慶應四年五月三十日。千駄ヶ谷、植木屋平五郎宅にて。
沖田総司は病にて長らく臥せっていた。先ほどまでは松本良順がいたが、今は席を外している。
今はただ、一人きりだ。一人きりにしてくれ、と沖田が頼んだのだ。
そのような我儘は本来聞き入れてもらえるものではない。それでも松本が席を外したということは、きっとそういうことなのだろう。
喉が乾いた。度重なる瀉血によって喉が焼けてしまっているのか。沖田は倦怠感で言うことを聞かない体に鞭を打ち、床から上半身を起こす。ただそれだけの作業が重労働だった。
近くに置かれた水差しに手を伸ばし、やっとの思いで水を口に運ぶが噎せてしまい、喉を伝った水はほんのわずかだった。
「ごほっ!」
咳き込む。その衝撃だけで体を支えていた腕は悲鳴をあげて、沖田は布団に倒れこんだ。
「……ああ。なんてーーー」
無様なことか。 これが新撰組一番隊組長にして撃剣師範である自らの姿か。この姿を見て誰がそれを信じるのか。
知らぬ者が聞けば妄言としか思わぬだろう。それほどまでに今の姿は無様で、情けないものだった。
拳を握る。それすらも弱々しいもので、箸を掴めるかどうかも怪しいものだ。刀などもってのほかだ。
元より沖田の体躯では細身ではあったが、今の沖田はまさしく病的に痩せ衰え、そこにかつての剣豪の姿はない。
もう自らの命は長くないだろう、と沖田は確信した。身体は日に日に衰えていったが、最近ではそれも無くなった。
快方に向かっているーーーなどというのは都合の良い妄想に過ぎない。
単純な話で、もう自分の身体の調子は落ちるところまで落ちてしまったのだ。
そこまで来たら最早行き着く場所は一つだけだ。
「ああ……死に、たく、にないなぁ……」
新撰組の一員として、剣客として多くの者達を斬り伏せてきた。殺しているのだから殺されることもあるだろう。新撰組の羽織を纏ってから、死は当然覚悟していた。だから、死ぬことは別に構わないのだ。
―――嗚呼。だが、これは違うだろう。
刀を抜く度に死ぬことは覚悟していたとも。天才剣士として持て囃されていたが、実戦において絶対などありえない。今日が命日かもしれないと、押し殺した感情の中に微かな恐怖があったことも認めよう。
それでも、と刀を振るって来たのだ。
新撰組としての日々に後悔などありはしないと言えばそれは嘘になる。
芹沢鴨や山南敬介のことは、ささくれとなって沖田の心を突き刺している。もっと違う道だってあったかもしれない。山南を介錯した時の感触と頬に付着する鮮血は今でもよく覚えている。
新選組としての決して日々は楽しいことばかりではなかった。
それでも。それらすべてをひっくるめて、あの日々に嘘はないのだと断言できる。
鉄火場を承知で飛び込んで行った身だ。死にたいと思っていたわけではないが、きっと長生きは出来ないだろうとも思っていた。問題は、その死に方だ。
二十余年の人生。その多くが新撰組と共ににあった。隊士達と苦楽を共にし、分かち合った。
沖田にとって新撰組とは戦う場所であり、帰る場所であり、守るべき場所であり―――駆け抜けた人生そのものだった。
だからこそ、新撰組として死ぬべきだと思っていた。敵を斬り殺し、その中で敵の刃に打たれて息絶える。
そんな死に方をしたいと思っていた。
「……」
霞む視界は竿縁天井を捉えている。そこから首を傾け、床の間に丁重に置かれた刀に視線を寄こす。
自身の愛刀ではない。芸術品としての側面が強い、鈍ら刀。
その刀に沖田は手を伸ばした。手に届く距離ではない。最早身体を起こすことすら難しく、歩行などもっての他だ。だから手を伸ばすことに意味などない。
それなのに無駄と分かってなお手を伸ばすのは何故だろうか。
意識が朦朧としている沖田には理論的な説明は出来ない。
刀を掴めたとしてどうするのか。それで武士らしく腹を掻っ捌くのか。最早歩けもしないのに這う這うの体で戦場にでも赴くつもりか。それすらも分からない。
