Case EX:Phantom/Sanctum 作:よしおか
ガゼル「などと申しております殿下」
ノル公「なるほど
「警部、ここに居たんスか」
年若い部下に声を掛けられ、フラット・マネーペニー警部は咥えていたタバコを手に取った。
ロンドン市警庁舎の屋上で不機嫌な顔を隠そうともせずサボタージュを決め込んでいたのは、なにも彼が勤務態度の悪い不良警官だからという訳ではない。むしろその称号は、事件と無関係な女学生を囮捜査に巻き込むことを良しとした執務官にこそ贈られるべきであろう。
それでも王宮の権力をちらつかせながら反対意見をねじ伏せた執務官に逆らうこともできず、署長以下ロンドン市警の刑事たちはアンジェをエサにして、ガルディアンという大物が釣り針にかかるのを待つしかなかった。
「やっぱ、気が乗らないみたいですね。今回の方針」
「……上からの命令には従う。それが女王陛下に仕えるロンドンの刑事というものだ」
摘まんだタバコの吸い口を潰しながら、警部は苦々し気に答える。
事件の被疑者だと言って無関係な女学生―――アンジェ・ル・カレを連行してきて半日。すでに新聞社のいくつかに“怪盗ガルディアン捕縛”の情報を流しており、今晩中には新聞の号外を介して、本物の怪盗ガルディアンがそれを知るだろう。
そうして義憤に駆られてアンジェ・ル・カレ奪還に現れたガルディアンを、ロンドン市警が今度こそ捕まえる―――考えれば考えるほどに虫唾の走る
「……これではたとえ本物のガルディアンを捕まえたところで、ロンドン市警は正義の番人を名乗ることは到底出来んな」
マネーペニー警部は以前から―――二度目に犯行の際に捕縛作戦で目にしたアンジュ・ガルディアンの容姿をもとに調査を行ってきた。
色素の薄い銀色の髪に、青い瞳を持つ小柄な人間。予告状を標的の家に送り付けていたことから識字率の高い上流階級から中流階級の出身だろうと当たりを付けて、該当する特徴を持つ人間を片っ端から自身の捜査手帳にまとめていた。数十人以上の名前がピックアップされたその中に、アンジェ・ル・カレの名前もあったのだ。
しかし捕り物の場でガルディアンが見せた超人的な身体能力からして、その正体は小柄でありつつも鍛え上げられた肉体を持つ男性であろうと推定した警部は、アンジェをガルディアンの正体候補から外していた。どころか
フラット・マネーペニーは労働者階級の出身だ。幼少の頃に父親がアルコール中毒で死亡してからというもの、父親のようにはなるまいと独学で勉学に励み、当時のロンドン警邏隊にたびたび町の情報を提供しては目にかけてもらえるように努力を重ね、ついにはロンドン市警の創設メンバーである元警邏隊員からの推薦で刑事になった。
能力を磨き高めることで人は出身にかかわらず認められる―――それを自らの半生で実感してきたマネーペニー警部にとって、メイフェア校に編入し、プリンセス・シャーロットの友人となったアンジェ・ル・カレは、どこか自分と似た感覚すら抱かせる人物だったのだ。
(だというのに、その俺が彼女を罪人呼ばわりで引っ立てたのだから笑い話にもならん)
昨日の捕り物を終えて刑事たちは次なるガルディアン捕縛作戦の対策を早急に論じた。
今回分かったことといえばガルディアンが女性、それも年若い少女とも呼べる年齢であったことの一点だけであった。
はたしてどうしたものかと考えていたところで、マネーペニーの同僚たる警部の一人がこう漏らしたのだ。
『―――そういえばフラット、お前が調べた中にガルディアンと同じくらいの年の女が居なかったか』
何を馬鹿な、と思った瞬間にはすでに遅く、その言葉を聞きつけた執務官はあっという間にアンジェ・ル・カレを捕縛しろと言い出した。
これまでの犯行が行われた際にもアリバイがあった少女を被疑者として捕まえるなど正気の沙汰ではない、と反対したマネーペニーであったが、執務官は臆面もなく言い放つ。
