決意新たに始まった4周目。
敬愛する女神の声を振り切り、自分の命を生贄に捧げて得られたこの世界。
絶対に私は負けない。
「格好をつけたものの、私はどうすればいいんだ……」
四周目の世界の一日目、お昼時に私はもはや通いなれてしまった喫茶店で過去の周回でも何度も頼んだチーズケーキをフォークで意味もなくつつきまわしていた。色々と思う所もある三週目に見切りをつけてタイムリープとやらをしたのだが、あの世界で得られたのは結局のところこのループ現象を意図的に引き起こす方法だけだ。もちろん、それ自体はとても重要で意味もある事なのだが、肝心のカズマを私のモノにするための方策はまだない。
相も変わらずめぐみんは強敵であるし、アクアに対しても下手をうつと彼を奪われてしまう。一番の問題はカズマが私に対して積極的な好意がないという事実である。彼は密かにアクアに対して自分すらも理解出来ない感情を向けているが、めぐみんに求められれば彼はそれに応える。カズマは私を含めて今の私達と共に暮らすことを望んでいるが、周囲に流されやすく日和見主義なきらいがあった。
「んっ……」
頭の中に一つの答えが出てしまう。それをすれば、私の勝利は間違いないと見ている。だが、それは私にとってはいくらか敷居が高く、諸事情によりやりづらかった。
「理想を夢見る事はもう許されないのだろうか」
そう独り言ちてしまうのも必然であった。脳裏にチラつくのはエリス様から賜ったあのナイフ。私の中で確かに息づいているその力が、私の過去の積み重ねを証明していた。だからこそ、余計に思考が先鋭化してしまうのだろうと冷静な部分の私が結論付けていた。
そのまま悩みに悩んで少し店員の目が痛くなってきた頃、この喫茶店に顔見知りが来店してくる姿を目端で捉えた。彼女は席について店員への注文を済ませた後、まるで誰かと対話でもするようにぶつぶつと独り言を呟いていた。目が虚ろになっている点は少し気になるが、その姿は少し親近感を覚える。私も、先ほどまでぶつぶつ独り言を言っていたのだから当然だ。
そんな私の視線に気づいたのだろうか、じろりとこちらに視線を移した彼女は次第に生気を取り戻してこちらに目線を返してくる。そして、彼女……黒髪と特徴的な紅目を持つ女性は私の対面の席へと腰を降ろした。
「何かお悩みですかダクネスさん。とても辛そうな顔をしてましたよ?」
「いきなりだなゆんゆん。貴様に心配されるという事は私もいよいよのようだな」
「…………」
「すまない、冗談だ」
私が吐いた毒にゆんゆんは僅かに首を傾げ、彼女の艶やかなおさげが揺れる。こちらを心配して近づいてきた彼女にイラつきをぶつけるほど私も追い詰められていたらしい。その点は反省しつつも、やはり会話は上手く続かない。彼女には以前の周回からお世話になっているし、実際に半年以上の同居もした。だが、ゆんゆんが私にとっては友達の友達という枠組みの中にいる事実は変わりはない。二周目でも彼女は今回と同様に話しかけてきた事を考えると、お人好しのお節介焼きである事は確実と言えた。だからであろうか、気が付けば私は意地の悪い事を彼女に言ってしまった。
「お察しの通りだがカズマやめぐみん、アクアとの人間関係について少し悩んでいる。つまりは、痴話喧嘩だな」
「それは年中してますよね。私もめぐみんにカズマさんや貴方との関係についての愚痴を聞かされたのは一度や二度じゃありませんから」
「そのめぐみんの愚痴とやらを詳しく聞いても?」
「流石に駄目ですよ。私もめぐみんの友達として詳細は語れません。でも、結局は私に対しての自慢話や惚気話になるような可愛い物でしたよ」
「そうか……まあアイツはこのまま何もしなければカズマと結ばれるだろうしな……勝者の余裕という奴だ」
「ふふっ、だとしても私はめぐみんよりもダクネスさんを応援してますよ」
そう言って、朗らかにか笑うゆんゆんを私はまじまじと見つめる。私にとっては実質的に半年以上も前の話なので記憶が曖昧なのだが、思えば以前の周回でも似たような言葉を聞いた気がしたのだ。
「意外に思いましたか? でも、あれだけの惚気話を聞かされるのは正直苦痛なんですよ。ダクネスさんが勝ってめぐみんが泣く姿を見れれば少しは鬱憤が晴れる気がするんです」
「なかなかに歪んだ考え方だな」
「別に、ちょっとした復讐ですよ。だからと言って、めぐみんの恋路を邪魔したりはしませんけどね」
悪戯な笑みを浮かべるゆんゆんの姿は女性の私から見てもとても魅力的なものであった。そうして私は半年以上も前の彼女の会話を薄らぼんやりと思い出す。詳細は思い出せないがゆんゆんは侮れない相手だと記憶していた。それならば、彼女に助言を乞うのも一興だ。私がどうしようもないどん詰まりにいる事実は変わりないのだ。
「ゆんゆん、一つ教えて欲しい事がある」
「ええ、一つでも二つでもなんでもどうぞ!」
「それならば質問だ。ゆんゆんは愛する者のためなら自分の命を犠牲にしても構わないと思えるか?」
「いきなり突飛な質問が来ましたね。でも愛する者ですか……」
複雑そうな顔で黙り込んだゆんゆんはしばしうんうんと悩んでいた。だが次に顔を上げた時には何か決意に溢れたか表情で私の事を真剣に見つめてきた。
