銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第九十三話:最後の一手 宇宙暦796年11月8日 アムリッツァ星系外縁部 第三六戦隊旗艦アシャンティ

 スクリーンに現れたロボス元帥は良く言えば威風堂々、悪く言えば傲然とした雰囲気を身にまとっていた。目からは烈々たる覇気を放ち、脂肪で膨れ上がった肉体は絶大な存在感を表しているかのようだ。

 

「遠征軍の戦友諸君。昨日一一月七日午前〇時一五分、かねてより病床にあった銀河帝国皇帝フリードリヒ四世は死亡した」

 

 ロボス元帥は厳かに皇帝の死を告げた。その事実自体はあまり意外ではない。皇帝重病説はかなり前から流れていた。皇帝は長期にわたって公式の場に姿を見せておらず、宮廷では混乱が続いていた。ラインハルトの出撃が遅れに遅れたのも宮廷の混乱が原因とされる。

 

「一日経った今も新帝は立っておらず、帝国は混乱状態にある。もはや帝国軍は戦闘を継続できる状態ではない」

 

 これも予想の範囲だった。来るべき時がきたという感じである。フリードリヒ四世は後継者を決めていなかった。今頃のオーディンでは三人の皇孫のいずれが帝位を得るか、激しい駆け引きが行われているに違いない。先帝が定めた後継者が即位しても混乱が生じる。帝位争いが起きるとなれば、帝国の混乱は長期化するはずだ。ラインハルトの軍事行動を支えるシステムも新政権が安定するまでは機能しなくなる。ロボス元帥の言う通り、戦っている場合ではない。

 

「昨日の大攻勢は彼らの最後のあがきであった。しかし、戦友諸君の奮戦によって完膚なきまでに打ち砕かれたのである」

 

 ラインハルトが陣頭に立って同盟軍中央部隊を強引に突破しようと試みた理由をロボス元帥は説明する。戦闘を継続できなくなったラインハルトは、本国に帰る前に最後の勝負に打って出た。きわめて筋の通った理由であった。

 

「敵の司令官ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は我が軍の撃破を断念し、昨日の二一時に休戦交渉を申し入れてきた。我々は即座に受諾して、交渉に入った」

 

 休戦交渉。その言葉を聞いた途端、目の前が明るくなったように感じた。戦いの終わりを告げる言葉こそ、俺が何よりも求めていたものだった。周囲からは安堵の溜息が漏れてくる。みんな俺と気持ちは同じだ。

 

 そして、ラインハルトが休戦を申し入れてきたことにも驚いた。前の歴史ではヤン・ウェンリー以外の提督はことごとくラインハルトに一蹴されてしまい、ほんの短い間だけ苦戦させた提督もアレクサンドル・ビュコックのみであった。それほど圧倒的な強さを持つ天才に、愚将とされたロボス元帥が判定勝ちしてしまったという事実は、前の歴史を知る俺にとっては、想像を絶する衝撃だった。

 

「帝国軍は撤退の意志を我々に伝え、追撃を行わないように要請し、本会戦における捕虜や拿捕艦の相互送還、両軍合同での負傷者救助作業及び遺体回収作業実施を条件として提示してきた」

 

 ラインハルトの提示してきた条件は、極めて人道的なものだった。負傷者救助や遺体回収の協力申し入れまでする提督はそうそういない。この条件なら受け入れる側のメンツも立つ。彼の卓越した政治センスは、前も今も変わらず発揮されているようだった。

 

 戦争には騙し合いと信頼の相反する二つの要素が共存している。相手に対する一定の信頼が無ければ、降伏交渉すら成り立たない。勝敗が定まっているのに相手が降伏しなければ、人命と時間を浪費して、勝利が割に合わないものとなる。信頼なき戦争は勝者なき戦争だ。信頼を確保するには、双方が共有するルールが必要である。それが西暦時代の戦時国際法であり、現在の戦時倫理であった。

