銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第九十四話:死闘が終わり、伝説が始まる 宇宙暦796年11月8日 アムリッツァ星系 第三六戦隊旗艦アシャンティ

 帝国軍総司令官ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥の乗艦ブリュンヒルトの白くなめらかな艦体は、砲撃や爆発光に照らされて銀色に光り輝いていた。激戦にあっていっそう輝きを増すその美しさは、艦の所有者たる美貌の提督と重なって見える。全軍崩壊の危機にあってなお、ブリュンヒルトは戦場に君臨している。

 

 俺は確信した。いや、誰であっても確信せずにいられないであろう。ブリュンヒルトを沈めた瞬間に眼前の大軍は潰えると。

 

 ブリュンヒルト目掛けて殺到していく第八艦隊先頭集団は、さながら金属と火力の奔流であった。敵駆逐艦が張り巡らせた迎撃ミサイルの弾幕は、対艦ミサイルの豪雨に打ち砕かれた。全砲門を開いて先頭集団を食い止めようとした敵戦艦は、自軍に数倍する砲撃に押し流された。敵の巡航艦や攻撃母艦も先頭集団の勢いに抗し得ず、次々と爆散していく。

 

 この期に及んでも一艦たりとも逃げようとせず、ブリュンヒルトを守ろうとする敵の戦いぶりは賞賛に値した。これほどの献身を部下から引き出すラインハルトの統率も素晴らしい。しかし、第八艦隊先頭集団は帝国軍の抵抗を無慈悲に粉砕し、ラインハルトの本隊は驚くべき速度で数を減らしていった。

 

「高速艦を揃えたのが命取りになったようですね。門閥貴族の提督が好んで使う大型艦ならもう少し戦えたのでしょうが」

「そうだね。確かにあの編成はこの状況では逆効果だ」

 

 作戦部長代理クリス・ニールセン少佐のため息混じりのつぶやきに同意を示す。艦の大きさと中和力場の出力は比例する。砲やミサイルポッドも多く設置できる。だから、艦体が大きければ大きいほど、高い火力と防御力を持てる。高速艦は先制攻撃で敵の弱点を叩くのには向いているが、足を止めての撃ち合いには弱い。ロボス元帥もそこまで読みきって、追撃戦は同盟軍有利と踏んだのだろう。

 

「皮肉なものです。ローエングラム元帥を名将たらしめた速度重視の編成が今日の敗北を招くとは」

「敵はまだ敗北を認めていないよ。他の艦をことごとく沈めたとしても、あの艦が残っている限りは俺達の勝ちじゃない」

「失礼しました」

 

 俺がブリュンヒルトを指さすと、ニールセン少佐は顔に恥じる色を浮かべて謝る。彼と俺は三歳しか年齢が離れていないのに、会話をすると俺よりだいぶ年下であるように感じることが多い。

 

「気にすることはないよ。俺が小心なだけだから」

 

 軽く微笑みを見せて、食べようと思っていたマフィンをニールセン少佐に差し出す。三年前の俺は駆け出しの副官だった。当時の俺と比べれば、彼はずっと優秀だ。彼は経験が足りないにすぎない。凡庸な俺もこの三年で様々な経験を積んだおかげで、何とか司令官が務まっている。

 

 マフィンを食べるニールセン少佐を横目に、スクリーンに意識を戻した。敵はもはや火力では第八艦隊先頭集団に対抗し得ないと悟ったのか、自らの艦体を武器にして挑んできた。ある艦はブリュンヒルトの盾となって砲撃やミサイルを受け止めた。ある艦は同盟軍の艦に体当たりして、自らの命と引き換えに突進を食い止めようと試みた。

 

「信じられん…」

「なんて奴らだ…」

 

 司令室のあちこちからそんな呟きが聞こえる。敵の戦いぶりは俺達の理解を超えていた。これまでの帝国軍なら、もっと早い時点で逃げ散っていたはずだった。いや、同盟軍でもこの状況ならとっくに戦意が崩壊している。敵艦が争うように身を投げ出していく光景は、戦場ではなく英雄伝説の一場面のようであった。

 

「どうやればこいつらに勝てるんだ?」

 

 どこからともなくそんな声が聞こえた。圧倒的な優勢にあって勝利を疑う者が出ているという事実は、言いようのない恐怖を呼び起こした。

 

 偶然に支配される戦場では、しばしば非合理的な要素が勝敗を決する。戦意もその一つであった。幹部候補生養成所で受けた戦史の授業によると、西暦一四三一年のドマジュリチェ、西暦一七九二年のヴァルミー、西暦二七八八年のカノープスなどは、戦意の差で不利を覆した戦いだったという。

 

 帝国軍の異常な戦意がこの戦いの流れを変えてしまうのではないか。そんな恐怖から逃れるように戦術スクリーンに視線を移す。バラバラに散らばった赤いマークを追いかけ回す青いマークは、すべての正面における同盟軍の圧倒的優勢を示していた。崩れかけた戦線を支えるために戻ってきた敵前衛部隊も同盟軍の勢いの前に為す術がなかった。

 

「圧倒的じゃないか」

 

 自分に言い聞かせるように小さい声でひとりごとを言う。

 

