永田町二丁目、総理大臣官邸5階。
石庭を臨む長い回廊を、二人の男が早足で歩いていた。
「メディアのコントロールは順調か?」
「はい、ご指示通りに」
銀縁メガネの男が、即座に答える。
「ただ、ここまでの規模となりますと、メディアにも相応の借りを作らざるを得ません」
「構わん。後で当たり障りのない情報をリークして顔を立ててやれ」
カツ、カツ、カツ――。
中庭を横目に見ながら、二人は無言で廊下を歩いて行く。
天井から差し込む陽光が、孟宗竹を青々と照らす。
ピタリ。
男が執務室の前で立ち止まった。
ドアノブに手をかけようとして、くるりと振り返る。
「いいか、今回の事件はあくまでもアイドルヒーローズ個人の暴走ということで片を付けろ。絶対に政局へは飛び火させるな」
「はっ」
緊張した面持ちで、銀縁メガネの男が頭を下げる。
「ところで、各紙から今回の件についてコメントを求められていたな」
「はい。どのように答えておきますか?」
初老の男は、ふっと肩をすくめた。
「遺憾の極みとでも言っておけ。それと、このような事態が二度と起こらないよう、徹底的に膿を出し切るとな」
執務室のドアを押し開けながら、男は昏い笑みを浮かべる。
「これでようやく、あのアイドルヒーローズどもに手綱を付けることができる……」
窓の向こうでは、「H」の文字を象ったツインタワービルが街を睥睨していた。
その特徴的なシルエットを一瞥し、男は忌々しげに舌打ちする。
「アイドルヒーローズがいるから日本に軍隊は必要ないだと? バカを言え。これで夢想家どもも少しは現実を見るだろう」
くっくと肩を揺すり、男は執務室のドアを閉じた。
ガラスで囲まれた園庭には、長い影が伸び始めていた。
*
カツン、と音を立て、歌織は松葉杖を突いた。
衝撃が下腹へ伝わり、思わず「く……」と声を漏らす。
目的地はもうすぐそこだ。
一時はどうなるかと思ったが、この距離なら充分間に合いそうだ。
グリップを握り直し、キッと顔を上げる。
慎重に足元を確かめながら、一歩ずつ前へ進んでいく。
「着いた……」
化粧室の表示板を見上げ、歌織は大きく息を吐き出した。
長かった道のりを思い返し、小さな達成感に浸る。
(ここまで来れば、もう大丈夫)
安堵しながら、スライドドアに手を伸ばす。
と、その時――、
ガラ!
突然ドアが開き、中から年配の女性が出てきた。
ドシン!
「きゃっ!?」
肩を当てられ、バランスを大きく崩す。
(危ない!)
カッ――!
咄嗟に突いた松葉杖が、歌織の身体を支えた。
(ふぅ……)
思わず胸を撫で下ろす。
だがその瞬間、
ブルッ!
(あ………!)
温かいものが、じわりと下着を濡らした。
溢れた液体が太ももを流れ落ち、両脚の間に大きな水溜まりを作る。
「あ……あぁ………」
目から涙がこぼれた。
喉から嗚咽が漏れた。
「……うぇ、え……、ええええぇぇ………」
人目もはばからず、歌織は泣いた。
悔しさと、恥ずかしさと、情けなさでいっぱいだった。
塩からい涙が、唇を濡らす。
(どうして……どうしてこんな目に遭わなければならないの?)
濡れたスリッパが、わずかに残ったプライドを汚した。
(これまでたくさんの人を救ってきたのに……何度も日本の未来を守ってきたのに……それなのに、どうして……どうして………)
絶望の中で、自らの頭を掻き毟る。
チクッ――!
「つッ!?」
突然鋭い痛みを感じ、歌織はそっと手を下ろした。
そして指に絡まったものを目にし、首をひねる。
(何、これ……?)
手の平に、真っ白な毛束が垂れ下がっていた。
(白髪……? どうして………?)
まさか……。
恐ろしい事実に思い当り、そっと頭皮に触れる。
パサリと音がして、銀髪が足元の水溜まりに落ちる。
(あ…………)
ドクン、ドクンと心臓が胸を叩いた。
化粧室に入り、ミラーを覗き込む。
(………これは………誰?)
鏡には、やつれた女性が映っていた。
土気色の肌に、ボサボサの白髪頭。
歌織が自分の頬に触れると、鏡の女性も頬に触れる。
(うそ……でしょ………?)