 

 熱核兵器を人口密集地に投射し合った挙句、総人口の九割が失われた一三日間戦争の悪夢は、戦時倫理の重要性を遺伝子レベルで人類に植えつけた。自由惑星同盟とゴールデンバウム朝銀河帝国は、お互いを対等な国家と認めていないが、戦時倫理が仲介する範囲においては交渉が成立する。戦時倫理に反する行為は、ほぼ軍事関連法規で違反行為と定められている。

 

 その戦時倫理の中に休戦に関する取り決めがあった。前線の司令官は政府や上級司令部の意思に反しない限りにおいて、自らの権限で敵司令官との間に休戦交渉を行うことが認められる。定められた手続きに則って結ばれた休戦協定は、道義的な拘束力を持つ。休戦を装って奇襲を仕掛けるような行為は原則として認められない。過去に偽装休戦をやった司令官は味方からも信用されなくなり、例外なく軍人としてのキャリアを断たれた。

 

 戦時倫理に則った手続きで休戦協定が結ばれれば、何の意義も見いだせなかった泥沼の戦いがようやく終わる。ハイネセンに帰って、みんなと会える。そして、晴れてダーシャと結婚できる。肩から力が抜けていった。

 

「一方、我々は全解放区の返還、後送された捕虜と拿捕艦の即時送還を求めた」

 

 その一言は上向いていた気分に冷水を浴びせた。同盟軍はそんな強気な条件を押し通せる立場じゃない。優勢勝ちとはいっても、相当な損害を被った。戦力的には帝国軍と大差ない。他の艦隊は知らないが、第一二艦隊の戦意はどん底まで落ちている。同盟軍にとっても休戦は渡りに船のはずだ。ロボス元帥ほどの名将にそれがわからないはずがない。交渉を有利に運ぶためのブラフに違いない。そう信じたかった。

 

「我々と帝国軍の交渉は二三時三〇分をもって決裂した」

 

 胸を張って昂然と宣言するロボス元帥の姿は、まるで死刑判決を下す裁判官のように見えた。判決を受けたのは俺や第一二艦隊の将兵である。昨日のラインハルトの攻撃で第一二艦隊は物理的にも心理的にも致命的な打撃を被った。交渉が決裂したということは要するに戦いが続くということで、次に戦いがあれば確実に壊滅する。

 

「敗残の帝国軍は我々が差し出した和解の手を跳ね除けて、惨めに逃げ出そうとしている。彼らが補給を受けるには、一〇.三光年離れたゲルダーン星系第二惑星まで逃げなければならない」

 

 ロボス元帥は拳を振り上げて力強く断言する。ラインハルトと五分で渡り合った名将が言うからには、勝算があるのだろう。俺が第一二艦隊以外の部隊にいたら、今の言葉で奮い立ったかもしれない。しかし、これまでの経緯からロボス元帥を人間として信用できない。損害も大きい。勝てるかどうかは別として、戦意がまったく湧いてこなかった。

 

「諸君は自由惑星同盟最強の精鋭。すなわち宇宙最強の精鋭である。提督の用兵、指揮官の戦術、艦長の運用、士官の統率、下士官兵の技能。胸に手を当てて思い浮かべてみるといい。帝国軍が諸君に勝る要素が一つでもあるか?私は無いと断言する。最強の諸君が疲れきった弱兵を撃つ。まさに必勝の態勢ではないか」

 

 スクリーンの中の人物が放つ言葉は炎のようであった。将兵を見る視線は雷のようであった。単語の一つ一つが逞しかった。それなのに気持ちが盛り上がらない。五年前に初めて会った時は、彼の一言一言に心を揺さぶられたのに。

 

