無駄に豪勢な屋敷の庭、その片隅には一本の桜の木が植えられている。丁度四月になると見事な薄紅色の花が開く、枝垂桜だ。
一本しか植えられていないとはいえ、屋敷の塀を越えて雄々しく構えている桜の木は周囲ではそれなりに注意を引くようで、好事家がカメラ片手に写真撮影を行っていた場面もあった。
ただ一貴にすればそれは春の季節を告げる合図以外の何物でもなかった。
花弁が開けば春が来る合図で、それを肴にすることもなく何となく眺める程度の用途しかなかった。
……ああいや、一度だけ花見とやらをしたことがあった。
本当に朧気な記憶ではあるが、ピクニックシートを敷いて弁当か何かを食べていた記憶がある。確か他にも数人いた。いつの間にか姿が見えなくなった母親もいたかもしれない。
その時、父親がいたことは確かだ。非情に無口であり、武骨な刀を思わせる父親がまだ微かに人間味を覗かせて時の淡い思い出。
父親は……そう、確かこう言ったのだ。
『お前は藤原家きっての麒麟児だ』と。
多分、その言葉自体に深い意味はないのだろう。ただ、その言葉こそが一貴を苛む原初の呪いになったことは間違いない。
一貴は少しばかり剣の才能というものに恵まれていたらしい。らしいというのは一貴にその実感がまったくなかったからで、実際そんな大仰な評価に大した価値があるものでもなかった。
まずもって、その評価というのは藤原家の中でのみ適応されるものだ。
藤原という家名は飛鳥時代から続く由緒正しきものであり、平安時代においては絶大な権力を握ったかの藤原氏の存在から知名度は高いが、一貴の家系は苗字が同じだけのパチモノだ。
本物の藤原家の傍流どころか先祖は剣術家という魔術とはまったく関係のない家系だ。
現在名ばかりの当主である一貴が五代目という魔術師の家系にしては歴史も浅いと言わざるを得ない。よって当然、継承した魔術刻印も大したものではない。
根源に至るなど、夢を見ることすらできない家系だ。
そんな小さな世界での評価なんてのは正直大した意味はない。一貴が持て囃されていたのは藤原家の中でという酷く限定的な話で、一貴は決して選ばれた存在などではなく、十把一絡げの三流魔術師だ。
―――まあ、分かっていたことだ
子供の頃は自分が選ばれた人間だと疑うことなんてなかった。年を経るごとにそんな浅い考えは抜けていくことになるのだが、それでももしかしたらという淡い期待が欠片もなかったと言えば嘘になる。ただそれは結局のところ幻想に過ぎなかった。
それに麒麟児だのなんだの言われて日々の訓練が楽になったかというとそんなことはなく、ある程度の歳になると虐待どころか殺人一歩手前の訓練を課されて一貴は毎日のように死にかけていた。
ただ、それはそれで楽な日々だった。
そうあれと願われて生まれ、そうあれと願われて生き、そうあれと願われて剣を取った。
そこには一貴の自己決定や意思表示なんてものは関係がなく、そうあるべきという極めて傲慢な思想を叩きつけられた結果に過ぎない。
しかしそれは余計な事を考えなくても良いということであり、肉体的には極めて消耗しながらも父親が導くままレールに引かれた人生を歩いていくのは、楽ではあったのだ。
だからこそ一貴はその楽というものにどっぷり浸かって、剣を振るうしか能の無い男が出来上がっていった。
延々と父親と殺し合い染みた鍛錬を重ね、それになんの疑問を抱かなくなって、それに不平や不満を抱かなくなった。そんな日々が終わりを告げたのは一貴が十五歳になった時だった。
「お前は我が家の誇りだ」
「はぁ」
ある日の訓練終わり、道場に正座していつになく神妙な顔をして言う父親に一貴は気の抜けた返事を返した。その誇りとやらを毎度殺しかけている分際で良く言えたものだ、なんて考えは今更過ぎて思わない。
殺し合いは最早日常に成り下がって、疑問を挟む余地はなくなっていた。
そのまま沈黙が流れる。一応血の繋がった実の父親であるが、和気藹々とした会話なんてしたことがない。一貴にとって親父とは剣の師であり、魔術の師だ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「……次期の当主はお前だ。これから少しずつ魔術刻印を移植していく。最も、大した時間は掛からないだろうがな」
