まどろむ意識の中で、誰かの声が聞こえた。
《歌織………………、歌織…………………》
どこかで聞いたことのある声だった。
すぐそこまで答えは出かかっているのだが、誰の声か思い出せない。
(誰なの、わたしの名前を呼ぶのは………)
《わたしだ……歌織》
声は問いに答えない。
いや、そもそも答える気があるのだろうか。
(なぜわたしの名前を知っているの? あなた、わたしと会ったことがあるの?)
《もちろんだ……お前も知っている……。わたしだ………わたしだ………歌織》
何かを必死に訴えているようだが、先ほどからまるで会話が噛み合わない。
(ねえ、せめて名前だけでも教えてくれないかしら。『あなた』では呼びづらいわ)
歌織の懇願に、相手は一瞬沈黙した。
《……名前なら、先ほどからずっと名乗っている》
まるで禅問答だ。
ますます混乱が深まり、次第に苛立ってくる。
(どういうこと? 言っていることが全然分からないわ)
思わず強い口調で尋ねると、相手はわずかに声のトーンを落とした。
《それではもう一度言う。よく聞け……》
今度こそ聞き逃すまいと、歌織は耳をそばだてる。
《呼びかけているのは……【わたし】だ》
――――ハッ!?
薄暗い部屋で、歌織は目を覚ました。
そばに倒れているのは、桃子と杏奈。
二人とも、虚ろな瞳で天井を見詰めている。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
乱れた息遣いが聞こえた。
誰の………?
………わたしの?
獣じみた顔で、男が覆いかぶさっている。
痛い……。
やめて、もうやめて……、
《……目覚めろ、歌織》
また声が聞こえた。
《わたしの声が聞こえているのなら、目を覚ますのだ、歌織》
不思議な声。
次第に下腹が熱くなってくる。
《目覚めろ、歌織……》
痛い……。
いえ、違う。
この感覚は、痛いのではなく……、
《目を覚ませ……【カオリ】》
パチン!
頭の中で、何かが弾けた。
「う、うぅぅぅうぅぅ……、ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
カッ―――――!!!!
ドオオオォォォォオオォオォォォンッ!!!!
閃光が走り、衝撃波が基地全体を揺るがした。
立ち上がろうとして、自分の身体が漆黒の炎で覆われていることに気付く。
「ようやく目覚めたか、【カオリ】」
瓦礫の向こうで、特務参謀が満足げに微笑む。
「気分はどうだ? デストルドー因子を解放した気分は?」
(デストルドー因子?)
カオリは自分の姿を見下ろした。
全身を包む黒い炎。
これは、まさか……ダークパワー?
「お前の体内には、強力なデストルドー因子が眠っている。それを、いま解放したのだ」
(――――!?)
踵を鳴らしながら、仮面の参謀がコツ、コツと近付いてくる。
「初めて会った時からずっと感じていた。だから浴びせたのだ、わたしの血を」
(血………?)
そういえば人工島で、返り血を浴びたことがあった。
まさかあれが……。
「そしてわたしの血は、時間をかけて少しずつお前の体内に眠るデストルドー因子を呼び起こした。……見ろッ!」
黒い炎が、哀れな将校を焚き木のように燃やしていた。
桃子と杏奈も、漆黒の業火の中でパチパチと音を立てている。
「見えるだろう、深い闇が。聞こえるだろう、力へのいざないが。わたしはずっと感じていたぞ、お前の中にある……もうひとつの存在を!!」
火に囲まれているのに、身体は震えるほど凍え切っていた。
お腹が痛い……。
痛くて寒い……。
寒くて痛い……。
痛くて苦しい……。
だがその痛みが、苦しみが、次第に熱を帯びてくる。
「自分を解き放て、カオリ。そのために、わたしはきっかけを与えたのだ」
仮面の参謀が、ゆっくりと近付いてくる。
鬼火を背に、裂けた唇が耳まで持ち上がっている。
「ほら、心地良いだろう? そら、流されたいだろう? 偽るのはやめろ、快楽に身を委ねろ。お前はそっちの側の人間じゃない。こちら側の人間だ!!」
(いや……やめて………)
涙が頬を滑り落ちる。
だがその雫は、汚泥のように黒く濁っている。
(来ないで……こっちへ来ないで………)
闇が視界を覆う。
黒い影が覆いかぶさってくる。
「くるんだ……カオリ」
仮面の奥で、紅蓮の瞳が閃いた。
「お前は………悪だ」
(やめてえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!)
カッ―――!!!!
ドゴオオォォオォオォォォ!!!!
熱風が天井を吹き飛ばし、炎がドアから溢れ出した。
業火は基地内を駆け巡り、哀れな生贄を次々と飲み込んでいく。
ゴオオォォオォオォォォォ………!!