「ダクネスさん、前提としてそれは何か本などの物語での話なのか、貴方自身に関しての話なのか教えてください」
「どうとって貰っても構わない。一種の思考実験のようなものだ」
「そうですか。それならば私の答えは決まっています。そんな事をするのは”大馬鹿者”です」
気分が昂っているのだろうか、ゆんゆんはテーブルから乗り出すようにそう告げてきた。私は彼女の言葉を受けて少し怯む。質問と言う形でゆんゆんに話をぶつけたが、はっきりいうと私は彼女から共感と同情を得たかっただけだ。おかげで私は自分が否定されたようで少しイラついた。頭の隅で、『女ってめんどくせえよな』と呆れたように毒づくカズマの姿がチラついた。
「物語としてはそのような展開は面白いかもしれません。でも、いざそれを自分に置き換えた時はもやもやするんです。愛する人が何を指すかはこの場で言及するのは控えますが、どちらにしても自分の命を犠牲にするという考え方が嫌いです。その愛する人ってのもとても悲しむでしょう」
「だが……」
「何より、”死”というものを軽く考えてはいませんか? 死んだら何もかも終わりなんです。良かれと思ってとった行動だとしても死んだら”全て”が終わる。それってとても悲しい事じゃないですか?」
有無を言わせぬようにこちらに言葉を畳みかけるゆんゆんに私は二の句を告げる事が出来なくなる。私が黙っているのをいいことに、彼女は更に話を続けた。
「もし、私が死の淵に立たされたら人としての尊厳を捨ててまでも生き残ろうと思うはずです。愛する人がいるならなおさらです。死ぬのは本当に最後の手段なんです……」
「分かった。分かったから落ち着け」」
「あっ……す、すいません!」
ついには私の胸倉に手を伸ばしかけたゆんゆんを制止させる。頬を紅潮させ、熱く語ってくれたゆんゆんには悪いが結局のところ私の悩みの解決には至っていない。やりなおしをしている事を相談するのも一つの手だが、彼女の死生観を聞くに前回のエリス様のように面倒な手合いであるし、何より彼女に対していまいち信頼が置けなかった。それも含めて、所詮は”友達の友達”なのだ。
「とにかく、すぐに死ぬだの殺すだの短絡的な思考になるのはダメです。その先には自分が望む未来なんて絶対にありませんから!」
そう忠告してからころころと笑うゆんゆんの姿は少し眩しいものだった。だが、彼女はすぐさま表情を引き締めると神妙な面持ちで話し始めた。
「そういえばダクネスさんに会ったら言っておきたい事があったのを思い出しました」
「ほう、めぐみんやカズマへの伝言でもあるのか?」
「いいえ、ダクネスさんにです。その……”クリスさん”には気をつけてください。」
「クリス……?」
ゆんゆんから飛び出したのは私の親友の名であった。ただ、その名がゆんゆんから出た事の方に驚かされる。彼女の交友関係は決して広いものではない事を知っているならなおさらだ。
「少し前まで、私はお節介にもカズマさんは本当にめぐみんには相応しいのかってその……色々と探っていた時期があるんです。そんな時に私は……色々見てしまって……」
「歯切れが悪いな。クリスが陰湿なストーカーだったって事は私も知ってるぞ」
「ご存じだったのですか!? そのクリスさんの正体が……」
「エリス様だって事は私も薄々理解してるさ。それより、貴様は何が言いたい。確かにアイツの趣味の悪さには私も思う所はあるが、堂々と親友の陰口をたたかれるのは正直言って気分が悪いんだがな」
「あっ……! 別に私は陰口を言いたいわけじゃないんです! ただその……クリスさんやエリス様の言う事を真に受けて信じすぎない方が良いと言いたいんです! 笑顔で人心掌握した人間を自分のために使いつぶせるのが女神エリスっていう女神の正体というか……とにかくあの人の言う事は真に受けないでください。ろくでもない事になりますから」
ゆんゆんは忠告という形で私は女神エリスへの不信感を伝えてきたが、私としては非常に不快としか言えなかった。クリス……もといエリス様への信仰は私の人生においての精神的支柱であった。それだけでなく、前回の周回においては私の我儘に散々に付き合わさせて最後には彼女の思いに対して全てを裏切る選択を私はしている。それだけに私はエリス様の事を悪く言うゆんゆんの事が許せなくなっていた。なにより、ゆんゆんの表情は不自然なほど歪んでいるのが気になった。彼女が表情に浮かべているそれは、間違いなく”憎しみ”であった。
「少なくとも友人の陰口を言うような人間の言葉を私は信じたくないな」
「それは……私は貴方のためを思って……」
「私のつまらない話に付き合ってくれて感謝する。釣りはいらない」
「あっ……ダクネスさん話はまだ……!」
テーブルに金貨を投げ捨てて私は引き留めようとするゆんゆんを振り払って屋敷へと向かった。結局、ノープランなのは変わりなかった。
こうして、私は再びカズマと対面する。昼も過ぎた時間だというのにソファーの上で毛布にくるまって横になっている姿を見るに、本当に朝からまったく動いていないのだろう。その事に呆れる一方でどこか安心感を覚えた。私がカズマの横に腰を降ろすと、彼は迷惑そうな目をこちらに向けてきた。
「おい、邪魔くせーから別のソファーに行けよ」
