植え込みの陰から、紬はそっと周囲の様子を窺った。
スンスン……、スンスン………。
ドラゴンは、臭いを嗅ぎ回りながら交差点の向こう側をウロウロしている。
(いまならあの子を助け出すことができるかもしれない……)
立ち上がろうとして、一瞬躊躇した。
(わたし、震えてる……?)
失敗した時のことを想像して、ぞっと肌が粟立つ。
巨大な鉤爪、ギザギザに並んだ牙。
それらが腕に噛み付き、脚を引きちぎる様子をイメージして、思わず全身を強張らせる。
(考えてみれば、わたしはアイドルだけど、ヒーローじゃないわ。危険を冒してまで誰かを助けるなんて、そんなことをする義理はない……)
――本当にそう?
誰かの声が、耳の奥に響き渡った。
――たしかにわたしはヒーローじゃない。できることだって限られている。
けど、姉さんだって、乗り越えられるかどうか分からない試練に、何度も飛び込んできたんじゃない?
そこに、ヒーローかどうかないかなんて違いはないはずよ。
(でも……)
もう一つの声が、紬を呼び止めた。
(もしわたしが死んでしまったら、誰が姉さんを助けに行くの……?)
デイパックのヒモが、ずしりと肩に食い込む。
(ここであの怪物に食べられてしまったら、ドレスも届けられなくなってしまう……)
自分の声が、脳内で反響する。
互いに正反対のことを主張し、真っ向から対立する。
(わたし、どうすれば……)
紬は頭を抱えた。
(あの子の命と、姉さんの命。どちらか一つを選ぶなんて、わたしにはできないよ)
それに、二人だけの命ではない。
自分自身の命もかかっている。
(こんな時、姉さんだったらどうするの……?)
救いを求め、天を仰ぐ。
その瞳に、まばゆいオレンジ色の夕焼けが映った。
記憶の底から、かつて見た景色がよみがえる。
『――ねえ、紬。一つだけ、あなたに覚えておいて欲しいことがあるの』
あの時、姉さんは優しく微笑みながら言った。
『どんなことがあっても、絶対に譲れないもの。それは……あなた自身の正義よ』
『あなたの正義はどこにあるのか。それをしっかり見極めて、心に留めておいてね』
わたしの正義……。
わたし自身の正義……。
一体、どこにあるのか……。
目を閉じ、首を左右に振る。
(分からない……わたしは姉さんみたいに頭が良くないから、考えても分からないよ)
けど……、
再び顔を上げ、瓦礫の山を見詰める。
(だからこそ、分かるかもしれない。頭の悪い……わたしだけの正義)
打算じゃない。
計算でもない。
正解なんて、最初から分からない。
けど、伸ばした手は、留めない。
つかむと決めたら、離さない。
いま目の前にいる人を助けたいという気持ち。
それが……それだけが……、
(わたしの正義!!)
拳を握り締め、大きく息を吸い込んだ。
「そうだよね……きっと姉さんも、そう思って戦い続けてきたんだよね」
恐怖がなくなったわけじゃない。
不安を克服したわけでもない。
だがいまは、そうすることが当たり前であるかのように、身体が動いた。
タッ――!
植え込みの陰から飛び出し、素早く道を渡る。
足音を潜めながら、瓦礫の下で怯える少女の許へ駆け寄る。
「大丈夫!?」
突然呼びかけられた少女は、驚きに目をみはった。
「お、お姉、ちゃ――」
「し――っ!!」
口に指を当て、言葉を遮る。
ドラゴンは、交差点の反対側にある総菜屋へ顔を突っ込み、食べ物を漁っていた。まだこちらには気付いていないようだ。
「待っててね、いま助けてあげるから」
少女は足を鉄筋に挟まれている。まずはこれをどうにかしなければならない。
「うっ……んん………!」
ためしに持ち上げてみようとしたが、紬の細腕ではびくともしなかった。
(ダメだわ。時間がかかるけど、回りの瓦礫を少しずつどけていくしかない……)
デイパックを下ろし、今度は足元のコンクリート片に手を伸ばす。
「ん……うっ!」
つかんでみると、ブロック大の塊は予想以上の重さだった。
息を止め、顔を真っ赤にしながら持ち上げる。
ゴトン――。
一個取り除くだけで、ひと苦労だった。手は汚れ、指先から薄く血がにじんでいる。
痛い……。
けど、いま立ち止まるわけにはいかない。
「………くっ!」
気合を込め、ひとつひとつ丁寧にコンクリート片をどかしていく。
除かれた瓦礫は、背後にうずたかく積み上がっていく。
「はぁ、はぁ………」
しばらくすると、鉄筋がわずかながら動くようになった。
「頑張って、もう少しよ!」
紬は笑顔で少女を励ます。
だが……、
「…………?」
少女は紬の顔を見て、カタカタと歯を打ち鳴らしていた。
「どう、したの……? 急に……」
言いかけたその時、
グルルルル……。
背後で、うなり声が聞こえた。
交差点の向こうにいたドラゴンが、いつの間にか姿を消している。
ハァ―……、ハァ―……、ハァ―……。
腐臭のようなにおいが、埃に混じってツンと漂ってきた。
(ま、まさか………)
恐怖に慄きながら、恐る恐る振り返る。
そして――、
「ゴアァァァアアアアァァアァァァァ!!!!」
「きゃああああああああああああああ!!!?」
紬は反射的にデイパックをつかみ、ダッと駆け出した。
ビリィッ!
