第19話 ディストラード99①
まどろみが、視界をぼんやりと霞ませていた。
朦朧とした意識の中で、夢とうつつの狭間をたゆたう。
(うう………)
全身がズキズキと痛んだ。
絶え間ない苦痛に、気が狂いそうになる。
どうして身体がこんなに痛いの?
誰か、この痛みを何とかして……。
お願い……誰か………。
「―――ハッ!?」
暗闇の中で目が覚め、歌織はパチパチと瞬きした。
自室とは違う空気に、一瞬頭が混乱する。
(ここは……どこ?)
真っ白い天井。クリーム色のカーテンに、テレビとキャビネットだけの殺風景な部屋。
(わたし、どうしてこんなところに……?)
記憶の糸を手繰り寄せようとするが、靄がかかったようでうまく思い出せない。
(たしかデストルドーの地下基地に潜入して、それから……)
周囲を見回そうとして、ふと四肢に違和感を覚えた。
(身体が……動かない?)
かろうじて腕を持ち上げることはできるが、ほかの部分は痺れて思うように力が入らない。
寝ぼけているのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
(麻酔のせい……かしら?)
ナースコールを探したが、それらしいものは見当たらない。
やむなくドアに向かって呼びかける。
「あ、うぅ……は、あ………え?」
そして、愕然とする。
(こ、声が……出ない!?)
口から漏れるのは、掠れた音ばかり。
顔の右半分も何かに引っ張られているようで、呂律がうまく回らない。
(ど、どうして……?)
頭がますます混乱した。
自分は夢でも見ているのだろうか。
それとも……、
カチャ――。
「おや、目が覚めたようだね?」
扉のほうから聞こえた声に、歌織はハッと振り返った。
白衣の男性が、ドアのそばでにっこり微笑んでいる。その隣には、女性看護師の姿も見える。
「……せ……ん、せ……。わ、たし………」
必死にしゃべろうとする歌織を、男は片手で制した。
「いまは無理にしゃべらないほうがいい。そのうち日常会話くらいはできるようになるから」
医師の何げない一言に、歌織はピクリと反応した。
(『日常会話くらい』? どういう意味?)
戸惑う歌織を見下ろしながら、男は穏やかな口調で説明を始める。
「まずは落ち着いて聞いて欲しい。実は……君の身体は大事な神経を傷付けられてしまったせいで、自由に動かなくなっているんだ」
(――――――!!!?)
恐怖がぞくりと心臓をつかんだ。
足の先から、冷たい血液が這い上がってくる。
「緊急手術で一命はとりとめたが、顔と喉頭神経の麻痺、それから、下肢不随が残ってしまった」
「な、お………る……の?」
医師は曖昧な笑顔を浮かべ、カルテを開いた。
「正直に言うと、現在の医療技術では、君の障害を治すことはできない」
―――――――――――!!!?
一瞬、すーっと気が遠くなった。
視界が急速に狭まり、目の前が暗くなっていく。
「どうか落胆しないでほしい。リハビリをすれば、日常生活くらい一人でできるようになる。それまで一緒に頑張っていこう」
医師が手を取り、ぎゅっと握り締めた。
だが歌織は何も答えず、呆然と宙空を見詰める。
(うそ………でしょ?)
まるで現実味を感じられなかった。
他人の話を聞いているようで、何ひとつ実感が湧いてこない。
「さて、そろそろお薬の時間にしよう」
医師に促され、看護師が点滴のボトルをつかんだ。
放心する歌織に向けて、女性がそっと微笑みかける。
「いまお薬を入れますからね。リラックスしてください」
コックをひねると、薬液がぽたぽた落ち始めた。
「痛み止めも入ってますけど、どうしても我慢できないときは、このスイッチを押してくださいね」
渡されたボタンを、力なく握り締める。
歌織は口を半開きにしたまま、死んだ魚のように天井の一点を凝視していた。
(これは、夢? それとも幻? わたし、一体どうしちゃったの?)