「くっ……中々にクる反応だな」
「あんま俺の近くに寄るとセクハラするぞ。めっちゃするぞ」
「カズマは相変わらずだな。いいだろう、好きにしろ」
「ダクネス……?」
カズマの前で私はだらんと力を抜いた。彼はそんな私に対しセクハラでもしてくるのかと思っていたが、答えは毛布を取り払って私を心配そうに見つめるというものであった。彼は私の眼前に手のひらをかざしてひらひらと振った後、大きくため息をついた。
「お前大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「なるほど自覚はないか。まあそれはそれとして堪能するけどな」
「あっ……」
カズマは座っている私の膝の上に頭を乗せてきた。おまけにごろごろと体勢を変えながら大きく息をするように鼻をすーすーと鳴らしていた。彼に自分の匂い嗅がれるという事に羞恥は感じるが悪い気はしない。むしろちょっと興奮してきた。
「女の子の匂いってなんでどことなく甘い匂いがするんだろうなあ……」
「そ、それを私に聞くな!」
「良い匂いだぞダクネス。このまま俺専用抱き枕にでもなるか?」
「調子に乗るな……」
「なんだよ……ノリがわりぃなお前は……」
そんな事を言いながら、カズマは私の首筋をつーっと撫でてきた。それにぞわりぞわりと身体が反応してしまうが、それを必死に打ち消した。仕返しとばかりに私は彼の頭を子供のように撫でてやる。カズマは私の愛撫に反抗するかと思いきや、しばらく黙ってそれを受け入れていた。
「なあ、ダクネス」
「どうした」
「おっぱい吸っていい?」
「ダ、ダメに決まってるだろ!」
「なんだよ……ノリがわりぃなお前は……」
「そういう事はノリでするものじゃないだろう!」
私が彼の鼻をつまむとふがふが言いながらそれ以上のセクハラはしなくなった。代わりに私は私自身に後悔と苛立ちが募った。もし、これがめぐみんだったら躊躇いもなく胸を曝け出していたかもしれない。それが出来ない時点で私はめぐみん達に負けているような気がした。
「それで、何に悩んでるダクネス」
「いきなりだな……」
「バカ言うな。これだけ長い間付き合ってればダクネスがため込んでる状態だってのはすぐ分かる。ほら、きりきり話せ」
「むぅ……」
ゆんゆんと合わせればこれで二回目のお悩み相談だ。ただ、ゆんゆんと違ってカズマに対しては下手な相談は出来ない。ということで情報収集も含めて私は彼への逆質問を断行した。
「私の方はたいした事じゃない。いつもと比べて少し月のものが重いだけだ」
「うげっ……すまん……」
「それよりカズマの方だ。貴様も実に悩んでいるようだな。例えばめぐみんの事とか……」
「ダクネス、それは分かってて言っているのか……」
「さあな、告白でもされたのか?」
「分かってるみたいだな」
カズマは片手で顔を覆いながら、私の大腿部に顔をうずめる。それから黙ってしまった彼の頭を私は優しく撫でた。女性関係について悩めるのは贅沢な事かもしれないが、彼にとっては重い悩みなのだろう。まあ、これに関しては悩んで貰う方がいいのだ。きっぱりと結論を出されては私はどうあがいても勝利は得られない。それは彼の悩みの対象に私がいる事の証明と言えた。
「お察しの通りめぐみんから告白された上に早く相手を決めろと急かされてる。俺はいつまでもこのままでもいいんだけどな……」
「私も含めて一生待つなんて出来ないさ。特に女にとっては若いうちにしか出来ない事もたくさんある。その……子供とか……!」
「気がはやいなほんと……俺まだ二十代前半なんだけど……というかダクネスは俺の子供が欲しいのか?」
「欲しい」
「うわっ……」
彼の質問に即答してしまってから、私は何を言っているんだという羞恥と後悔が巻き起こるが今更この程度で動じる事もない。というかこれは告白扱いになるのだろうか。それならばカズマがアクアの思いを自覚する事にもなってしまう可能性もある。そもそも、告白を封じられては彼と一緒になるのは夢物語に終わるのではないか。結局私はどうすれば……
「なら俺との子供を作るか?」
「ほあっ!?」
「そこまでしたら俺も吹っ切れそうだしな。まあなんだ、今日は練習がてら軽くヤってみるか」
「ドキドキさせておいて結局それかカズマ!? 私の身体が目当てなのか!?」
「勘違いするな。身体”も”目当てだ」
「あっ……」
いつの間にか私はカズマにソファーへと押し倒されていた。情欲に溢れた目は私を前にしてだらしなく歪んでいる。私はというと、色んな意味で動けなくなっていた。論理的にも本能的にもこのまま無茶苦茶にされたいと訴えている。でも、私の高すぎる自尊心がそれを是としなかった。
「こういうのはもっと段階を踏んでから……その……あうっ……!?」
「ほう、そのダクネスの段階とやらを聞かせてくれ」