「七日間の戦いでラインハルト・フォン・ローエングラムの手の内は知り尽くした。彼が得意とする奇襲ももはや私には通じない。勝利の栄冠は諸君の上に輝く。子や孫に思い出話を聞かせてやろう。『ふとっちょのラザール・ロボスと一緒にアムリッツァで帝国の九個艦隊を叩きのめしてやった』と。その時諸君が誇らしげに反らす胸には、ピカピカの勲章が輝いているのだ」

 

 彼の言葉がはったりではないことは、この七日間の戦いが証明していた。ラインハルトと手の内を探り合い、撤退を決意させるまで戦い抜いた男の言葉には説得力があるに違いない。ユーモアを交えての煽動もうまいと思う。しかし、野心のために遠征軍を起こし、アンドリューを責任逃れに使い、第一二艦隊をさんざん苦しめたロボス元帥が言っているという時点で信じられなかった。

 

「これより六時間の自由時間を与える。諸君は二交替で三時間ずつ休憩せよ。七時より総員第一種戦闘配置に移行。タイミングを見て全軍で帝国軍を追撃する」

 

 八万隻の追撃戦。軍人のロマンチシズムを大いに刺激するであろう構図も今の俺には、悪夢以外の何者でもなかった。はっきり言うと、もうロボス元帥の私戦に付き合いたくないのだ。意義も名誉も見い出せない戦場に一秒たりとも留まりたくなかった。部下をこれ以上こんな戦いで死なせたくなかった。

 

 周囲を見回すと、参謀やオペレーターは一様に暗い顔をしていた。俺と同じで気持ちが完全に切れてしまったのだ。チュン大佐だけはいつものようにのんびりとした表情を保っている。彼だけが頼りだった。

 

 

 

 一一月八日午前九時五五分。自由惑星同盟軍は全軍をあげて、アムリッツァ星域から撤収中の銀河帝国軍に総攻撃を仕掛けた。両軍合わせて二〇万隻が展開した史上最大の艦隊戦の最終章は、八万隻が参加する史上最大の追撃戦となった。

 

 司令官代理を失った第一二艦隊は、第一独立機動集団司令官イヴァン・ブラツキー少将の直接指揮下に入り、完全にロボス元帥の直轄戦力と化した。第三六戦隊もブラツキー少将の形成した円錐陣の一部として、追撃戦に参加している。

 

「対艦ミサイル、攻撃始め!」

 

 俺が指示を出すと同時に第三六戦隊の戦艦とミサイル艦は、敵の後衛部隊に対して対艦ミサイルを一斉に発射しながら前進していった。敵もこちらが送りつけてきたミサイルを返品するかのように、ミサイルを撃ち返してくる。

 

「駆逐艦はミサイルを迎撃せよ!」

 

 戦艦とミサイル艦の側面に展開した駆逐艦は、迎撃ミサイルの弾幕を張って、敵の対艦ミサイルを破壊した。もちろん、こちらが発射してきた対艦ミサイルも大半は敵の駆逐艦の迎撃ミサイルに破壊されてしまう。

 

「敵艦、主砲の射程内に入りました!」

「よし!砲撃始め!」

 

 敵艦との距離が詰まると、今度はビーム砲の出番だ。戦艦と砲艦の主砲が一斉に太い光線を放つ。味方の主砲が敵に届く距離にあるということは、敵の主砲もまた味方に届く距離ということになる。ミサイルに加えてビームの応酬も始まった。第三六戦隊の以外の部隊も同じようにミサイルとビームを応酬する。

 

 史上最大の追撃戦は極めて凡庸な砲戦として幕を開けた。敵が艦列を乱して我先に逃げ出している状況であれば、いきなり突っ込んでしまっても構わない。しかし、目前の敵は整然と艦列を組んで俺達の追撃を阻止しようとしていた。そんな相手に突っ込んだら、無駄な損害を出してしまう。だから、普通の会戦のように砲戦で敵を叩いて、艦列を乱すのだ。

 