『なに、捜査に少々協力してもらうだけだ。プリンセスの学友だというその少女も、王国を騒がす盗人を捕まえる手伝いができると知れば喜んで協力するだろう……それとも何かね? 数か月後には新大陸よりリチャード殿下が帰還されるというのに、王族の庭たるロンドンに薄汚いネズミを放しておくことが、諸君らの職務だとでも?』
その瞬間に執務官の胸倉を掴まなかったのは、自分でも意外だった。
結局あれやこれやと反対の意見を並べたてはしたが執務官に命令を取り消させるには至らず。
せめて自分が道化になろうとメイフェア校へと乗り込んで、王女の目の前で誘拐同然に学友を連行した。
(ああいう輩をのさばらせておくから、十年前のような革命が起きた……アルビオン王国には、糺されねばならない時が来ているのかもしれない)
フラット・マネーペニーは貴族が嫌いだ……と言っても全ての貴族や、王国の封建制度そのものを憎んでいるわけではない。
王権は、王家が天より与えられし神聖にして不可侵のもの。全てのアルビオン国民はその威に伏すべきなのだ。
それを、一部の貴族が自らのために悪用したことで、その行いは民に不満を募らせた。悪党とは自然に生まれるものではなく、環境によって育まれるものなのだ……少なくともマネーペニーがこれまで目にしてきた犯罪者たちは、己の行いを生きるための手段としか考えていない節があった。
(臣民が正しく王家に奉仕していればこそ、王家は全ての民を守る剣となり、盾となる。あの執務官のように王家の威光を自らのものと勘違いするような奴がいる限り、共和国を僭称する反逆者たちは幾らでも発生する。なぜそれが分からないのだ……)
「……その、警部。あの子を連行したこと、執務官に命令されてのことだって俺たちはいつでも証言しますからね」
「馬鹿言え、お前たちまで王宮に睨まれてどうするんだ」
アンジェ連行の一件で、マネーペニー警部は完全にプリンセス・シャーロットから疎まれたと見て良いだろう。
温厚な王女から怒りを滲ませた声でアンジェの処遇を問いかけられた時、マネーペニーは自身の王家への忠誠を認められる機会が潰えたことを悟った。
当然のことだ、この囮捜査を知っているのはあくまでロンドン市警に所属する者たちのみ。プリンセスからすれば訳も分からず学友を拉致されたようなものであり、執務官にしても万一咎められた時は功を焦った現場の刑事たちの暴走だと王宮には説明するつもりなのだろう。そしてその槍玉に挙げられるのは、先日の捕縛作戦で現場の指揮を執り、その後間もなくアンジェを連行したマネーペニー警部だ。
考えるだに憤懣やるかたない話だが、せめて今は若い部下たちがこんな役割を押し付けられなかっただけ良しとしよう。
「ガルディアンは、来ると思うか」
「……正直言って、可能性は低いと思います。だって平民のお嬢さんが濡れ衣でとっ捕まったところで、奴には何の関係もないんスから」
「そうだよな……」
呟くようにそれだけ言った警部の脳裏に、考えうる最悪の展開―――明らかに事件と無関係であろう苦学生の少女が、そのまま濡れ衣を着せられて処刑される可能性が過った。
王国における上流階級民の下層民差別は、今に始まったことではない。王が居て、貴族が居て、そして平民や、国外からの異民族が存在する限り、生まれの差によって起こる扱いの違いは確かに存在する。
そこに区別としての必要性も、正義すらも無ければ、そんなものは人の所業ではないではないか―――そんな正しい意見ですらも呑み込んでしまうほどの、明確な差が。
「さぁて、王家に捧げた警察官人生もこれが最後だ、ちったぁまじめに取り組むとしよう」
「あ、警部……」
短くなったタバコを錆び付いた手すりに押し付けて、手元で燻る火を力任せにもみ消す。なすすべもなく押しつぶされて熱を失い、その身を燃やした
