マウスピースから口を離すと、ガランとした音楽室は4人だけになっていた。19時を回り、今日の部活もそろそろお終いである。
すぐそこで、先に練習を終えた奏がうっとりした眼差しで久美子を見つめており、少し離れた場所で希美とみぞれが楽しそうにお喋りしている。お喋りといっても、希美が一方的に話してみぞれは相槌を打っているだけだが、いずれにせよ二人とも楽しそうだ。
希美が音楽室にいたのは知っていたが、みぞれはいつ戻ってきたのだろう。何故かジャージを着ているが、何かあったのだろうか。希美も珍しく髪を下ろしているが、そちらは時々そうしているので、そんなにも違和感はない。
「二人とも仲良しですね」
奏がうふっと微笑んで久美子の指先をつまんだ。楽器はすでにケースに収められ、傍らに置かれている。久美子が終わるのを待ってくれていたようだ。
そろそろ楽器を片付けようと思ったら、音楽室のドアが開いて、麗奈がやってきた。少し前まで遠くからトランペットの音が聴こえていたので、今まで練習していたようだ。
麗奈は憮然とした表情でドアを閉めると、そのまま真っ直ぐ久美子のもとにやってきた。
「お疲れ。機嫌が悪そうだね。何かあったの?」
「ん? まあ、私も悪かったんだけどさ……」
麗奈が不貞腐れたように頬を膨らませた。なかなか可愛らしい仕草だ。言い淀んだのは、あまり人の悪口を言いたくなかっただけだろうが、奏が誤解したのか楽器を持って立ち上がった。
「私、先に片付けてきますね」
丁寧な口調でそう言って、一人で音楽室を出て行った。久美子は引き留めずにその背中を見送った。もしかしたら麗奈が、奏がいたから言わなかった可能性もある。
音楽室のドアが閉まると、麗奈が久美子にだけ聞こえるように声をひそめた。
「剣崎さんがね、私の楽器を蹴ったのよ」
「蹴った!? 一大事じゃん!」
思わず声が大きくなって、慌てて口を押さえた。希美とみぞれが不思議そうにこちらを見て、目が合うとひらひらと手を振った。
麗奈が少しだけ早口に訂正する。
「蹴ったって言うと語弊があるわね。ケースに入れて置いてあった楽器に足が当たっただけ。でも、そこは注意すべきでしょ?」
「まあそうだけど、置いてあった場所にもよる」
「そう思ったから、私も別に注意しなかったわ。一人でイライラするくらいは許してよ。それとも、貴女には愚痴の一つも零さない方がいい?」
冷めた口調でそう言われて、久美子は慌てて首を振った。こうして麗奈が愚痴を零せる相手は久美子だけだ。自分がそういう特別な存在であることに、久美子はとても満足しているし、優越感も覚えている。
ただ、麗奈が単に同情を求めてはいないだろうと思い、つい意見してしまったが、今のは頷くだけでよかったようだ。
久美子も楽器をケースに入れて、片付けてくると麗奈に声をかけた。ついて行くと言うので二人で楽器室に向かう。そういえば先に行った奏とはすれ違わなかったが、まだ楽器室にいるのだろうか。
廊下の外はすでに暗くなっている。楽器室には電気が点いているので、やはり奏はまだ中にいるようだ。ドアが閉まっていたので開けようとしたら、鍵がかかっていた。
「あれ?」
不思議に思い、ノックして呼びかけてみたが、中から返事はなかった。
「鍵は持ってる?」
「あるけど……」
麗奈に言われて、久美子はポケットから楽器室の鍵を取り出した。最後の者が戸締りをして滝に渡すことになっている。麗奈も希美もみぞれもマイ楽器の上、楽器室には置いていっていないので、今日は久美子が最後になる。
果たして鍵を差し込んでドアを開けると、楽器室の床の中央で、梨々花が背中から血を流して倒れていた。うつ伏せで顔は見えないが、ピクリとも動かず、どうやら死んでいるようだ。
「これは、密室殺人ね」
麗奈が思案げに呟いて、腕を組んで顎に指を当てた。
「その考えは早計だよ」
久美子はとりあえず楽器を片付けてから、改めて倒れている梨々花に目をやった。背中を一突きで殺されたようだが、今は刃物は刺さっていない。死後どれくらい経っているのか、ど素人の久美子にはわからなかった。血は乾いておらず、たった今にも見えるし、数時間前にも見える。
息を潜めると、奥でカタッと物音がした。音の方に歩み寄ると、奏が身を隠すようにうずくまっていた。久美子と麗奈に見下ろされ、堪忍したように息を吐いて立ち上がる。手も制服も血まみれになっており、足元には凶器に使われたと思われるナイフが落ちていた。
「お二人のおっしゃりたいことはわかりますが、私は犯人ではありません」
奏が真っ赤に染まった手を広げて、いつもの澄ました微笑みを浮かべた。そう言われても信じるのはなかなか難しい状況だが、奏はまるで気にした様子もなく、梨々花の方に歩き始めた。
