「ただいま」
これからの事に心を躍らせながら帰宅した。
靴を脱ぎ廊下を進むと、扉が開きっぱなしなっている部屋に母親を見つける。なにやら着替えの最中だった。ああでもないこうでもないと、押し入れの中の服を散らかしていく。
気づいた母親が、首だけで振り返った。これでもかと濃い口紅の赤が目立つ。
「おかえりー。今晩は帰ってこないから適当にコンビニで済ませといてー」
「新しい人?」
端的に訪ねた。
「そ、前の人駄目になっちゃったから」
「ああ、ニュースで見た」
「やだ恥ずかしい」
年甲斐もなく黄色い声を上げる母親から目を逸らす。何故この人が母親なのだろう? 素朴だけどずっと昔から持っている疑問だった。
今度の男はどんなのだろうか? 前は下っ端のヤクザだった。だから馬鹿やって察のお世話になって公に名前を晒した。ついこの間のことだ。
「そういえば」
母親が思い出したかのように呟きながら、近場の引き出しの中を探る。
「これあげる」
見ると黒い拳銃だった。
「あの人が忘れていったんだけど、もしかしたら警察さんが来るかもしれないから見つからないように適当に処分しといて」
そういえば以前に銃を見せられて自慢されたことがあったなと思い出す。せめて回収してから捕まれよ。
心の中で悪態を吐くが、目の前の厄介な物が無くなるわけでは無い。
受け取って、確かこうだったかなとマガジンを取り外す。確認すると一杯まで銃弾が詰められていた。
いつでも使える状態にげんなりとした。もう海に投げ捨てるぐらいしか選択肢は無いではないか。
「ほら。もう出てって。準備で忙しいんだから」
追い出される。
手に残った鉄の塊を見る。今夜は忙しいんだ。捨てに行く暇なんてあるものか。
ああそうだ。今夜は特別だった。だったらこのタイミングで手に入るなんて出来過ぎている。使えってことだろうか?
気分の良い俺は、全てが俺のために誂えられているように思えた。
春先の夜分はまだ寒い。まあいいんだけどね。これからを考えるとその先に想いを馳せる。
たどり着いた動物病院はまだ明かりがついていた。ガラスの向こうで妙齢の女性が戸棚の瓶を整理しているのが見えた。夕方に目があった女性だ。
何時から始まるのだろう? 明かりのついた動物病院と記憶の中の動物病院を比べて、まだ始まりそうにないなとぼんやりと思った。
少し歩けばコンビニが見つかる。商品棚に並べられている菓子パンを眺めて、なんとなくあんパンを手に取った。よく刑事ドラマで張り込み中に囓っているのが見られる。だから、そういうのに向いているのかなと何となく思ったからだ。
ふらふらと病院の前だけは通らないようにそこら辺を歩いて行く。短い間隔で病院の姿を確認できるように経路を組む。
やがて動物病院の明かりが消えて、中から女性が出てくる。その前に止まった一台の自動車。男性と女性が二三言葉を交わす声が車体の向こうから聞こえた。自動車は発車する。後に残ったのは街灯で照らされる動物病院だけとなる。
さっと辺りに目を走らせて人目を確認すると、すうっと動物病院の塀の中に立ち入った。動物病院の横に繋がるように経っているのは先程の女性の家だろう。となると、外食に出かけただけなのかもしれない。
時間が分からないのがネックか。帰ってくる前にあの怪物が来ることに期待するしかない。
建物の裏側に出て、辺りを見る。そこそこの広さで芝が敷き詰められていた。簡易の柵が窓の横に立てかけられているのが見える。なんとなく昼のこの庭の光景を思い浮かべてみて笑みを零した。差し詰め、あの女性は遊ぶ動物たちを母のように見守っているに違いない。
大きく腹まで息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それを三度繰り返す。
これからだ。あの光景が目の前にある。さあ、いつ来る。いつ来る?
ここまでは、俺の記憶に既にある出来事が起こっているということを差し引くと常識の範疇であった。けれど怪物が現れたなら? それは常識ではない。たしかに常識外れの存在の証明に他ならない。
さあ来い。早く来い。
俺は今か今かと待ち侘びている。テメエがやってきてようやく俺は始まることが出来るんだ。
時折風に揺れる木々の擦れた音に反応してはそちらを見て、その度にがっかりとした。
そうこうしている内にようやくその瞬間が訪れた。予想していたど派手な破壊も音もしなかった。
無音で背後に迫っていたソレに気づけたのはギリギリのタイミング。警戒故の落ち着きない挙動の賜物だった。
開かれた大口を見上げて咄嗟に右に倒れ込む。あまり早くない。状況に合わせて速度を変えているのだろう。動物並の知能は持ち合わせているということか。
全身が黒毛に覆われて、切れ長の大きな二対の目だけが紅く光っている。手も足もないナメクジが毛玉になったような形に身震いした。
「ああ、よく来てくれた。まさかその形で常識内の動物なんて言わないだろう」
唸り声は妙に高く、そして低い。まるで堅い壁に覆われた小さな部屋で反響を重ね合わせたような歪な残響は、閑静な住宅街にほとほと不釣り合いだった。
この声に俺は肯定されているように感じて気分が昂揚する。
笑っていた。俺は笑っていた。今日だけでどれだけ笑ったか。仏頂面を引っ提げて、日々の時間の中に流されているよりもどれほど今の自分は生きているのだろう。
活力はこれから先の未来予想図から溢れ出ている。終ぞ得ることの叶わなかった……いや、それよりもずっと極上の、想像すら及ばなかった代物が待っているのだから当然だ。
一歩後ずさる。ピクリと毛玉の体が揺れた。来る――!