若い刑事はその背中に声をかけることが出来ず、警部と入れ替わるようにして屋上に立ち尽くす。
そして先ほどまで上司がしていたように、霧の晴れないロンドンの街を見つめると……祈るように言葉を漏らした。
「“プリンシパル”が、早めに怪盗とのことにケリをつけてくれれば……」
その声には―――ロンドン市警の刑事としてでも、『コントロール』の情報提供者としてでもなく、ただ一心に尊敬する上司を案じる想いが込められていた。
しかしながら、そんな切なる願いに応じて見せたのは、平和を願う鳩でも、天にまします主でもなく―――
「奴だっ! 奴が、ガルディアンが現れたぞぉおおーーーっ!!」
―――ロンドンの空を疾駆する、正体不明の白い怪人だった。
「まさか、本当に現れたの!?」
暇を持て余して集中力が切れる寸前だったアンジェは、らしくもなく大声を上げて飛び起きた。
微かに響いたガラスを割る音に気付かなければ、慌ただしい襲撃の最中にも眠りこけていたかもしれない。
頬を叩いて目を覚まし、食事のトレーから拝借しておいたナイフとフォークを懐に収めると、取調室のドアに耳を当てる。
「三階だっ、三階から奴が突っ込んで―――」
「市街をパトロール中の班を呼び戻―――」
元より無理のある囮捜査だ。署内に残っていた刑事たちも、よもや本物のガルディアンが現れるとは思っていなかったのだろう。
混乱する刑事たちの声は階を違える取調室まで聞こえてくる。
(こんな見え見えの餌に引っかかるだなんて……いいえ、怪盗にはその餌にあえて引っかかる理由があったというの?)
そもそもガルディアン捕縛の情報は今日の夕方にようやっと撒かれ始めた筈。それにしてはガルディアン本人の動きが早く、これではまるで本当に、アンジェが捕らえられたことを知ったガルディアンが取る物も取り敢えず救出に駆け付けたようではないか。
(ああもう、何から何まで訳が分からないわ)
じっとしているのももう十分だろう、今は一刻も早く正確な情報が欲しい。どうにかして室内から脱出しなければと思っていると、喧騒に紛れて足音が一つ、人の流れに逆らうようにこちらに近づいて来る。
とっとっとっ、と俊敏なその音から向かってくる人物に当たりを付けたアンジェは、黙って扉から身を離す。
程無くして廊下側からかけられていた鍵が開けられ、アンジェは数時間ぶりに狭い一室から解放された。
「なんじゃ、牢に入れられていた割にはピンピンしておるな」
「牢じゃなくて取調室よ。あの警部はプリンセスとの約束を守ってくれたわ」
そこに居たのは、戦闘用の装束ではなくクィーンズ・メイフェア校の制服に身を包んだままのちせだった。
西洋の牢はずいぶんと監視が緩い、と訝しむちせの勘違いを訂正しつつ、刀さえも彼女が持っていない理由を問う。
「アンジェに面会させろと言って私が警察にちょうど着いた辺りでこの騒ぎだ。差し入れついでに情報交換だけのつもりじゃったからお主の武器も持って来れなんだ」
「ボディチェックもあったでしょうし仕方ないわね。気休め程度だけど、使う?」
「む、かたじけない」
先ほどくすねたカトラリーのうち、ナイフの方をちせに手渡す。Cボールどころか拳銃すら持っておらず、普段に比べれば泣きたくなるほど心もとない装備だが、泣き言を言っているようではスパイは務まらない。
「怪盗にあっさり侵入されて、署内は上から下からひっくり返したような大騒ぎだ。とても奴の正体を探っている場合ではないぞ」
「この状況じゃ包囲網がどうのこうの言ってる場合じゃない、か。まずは脱出が優先―――」
「おい貴様、どこに行くつもりだっ!」
聞こえてきた怒号に、咄嗟にアンジェとちせは会話を打ち切る。
見ればそこには、礼装の襟元を見せびらかすように勲章で飾った男が目を血走らせて、ずんずんとアンジェ達の方へと歩み寄ってくるところだった。
(誰だ?)