伸ばした手は、届かない。
自然と涙が流れた。力が抜け、真っ白い腕は地に落ちる。
咳込み、身体の奥から熱い感覚がしたかと思えばせり上がってきた異物感は吐血となって布団を染め上げていく。
近藤さんは大丈夫だろうか。一番隊の組長である自分がいなくなっても新選組は大丈夫だろうか。
止めどなく湧き出る思いとは裏腹に、瞼が落ちていく。意識は急速に暗転していき、きっともう自分が目覚めることはないだろうという予感が沖田の頭に過った。
新選組としての日々に後悔はない。されど、未練はある。新選組に属する隊士として貫けなかったものがあるのだ。
だからもしも二度目があるというなら。再び戦えることが出来るなら。
「……今度、こそ。最期まで……」
―――嗚呼、ようやく。
沖田は『喚ばれた』事を察知した。英霊の座から霊体を落とし、仮初の肉体が再構成されていく。
ようやく。ようやくだ。これで自分は本懐を果たすことが出来る。
……いや、それは早計か。
英霊とは単独で存在出来るものではない。マスターを拠り所として顕現し、存在することが出来る。
そこで重要になってくるのが相性だ。マスターの意向によっては自らの願望を叶えることが出来なくなる。
自分を召喚したマスターはどんな人物だろうか。どのような挨拶をすればいいだろうか。
沖田の考えには第一印象を良くするためという打算が含まれていたが、それと共に機会を与えてくれたマスターに純粋な感謝を向けたいという思いもあった。
そして、肉体の構成が終わる。
真っ先に目に入ったのは背を向けた一人の男、沖田のマスターだった。右腕に持った刀を杖代わりに、左腕はない。肩口あたりから叩き切られたのか、酷く荒々しい傷口からは骨や肉が覗かせていて、傷口からは血液が流れ出ている。その姿を見てどのような自己紹介をしようかな、等という浮ついた考えは一瞬にして吹き飛んだ。
そして男の先にはもう一つ影があった。斧剣を持った、偉丈夫の姿。斧剣には血がべったりとこびり付いていて、対峙していることからも自身のマスターの腕を奪った下手人がその偉丈夫であることは間違いない。
沖田は自分の頭が沸騰するのを感じた。それと共に心は酷く冷たくなっていく。
「……ハァッ!」
突き。男の脇から飛び出し、不意打ち気味に放たれた一撃は斧剣を振り上げた偉丈夫の胸を正確に捉え、押し飛ばす。正確無比な突きは並みのサーヴァントを屠るだけの威力があったが、異様な程の硬さに傷を付けるに留まる。しかしこれで多少の時間は稼げた。後ろに跳躍し、自分を召喚した男の下に戻る。
「お前、は……」
「すみません、マスター。細かい話は後にしましょう。敵は未だ健在です」
ひゅうひゅうと呼吸が荒いものの、意識はまだある。ショック死していてもおかしくないどころか、この出血量でまだ命を繋いでいるだけで僥倖だ。とはいえ一刻を争う状況であることに違いない。
この場で自己紹介など悠長な事などしていられない。男の言葉を遮り抱え、更に偉丈夫から距離を取る。
「あ、貴女は……!」
丁度そこには怯えた様子の銀髪の女性と茶髪の少女がいた。果たして味方か敵なのか。まどろっこしい真似はしていられない。沖田が刀を突きつけると銀髪の女は短い悲鳴を上げた。
「敵ですか。貴女達は」
「ち、違うわよ! 私は―――!」
「分かりました。……時間がありません、マスターの治療をお願いします」
返事は聞かない。聞く余裕もない。偉丈夫は雄叫びを上げて今まさに迫ってきているのだから。
一呼吸をおく間に肉薄する。狙うは足。ステータスは不明だが、間違いなく骨を折る相手だ。
時間は沖田に味方しない。それは沖田自身の戦闘スタイルに起因することでもあるが、マスターである男の命の為でもある。だからまず優先すべきは相手の機動力ないし視界を削ぐことだ。そして動きが鈍ったところで離脱しする、というのが沖田の頭が弾き出した方針だった。