自嘲するような物言いは珍しい。鋼のような父親が人間味を見せたことに一貴は驚いた。
「引退すると?」
「ああ。縁側で茶でも飲む等、そんな穏やか余生はありえんがな。刃に生きたのだ。刃に死ぬのが本望よ。お前も当主として相応しい態度を身に着けることだ。我が家の恥じとならぬように」
そう言って父親は去った。一人残された一貴はその見えなくなると仰向けに道場の床に倒れこむ。汗と血で板張りの床が汚れていくが、どうせ自分が掃除するのだから構わない。
一応表向きは剣術道場なんてものを開いているが、父親のあまりにも苛烈な指導によって門下生はその殆どが逃げた。母親は既に死に、他に屋敷にいるのは手伝い係の初老の老婆くらいだ。
だから道場はしんと静かで、聞こえるのは自らの心臓の鼓動くらいのものだった。
天井を眺めて目を瞑る。物音しない道場で目を瞑るとまるで宇宙の中にいるような感じがする。
宇宙のことなんてまるで知らないし、興味もないけれど。
そんな微かな慰めが、唯一の自己表示だった。
数日後、 継承の儀は恙なく行われた。いつもの殺風景な道場で、これまたいつものように二人きりだ。
「……真剣を持て」
「ああ」
魔術回路を移植して少なからず体力も使っただろうに、父親はそんなことを言い出した。
乱雑に放置されている影打ちの一本を投げてよこす。安く買い叩いた消耗品と割り切っている故に扱いは悪い。父親はそれを受け取って刀身に自身を翳して見た。
影打ちとは何も失敗作を指すものではない。真打になれなかった、というだけの刀だ。斬ることすら出来ない鈍を態々刀匠が作るわけではない。当然、振り下ろせば斬れるし命だって奪える。
刃物の形をしているだけの粗悪品とはいえない。下手をすれば死に至る。とはいえ、真剣を持った訓練とは名ばかりの殺し合いも良くあることだ。
一貴も親父と同じように刀を拾って構える。しかし父親は首を振って道場の神棚を指さした。
「あれを使え」
「……正気か、親父?」
流石の一貴も疑問を呈した。神棚には一本の刀が丁重に祀られている。銘は無く、しかしそれは加州清光の作であると伝えられている。
刀工として名高い加州清光の作品は新撰組である大石鍬次郎や沖田総司が佩用していたされるほどであり、アレが本物かどうかはさておき、この家に置いて唯一と言える業物だ。
呪われているかのような禍々しい怨念じみた何かを発している、そんな刀だ。まともに打ち込めば人間の身体など真っ二つにしてしまうほどの代物だ。稽古とはいえ、あんなものを使えばただでは済まない。
「今日からあれはお前のものだ。であれば使う権利はある」
「使う権利はあっても義務はないだろう。稽古であんなもの使えるかよ」
父親の性格が違っていれば自分にも別の穏やかな道があったかもしれない。そう考えたのは一度や二度ではないが、切り殺したいと思える程の憎悪を抱えていたわけでもない。十五の頃には反骨心と呼べるものはほぼ消失しており、父親の傀儡状態だったが一般的な倫理感も弁えていた。
これまで試験的に殺してきた犬猫などとは勝手が違う。手元が僅かにでも狂えば、容易く死ぬ。
「……そうか」
ゆらり、と父親の身体が揺れる。幽鬼のような足取りで接近したかと思うと俺の眉間に寸分狂わず刀を振り下ろした。半ば不意打ちのような形で放たれた一撃をすんでのところで影打ちの一本で受け止める。鍔迫り合いに持ち込まれ、身体同士がぶつかる近さまで接近する。身体強化でも施したのか、中年とは思えない力強さに一貴は押し込まれる。
「言っていなかったな。今日は稽古ではない。殺し合いだ」
感情を感じさせない冷えた目付きのまま囁き、父親を押し出し再び肉薄する。
これまでの稽古では辛うじて命を奪わないようにという配慮があったが、今日に限ってはそれもない。