(たぶん、王宮からお目付け役として来てるっていう執務官よ)
礼装のサーベルを今にも引き抜かんばかりの形相で詰め寄ってくる男の後ろには、これまた泡を食った表情のマネーペニー警部もいた。
「執務官殿、戻ってください! この非常時にうろちょろされては困る!」
「ええい黙れ! この非常時だからこそだ、当初の予定通りにそいつらに“協力”させねばまた怪盗が逃げるだろうが!」
「それが
この期に及んでアンジェを盾にしようとがなり立てる執務官にうんざりしたのか、マネーペニー警部もこれまでの鬱憤を晴らすかのように負けじと声を荒げる。
傍迷惑極まる成人男性二人の言い争いに、少女たちは呆れもあらわに顔を見合わせた。
(どうする、いっそ二人とも張り倒すか?)
(そうしたいのは山々だけど後が怖いわ。私、一応
窃盗犯相手に人質交渉する気満々(しかも人質は赤の他人)の執務官は言わずもがな、執務官との言い合いに夢中になるあまりそもそもアンジェが取調室を抜け出していることに言及しない警部にしても、警察組織の人間としてはどうかと思う。それで良いのかロンドンの盾。
この二人だけが相手ならこっそり姿を眩ましても気づかれないのではないかとアンジェは思ったが、公安部のエージェントも潜んでいるであろう警察署内で迂闊な真似は出来ない。
「いいからこっちだ! 属領民は属領民らしく、王宮の命に―――!」
しびれを切らした執務官がアンジェへと手を伸ばす。さすがにこれ以上は見過ごせない、とちせが懐に忍ばせたナイフへ手を伸ばしたその時。
「―――お前のような小物が、その方に触れるな」
横合いから飛んできた銀光が、執務官の掌へと突き刺さった。
「うっ、ぎゃぁああ!?」
ちせのものとは別の、戦闘用の鋭いナイフが貫通した右手を抱えてもんどりうつ執務官。当然ながら、下手人はちせではない。アンジェとちせ、そしてマネーペニー警部は声のもとへと目を向ける。
何時からそこに立っていたのか悟らせぬままに、白いマントとシルクハットの小柄な女が、左手を振りぬいた姿勢のままで立っていた。
「あなたは……」
「ガルディアン!」
アンジェの上げた誰何の声にかぶせてきたのは、その姿に見覚えのあったマネーペニー警部だった。
すかさず拳銃を構える警部を一瞥すると、ガルディアンはにこやかにアンジェに微笑む。
「こんばんは、美しいお嬢さん。怪盗ガルディアンが今宵、あなたを盗むために罷り越しました」
「……あなた、本気で言っているの?」
人一人に刃物で傷を負わせておいて眉一つ動かさず、まるでナンパ師のような口上で笑いかけてくるガルディアンに、アンジェは薄ら寒いものを感じて背筋を震わせる。
なるほど、気心の知れた仲であるプリンセスと違い、得体のしれない女が自分と似たような顔でにこやかに笑っているというのは中々に気色悪い。
年相応の未知への恐怖、或いは嫌悪を内心で押し殺しながら、アンジェは怪盗の顔をじっと見つめる。目尻の造形などは違うが、目元から鼻先までのラインは、確かに自分とよく似ている。手入れでダメージを隠した銀の髪は、王国へ潜入するに当って脱色したアンジェの髪と同じ。おそらくガルディアンの髪も元は別の色なのだろう。ドロシーのような暗い茶色か、ベアトリスのような明るい赤色か、或いは自分やプリンセスと同じ金色か。
これで青い瞳が天然の色ならば、アンジェとガルディアンが間違われたのも頷ける。よく似た二人の顔を見比べるマネーペニーとちせが、同様に混乱の表情を浮かべているのも当然というものだろう。
(―――何かしら。何か忘れているような……)
自身を模倣したかのような存在。その心当たりを探るアンジェの胸の裡に、遠い記憶の断片が引っかかる。
「………まさか」
思わず声を漏らして目を見開くアンジェ。その反応が思い通りのものだったからか、ガルディアンは一層笑みを深め―――その両手に、袖口から飛び出したナイフが握られた!