意識が遠のいていく。
医師たちの声が彼方へ遠ざかっていく。
(夢なら、早く……覚め、て………)
やがて瞼の重さに耐え切れなくなり、歌織は深いまどろみの淵へと沈んでいった。
*
「――眠ったか」
寝息を立て始めた歌織を見て、医師はおもむろに伊達メガネを外した。
「デストルドー因子の活動状況はどうだ」
「いまのところ鎮静化しています。ディストラード99の効果があったようです」
看護師の回答に、医師は満足げな面持ちで頷く。
「そうか。成果は上々といったところだな」
「はい、ですが……」
看護師は、口ごもりながらクリップボードの端を握り締めた。
「本当に……これでよかったのでしょうか」
「これでよかったのか、とは?」
尋ね返され、ナースは視線を床に落とす。
「ディストラード99は、デストルドー因子だけでなく、その対となるキネティックパワーの働きも阻害します。生命力の源であるキネティックパワーが低下すれば、身体機能にも著しい影響が……」
言葉の途中で、医師はサッと手を上げた。
「それ以上言うな。どのみちあれだけのことをしでかしたんだ。もうこの病院から出ることはできない」
言いながら窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間へ指を差し込む。
病院の前では、プラカードを持った群衆がシュプレヒコールを上げていた。
「街を破壊するヒーローは要らない!」
「アイドルヒーローズは危険な爆弾だ!」
看護師はそっと目を伏せ、上着の裾を握り締める。
「分かるだろう、君にも、この状況が」
吹き込んだ風が、レースのカーテンを音もなく揺らした。
首から下げた聴診器が、光を反射してキラリと輝く。
「さあ、今日のところは一旦ラボへ戻ろう。研究の進捗状況を報告しなければならない」
相手が頷くのを確認し、医師はドアへ向かって歩き出した。
「せめて眠っている間だけは、良い夢を……」
バタンとドアが閉じられ、病室は再び陰鬱な闇に包まれた。
*
ズキン! ズキン! ズキン!
(う…………)
繰り返し襲ってくる鈍痛に、歌織は表情をゆがめた。
握り締めたシーツに、じわりと汗が沁み込む。
「はぁ……はぁ……はぁ…………うっ!」
激しい痛みで目が覚めた。
周囲を見回し、ここが病室であったことを思い出す。
(わたし……どのくらい、眠っていたのかしら)
閉ざされた部屋は薄暗く、昼か夜かも分からない。
ギシ――。
背中の下で、スプリングが音を立てた。
見上げた点滴バッグは、いつの間にか底を尽きかけている。
(そういえば、お手洗いは……)
ふと尿意を覚え、歌織はきょろきょろと室内を見回した。
だが、それらしいものはどこにも見当たらない。
(もしかして、部屋の外かしら……?)
確認したいところだが、両脚が動かないので、ベッドから降りることもできない。
(どうしよう。これじゃ、お手洗いに行けないわ……)
身動きが取れない分かった途端、急激に尿意が込み上げてきた。
そわそわと辺りを見渡し、ブランケットの下で太ももをこすり合わせる。
(あ、そうだ。たしかナースコールが……)
看護師から渡されたボタンのことを思い出し、歌織は頭上のスイッチに手を伸ばした。
カチリ。
「……………」
しかしボタンを押しても、インターホンからは何の返事もかえってこない。
(変ね、誰もいないのかしら……?)