「先ほど私が楽器を片付けに来たら、梨々花が背中にナイフが刺さった状態で倒れていました。私は思わず抜いてしまってこんなことになってしまいました。そして、どうしようか考えるために、ドアの鍵を内側からかけました。ドアに血がついているのはそのせいです」
指を差されてドアを見ると、確かに血が付着していた。筋は通っているが、全部鵜呑みにしても良いのだろうか。
「とりあえず、音楽室に戻りましょう。ここにいては、親愛なるお二人も疑われてしまいます」
楽器室を出て、途中で手を洗ってから音楽室に戻る。希美とみぞれはまだお喋りをしていて、奏を見て驚いたように眉を上げた。
「奏ちゃん、その血はどうしたの?」
真っ赤に染まった服を見て、希美が首を傾げる。奏の血ではないと一瞬で判断したのか、とても冷静だ。もっとも、冷静かどうかは今は何の判断材料にもならない。久美子も麗奈も極めて冷静である。
奏が確認するように麗奈を見上げたが、麗奈は説明を委ねるように首を横に振った。奏が大きく頷いて、先ほどと同じように芝居調に手を広げた。
「楽器室で、梨々花が血を流して倒れていたんです。介抱しようとしたと言いますか、どうしていいかわからずに慌てた結果、こうなってしまいました。私は犯人ではありません」
「まあ、別にそれは疑ってないけど」
希美が勝ち気に微笑む。この先輩はいまいち何を考えているのかわからない。仲の良い久美子ですら疑っている奏の言葉を信じたのか、それともまったく信用していないのか。
希美とみぞれの近くに3人で座ると、みぞれが残念そうにため息をついた。
「オーボエ、また一人になった」
「そうですね。ただ、こう言っては何ですが、梨々花は戦力外だったと思います。それとも、話し相手として梨々花を気に入っていましたか?」
奏が探るような瞳でみぞれを見つめた。みぞれは否定するように首を振った。
「別に」
「わかります。同じ楽器だからと言って、仲良くなれるとは限りませんから。私と久美子先輩は運命の出会いのように仲良しですが、夏紀先輩とはそうでもありませんし」
奏が二度ほど頷いた。妙に饒舌なのは、気が動転しているからか、それとも何かを取り繕っているからか。
「夏紀はいいヤツだよ」
「そうですね。そう認めないでもないです」
希美の言葉に奏が微笑んだ。すでに話題は梨々花から離れている。奏が犯人ではないのなら、5人とも事件とは無関係だろうし、これ以上特に話すこともない。
そろそろ帰ろうかと話していたら、不意に音楽室のドアが開いた。見ると滝が立っていて、いつもの爽やかな笑顔で言った。
「まだ残っていたのですね。随分前からですが、今残っているのは貴女たち5人だけです」
「そろそろ帰ろうと思っていたところです」
麗奈が丁寧に答えて立ち上がった。滝が奏の服を見て怪訝そうな顔をする。あまり疑われても可哀想なので、滝が言及するより先に久美子は口を開いた。
「楽器室で、剣崎さんが死んでいました」
久美子の言葉に、滝は特に驚いた様子もなく頷いた。それから、少しだけ目を細めて5人を見る。
「そうですか。そのことはすでに共有されているのですね。それなら話は早い」
「話とは?」
「剣崎さんは、殺されてからまだあまり時間が経っていません。つまり、犯人は貴女たちの中にいるということです」
5人が息をのみ、空気が張り詰めた。久美子が4人の顔を見ると、4人も同じように他のメンバーの顔を見つめた。滝が満足そうに頷いて続けた。
「人を殺すのは良いことではありません。ですから、殺した人には死んでもらいます。1時間待ちますから、皆さんで話し合って、殺す人を決めてください。そうですね。せーので指を差しましょうか」
呑気な調子で滝が言ったが、久美子たちに笑う余裕はなかった。梨々花が殺されたのは大変残念だが、起きてしまったことは仕方ない。だが、その結果自分たちも死ななくてはならないとなると話は違う。この事件に対して真面目に考えなくてはいけない。
「それはつまり、私たちで犯人を探し出せということですか?」
久美子が顔を強張らせると、滝が楽しそうに微笑んだ。
「殺す人を一人決めてください。殺された人が犯人です。この意味はわかりますか?」
久美子が何も言えずにいると、隣で希美とみぞれが小さく頷いた。要するに、選ぶ相手は必ずしも梨々花を殺した人物である必要はないということだ。
だが、犯人を選ばない理由などない。殺したい相手などここにはいないが、果たして他の4人も同じ思いだろうか。
「念のため確認しますが、滝先生が殺した可能性はありますか?」
麗奈が挙手すると、滝の目が可笑しそうに弧を描いた。
「私はずっと職員室にいましたし、職員室には他の先生もいます。調べてもらっても構いませんが、貴重な1時間をどう使うかは貴女たちの判断にお任せします」
それだけ言って、滝は音楽室を出て行った。