 指揮官が練達の用兵家なら、部隊を巧みに動かして乱れを誘うこともできる。実際、ルフェーブル中将、ビュコック中将、ヤン中将といった名将が受け持っている戦区の敵は、早くも崩れ始めている。しかし、愚直なブラツキー少将にそんな用兵はできない。

 

 一時間ほど射ち合っているうちに、敵の艦列に乱れが生じてきた。砲撃の精度、ミサイル迎撃能力、各艦の回避能力の違いが現れてきたのである。的確に攻撃を命中させる味方に対し、敵の攻撃はなかなか当たらない。その積み重ねが敵の艦列の乱れとなったのだ。

 

「第三四戦隊、第五二戦隊は突入!第三六戦隊は援護せよ!」

 

 第二分艦隊司令官クレッソン少将の指示を受けた俺は、巡航艦を繰り出して周りこませた。第三四戦隊と第五二戦隊が正面から突入すると、第三六戦隊の巡航艦は上下からビーム砲や対艦ミサイルを撃ちこむ。戦艦、ミサイル艦、砲艦は後方から射撃を続ける。

 

 もともと一個戦艦群しか持たない第三六戦隊は対艦火力が低い。数少ない戦艦もこれまでの戦闘で数を減らして、さらに対艦火力は低下した。だから、支援に徹しているのである。

 

 スクリーンの中では、味方の打撃部隊が敵の後衛部隊と激戦を繰り広げていた。戦艦は敵の戦艦と近距離で火力の量を競い合い、駆逐艦は味方の戦艦を守りつつ敵の戦艦に肉薄しようと敵駆逐艦と攻防を繰り広げる。攻撃母艦から発進した艦載機部隊は、戦艦が開けた突破口を広げるべく飛び回る。

 

 装甲と火力が弱い代わりに機動性の高い巡航艦からなる高速部隊は駆逐艦に守られつつ、敵の高速部隊と機動戦を展開して、主力の側面や上下を取ろうと試みた。

 

 きわめてセオリー通りで独創性の入り込む余地のない戦闘。重要なのは配下の部隊を前進させるタイミングと後退させるタイミング、そして手元に置いている予備戦力投入のポイントとタイミング。戦艦群、巡航群、駆逐群はそれぞれに運用が異なる。

 

 敵の弱点を見抜く、敵を誘い出して罠にかける、迅速に敵を制圧するといった才能には恵まれない俺であったが、セオリー通りに部隊を運用する才能は人並みにあったらしい。経験の浅さゆえにタイミングを誤りそうになることもあったが、そんな時は参謀長のチュン大佐が修正してくれた。上官のクレッソン少将が用兵に長けていることもあって、撤退戦から現在に至るまで分艦隊の一員として危なげなく戦うことができた。

 

 目の前の戦闘も順調に進んでいた。相変わらず敵は戦意が高く粘り強いが、練度が低くて動きは悪い。同盟軍は戦意こそ低いものの追撃側にいるおかげで勢いがあった。セオリー通りの運用をすれば、練度の差で圧倒できる相手だ。

 

 巧妙な用兵をする指揮官は、戦隊司令官や分艦隊司令官のレベルではさほど多くない。このレベルではセオリー通りの用兵しかできなくても、並み以上のリーダーシップや運用能力があれば、十分に有能と評価される。ラインハルトの部下でも事情は変わらないようだった。戦隊どころか群司令まで積極的で判断が早い人材を揃えているが、用兵巧者はさほど多くない。だから、俺のような凡庸な指揮官でも翻弄されずに戦える。

 

 第一二艦隊を直接指揮するようになったブラツキー少将の指揮能力も戦局に寄与していた。用兵家としては凡庸であったが、勇敢で部隊運用に長けていた。もともと指揮していた第一独立機動集団の戦いぶりを見るにリーダーシップも相当なものらしい。凡人が努力で到達しうる最高峰といった感じの指揮をするブラツキー少将は、判断力とリーダーシップがあるものの運用経験に乏しい敵指揮官を上手にあしらっていた。