「ちぃっ!」
「うぉおっ!?」
瞬きほどの間に、ちせとマネーペニー警部へナイフが投げ放たれる。ちせは危なげなく、マネーペニーも廊下へ転がるようにして何とかその刃を躱すが、次の瞬間に怪人は走り出していた。
膝をついてリボルバーを構えようと突き出されたマネーペニーの腕を取り、その銃口をちせの方へと向けさせる。そのまま手首を逸らすように拳銃を押し付けると、ガルディアンを狙っていたはずの銃はちせに向かって火を噴いた。
「あだだだだっ!? 放せこの、ぐがっ……」
そのままマネーペニーに肉薄すると、顎先を膝で跳ね上げてその意識を刈り取る。
ちせのように戦闘訓練を積んでいた訳でないとはいえ、現役の警察官を一瞬で無力化した腕前は十分な脅威だ。
次はお前だとばかりにこちらへ目を向けたガルディアンに警戒を最大限まで引き上げるちせだが、現在手元にあるのは慣れ親しんだ得物ではなく、切れ味の鈍い
同じようにフォークを腰だめに構えたアンジェに目配せするが、何やら彼女も動きが鈍い。果たしてどこまで戦えたものか。
ガルディアンに対して十字に―――ついでに、未だに床に突っ伏してうんうん呻く執務官からアンジェの姿を隠すようにして―――位置取った二人は、無言で同時に飛び出す。
突進する二人に対し、ガルディアンは何処までも冷静だった。右の肩口めがけて突き込まれたナイフに向けて右腕を垂直に立て、籠手のようにベルトで留めていたナイフの鞘で弾くようにいなすと、続けて力任せにちせの小柄な体躯を蹴り飛ばした!
「がはっ!?」
「ちせ!」
白兵戦でちせが押し負ける……おおよそこれまでの任務では有り得なかった事態を前に、アンジェが僅かに動揺する。その一瞬の硬直が、勝負の明暗を分けた。
左手の
似通った体格とは思えないその膂力に、さしものアンジェも苦悶の喘ぎを漏らしながら、堪らず得物を取りこぼす。
「くっ、あ、このっ……!」
アンジェなりの全力で抵抗され、至近距離で睨みつけられているというのに、どこ吹く風と微動だにせず微笑み続けるガルディアン。そのまま怪人はアンジェの耳元に唇を寄せ―――
「おいたが過ぎますよ、“シャーロット様”。こういった荒事は御身がなさらずとも、私なり“あの偽者”なりに任せれば良いのです」
アンジェにとっては致命的すぎる言葉を告げた。
「……なんのことだかさっぱりね、不敬にも程があるわよ」
取り繕う言葉とは裏腹に、アンジェは自身の脈拍が加速していくのを感じた。自分でも半信半疑だったガルディアンの正体に、これ以上ない確信が持てた。同時に、薄気味悪い笑みを浮かべ続けるこの怪人は文字通りにアンジェとプリンセスを……十年前、革命の日に入れ替わってしまった
幸か不幸か、ちせとマネーペニーは気を失ってこの会話を聞いておらず、執務官も血と体力を失ってこちらに意識を向ける余裕はなさそうだが……
「私が
その言葉に、アンジェは全身の血が沸騰するような錯覚を覚えた。
「ふ、ざけ……ないでっ!!」
「っと!?」
抑え込まれていた両腕を力任せに振り払い、驚く怪盗の顔面へ意趣返しとばかりに回し蹴りを見舞う。
苦し紛れのその一撃は難なく避けられるが、怒りに耳まで赤く染めたアンジェは、荒い息を吐きながら一歩踏み込み、振り上げた掌を力いっぱい叩き付けた。
ぱん、と頬を打ち据える渇いた音。
驚きに目を見開くガルディアンを睨みつけながら、アンジェは必死に自分を抑える。
感情に振り回されるなど、スパイ失格だ。常に冷静に、冷徹に……理性がどれほど囁こうと、腹の底から収まることなく激情が沸き上がる。