雄叫びと共に放たれた暴威が頭を掠める。まともに受ければ死ぬだろう。だが当たらなければ問題ない。
相手の足運びから考えると純粋な機動力では自分に利がある。すれ違いざまに踵を斬ろうとし―――すぐさま沖田は跳んだ。
異様なまでの切り返しの速度が自身に迫ってきていたからだ。
「余程名のある武人のようですね!」
見たところ理性がない狂戦士のようだが、その一撃は正確だ。理性を失ってもなお染みついた武芸に翳りは無い。続けざまに放たれた振り下ろしを躱し、目を狙う。偉丈夫は斧剣を引き、それを弾いた。
そのまま強引に振り払われ、沖田は後ろへ飛ばされる。
沖田は空中で態勢を立て直し着地する。そこは丁度、男達がいる近くだった。
「しまった……!」
突き進む偉丈夫を見て沖田は歯噛みする。相手の攻撃は大振りだ。単に避けるだけならば現状として問題はない。ただ、その位置取りは最悪だ。沖田は防戦に秀でた英霊ではない。男達にターゲットが移れば途端に窮地に追い込まれる。例えそうでなくても斧剣を地面に振り下ろしたことによって生じる衝撃だけでも甚大なものだ。
特に付近には倒壊した建物の欠片が転がっている。破壊された欠片が直撃でもすれば普通の人間はそれだけでも死ぬ。
一瞬であろうとも目の前の脅威から意識を逸らしたことは悪手だった。
既に相手は斧剣を振りかぶり―――。
「やああっ!」
突如として横から吶喊してきた少女の大盾の一撃によって鑪を踏んだ。大盾そのまま強引に押し込み、相手は体勢を崩したこともあり後ろに下がる。
「マシュッ!」
「申し訳ありません! マシュ・キリエライト! 戦線に復帰します!」
あの偉丈夫に弾き飛ばされたのか、中途半端な鎧には損傷があり本人も土に塗れている。瞳には僅かに怯えの色がありながらも、気丈にも偉丈夫に向かって立ち向かう。
「よし! これで数の上なら互角よ! 藤丸! 貴女もマシュのマスターならしゃんとしなさい!」
「は、はい!」
息を吹き返した二人の声を聞きながらも沖田は再び前に出る。まごまごしていて男を攻撃目標にされたら目も当てられない。
大盾を構えた少女―――マシュは懸命に攻撃を捌いているがその戦闘技術は拙い。数度受けて、よろめいて身体が無防備になる。身体を両断する一撃の隙を狙った沖田が強襲するも、それも相手が一度下がったことで不発に終わる。だが幾ばくかの時間の猶予が出来た。
「……この場では共闘できると考えていいですね?」
「はい! ……藤原さんのサーヴァント、ですよね?」
「それが片腕がない男性を指しているようでしたら」
情報の共有は最低限に。一時も目を離さずにマシュと沖田は言葉を交わす。
「分かっていると思いますが、アレとまともに力比べをしないように」
「わかりました! 出来る限り受け流します!」
「私を庇う必要はありません。数の利を生かし、標的を絞らせないように立ち回ってください」
「はい!」
「態々あんな強敵を倒すことはありません。機動力を奪った後、速やかに離脱します」
戦いとは数である。それは一つの真理ではあるが、絶対的な法則ではない。一度気を抜けば己の身体は容易く両断されてしまうことは想像に難くない。
特に沖田とマシュの戦い方に類似性はなく、下手をすれば互いの足を引っ張り兼ねない。
故に沖田はマシュの事を無視することにした。純粋な速度では自身の方が上であるため、態々足並みを揃える必要性もない。
戦場を高速で駆け抜ける。小型の嵐と見間違う暴力の塊を往なし、避けていく。
空気を切り裂く刃を掻い潜り、遂に左足の踵を斬りつける。腱を切られぐらりと揺れる巨体。そこを見逃さず、マシュの体当たりが無防備な胴を捉え、更に大きく姿勢を崩した。
「好機―――!」
そう判断した沖田に戦術的なミスはないだろう。離脱を図ることが方針ではあったが、殺せる敵は殺しておくべきだ。足を削ぎ落としたとしても、敵が生存している以上は脅威が取り払われた事にはならない。