 

「思ったより脆いですね」

 

 作戦部長代理ニールセン少佐は帝国軍の逆撃を恐れて、対応策を五つも用意した。それが空振りに終わって拍子抜けしているようだった。

 

「ローエングラム元帥は奇襲の天才だが、防御戦闘の経験は乏しい。それが精彩を欠いている理由かな」

 

 ニールセン少佐とともに対応策を練った参謀長のチュン大佐が推測する。

 

 言われてみると、ラインハルトが第六次イゼルローン、第三次ティアマト、エルゴン、アスターテで立てた武勲はいずれも奇襲によるものであった。前の歴史でもラインハルトはほとんど防御戦闘を経験していない。防御に徹したバーミリオンでは、ヤン・ウェンリーの攻勢を支えきれなかった。

 

 ラインハルトは天才だが万能ではない。それがわかっているから、敵を研究して自分のフィールドに引きずり込もうと策を弄する。休戦を持ちかけたのも不得意な防御戦闘を回避しようと考えたからではないか。才能に溺れて自分は何でもできると慢心してくれたら付け込む隙もあるのに、天は巨大な才能と貪欲な向上心をセットで与えてしまった。まったくもって不公平である。

 

「どうしてあの赤い旗艦の提督に後衛を任せてるんでしょうか?優秀なのは確かですが、速攻型の提督でしょう?黒い艦隊みたいな鉄壁の守りをする部隊に任せるべき場面だと思うのですが」

 

 ニールセン少佐はあの黒色槍騎兵艦隊をまた鉄壁と呼んだ。前の歴史で最強の対艦打撃部隊と言われた部隊が鉄壁と呼ばれると、吹き出しそうになってしまう。

 

 赤い旗艦の提督ことジークフリード・キルヒアイスがウォルフガング・ミッターマイヤーやアーダルベルト・フォン・ファーレンハイトのような速攻型の提督という指摘はちょっと違うんじゃないかと思ったが、この会戦では確かに速攻型の用兵をしていた。そういえば、前の歴史で彼の代表的な戦いとされるアムリッツァやキフォイザーでも防御戦闘はやってなかったような気がする。前の歴史のイメージに引きずられて、攻守に優れた万能型と思い込んでしまっていた。

 

「あの提督は昨日の会戦で絶妙なタイミングでローエングラム元帥を救援に来た。危ない場面では一番頼れる部下なんだろう。殿軍の指揮官は能力も必要だけど、それ以上に信頼が大事だからね」

 

 さすがはチュン大佐だ。前の歴史の知識がまったく無いのに、キルヒアイスがラインハルトに最も頼りにされているという推論をあっさり出した。

 

 彼は天才的なひらめきの持ち主ではない。変人ではあるが、思考は常識の延長上にある。ただ、積み重ねた常識の量と物事を掘り下げる姿勢が徹底しているのだ。前の歴史の知識より、真摯に常識を積み重ねる方がよりラインハルトらを正しく理解する役に立つ。今後の同盟軍の主敵となるであろうラインハルトと戦う際には、肝に銘じるべきであった。今後があればの話であるが。

 

 スクリーンの中では、打撃部隊が敵後衛部隊を押し込んでいた。第三艦隊、第五艦隊、第一三艦隊の正面では敵の艦列が崩壊しつつあり、他の部隊の正面でも優勢にある。全軍の半数に相当するとみられる敵後衛部隊は敗北への道を転がり始めていた。

 

「このまま終わってくれるかも」

 

 そんなことを思ったが、すぐに頭の中から振り払った。絶え間ない偶然によって作られる戦場では、何が起きるかわからない。敵の異常なまでに高い戦意も恐ろしい。死を恐れない相手は計算外の事態を引き起こす。言い様のない不安を感じ、体が震えた。

 