肉体的に衰えたとは言え、父親は剣の腕前のみを愚直に鍛え上げた剣豪だ。甘い考えでどうにかなる相手ではない。一貴は徐々に追い込まれ、そしてついにソレを手に取った。
殺すつもりなんて無かった。ただ一貴の一撃は影打ちの刀を両断し、父親の身体を袈裟切りにした。深々と身体を抉る不快な感覚がしたかと思えば、鮮血が零れ道場の床を濡らしていく。父親の身体がぐらりと揺れ、後ろに倒れこみそうになる。
膝を付いて荒々しく息を吐く。しかし不思議と澄んだ目をしていた。これまでの睥睨するような力のこもった目付きとは違う、穏やかな目。
「……それでいい」
父親はそれだけを言って死んだ。
何故父親がこんな凶行に出たのか一貴には分からない。ただ下働きの老女だけが納得したような姿勢を見せた。先代も先々代もそうやって自らの親を殺したという。いわば、そういった不文律がこの家にはあったらしい。
藤原家とは元を辿れば剣術家の家系であり、没落した武士の家系でもあった。
廃刀令により多くの武士が刀を置いた。それは先祖も例外ではなく、逃げるように田舎に逃げたかと思うと剣術道場を開いた。それから怪しげな呪いに手を出し、最期にはこの道場で割腹したという。
それが藤原家の始まりだ。
この家の浅い歴史なんてどうでもいいことだが、一貴の胸にはぽっかりと心に穴が空いてしまった。
それは実父を殺めてしまったという罪悪感から来るものではない。今更何かを殺して心を痛める等優しい性根が残っていなかったし、殺人に対する忌避もない。
ただ、刃を交える相手がもういないのだ。
身体は闘争を求めている。
それは自らの本能から湧き出たものではない。単なるこれまで繰り返してきた習慣に過ぎない。しかしその渇望は本物だ。戦いに飢えていたのだ。
幼い頃から殺し合い染みた鍛錬をしてきた一貴にとって、例え自らの内から湧き出た感情ではないとしても、戦うことしか自分の存在を確立させることが出来なかった。
父親と斬り合うことが一貴にとって人生の全てだったのだから。
「人理継続保障機関フィニス・カルデア?」
父親が死に、一貴は当主としての仕事等ほっぽり出してヤクザの抗争に出張ったり、逃走した合成獣を狩るなど荒事稼業に精を出していた。
木端魔術師の当主に大した仕事があるわけではない。時々やり過ぎない程度に剣術道場を開いたり、井戸端会議染みた会合に顔を出したりするくらいだ。
後の時間は只管棒振りだ。
そんな棒振りの最中に珍しく客が来たかと思えば、とんでもなく怪しい連中だった。
そこでレイシフト適正だのを測らせられたかと思えばスカウトされていた。
人類の未来を保障する、と法螺吹きのような事を大真面に熱く語る黒人風のスカウトマンの言葉が琴線に触れたわけではない。
そんな正義の味方のようなものに憧れるには余りにも遅すぎた。
興味があることはただ一つ。
「なぁ、そこに戦場はあるか?」
一貴の問いにスカウトマンは笑って言った。
「ああ、あるぜ。人類の未来を守る、とびっきりの戦場がな」
「……そうか」
そこで腹は決まった。人類の未来について考えたとか、そんな殊勝な考えがあったわけではない。
人類の未来などどうでもいい。そんなものは守りたいやつに守らせておけばいいことだ。
だが、そこには戦場があるという。それだけで動くには十分だ。
一貴は立ち上がって、神棚に祀ってある刀を手に取る。この刀はまるで意思を持っているようだ。心臓の鼓動は自身のもののはずなのに、この刀が胎動しているように思ってしまう。
そしてこの刀を手にとると、向こうから囁くのだ。
もっと戦え。死ぬまで戦えと。
酷い幻聴だ。しかしそれで良しとする自分もいる。
……結局のところ、俺は誰かの操り人形でしかないのだ、とスカウトマンには見えないように自嘲する。
父親が死に、今度は刀という対象にすり替わっただけで。
一貴は戦うことしか出来ない。殺し合いのための刃を研ぎ澄ませ、首を落とす。それだけが出来ることだから。
「……藤原氏?」
いきなり真剣を手に取って警戒させてしまったのだろうか。スカウトマンの声色は硬い。
「いや、なんでもない。……それで? 現地入りの飛行機はいつ出るんだ?」