―――何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も知らないくせに! ただそこに居たという理由でプリンセスの名と生き方を押し付けられた少女が、
かつて、決められたレールの上しか歩めない生き方を不本意にも押し付けてしまった親友。押し付けた自らが命を懸けて王宮という地獄から救わねばならないと決めていた少女は、必死に戦い、抗い、誰よりも気高い“本物のプリンセス”になっていた。
何度悪夢に苛まれたのだろう。何度血を吐いたのだろう。
それでもあきらめずに学び続け、多くのことを身に着けた彼女だから、今度こそ押し付けるのではなく夢を託し、ともに叶えると決めたのだ。
「それ以上彼女を侮辱するのなら……あなたは、私の敵よ」
尊敬する友人の生き方を否定されたアンジェは、これ以上なく怒っていた。
明確な決別の言葉を投げつけられたガルディアンは、まるで凍り付いたかのように立ち尽くし、打たれた頬を抑えて声を漏らす。
「あ……あ、そんな、そんな……」
覚束ない足取りで一歩、二歩と後退ると、ガルディアンはその瞳に涙を浮かべ―――
「そこまで、あの偽者に毒されてしまわれたのですか。シャーロットさま」
焦点の合わない瞳で、憐れむような言葉を投げかけた。
「そんな、いけません。王権は、天が与えた唯一のもの……それを手放すなんて、あまつさえあんな偽者に譲るなんて……!」
「あなた、何を―――」
先ほどまでと違い、明らかに様子のおかしいガルディアンを訝しむアンジェ。しかし彼女の様子が目に入っているのかいないのか、ガルディアンは何事かをぶつぶつとつぶやくと再びアンジェに歩み寄り、愛おし気な表情を浮かべたままでアンジェの頬に手を伸ばす。
「もう良いのです、そんなことをしなくても。あなたが、あなたこそが本当の―――」
果たして現実がきちんと見えているかどうかも分からぬその瞳は、自身と同じ色のはずなのに痛ましい闇に濡れていて、アンジェは本能的な恐怖に背筋を凍らせる。
「あの偽者があなたの立場を、本当のプリンセスとしての地位を脅かすのなら、私があいつを……!」
「アンジェっ、ちせっ!!」
ガルディアンの口上を遮って、
走る勢いそのままに懐からオートピストルを取り出したのを見てか、ガルディアンとアンジェは咄嗟に互いから距離を取る。
「今宵はここまで、ですね」
「まっ―――待ちなさい!」
先ほどまでの狂気を微塵も感じさせない流麗な所作で一礼するガルディアンは、一息に廊下の端へと駆け寄ると、そのまま窓枠を蹴破りながら外へ飛び出す。
「んなろ、 ここ5階だぞ!?」
アンジェと共に窓から外を見たドロシーが悲鳴染みた声を上げる。二人が視線を落とした先では、夜の霧に紛れる白い影が、民家の屋根を伝って走り去っていくところだった。
「うっへえ……Cボールも無しでよくもまあ……」
「……そうだわ、ちせは!?」
アンジェは弾かれたように振り返ると、蹴り飛ばされて床に伏していたちせを助け起こして脈をとる。幸い、ちせは間も無く目を覚ました。
「う、む……奴はっ!?」
「怪我は大事なさそうだな。
ドロシーが指さした窓を見て、先ほどのアンジェ達と同じように仰天した表情を浮かべるちせ。
「うぅむ、石川五右衛門の縁者かと思ったが、その実は足柄山の鬼の類であったか……」
「その例えはさっぱりわからないけど、要はマジモンの
ガルディアンの驚くべき身のこなしに思い思いの感想を漏らすドロシーとちせ。
信じがたいことだが、怪盗ガルディアンが見せた大立ち回りは