「それは……まずは女の私としては貴様に告白して受け入れて貰うというのも一種の憧れだが、どうせなら男の方から告白して欲しい。もちろん、貴族の私と付き合うなら結婚が前提だ。私のお父様にもきちんと話を通して正式に認められるも重要だな。そして私を色んな所に連れまわしていっぱいデートして欲しい。この恋人関係の期間はお互いに馬鹿みたいに好き合って後々になって思い出を振り返ると貴重な二人だけの幸せな時間なんだ。そうしてお互いに距離を詰めて手を繋いで、接吻を交わしたい。でも、性交はダメだ。それはきちんと結婚してから行うのがスジというものなのだろう。最近では市井の人々には出来婚という文化が根付き始めたようだがあまり関心しないな。いい加減な付き合いをしていい加減な性交を行い、子供が出来たからといい加減な結婚をする。そんな人生に関わる事をいい加減にこなせばツケは後々来てしまう。だからこそ夜の営みは盛大な結婚式を終えた夜、お互いに疲れながらも嬉しいような恥ずかしいような気持ちで初夜を迎えるんだ。どこで初夜を迎えるかも重要だな。夜だからこそ夜景が映えるような場所で行う憧れがある。一方で二人の思い出深い場所で行うというのも良いな。それこそ、私とカズマの場合はこの屋敷でも全く問題ないだろうな。確かにカズマは性欲に素直な所もあるが、私はお前がこちらの意をくむ気遣いが出来る男である事も知っている。貴様がどちらを選ぶか分からないが私はそれを期待してもいいのだろうか?」
「なげえよ! 長すぎて聞き流しちまったわ! もう面倒だからとりあえず脱げよ!」
「面倒くさいとか言うな! 私はただの一般論を言っただけであって……こらカズマ本当に……!?」
気が付けば彼に身体をぐいぐいと引っ張られ、鎧をはぎ取られてインナーだけになってしまっていた。それを良いことに鼻をふんふんと興奮の息で鳴らしながら私の至る所揉み始める彼はなかなかの鬼畜である。だが、それもいいのかもしれない。私の頭の中で展開される面倒な順序も、彼はこうして破壊してくれる。やはり、愛する相手が自分を求めてくるというのは女にとっては最上の喜びだ。順序をすっ飛ばしてしまう市井の人々の気持ちが分かる気がした。だから、私は彼の顔を引っ掴んでこちらに引き寄せる。そうしてお互いの唇が触れそうになった時、”お約束”が起きてしまった。
「なにをしてるのよアンタ達……!」
私の愛する人は、私よりも涙目のアクアを優先した。
夕刻、アクアの介入によりぐだぐだとなって雰囲気も台無しにされてしまった。おまけにカズマはアクアの機嫌を取る事に終始したため、私は蚊帳の外となってしまう。以前はあまり気にならなかったが、こういう場面で自分とアクアの差を感じてしまった。そして私といえばそれを愛想笑いで見ている事しか出来なかった。おかげで私は現在涙目での敗走中である。四周目にもなってこのような体たらくである自分自身が情けなくて仕方なかった。
「ちょっと待ちなさいよアンタ。夕飯は食べて行かないの?」
「今日はいらない」
「まったく、私に邪魔されていじけちゃったのかしら」
「別にそういうわけじゃない……」
「ええ、そうね。アンタの顔、こっちが不安になるほどヒドイ顔をしてる。さっきの事だけが原因じゃない事は分かってるから」
屋敷から逃げ出した私を、アクアが正門前にて引き留めてきた。彼女は私に対して心配そうな表情を向けているが、その目は不審で揺れていた。話すのも面倒になった私は正門を抜けようとするが、突如として透明の壁に阻まれる。私にとっては宿敵とも言えるこの壁の出現は、アクアに敵意を向ける事への十分な理由となった。
「やっぱり見間違いじゃないわね……カズマやあの子が心配するのも当然だわ」
「なんの話だ」
「貴方についてよ。こうして貴方を深く観察すれば違和感に気が付くのよ。そうね、例えて言うなら……昨日まで可愛がっていた子犬が、次の日には急に飢えた人食い狼に変貌していたような驚きよ」
「余計なお世話だ。私にも事情がある」
「ふーん、私の事をそんな”目”で見てくるくらいには何か心境の変化があったみたいね。でも、いくらなんでも突然すぎるし流石にこれは私も見過ごせないわ」
そんな事を言いながら私に近づいてくるアクアに私は内心では非常に困惑していた。何故なら、今までの周回ではこのような展開は一度も起こっていないからである。初めてのイベントへの恐怖はあるが、それ以上にこの”再現性”についての不安定さにも気づいてしまった。どうやら、アクアは私の態度や目つきで異常に気付いてこのような今までにない接触を図っているようだ。そうであるならば、今後は私の態度やカズマやアクアへの接し方も一度改める必要があると実感した。
「少々月のものが重くてイラだっているだけだ。こんな透明な壁で閉じ込めるようなまねは勘弁願いたい」
「嘘ね。アンタ達の身体の変化は”匂い”で把握してるわ。ここ数日は貴方にその兆候はないの。それより私は貴方が私に向けてる敵意の方が気になるし、その濁った目は生者がしていいものじゃない。何か言えない事情があるなら断片だけでもいいから教えてくれないかしら」
「…………」
「答えは沈黙……という意味かしら」
アクアは押し黙る私を見てため息をついた。それから、私の額に向けて素早く右手を突き出していた。まずいと思った束の間、ずぶりという不快な音と頭から感じる激痛。蘇るのは三週目で女神エリスが行った記憶操作の事である。今回も同様の事がアクアの手によって行われようとしていた。だが、私の身体が光り輝いたかと思えば、次の瞬間にはアクアは後方へと勢いよく吹き飛ばされ、屋敷の玄関扉に叩きつけられていた。アクアは驚愕の表情を浮かべていたが、私では補足できないほどの速さで再び眼前へと迫る。それからじろりじろりと私を観察した後、彼女はぽつりと呟いた。