ステップを二つ踏んで右へ。今居た場所を黒が駆け抜けていった。空気圧に煽られて仰け反る。そして塀に突撃しただろう轟音を聴く。
怪物が体を引くとガラガラと石片がこぼれ落ちていく。ソレを尻目に怪物の背後を駆けて表の通りに出る。
体についた塵を飛ばすように身を振るわせて、毛玉の紅い目が俺を見た。
さあこっちだ。こっちへ来い。挑発するように左手のひらを差し出して、クイクイと招く。
物語の悪魔めいた目と口の輪郭がさらに愉快げに形を深める。それは笑っているように見えた。
突撃を避けて、挑発する。特定の場所へと導く行動を繰り返した。
直線で結べばジグザグとなる塀の破壊跡。今、怪物は体を塀から抜いているところだった。俺は予め電柱の裏に隠してあったワイヤーソーを引き出して、反対側の電柱に取り付けて置いた金具に端の輪を引っかけた。カチリと音をさせて閉じる。
準備は整った。怪物の方は、ここまで直線で来ていたのを突然曲がったためだろう。何処が首かも判断付かない体で首を回していた。
ようやくと俺に気づく。一歩、二歩三歩、と後退していく。
動いた。怪物の突撃。距離が離れていたためか今までの最高速。
弦の張るように音が震える。俺の仕掛けたワイヤーソーが怪物の輪郭に合わせてしなる。目と鼻の先にまで怪物の顔があった。衝撃となった風が背後に抜けいく。寒気が走る。
思わず後退しながら腰のベルトに引っかけられていたサックに手が伸びた。そこには拳銃が納められている。
ゴリ、と堅い物が抉られる音がした。音の正体に思い至り、青ざめる。電柱が傾いたのだ。
力任せにワイヤーソーを食い破ろうとしている怪物に向けて発砲した。だが効果が無い。
クソっ。どれだけ堅いんだこの化け物! 予定と全然違う。あれだけの速度で張り詰められたワイヤーソーに突進して、食い込みすらしていないなんてどういうことだ。
さらに電柱が傾く。ゴリゴリと石を潰す嫌な音が辺りに飽和していた。
大きな紅い剥き出しの目に続けての発砲。さすがに化け物が怯み悲鳴を上げた。
だが――。同時に怪物の押し出す力で張られていたワイヤーソーは緩み、僅かながらでも助走距離を得た怪物の突進。場は弾けた。
電柱よりも先にワイヤーソーの留め具が弾け飛び、顔を庇うように掲げた右腕の肉は飛来したワイヤーソーに持って行かれる。仰け反った俺は怪物の体当たりを食らう。地面に打ち付けられた背中に呻き、衝撃で肺の空気が一気に口から飛び出す。
まずい!
直感だった。全身に広がる痛みを無視して右に転がった。勢い余り壁に激突するが気にしない。
擦過音。轢殺するつもりの突進。地面に付いているためだろう。宙を飛ぶような速度ではなかったが、地面には薄く白っぽい通り痕が曳かれている。
視線を下――通りの奥――に向けると怪物がこちらに振り返ろうとしているのが見えた。
跳ね起きる。同時に傍らに落ちていた拳銃も拾い構えた。銃把に力を込めると疼痛と共に抉られた肉から血が溢れ出た。左手で支えてはいるがいつまで構えていられるか……。
狙うなら目だ。突撃してきたその瞬間に全弾ぶち込んでやる。
震えた足を、軽く上げて地面に靴底を叩き付けた。
ん、どうした? 様子がおかしい。突撃が無い。
怪物は、そのままT字となっている辻を俺が居るのとは違う方へ進んだ。狐つままれた気分に呆気となった。
あっちは元来た道だ。つまり動物病院がある方向。――あの野郎!? 俺を無視して元の目的を果たすことにしやがった。
追いかけるように一歩を踏み出して足を引かれた。先程地面に叩き付けた方だ。怪物の突撃を受けたとき捻挫している。あのときは仰け反っていたお陰でたまたま、受ける力を受け流すなような形に出来ただけだ……。
知るか。俺には奴の中身が必要なんだ。
走る。
ようやく動物病院前に辿り着いたとき、そこには一人の女の子が動物病院の敷地前に立っていた。
おい、まさか。
そしてそれは突然。少女が頭を押さえたかと思うと次の瞬間には少女が掻き消えるように消えてしまう。
待てよ。なあ何処に行った。これから怪物と戦うんだろう?
動物病院の正面に駆け寄った。ど派手な破壊痕があっても、それが嘘みたいに動物病院の建物は穏やかだった。
なんだ? 本当に何処に消えたんだ。
辺りを見回す。動物病院の敷地に飛び込んで隅から隅まで探した。けど何処にもいない。
たまらず病院が飛び出して、周辺の道路を駆け回った。
そして見つける。道の真ん中が割れて、怪物が暴れた痕のようになっている場所を。そこには誰も居ない。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。
なんだこれ……? 記憶の中で怪物がどうなって少女に倒されたのかは分かる。けれど、現実の俺自身としては全く理解できながった。
あいつら俺の触れられないどこかで勝手に全て終わらせてしまいやがった……。
目にすら映らない何処か。そんな場所をどうにかするなんて方法すら思い浮かばなかった。
「ふっざっけんなー!」
俺は許容を超えて感情のままに叫びあげた。