「手を緩めず、徹底的に叩き潰せ!命を絶つまで安心するな!」

 

 半ば発作的にマイクを手に取って指示を出した。司令室はしんと静まり返り、視線が俺に集まった。

 

「どうなさったんですか?」

 

 副官のコレット大尉は驚きで目を丸くしていた。

 

「な、なんでもないよ。注意を促そうと思ってね」

 

 不安をごまかすために、強い言葉を吐いてしまったなんて言えるはずがなかった。デスクの上の箱からマフィンを二個取り出し、立て続けに口に放り込んでもぐもぐ食べると、ようやく司令室の空気が和らいだ。

 

 戦況はどんどん同盟軍に傾いていた。高い戦意を武器に踏み留まってきた敵の後衛部隊もそろそろ限界に近づいているように思われた。

 

 キルヒアイスは速攻型というニールセン少佐の評価は正しかったようだ。この世に有能な提督はいても万能な提督はいない。ある分野でプラスにはたらく資質が別の分野ではマイナスに作用する。複数の得意戦法を持つより、一つの得意戦法を徹底的に将兵に叩きこむ方が実戦で結果を出せるというのもある。速攻に特化して最強の高速部隊となったキルヒアイス艦隊は、それゆえに防御戦闘への適性を欠いた。

 

 盟友を救うべく、ラインハルトの旗艦ブリュンヒルドが前線に出てきた。しかし、彼もまた速攻に特化することで常勝を誇った提督である。守勢では脆かった。ラインハルトが率いてきた直属部隊もたちまち不利に陥る。もはや帝国軍の劣勢は覆しようがない。

 

「総員突撃せよ!」

 

 ロボス元帥はついに総突撃の命令を下した。予備戦力の第八艦隊とルイス艦隊、そして自ら指揮する直率部隊まで投入して、帝国軍に止めを差そうというのだ。同盟軍八万隻が帝国軍後衛部隊に襲いかかる。

 

「突っ込め!」

 

 俺も四〇〇隻そこそこまで減少していた第三六戦隊を率いて、敵中に突き進んでいった。第三六戦隊の前方には、戦艦と巡航艦と駆逐艦がバランス良く配備された敵部隊が展開していた。ぐちゃぐちゃに乱れた陣形を整えようともせずに応戦しようとする彼らに驚きを感じる。だが、それも今の第三六戦隊の勢いの前には意味をなさない。第三六戦隊はあっという間に敵部隊を突破し、その後ろに展開していた攻撃母艦部隊も突破した。

 

 同盟軍の他の部隊も溜まりに溜まってきた鬱憤を叩きつけるかのように、まっしぐらに突入している。八万隻の突撃を目前にしてもなお踏み留まろうとする敵の戦意は賞賛に値した。俺達が彼らの立場だったら、三秒で逃げ出していたはずだ。

 

「艦列ってこんなに簡単に突破できるものなのか」

 

 そう考えてしまうほどに脆かった。戦術スクリーンには反転してきた敵前衛部隊が後衛を支えようと奮戦している様子が映っている。しかし、今の同盟軍の勢いには敵し得なかった。後衛の混乱は前衛に波及し、帝国軍は全軍崩壊の一歩手前まで追い込まれた。

 

 緊急連絡を伝える呼び出し音がけたたましく鳴り響き、スクリーンに白い流線型の戦艦が映し出された。言わずと知れたラインハルトの乗艦ブリュンヒルドである。

 

「第八艦隊がローエングラム元帥の本隊と接触した!我らを阻むことは誰にもできん!進め!」

 

 ロボス元帥の叱咤の声が最終章の開幕を全軍に知らせる。

 

「これでおしまいだ!頑張れ!」

 

 俺はロボス元帥と声量を競うかのように、第三六戦隊の将兵を鼓舞し続けた。ようやくこれで終わる。いや、終わりにしなければならない。もうこんな戦いはたくさんだった。


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