「ねえ、バカみたいな事を聞くかもしれないけど……」
「どうした……?」
「アンタって、タイムリープしてない?」
そのアクアの質問は私を動揺させるには十分だった。ガタガタと震える肩を必死に抑えながら私は平静を装った。だが、アクアはそんな私を見てどんどんと笑みを深めて行く。私は再度正門から抜けようと試みたが当然のように透明の壁に阻まれた。
「なるほど……なるほどなるほど……そういうことだったのね……健気に”設計図”までつけちゃって……」
アクアの嗤いかたがキヒキヒとした尋常ではないものへと変化していた。それは私に生理的嫌悪を覚えさせる一方で別の感情を思い起こす。つまりは目の前の理解不能な相手への恐怖であった。
「お前は誰だ……! 少なくともアクアはそんな気味の悪い笑いかたはしない!」
「あら、私の事をそう評価してくれるのは嬉しいけど残念ながら私は”私”よ。でも、貴方は知ってるかもしれないけど、今の私は誰かさんのおかげで思考がとても”クリア”なのよ。まさかあの娘の記憶を取り込んだせいでここまで自我に揺らぎが出たのは失敗だと言えるけど、案外悪い物ではないわ」
それから数分間、何がおかしいのか笑い続けるアクアを私は止める事が出来なかった。むしろ、彼女への生理的嫌悪がどんどんと増してくる。私は一刻も早くここから抜け出したかった。
「ねえダクネス、アンタはどうせ絶対に諦めないだとかそんな思考でいるみたいだけど、”今回”は諦めなさい。今すぐにでもこの時空から離れなさいな」
「何の話だ……!」
「貴方を私の記憶操作から守った力は純粋に貴方を身を案じてるのでしょうね。でも、その力の存在を今の貴方以外に知られた時点でもう詰みなのよ。本当に残念だわ」
「私は……いいから早く出せ……出してくれ……!」
どんどんと透明な壁を叩くが、やはりこの壁は打ち破れない。代わりに私を嘲笑うようにきひきひと漏れ出る笑い声が私の耳元まで迫る。この時点で私が出来ることは無様に醜態を晒す以外何もなかった。
「ダクネス、私も貴方の事を心から心配してるっていうのには嘘偽りはないわ。だから、貴方にヒントをあげる」
「ヒント……?」
「ええ、教えられるのは私がアンタ達へ介入する際の方法よ」
「はっ……?」
「まあ聞けば分かるわよ。そうね……私は女神だけど貴方達全員を常に見守るのはやはり難しいの。でも、何か変化があった際にすぐに駆け付けられるように、貴方達に大きな”感情変化”が起こった際には私に通知が来る術式をカズマ、めぐみん、貴方にもすでに仕込んでるの。まあ、最近の運用方法は盛ってしまったカズマを鎮圧する事にしか使ってないけどね」
アクアの語ったヒントとやらは確かに非常に有益な情報であった。これを応用すればカズマとの情事の際に彼女の介入を防ぐことが出来る。だが、それを私に伝える点が納得が行かない。それに彼女の言葉を全て信じられるような状況ではない事がその言葉の信憑性を揺らがせた。
「それと忠告もしてあげる。そうね……アンタは地頭は良いけど頭の回転が速いわけでも策略を張り巡らすのが得意というわけじゃないわ。だから、変な事はせずに直球勝負で行きなさい」
「…………」
「それと、とても重要な事を教えて上げる。ダクネス、アンタは”妥協”を覚えなさい。自分が得るべきもを得たらそれ以上欲はかかないで。その先に待つのは破滅よ」
「何が……何が言いたい!」
流石の私も我慢の限界であった。だが、アクアに掴みかかろうと思った瞬間、私は正門の外へと弾き飛ばされていた。倒れ伏す私を見てアクアは相変わらずの笑い声をあげている。そして、私は再びこの屋敷への侵入を拒まれるようになった事を理解した。
「それじゃあダクネス、良い旅を」
そう言って立ち去るアクアの姿に、私はどことなく敬愛する女神の姿を垣間見た気がした。
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翌日、私は実家のベッドの上で目を覚ました。右手には女神エリスのナイフを強く握っている。実は昨夜に私はやりなおすかどうかずっと考えていた。現状としては私がタイムリープしている事を何故かアクアが理解してしまった。私が取るべき行動はもうあまりない。今回の事は事故と思ってやり直すか、それとも今起こっている展開の確認を行うかである。今後のためにも少しでも現状の情報を集めて次回に生かすというのはこのタイムリープという能力を使うに置いて非常に重要だ。再現性についての当初の考察が崩れつつある今、情報は得られるだけ得るべきだというのが私の答えであった。
「しかし私はどうすれば……」
そうして、また思考の海に沈みそうになった私を扉からのノック音が現実へ引き戻す。乱暴に叩かれたその音は私への返事を待たずに扉を開ける。現れたのは焦った様子のお父様であった。
「ララティーナ、話がある」
「なんでしょうか?」
「その……うむっ……その様子だと今回の事にお前は関与していないようだな」