「クッ、クッ、クッ……」
崩れ落ちた瓦礫の中で、特務参謀は昏い笑みを浮かべた。
「そうだ、それでいい。それでこそ『我が器』となるべき存在だ……」
視線の先では、黒い炎がカオリの全身を包み込んでいた。
燃え盛る火柱の中、カオリは踊るようにのたうち回っている。
特務参謀の目には、その姿がまるで、穢れを掃う浄化の儀式のように見えた。
*
かすかな胸のざわめきを感じ、紬は窓の外を見上げた。
雨が街を濡らしている。
垂れこめた雲が天を覆い、黒いカラスが寂しげに飛び去っていく。
「何かしら、この感じ……」
外を眺めているだけなのに、なぜか胸がドキドキした。
じっとしていられなくて、事務所の中を行ったり来たりする。
「どうしたの、紬ちゃん?」
見かねた風花がそっと声をかけた。
「あ、いえ。その……なんだか空が気になって」
「そうねえ。こんな日は洗濯物も乾かないものねえ」
噛み合わないセリフに愛想笑いを返しながら、そっと拳を握り締める。
(違う。これはそんな感覚じゃない。もっと……何か良くないものだ)
再び窓のそばに寄り、灰色の空を見上げる。
具体的には分からないけれど、とても悪い何かが、この街で起ころうとしている……。
一体何が……。
「あの、風花さん――」
振り返り、声をかけようとしたその時、
ドゴオオォォオォオォォォン!!!!
突然大爆発が起こり、鳥の群れが一斉に宙へ飛び立った。
「な、何!?」
慌てて窓から身を乗り出し、ハッと息を飲み込む。
「あ、あれは……!?」
臨海部のほうで、黒い煙が朦々と立ち昇っていた。
緊急車両のサイレンが鳴り響き、騒然とした気配が街を包み込む。
「あれは……デストルドーの基地がある辺りだわ」
風花が青ざめた顔でつぶやいた。
(デストルドーの基地?)
不吉な予感が脳裏をかすめる。
(まさか……姉さんの身に、何か………)
ジリリリリリリ!!!!
突然、壁のベルがけたたましい音を立てた。
《ホットスクランブル、エンジェルフォース。場所は中央区晴海五丁目。大規模な爆発あり、負傷者多数。D事案との関連性を最優先で調査せよ》
アイドルたちが一斉に立ち上がり、出口へ向かって駆け出す。
「待って!」
部屋から飛び出そうとする風花の腕を、紬が咄嗟につかんだ。
「つ、紬ちゃん!? 何!?」
戸惑う風花に向かって、紬は決然と告げる。
「風花さん、わたしも……わたしも一緒に連れて行ってください!!」
*
立ち込める煙の中を、黒い影がさまよっていた。
影は獣じみた唸り声を上げ、獲物を求めるように周囲を見回す。
「た、助けてー!!」
すぐそばを、若い男女が駆け抜けていった。
影はにやりと口角を上げ、赤い眼を大きく見開く。
カッ―――!!!!
瞬間、瞳から光線が放たれ、道路を真っ二つに切り裂いた。
ドオォォオオォォォン!!!!
大爆発が起こり、沿道の建物がガラガラと崩れ落ちる。
「グルルル……」
逃げ惑う人々を前に、影は獰猛な笑みを浮かべた。
尖った犬歯がギラリと輝き、赤い瞳に再びエネルギーが凝集する。
「やめなさい!」
鋭い声が空から響き渡り、ナース姿のヒーローがタッとアスファルトの上へ降り立った。
注射器型の銃を構えた女戦士は、黒い影をキッと睨み付ける。
「これ以上人々を傷付けることは、このバトルナースが許さないわ!」
だが相手の姿を目にした瞬間、バトルナース・風花は思わず息を飲み込む。
「え……!? あ、あなたは………歌織さん!?」
しかし駆け寄ろうとして、風花はピタリと立ち止まる。
赤く燃える瞳。
全身を取り巻く黒い炎。
姿形こそ似ているが、彼女が知っている歌織とはまったくの別人だ。
「か、歌織さん……? あなた、一体………」
「グァウ!!」
カッ!!!!
深紅の瞳がギラリと光り、熱線を放った。
――――!?
「キ、キネティックシールド!!」
咄嗟に両手をかざし、防護壁を展開する。
バリバリバリバリ!!
レーザーが、光の壁にぶつかって青白い火花を散らした。
「か、歌織さん、一体どうしたんですか!? やめてください!!」
「グルルル………ガァッ!!」
歌織が咆哮を上げると、光線の出力が一気に上がる。
「く、うぅ……!!」
ピシ、ピシピシ………。
シールドにひびが入る。
「も……う、限……界」
―――パリン!!
「きゃぁ!!」
ドオォォオオォォォン!!!!
爆風に吹き飛ばされ、風花はアスファルトの上を転がった。
「あうっ! く、うぅ……」
痛みに顔をしかめながら、傷付いた身体を起こす。
その頭上に、サッと黒い影が差した。
「――――!?」
「ゴルルルル……」
赤い双眸が、じっと風花を見下ろしていた。
「か、歌織さん……どうして……」
後ずさる風花に向けて、狂戦士が手刀を振り上げる。
「い、いや……」
むき出しの犬歯が、炎の中でギラリと閃く。
黒炎に包まれた腕が、降り注ぐ雨を瞬時に蒸発させる。
そして――、
「グオォルァアアア―――!!」
「い、いやああああああああああああああ!!」
バキィ!!!!
咄嗟に掲げた腕が、血飛沫とともに宙を舞った。