長い爪が背中をかすめ、ワンピースを腰まで引き裂く。
ズシン! ズシン! ズシン!
足音が轟然と追いかけてきた。
すぐ後ろに、獣の息遣いを感じる。
(くっ、速い! でも……)
交差点の向こうを見て、紬は奥歯を噛み締めた。
(あの総菜屋へ逃げ込めば、エサで足止めすることができる!)
目的地までわずか数メートル。だがその小さな距離が、無限に長く感じられる。
アスファルトが揺れ、獣の足音がすぐ背後に迫ってくる。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
息が切れ、足がもつれた。
肺が悲鳴を上げ、脇腹に鈍痛が走る。
それでも必死に腕を振り、夢中で道路を駆け抜ける。
(あと少し……!)
残り2メートルを切ったところで、紬は勢いよく地面を蹴った。
「たあっ!」
頭から店内へ飛び込み、床の上で一回転する。
(やった!)
紬はガバッと起き上がった。
(――――!?)
だが店内を見回した瞬間、絶望に頬が引き攣る。
(そ、そんな……ウソでしょ?)
食い散らかされたパックに、割れたショーケース。
すぐそばには、バラバラに引き裂かれた店員の死体が転がっている。
店内は、すでに食い散らかれた後だった。
ジャリ……。
巨大な影が、ドアの向こうから差し込む。
獣独特の臭気が、狭い店内にむわっと立ち込める。
「グルルルル………」
恐ろしさのあまり、紬は声を上げることすらできなかった。
ゆっくりと振り返り、牙の並んだ咢を見上げる。
「あ、あぁ………」
死の予感が心臓を鷲づかみにした。
血液が凍り、喉の奥がきゅっとすぼまる。
怖い、死にたくない……。
だが、不思議と後悔だけはなかった。
自分はやり遂げたんだという達成感と、他に選択肢はなかったという諦観が、胸の中をスッキリ洗い流している。
歯の根が合わさらないほど怯えているが、自分の行動に悔いはない。
恐怖で膝の震えが止まらないが、あの子への恨みはない。
そして気付く。
ああ……お父さんとお母さんも、きっとこんな気持ちだったんだ……。
てっきり恨んでいるのかと思っていた。
怒り、嘆き、悔やんでいるのかと思っていた。
けど、違った。
それは、自分の勝手な思い込みでしかなかった。
だっていま……わたしの心はこんなにも澄み渡っている。
お母さん、お父さん。待たせちゃってごめんね。
わたしも……すぐそっちへ行くよ。
『―――紬』
えっ?
突然耳元で聞こえた声に、紬は慌てて周囲を見回した。
『こっちよ、紬。わたしたちは……ここよ』
――――!?
再び呼び声が聞こえ、紬はくるりと振り返る。
瞬間、景色がガラリと入れ替わった。
(え……? こ、ここは……)
薄暗い部屋に、ロウソクが立ったケーキ。
小さなこたつと、それを囲む親子。
それは、在りし日の我が家の光景だった。
紬の両脇で、父と母が、にっこり微笑んでいる。
(ど、どうして、お父さんとお母さんが……?)
不思議がる紬に、父がメガネの奥から優しい視線を投げかけた。
『やっと僕らの声に気付いてくれたね、紬』
隣に座る母が、紬の頬にそっと触れる。
『紬ったら、いくら呼んでも全然気付いてくれないんだもの』
(呼んでいた? わたしを? 一体いつから……?)
両親が、同時に微笑んだ。
『『ずっとだよ、紬』』
ロウソクの炎が、ふわりと揺らめく。
『あの日から、わたしたちは毎日、あなたに呼びかけていたの』
気が付くと、目から大粒の涙がこぼれていた。
抑えても抑えきれない感情が、頬をぽろぽろ伝い落ちる。
(知らなかった……全然気付かなかった。わたし、ずっと二人に会いたいと思っていたのに……)
『わたしたちもよ。ずっと、あなたとお話ししたいと思っていたわ』
そこは、とても暖かい部屋だった。
心地良くて、穏やかで……すべてが安らぎに満ちた世界。
(ねえ、お母さん。わたし、ずっとここにいてもいい?)
『ダメよ、紬。あなたはもう行かなければならないの』
(そんな……いやよ、せっかく会えたのに)
『大丈夫よ、紬。またすぐに会えるから』
母がそっと、紬の手に指を重ねる。
その上へさらに、父が大きな手の平を乗せる。
『そうだよ紬。僕らだって、僕らのお父さんやお母さんと、ここで会えたんだ』
(お爺ちゃんや、お婆ちゃんと?)