どこか安堵した表情を見せるお父様の様子を見て私は再び困惑する。このようなお父様の様子は過去の周回では見たことがなかったからだ。
「心して聞いて欲しい。アイリス王女が失踪してしまった」
そう言って、額に汗を浮かべながら語るお父様の話を要約すると、昨日宮廷で開かれた晩餐会の途中でアイリス王女が失踪してしまったらしい。過去にも同様な突然の失踪は見られたが、護衛を全く付けない、もしくは側近への置手紙もなしに行方を眩ましたのは初めてらしい。王城ではいつもの事と少し緩んだ姿勢も見られるそうだが、護衛騎士などは血眼になって探しているようだ。
「一応、ダスティネス家はララティーナの要望通りアイリス王女とは距離を置くように接している。もし何かあった時も真っ先に疑いの目が向けられるという事もなさそうだ」
「その……ありがとうございますお父様……」
「いいんだ、可愛い娘の恋路のためだ。それに、あの王女があのカズマ君に近づくのはこちらの陣営としては厄介だからね。それはそれとしてララティーナ、カズマ君の様子を探ってきてくれ。何か事情があるなら早めに手をうっておきたい」
「かしこまりましたお父様」
とにかく、イレギュラーな事態が起こった事は間違いない。私は手早く準備を済ませてカズマの屋敷へと向かった。だが、屋敷の正門前で仁王立ちするアクアの様子を見て私の足も止まる。アクアはこちらを警戒するように見つめていたが、数十秒後にはにへらっとした崩れた表情でこちらに近寄ってきた。
「あら、まだ”こっち”にいたの? 私に何の用かしら?」
「別に何も考えてないというのが正直な感想だ。それで、アイリス王女に何をした?」
「何の話?」
「しらばっくれるな!」
私の怒鳴り声をアクアはクスクスとした笑いで押し流す。それだけで、私の中で燻っていた戦意が全く持ってなくなってしまった。それよりも、私はもうこれ以上アクアと接したくなかった。理由は分からないが、怖くて怖くてたまらない。この何が起こるか分からないという恐怖から一刻もはやく逃げ出したかった。
「ふーん、ダクネスにとっては今回の事件は初めての経験なのね。なるほどね……」
「もういい加減にしてくれ! お前は何を企んでる!」
「何を怒ってるのか私には理解出来ないわね」
「待て私の質問に答えろ! お前は何がしたいんだ! 答えてくれ……教えてくれ……!」
「だーめ、教えてあげない」
くすくすと笑いながら屋敷へと歩き去るアクアを私は止められなかった。透明な壁をがりがりと引っ掻いてみたみたものの、やはり変化はない。こうして私はこのはやくも四周目に置ける失敗の要因を悟る。
アクアには私がタイムリープしている事は悟られてはならない。
意味不明な事が起きすぎて思考は大混乱であるが、それだけは理解出来た。
その日の深夜、私は自室にてまたも女神エリスのナイフを弄んでいた。本来なら、いますぐにでも自殺をしてやりなおしをするべきだろう。だが、アクアの言う通りにこの周回を諦めるのは癪であった。出来ればもっと有用な情報が欲しい。何よりアクアにどうにかして一矢報いたかった。
「エリス様……」
暗闇の中、ランプの光によって鈍く光るナイフの存在は私に対して一種の安堵をもたらす。そして、女神エリスの力を頼るべきだと私の心が囁いてくる。だが、それは出来なかった。それをしたら最後、私はまた彼女の悲しむ顔を見なければならなくなる。一方で、エリス様に頼る事で今回のアクアの異変のようなイレギュラーが引き起こされる事への恐怖があった。
「私はどうすれば……」
結局、いくら悩んでも答えは出なかった。
そんな時、部屋の扉がノックもなしに開かれる。私はすぐさまナイフを構えて扉の方に体を向けたが意外とも言える尋ね人に私は言葉を失った。
「良かった……! 無事だったかダクネス!」
「カズマ……?」
「ああ、そうだカズマさんだ。それより力を貸して欲しい。今朝方アイリスが行方不明になった」
「それは知っている」
「そうか、なら捜索に出た俺がアクアとはぐれてそのままアクアも行方不明になった事は?」
「はっ……!?」
「ついでに言うとめぐみんもゆんゆんも行方不明だ。アクアの事について知ってないか訪ねたが、彼女達も夕暮れ時に姿を眩ましたらしい」
いきなりの情報の多さに私は呆気にとられる。だが、カズマの方はそうではない。なぜか、私の方に疑念をこめた視線を飛ばしてくるのだ。それが今は何よりも恐ろしかった。
「ダクネス、俺は王都での捜索中に知ったんだが、お前はアイリスが俺と接触できないように自分の派閥に所属する貴族と結託してアイリスの動きを制限していたらしいな」
「それは……事実だ……」
「今回の件、まさかダクネスが関与しているのか?」
「なぜそうなる! 確かにそのような裏工作をしているがこれはカズマとアイリス王女のためを思っての事だ! それよりその情報を誰から聞いた!?」
「アクアだよ。王都ではぐれる前にダクネスが少し怪しいかもって……」
それを聞いた瞬間、私は思わず近くにあった衣装棚に蹴りを入れてしまった。砕け散ってばらばらの木片となってしまった衣装棚と溢れる衣服にカズマは驚いていたが、こちらには相変わらずの視線を送っていた。それがひどく悲しくて仕方なかった。
「カズマは私よりアクアの事を信じるのか……?」