美しかった亜麻色の髪が、見る影もなく抜け落ちていた。
瑞々しかった肌は、あちこちシミでくすんでいる。
「い……や…………」
歌織は震える手で、顔を覆った。
「い……やだ………………」
涙を流し、頬に爪を立てる。
いや………いや…………、
いや………いや…………、
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
悲鳴が響き渡り、歌織はパタリとその場に昏倒した。
*
トゥルルルルルル――。
トゥルルルルルル――。
リビングから聞こえた着信音に、紬は料理の手を止めて振り返った。
テーブルへ駆け寄り、携帯電話をつかむ。
「もしもし、姉さん!?」
《あ……紬ちゃん? いま大丈夫?》
聞こえてきたのは風花の声だった。
落胆を気取られないよう、慌てて態度を取り繕う。
「え、ええ、大丈夫です。どうしました?」
《……この間は、本当にごめんね。わたしが力を使い切っていなければ、歌織さんをすぐ治療できたのに……》
嫌な記憶がよみがえり、ぐっと胸を押さえる。
「そんな、風花さんのせいじゃありませんよ。わたしのほうこそ、もっと力があれば……」
言いながら、視線を床に落とす。
二人とも、まるで罰してもらうことを求め合っているかのようだった。
しかしそんな行為に意味がないことくらい、お互いイヤというほど分かっている。
《……ところで、歌織さんが運ばれていった病院、分かった?》
風花の問いに、紬は一瞬言葉を詰まらせた。
「それが……まだ分からないんです。ヒーローズの本部に問い合わせても確認中としか答えてくれなくて……」
《そう……なんだ》
考えてみれば……いや、考えるまでもなくおかしなことだった。
唯一の肉親である妹にさえ入院先が知らされないなんて……。
「風花さんは、何か聞いてませんか?」
《ごめんなさい、わたしも何も……》
声が小さくしぼんでいく。
《ただ……ちょっとだけ気になることがあるの》
「気になること?」
《ええ。紬ちゃんのところには、記者さんから取材のオファーって来たかしら》
「いえ、何も」
質問の意図を測りかね、紬は困惑気味に答える。
「取材がないと、どうかしたんですか?」
風花が、そっと声をひそめる。
《変だと思わない? この間みたいなことがあれば、すぐに記者さんたちが押しかけてくるはずなのに》
「……まあ、たしかに」
言われてみればそのとおりだ。
アイドルヒーローズの本部が抑えてくれているのかもしれないが、それにしても静かすぎる。
《他の子たちにも聞いたんだけど、やっぱり誰も取材を受けてないんですって。これってやっぱり変よね……》
「そう、ですね……」
紬はそっと胸に手を当てる。
大事件が起こったのに動かないマスコミ。
入院先さえ分からない姉。
まるで、誰かが自分たちを隔離しようとしているかのようだ……。
《紬ちゃんも、何かあったら遠慮なく相談してね。わたしたち、同じ事務所のアイドルなんだから》
「……はい、ありがとうございます」
先輩の心遣いに、胸がほんのり温かくなった。
きっと風花は、これが言いたくて電話をかけてくれたのだろう。
《それじゃあまた。何かあったら電話するわね》
「わたしも、姉さんの居場所が分かったらご連絡します」
ピッ。
通話を切ると、部屋の中が一層静かになったように感じられた。
誰もいないリビングで、紬はポツリとつぶやく。
「……どこに行っちゃったの、姉さん?」
テーブルには、二人分の料理が並んでいた。
歌織が着るはずだったドレスが、壁を白く飾り立てている。
「せっかくの誕生日なのに、おめでとうも言えないなんて……寂しいよ、姉さん」
ため息をつきながら、テーブルの上の小箱をそっと手に取る。
「早く渡したいな、誕生日プレゼント」
ケースのリボンを、大切そうに撫でる。
と、その時――。
ドガァアアアァァン!!!!
「きゃっ!?」
突如、爆発音が鳴り響き、テーブルの上のワインボトルがカタカタと音を立てた。
慌てて窓に駆け寄り、外へ身を乗り出す。
「あ、あれは――!?」
街の様子に絶句した。
市街地から朦々と煙が立ち昇っている。
あちこちで火の手が上がり、ガラス張りのビルがオレンジ色に染まっている。
ズシン――!!
巨大な足音が、地面を震わせた。
炎の背後で、大きな影が揺らめく。
「え……? 何、あれ……?」
マンションほどの高さの何かが、摩天楼の陰へサッと隠れた。
「い、いまのは、一体……?」
茜色の空にサイレンが鳴り響き、携帯電話がアラーム音を発する。
《緊急避難警報です。いますぐ付近のシェルターに退避してください。緊急避難警報です。いますぐ付近のシェルターに退避してください》
紬は慌てて周囲を見回した。
「わたしも逃げなきゃ……!!」
考えるより早く、ハンガーからドレスをむしり取った。
これは姉の努力と苦労の結晶だ。
これだけは……これだけは何としても守らなければならない。
デイパックへ素早く衣装を詰め込み、ドアのほうへ駆け出す。
「姉さん、どうか無事でいて……」
見上げた空の彼方では、不穏な気配が漂い始めていた。