父が微笑みながら頷く。
『そうさ。だから紬には、これだけは知っておいてほしいんだ』
言いながら、娘の手をぎゅっと握り締める。
『紬、君は僕らの宝物だ。だから君も……そろそろ自分を許してあげてほしい』
(自分を……許す?)
母が、涙ににじむ目で紬の顔を覗き込んだ。
『そうよ、紬。だって……わたしたちは最初から、あなたのすべてを許しているんだもの』
カアァァァァァアァァァァ――!!
その瞬間、光が溢れ出し、全身を包み込んだ。
不思議な浮遊感が身体を覆い、胸の痛みがすうっと溶けていく。
ああ、そっか。
わたしは、とっくに許されていたんだ。
気付くと同時に、涙がとめどなく溢れ出た。
どれだけ……どれだけその言葉を聞きたかったことか。
八年間流すことのできなかった想いが、心の一番奥から、堰を切ったように溢れ出す。
『さあ、行きなさい、紬。あなたはもう、自由よ』
キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!
不思議な力が背中を押した。
懐かしい景色が、はるか彼方へ遠ざかっていく。
(お父さん、お母さん、ありがとう)
もう、寂しさは感じなかった。
(少し先になっちゃいそうだけど……また会おうね)
消え去る二人の笑顔へ向けて、紬はそっと手を振る。
(それじゃ……行ってくるよ、お父さん、お母さん)
スウ――――。
目を開けると、そこは先ほどの総菜屋だった。
ドラゴンが、怯えた表情を浮かべ、じりじりと後ずさっている。
キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!
全身から、黄金色の光が迸っていた。
(これが……キネティックパワー)
力が湧き上がってくるのを感じる。
鼓動が高鳴るのを感じる。
(いまなら分かる。お父さんとお母さんが、わたしを見守ってくれていたこと……)
紬を抑圧していた罪悪感は、心の蓋を抑え込むことで、逆に力のキャパシティを限界まで押し広げていた。
その許容量は並みのヒーローをはるかにしのぎ、いまや超人と呼ぶべき域にまで達している。
すーっと息を吸い込み、静かに吐き出した。
「キネティック……パンチ」
瞬間、右の拳に爆発的なエネルギーが集中する。
「グルルル……」
ドラゴンの瞳に、恐怖の色がにじんだ。
低いうなり声を上げ、一歩、さらに一歩、後ずさる。
だが自分より強い生物に出会ったことのなかった若い獣は、本能に逆らって雄叫びを上げた。
「グォアァァァァァアアァ!!」
それは、この若いドラゴンにとって致命的なミスとなった。
巨獣を前にして、紬はゆっくり呼吸を整える。
その瞳が、黄金色に輝く。
キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!
「キネティックパワー・アクセラレート!!」
少女は吼える。
「オォォバアァァァァ…………ブーストオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
刹那、空気が爆発した。
太陽のような白い光が、ドラゴンの頭部を貫く。
カッ!!!!
死の間際、ドラゴンは悟った。己が最強の生物でなかったことを。
そして悔やんだ。この場から尻尾を巻いて逃げ出さなかったことを。
超高熱の拳が突き刺さると同時に、血と脳漿が蒸発し、頭蓋が内側から破裂した。
厚い皮膚は一瞬で炭化し、巨体を支えていた筋肉と骨も、たちまち塵となって爆散する。
ドゴオオォォオォオォォォン!!!!
衝撃波が大気を揺らした。
荒れ狂う爆風が、轟音とともに竜の死骸を彼方へ吹き飛ばしていく。
藤色の髪をなびかせながら、紬は自分の姿を見下ろした。
「これが、わたしの力……」
そして同時に確信した。
この力は、わたしの味方なんだと。
わたしを守るために、父と母が授けてくれた力なんだと。
「もう、大丈夫……」
振り返り、窓の外を見た。
交差点の向こうには、まだ瓦礫の山が残っている。
あの子はきっと、怯えながらわたしの助けを待っているだろう。
タッ―――。
駆け出そうとしたところで、紬はふと立ち止まった。
「あ………」
そして、ボロボロになった自分の姿を見詰める。
ガラス戸に映った自分は、ひどい格好だ。
ワンピースが腰まで裂け、羽織っていたボレロもいつの間にか千切れ飛んでいる。
上半身は胸まではだけ、ほとんど半裸に近い。
「こんな状態じゃ、外に出られないわ……」
せめて身体を隠すものがあればいいのだが……。
「ん………?」
そこで紬は、床に転がるデイパックに目を留めた。
「そうだ、これなら……」
*
そのころ、病室では二人の人物が静かに向き合っていた。
「くっくっくっ……歌織よ、それがお前の答えか」
病室の床に、ぽたり、ぽたりと赤い雫が滴り落ちる。
ダガーの柄を、血まみれの手が握っている。
ミライの胸には、黒い刃が深々と突き立っていた。