先ほど怪盗は『足技を駆使してマネーペニー警部とちせを一瞬で無力化し、アンジェを腕力だけで拘束』した挙句に『廊下の窓を蹴破って飛び出した後、その勢いのままに別の建物へと跳んだ』。この時点でもう滅茶苦茶であるが、極めつけに一連の淀みない脱出の間、ケイバーライトの淡い緑光が一切見えなかったのだ。
つまり、ガルディアンはCボールに頼らず、己の手足で以て飛んで跳ねてと大暴れしていた訳だ。そうすると単純な技量と体力の勝負となり、そんじょそこらのエージェントでは、いや生身の人間では太刀打ちできるかどうかも怪しい―――ところで、
「なにも、必ず人間が相手をする必要は無いわ。怪人の相手は怪人がすれば良い。さしずめ今回は、クロトカゲ星人の出番かしら?」
そうしてアンジェが名乗りを上げたのは、至極自然なことだった。
「……おい待て、お前もお前で正気で言ってんのかそれ」
「一人で相手をするというのか? 言っては何だが、私とお主と二人がかりでも随分簡単にあしらわれたぞ」
「今度は油断しない……って言うのは負け惜しみみたいで嫌だけど、しっかり準備すれば勝機はあるわ。そのためにも……」
言いながら、アンジェはどやどやと声の聞こえて来た廊下の奥に目をやる。
どうやらガルディアンを捕縛しようとして返り討ちに遭った刑事たちが体制を整えて押し寄せて来たらしい。
アンジェも怪盗と同じように警察署からはお暇したいところであるが、ここで姿を消せば何を言われるか分かったものではない。
疑いの晴れないうちにメイフェア校に戻ってちょっかいをかけられるよりは、意外と快適な署内で身を休めながら、武装の調達等は仲間たちに任せるのが得策だ。
「ちせは一旦、私と一緒に。ドロシー、できるだけ早めにプリンセスを連れて来て頂戴。私の釈放と……それと、いくつか彼女に確認したいことがあるわ」
―――怪盗の正体も含めてね、と言って、アンジェは今一度取調室へ戻る。面会に来ていた友人と一緒に、乱闘騒ぎに怯えて室内に逃げ込んでいた、とでも言えば誤魔化しは効くであろう。
かくして怪盗の捕縛作戦は一旦振り出しに戻る。しかし、怪盗の正体におおよその当たりを付けたアンジェは一人ひそかに拳を握る。
(怪盗は……あの女は、次はプリンセスを狙う。そんなこと、絶対にさせない)
らしくもなく、アンジェは胸の裡に炎を滾らせる。
狂える白い怪盗と怒りに燃える黒いトカゲ……怪人同士の譲れぬ戦いのどちらに軍配が上がるのか。
答えはまだ、誰にもわからなかった。
Voleur(仏・ヴォラール)
泥棒、盗賊……特定集団の内輪でしか通用しない符牒や隠語を“盗賊のラテン語”と呼ぶことも。
Volare(伊・ヴォラーレ)
飛ぶ、飛翔。打撃・拳撃で“ぶっ飛ばす”という使い方もある。
〇10秒でわかる今話の内容。
ガルディアン「おのれ……よくもここまで私をコケにしてくれたわね……殺してやる」
ちせ「まずいぞアンジェ!」
アンジェ「くっ……」
プリンセス「あらあら現場の二人が大変だわ(暢気に優雅にティータイム)」
ガルディアン「殺してやるぞプリンセス」
プリンセス「!?(真顔で紅茶を噴く)」
〇怪盗さん強くね?
ちせとアンジェがそれぞれ本来の得物を持っていて、なおかつ警部と執務官がそこらに転がっていなければ苦戦はしても最後は勝っていました。劇場版で最近大活躍のあの男の方がもっとヤバイ。
実は“意識的に脳のリミッターを外して一時的に身体能力を上げる”ことが出来るという、類稀なる戦闘センスの持ち主。ここらへんの設定は『黒執事』の登場人物を参考にしています。アグニ君は良いキャラしてるよね。