「なんでまだ敵は戦場にいるんだ?なぜ負けを認めない」

 

 前方から聞こえてきたアシャンティの艦長ムフェラ中佐の声には、はっきりと恐れの色が浮かんでいた。三〇年近く軍艦に乗って来た彼は、実戦の呼吸を知り尽くしている。攻撃精神旺盛な艦長と言われ、一度の会戦で敵艦四隻を撃沈して五稜星勲章を受章した経験もある。そんな猛者が恐れを感じているというのは由々しい事態だ。

 

「コレット大尉!パンケーキとホットミルクを将兵全員分用意するように手配して!」

 

 副官のコレット大尉を呼んで、第三六戦隊の将兵全員に臨時の間食を支給するよう指示する。こんな時は叱咤しても意味が無い。甘い食べ物と暖かい飲み物を与えて、心を落ち着かせた方がいい。

 

 それから、参謀長チュン・ウー・チェン大佐を呼んだ。潰れたチーズたっぷり包み焼きピザを貰って、軽く会話を交わすと恐怖が薄れていった。どんなに深刻な状況もマイペースな彼を見れば、大したことが無いように思える。

 

「第八艦隊先頭集団がブリュンヒルトを射程内に捉えました!」

 

 オペレーターが伝えたその情報は、沈みかけていた司令室の空気を一気に明るくした。どっと歓声があがる。さすがのラインハルトも射程内に捉えられては逃れるすべがないはずだ。他の敵部隊も救援に駆けつける余裕はない。第八艦隊先頭集団の指揮官はフォール少将。猛者揃いの第八艦隊でもひときわ勇名高く、正確無比の攻撃指揮で名を馳せる提督だ。ラインハルトの命運は尽きたかに思われた。

 

「なんだ、あれは!?」

「苦し紛れか!?」

 

 絶体絶命のブリュンヒルトは驚くべきことに前進を始めた。死を目前に控えているのに、なお前に進もうとする。なんと誇り高いことであろうか。敗軍であっても、勝者のごとく光り輝いている。ラインハルトはどこまでもラインハルトだった。

 

 第八艦隊の先頭集団は対艦ミサイルとビームを一斉に放った。これだけの攻撃を一度に受けたら、中和力場もあっという間に飽和してしまう。ブリュンヒルトの周囲はがら空きだ。生き残っている本隊所属の敵艦が一斉に救援に向かったが、それより早く攻撃が届く。誰もがブリュンヒルト撃沈とラインハルトの死を確信した。

 

「う、嘘だ…!」

「信じられんっ!」

 

 何が起きたのか、誰にも理解できなかった。全員が狐につままれたような表情でスクリーンを眺める。第八艦隊先頭集団の攻撃はことごとく外れ、ブリュンヒルトは傷ひとつ付かずに前進を続ける。

 

 再び対艦ミサイルとビームが束になって飛んで行く。「あんな偶然は一度きりだ。今度こそ敵の旗艦は光の矢に串刺しにされる」と誰もが信じた。しかし、今度は守るように割って入った数隻の敵艦に命中して爆発を起こした。ブリュンヒルトは何事もなかったかのように前に進む。

 

「そんなのありか…」

 

 ある参謀が驚愕とともに絞り出した声は、司令室にいる者全員の心情を代弁していた。この状況で威風堂々と前進する敵旗艦、それを撃沈できない味方。ありと思える方がおかしい。

 

 第八艦隊先頭集団は躍起になって火力を叩きつけた。しかし、集まってきた敵艦が盾になって爆散し、ブリュンヒルトには傷ひとつ付いていない。体を張って攻撃を受け止める敵艦と、その爆発光に照らされながらまっすぐに進んでいくブリュンヒルト。それはさながら王者の行進だった。

 

「もしかして負けるんじゃないか?」

 

 三〇分前ならすぐにその呟きは、否定の声にかき消されたであろう。しかし、今は全員が同じ不安を共有していた。第八艦隊先頭集団の猛射は続いていたが、一発でもブリュンヒルトに当たると信じている者はいない。

 

「総司令官の旗艦とて、たかが一艦ではないか!他の艦をことごとく沈めれば敵は潰え去る!恐れるな!目前の敵に集中せよ!」

 

 ロボス元帥の叱咤は理屈で考えればもっともであった。しかし、俺達は知っている。他の艦をことごとく沈めても、ブリュンヒルトを沈めなければ俺達に勝ちはないと。ブリュンヒルトはただ一艦で帝国軍の希望となっている。ブリュンヒルトの輝きに照らされている限り、帝国軍は決して挫けない。

 

「見てください、閣下!」

 

 コレット大尉に促されて、正面の戦場に意識を戻す。第三六戦隊の攻撃で息も絶え絶えだった敵は、生気を取り戻しつつあった。艦の動きがみるみるうちに良くなっていく。

 

「砲門を…!」

 

 砲門を全開にせよ、エネルギーを使いきるまで撃ち続けろ。そう言いかけて言葉を飲み込んだ。エネルギーを残しておく必要性を感じたのだ。ここで撃ち尽くしてしまえば、後退戦を戦えなくなる。