「…………」
「そうか……」
「いや、俺が悪かった。俺も少し熱くなってた。確かに色々と疑問はあるが、こんな事にダクネスが関与してるわけないな。お前は隠し事が下手くそな奴だし……」
「その納得のされ方は癪だが……本当に私は関係ないんだ……」
項垂れてベッドに座り込む私をカズマは強引に立たせてくる。その顔には私への疑念はすでにない。だが、彼の瞳は真相解明に向けての炎に燃えていた。
「つーことで当初の予定通り俺はお前に助けを求める事にする。実はめぐみんとゆんゆんの行方が分からなくなっている事を知ってから俺はエリス様に助けを求める祈りをした。だが、今のところ全く反応がない。クリスとも連絡が取れないしなんだかとてつもなく嫌な予感がするんだ」
「エリス様が……?」
「そうだ。だが俺だけで天界に行くのは少し心細いだから俺についてきてくれ」
カズマが差し出した手のひらを私はすぐさま握り返していた。ここまで来たら何も情報を得られずに終わるのはあってはならない。それに、純粋にエリス様の事が心配だった。それから、カズマがテレポートの魔法を唱える。周囲は私の自室から夜空のように薄暗くも暖かい空間に切り替わる。周囲の光景はまるで星空のように輝いて終わりが見えない謎の空間であるが、不思議ことにここが天界である事への疑いの気持ちはなかった。
「とりあえずエリス様の寝室に行くぞ。こっちだ」
「おい、天界だけでなくエリス様の寝室を知ってるだなんて……」
「俺にも色々あるんだ。まあエリス様とはたまに遊んでるくらいで今のところは普通の友人関係だよ」
今のところという部分に引っかかりは覚えるが、とりあえず今は余計な詮索はしない事にする。それから数分ほどカズマの手にひかれながら歩を進めた後、突然周囲の光景が切り替わる。周囲の光景は夜空からほどよい広さの個室へと切り替わる。そこにはベッドよソファーといった私もよく知る家具から、薄っぺらい金属の板のような謎の調度品が壁にかけてあったりと私の馴染みのない家具も置かれていた。確かな事はここは先ほどの空間と違って生活感に溢れていた。ただ、キッチンと思われる設備の一画が少しおかしかった。そこには空間の”切れ目”としか言いようがないものが出現していたのだ。
「あんなものは以前は見かけなかった。ここにエリス様がいない以上仕方がない……行くぞ」
カズマに手を引かれながら私はその空間の裂け目へと足を踏み入れる。だが、そこから先の空間は驚くほど狭い場所であった。無機質な鉄色の壁と床に所せましと置かれた薬品棚や調合台。何より目を引くのはこの狭い空間の奥に鎮座していた円筒状のガラス製の水槽、もしくは密閉容器のようなものがだった。その円筒状の容器は前面が盛大に破損して床には砕けたガラス片が散らかっている。ただ、それ以外は何も見つける事が出来なかった。
「なあダクネス、俺の知識で言うとこういうガラス容器の中には生物兵器とかエイリアンが入ってるもんなんだが……どう思う?」
「その生物兵器やらエイリアンは分からないが……これは……」
「おいよせって!」
カズマの制止もすでに遅く、私は円筒状の容器に残っていた水たまりに指をつけ、それをそっと舐めてみる。味はしなかったが、それは私にとってもなじみ深いものであった。
「これはエリス教で一般的に使われている聖水だな」
「聖水……?」
「ああ、一定以上の力を持つ司教が生成してる聖水と品質は変わりない。聖水の貯蔵タンクだったという可能性はどうだ」
「うーん……とりあえず家探ししてみるか」
浮かない顔をしながらカズマと私はその薬品室やエリス様の寝室を調査する。だが、めぼしい物は何もなく、見つかるのはカズマが以前使っていた私物や下着、盗撮写真などのストーカーの証拠だけであり、私達の呼びかけに対して反応は全く見られなかった。
結局、数刻後には私とカズマは屋敷の前にテレポートで帰還していた。お互いの間に会話はもうない。カズマは憔悴したような表情であり、私はというと流石にもう色々と諦めがついていた。そんな時、屋敷の方から小さく声が聞こえた。
『カズマさーん、カズマさーん。こっちきてー』
それは確かにあの水の女神のものであった。
「アクア!」
カズマは弾かれたように屋敷へと駆け出していた。出遅れた私慌ててその後を追うが、透明の壁に動きを阻まれる。その瞬間、私は全てを悟った。やはり、アクアが何かやっているのだ。
「くそっ! なんでこんな! 開け!」
咄嗟に女神エリスのナイフを取り出して壁を切りつけるが、全くもって効果がない。だが、それから数十秒後、ふっと透明な壁が消失した。私は勢いよく屋敷へと突入する。しかし、そこにはカズマの姿も、アクアの姿もなかった。
「カズマ! どこだ! 返事をしてくれ!」
返事はない。
「アクア、お前は何がしたいんだ! 出てこい……出てきてくれ……!」
自然と力が抜け床に崩れ落ちてしまう。アクアの返事もない。
「エリス様……めぐみん……誰でもいい返事を……返事をしてくれ……」
もちろん返事はなかった。
「私は何のために……どうしてこんな事に……なんでなんでなんで!」
こうして、何も分からないまま”一か月”の時が流れてしまった。