カチリ。
念のため、もう一度強めにボタンを押す。
「……………」
だが待てど暮らせど、返事は一向にかえってこない。
歌織は患者衣の裾をつかみ、そわそわと身体を揺すり始めた。
(どうして誰も出ないの? 早くしないと、このままじゃ……)
居ても立ってもいられず、ボタンを何度も押す。
カチカチカチ、カチカチ。
だがそれでもインターホンは反応しない。
(うう……もう、ダメ………)
いよいよ限界が近付いてきたその時、
ガラ―――、
スライドドアが開き、待ちかねた人物がようやく姿を現した。
(あ……よかった)
ホッと胸を撫で下ろす歌織。
だが入ってきた相手を見て、ギクリと表情を強張らせる。
「え………?」
現れたのは、男性看護師だった。
性別の違いに一瞬戸惑ったが、いまはそんなことを言っている余裕はない。
「大丈夫ですか? どうしました?」
「とイ、れ………」
羞恥心をこらえながら、用件を伝える。
「ああ、はいはい、トイレね」
男性看護師は頷くと、ベッドサイドからプラスチックの容器を取り出す。
「はい、どうぞ」
その形状を見て、歌織はぞっと顔を青ざめさせた。
(それは……、まさか………)
平べったいボトルに、ゴム製のラッパ口が付いた半透明の器。
「どうしました? 我慢はよくないですよ」
男性看護師が差し出したのは、いわゆる排尿用の尿瓶(しびん)だった。
「い、や……」
やはり女性に代わってもらおうと、歌織は身振り手振りで必死に訴える。
だが相手は、まるで取り合おうとしない。
「歌織さん、夜は人が手薄なんですから、早く済ませちゃってください」
面倒臭そうに言って、掛布団を無理やり引き剥がそうとする。
「や、あ……っ!」
思わず男の手を払いのけた。
拒絶された看護師は、苛立ちも隠さずため息をついた。
「はぁ……あのねえ歌織さん、あんまり困らせないでもらえます? あなた一応『元』アイドルヒーローズなんでしょ?」
無神経な言葉に、カーッと頭へ血が上った。
「元」じゃない。わたしはいまもアイドルヒーローズだ。
「さ、続けますよ」
再び掛布団を剥がそうとした男の手を、歌織は乱暴に振りほどいた。
そしてうんざり顔の相手に向けて、掠れた声で言い放つ。
「……もう、いい……です」
憤慨しながら、ベッドサイドに立てかけられていた松葉杖をつかむ。
そのまま腕の力で、無理やり身体を引き起こそうとする。
「ちょ、ちょっと、無理しないほうがいいですよ……」
呼びかけてくる男性看護師を無視して、歌織は一気に上体を持ち上げた。
「ふっ、く……!」
脇当てに体重を乗せ、何とか立ち上がることに成功する。
(やった……!)
起き上がってしまえばこっちのものだ。あとはこのままトイレに向かえばいい。
男性看護師は、これ見よがしにため息をついた。
「はぁ……しょうがないなぁ………」
小さくぼやき、横から肩を貸そうとする。
だが歌織は、身じろぎして相手の助けを拒否した。
「や………!」
親切心をないがしろにされた看護師は、苦々しげな表情でドアを開ける。
「……もうどうなっても知りませんからね?」
吐き捨てるように言い放ち、そのままスタスタと歩み去ってしまう。
「……………」
歌織は無言で松葉杖を突き出した。
足元を確かめながら、慎重に歩き出す。
カツン――。
(いける……)
多少ふらふらするが、どうにか前へ進めそうだ。
自信を得た歌織は、ゆっくりとドアをくぐって廊下に出る。
(あそこね……)
数メートル先の壁に、トイレの表札が見えた。
大した距離ではない。これなら充分間に合いそうだ。
(落ち着いて、慎重に………)
カツン……、カツン……、
杖を突くたび、鈍い振動が下腹に響き渡った。
焦燥感に駆り立てられながら、一歩一歩、ゆっくり前進していく。
(大丈夫、間に合う……)
自分に言い聞かせながら、必死に歩を進める。
突き上げた衝撃が膀胱を揺すり、ショーツがじわりと湿り気を帯びる。
(くっ……まだ、大丈夫……)
トイレはもうすぐそこだ。
これならギリギリ間に合う。
歌織は懸命に杖を運ぶ。
ステッキと脚を、交互に前へ出す。
(はぁ、はぁ……)
いよいよ化粧室のドアが目前に迫ってきた。
思わず安堵の息をつきながら、細い手を伸ばす。
と、その時――。