ただの突きでは容易に致命傷に至らなくとも、宝具の域にまで達した三段突きならば話は別。
神経を集中させる。平晴眼から切っ先を相手に向け、
「―――え」
ぐらり、と沖田の頭が揺れた。攻撃を受けたわけでもないのに血がぽたぽたと流れて戦装束を濡らしていく。
「こんな、時に……!」
生前の病は呪いとなって自身を蝕む。強引に嚥下するもせり上がってくる異物感は強くなる。
傷つけられた怒り故か決死に防御をしたマシュを弾き飛ばして、一直線にこちらへ走ってくる。
しかし上半身と下半身が泣き別れするであろう斧剣の一撃は沖田を捉えなかった。
背後より頭を掴まれて地面に伏せられる。その直後、斧剣が沖田の頭髪を掠めて通りすぎる。
「マシュ、カバーだ」
「は、はい!」
戦場に不釣り合いな程の静かな男の声。全身が血に塗れた、自身のマスターであろう男の姿だった。
沖田の襟首を掴み、後ろへと乱暴に放り投げる。沖田はうめき声を上げて地面に転がった。
「アニムスフィア、藤丸。援護は任せた」
「ああもう! マスターが前に出るなんて本当馬鹿なんじゃないの!?」
「だ、大丈夫ですか!? ええと、傷は……」
ヤケクソ気味に叫びながら二人の女性が更に沖田の身体を後ろへと引っ張っていく。
「ま、マスター……。無茶、です。下がってください……!」
辛うじて膝立ちになり、沖田は声を掛ける。沖田の魔術的な知識は聖杯が与えた一般的なものに留まるが、それが肩腕の欠損を短時間で完治出来る万能な代物でないことくらいは分かる。出血は止まったようだが、激しく動けば傷口が開いてしまう可能性があるし、失った血液まではどうすることも出来ない。
「戦える人間が戦う。それだけの話だ」
「貴方とて戦える人間ではないでしょう!」
卓越した魔術師であったとしても勝算などない。増してや大量に失血している状態だ。立っている事が奇跡的だで、戦闘など論外だ。
男は沖田の方を軽く振り向いた。沖田はそこで初めて男の顔をまともに見た。
短く刈り込まれた髪に、猛禽類を思わせるような鋭い瞳。この状況に及んで、男の顔は無表情に近いものだった。
しかし黒曜石のような瞳の奥には熱が宿っていた。
「戦えないなど誰が決めた。俺はまだ戦える。お前はそこで休んでいろ」
そう言って男は沖田から視線を外して前を向いた。片腕の欠損など感じさせない堂々とした立ち姿だった。
無謀だ。勇敢などではなく、命知らずの蛮勇だ。
全身に激痛が走っているだろう。意識だって朦朧としているだろう。勝ち目なんてない。
それなのにどうして立ち上がれるのか。
「マシュ! もう少し耐えて! もう少しで捕縛用の術式が出来るから! それで多少は動きも阻害出来るはず!」
「所長! この人、傷はないみたいですけど!」
「だったら寝かせときなさい! 後令呪の使い方は教えたでしょう!? マシュに指示を出しなさい! とにかく今は時間を凌ぐのよ!」
外野の声が煩い。戦闘の最中にも関わらず、沖田は男の背中から目が離せなくなる。その背中にはどこか見覚えがあって。そして次の瞬間、唐突に沸いたのは途方もない激情だった。
「―――私は!」
口内の血を撒き散らしながらも沖田は叫ぶ。病弱のスキルは未だに継続しているが、ぐらつく身体を気合と根性で強引に叩き起こす。
「新撰組一番隊隊長、沖田総司だ!」
その名乗りは沖田自らに向けたものだった。
―――マスターの事を見下しているわけではない。だが、ただの人間が立ち向かえるというのに一体私は何をしているのか。
今度こそ最期まで戦い抜くと誓ったのだ。その誓いは何処に消えた。
次があれば貫くと誓ってその為に英霊となった。新撰組としての日々に後悔は無くとも、その最期だけは納得が出来なかったのだから。だというのに、この様はなんだ。そうやってまた無様を晒す気か―――!
血が流れる程に柄を握りしめ、斬り込んでいく。今度こそ、本懐を果たすために。