エリス教、アクシズ教、自分の派閥に属する貴族、持てる資産を使ってカズマ達の捜索を行った。だが、何も得られなかった。もう私にはやりなおす以外の選択肢はなくなっていた。
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「お嬢様、そのナイフ……」
「うるさい、いいからお前はお茶でも入れてろ」
「は、はいぃ!」
カズマの屋敷のリビングにて、私は味の感じられないお茶に口をつけていた。だが、リビング以外は男達の声と屋敷の破壊音で騒然となっている。例の一連の失踪事件から約一か月、私は結局何も情報を得られていない。せめて何かを持ち帰ってからではないと死ねないと頑張っていたが流石に限界だ。カズマのいない世界にいる意味なんてもうないのだ。
ナイフを弄びながら私は左手に巻かれた包帯を眺める。そこにはすでに二か所の刺し傷がついていた。実は昨夜に自殺を決行しようとしたのだが、最後にもう一度原点に立ち返って調査しようと思い立ったのだ。だが、屋敷を探させている私軍の兵士からは良い情報は上がってこない。一か月前の時点でも私が屋敷の調査をしているため、当然とも言えた。それから数刻後、浮かない表情をした兵士達がリビングに集まってくる。彼らから得られた報告は『何も見つからなかった』という簡素な物であった。
「あの……その……お疲れ様です! 皆さんの分のお飲み物も淹れたので……ってわひゃあ!?」
重い空気を払うように声を張り上げた新人メイドが、勢い余って床にポッドの中身をぶちまける。思わず私だけでなく、兵士達の中からも大きな溜息が漏れる中、メイドは青い顔をしながらコーヒーで一部が黒く染まった絨毯をごしごしと布巾で拭いていた。
「ひいっ! こんな高そうな絨毯に……とりあえず洗濯を……!」
慌てて絨毯を引きはがしたメイドには呆れていたが、絨毯の下にあったものに私だけでなく兵士達も息を呑む。絨毯の下から現れた木目調のフローリングになぜか赤黒い何らかの着色料で模様が刻まれていたからだ。それは私にとっても見慣れた”認識阻害”の結界であった。
「破壊しろ」
「了解!」
すぐさまフローリングを剥がし始めた兵士達を横目に私は全身を貫く悪寒に体を震わせていた。それからまもなく、謎のレバーが床下から見つかり、それを引っ張ると地下へとつながる梯子が出現した。そんな隠し部屋へと乗り込もうとする兵士達を制止させ、私は一人で鉄格子を降りていく。そうして、薄暗い石壁と金属製の扉を発見した私は心を無にしながら扉を押し開けた。ガチャリという音と共にあっけなく開いた扉の先に踏み込み、私は全てを後悔する。昨日の時点で自殺しておけば良かったのだ。
「ダクネス……?」
私を呼ぶ声は、その一室の最奥にて祈るように片膝をついていた。見つめる天井には見たことのない赤黒い魔法陣が書かれている。何よりも問題なのは、その祈りを捧げる者……エリス様の足に鉄製の鉄球のような足枷がついている事であった。
「ダクネス……ダクネスなのですね……だくねす……だくねすだくねす!」
ごりごりと足枷を引きずりながら私の胸に飛び込んできたエリス様は幼子のように抱き着きながら嗚咽を漏らしていた。そんな彼女をそっと抱きしめながら私は周囲の光景に目を凝らす。そこには壁に鎖で四肢を繋がれた者たちがいた。めぐみん、ゆんゆん、クリス、アイリス、四人のも女性が虚ろな目で私の事をじっと見つめてくる。生きているようだが、心が生きているとは言えなかった。それだけで私は全ての思考を放棄したいと思ってしまった。
「エリス様、アクアはどこに?」
「わかりません。誰も彼女の行方を知らなくて心配していたんです。でも、とりあえずは安心です。気が付いたらこんな所で監禁されてて……こんな状況を助けてくれるのはアクア先輩かダクネスしかいないと思ってましたが……やっぱりダクネスは私の誇るべき親友です! いままでも、私が困った時にはなんだかんだで助けてくれましたからね!」
恍惚とした表情でそう語るエリス様の言動に私は違和感を感じる。何より、エリス様から感じる粘っこい視線は不快ではないが、何だか私の中の嫌な予感を増大させる。私は溢れ出る恐怖感を押さえつけ、もう一人の行方を尋ねた。
「カズマはここにいないんですか?」
「カズマ……カズマさんですか?」
「ああ、アイツは屋敷で行方を眩ました。ここにはいないのか?」
エリス様はしばらく難しい顔をしてうんうんと唸っていたが、諦めたように小さくため息をついた。
「ねえ、ダクネス」
「ああっ……」
「そのカズマさんの事なんだけど……」
息を呑む私の前で、エリス様はこてんと首を傾げた。
「カズマさんって誰のこと?」
もう限界だった。
「許してくれエリス様」
私は取り出したナイフですぐさま自分の首を刺し貫く。
声に出ないほどの苦痛には思わず顔を歪ませるが、そんなものは死という”救い”を前にしては些細な事であった。
「ああっ……あああああっ! だくねすっ……どうしてなんで……こんな……助けて……助けてよぉアクア先輩……!」
血の海に溺れながら私は意識を落として行く。
最後にエリス様をまたも悲しい目に合わせてしまった事が、この四周目の世界の唯一の心残りだった。
次回はカズマさん視点らしいぞ!