日曜に更新していく予定です。▼「友田、今の彼女たちからの好感度を教えてくれ」▼「ああ、わかった」▼ 自称主人公の青野…


総合評価:3242/評価:7.88/連載:58話/更新日時:2026年08月09日(日) 23:00 小説情報

絶対防壁の転生者は平穏に暮らしたい(作者:雨風 時雨)(原作:魔法科高校の劣等生)

「――お兄様、ごめんなさい。私はこの方をお守りします」▼攻撃力最低の二科生(ウィード)として入学した転生者・御守漣。彼の目的はただ一つ、原作に関わらず平穏に卒業すること。▼しかし、過去に偶然『深雪の命を救ってしまった』せいで、氷の美姫から狂おしいほどの愛と庇護を向けられ、結果的にシスコンの極みである『司波達也』からガチの殺意を向けられるハメに!?▼最強の矛(…


総合評価:2795/評価:7.1/連載:14話/更新日時:2026年08月12日(水) 02:45 小説情報

帰還者、玄界の生活を満喫するってよ(作者:ユンケ)(原作:ワールドトリガー)

8年前、近界に拉致された1人の男が帰ってきた。▼帰ってきた男は、元の世界で幼馴染と遊んだり、戦闘狂と戦り合ったり、セレブが作る料理を食べたり、セクハラエリートと風俗に行こうとしたり、ゲーマーおっさんと変なトリガーを開発したりと自由気ままに生きていくのだった。▼彼が織り成す物語が始まっていく。


総合評価:1179/評価:7.97/連載:21話/更新日時:2026年08月11日(火) 00:00 小説情報


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