 

「後退戦だって?何を考えてるんだ、俺は」

 

 自分が無意識のうちに後退戦を想定していたことに驚いた。ブリュンヒルトが健在でも、敵の動きが生気を取り戻していても、同盟軍優勢に変わりはなかった。敵の陣形はバラバラで同盟軍の陣形は整然としている。まとまった予備戦力も残っていない。データはすべて同盟軍の優勢を示しているのに、心の中ではそれを信じられなくなっていた。

 

 本来ならとっくに逃げ散っているはずの敵はなおも戦場に踏み留まっている。本来ならとっくに撃沈されているはずのブリュンヒルトは傷ひとつ付かずに悠然と前進している。ならば勝っているはずの同盟軍はどうなってしまうのか。勝利を信じる気持ちが砂粒となって、指の間からこぼれ落ちていくのを感じた。この戦いはまずい。理性ではなく、勘がそう告げる。

 

「敵が突撃してきます!」

「なんだって!?」

 

 オペレーターの絶叫に誰もが驚愕した。慌ててメインスクリーンに目をやると、全ての敵艦が全速でこちらに向かってきている。陣形は相変わらず乱れたまま。速度も攻撃のタイミングもバラバラ。こんな状態で艦列を整えた相手に突っ込むなど、自殺行為に等しい。

 

「何を考えてるんだ、奴らは!」

「死ぬ気か!?」

「イカれてやがる!」

 

 司令室は混乱の叫びに包まれた。

 

「我々の正面の敵だけではありません!全方面で敵が突撃を始めました!」

 

 戦術スクリーンの中では、バラバラの赤マークが整然と列を作る青マークに向かって一斉に突撃していた。速度もタイミングもバラバラ。狂気の突撃という他ない。

 

「敵の足並みは揃っていない!攻撃の密度も薄い!こんな突撃では我々の戦列を破ることはできない!落ち着いて狙い撃ちにするんだ!」

 

 とっさに出した指示も虚しく響く。そもそも、俺自身が落ち着きを失っている。

 

「我らが司令官ローエングラム元帥万歳!」

「司令官を死なせてはならんぞ!進め!進め!進め!」

「兵士の友ローエングラム元帥に勝利を!」

 

 敵情を傍受するために用意された回線は、帝国語の歓呼に占拠された。同盟軍の参謀やオペレーターは、職務上の必要から帝国語教育を受けている。彼らの帝国語知識は、戦っている相手が軍隊ではなく、ラインハルトを崇拝する信仰者の集団であることを理解させた。

 

 とっくに負けているはずの軍隊が総司令官への信仰を支えに踏み止まり、突撃すら敢行してのけた。その光景は俺達に深刻な問いを突きつける。

 

「我々は何のために戦っているのか」

「戦って何を得ようというのか」

「命を賭けるに値する何かを我々はこの戦いの中に見い出せるのか」

 

 答えはわかりきっている。何もない。ロボス元帥や政治家の打算にさんざん振り回されて、戦う意義なんてとっくに見失った。ロボス元帥の合理的な用兵を目の当たりにしても、気持ちは白けきっていた。計算が正しいからといって、命を賭ける理由にはならない。

 

 さっさと終わらせたいというきわめて消極的な思いが俺達を戦場に繋ぎ止める一本の糸であった。しかし、決して沈まないブリュンヒルトと決して逃げない帝国軍将兵の姿は、自分の手で戦いを終わらせることが不可能であることを示した。

 

 最後の糸がぷつんと切れ、同盟軍は帝国軍に押されるように後退を始める。帝国軍が一光秒進むと、同盟軍は一光秒退く。一〇分後には帝国軍が一光秒進むたびに、同盟軍は二光秒退くようになる。二〇分後には帝国軍が一光秒進むたびに、同盟軍は四光秒退いた。三〇分後に同盟軍は後退から逃走に転じた。

 

「追撃中止!総員、イゼルローン要塞まで撤退せよ!」

 

 宇宙暦一一月八日一三時二四分。同盟軍総司令官ロボス元帥は全軍に撤退を指示した。史上最大の会戦が終わり、ラインハルト・フォン・ローエングラムの伝説が始まった。

 

 

 

 勝利寸前だった味方が敵の非常識な抵抗に根負けして、みるみるうちに総崩れに追い込まれる光景など誰が想像できただろうか。しかし、呆然とする贅沢は第三六戦隊には許されなかった。

 

「一歩も退いてはならん!命に替えて持ち場を死守せよ!」

 

 第一独立機動集団と第一二艦隊残存部隊を率いるブラツキー少将は、ロボス元帥から殿軍を命じられた。両翼を伸ばした半月陣を敷いて、帝国軍の前進を阻もうと試みる。第二分艦隊は防御が堅い球形陣を敷いて半月陣の右翼に陣取り、第三六戦隊は他の二個戦隊とともに第二分艦隊の球形陣の一部となる。

 

「総司令官閣下は第一二艦隊の諸君に不名誉を償う機会を下さった!生きて帰ろうと思うな!一隻でも多くの友軍を逃がして汚名をすすぎ、総司令官閣下のご厚意に報いるのだ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、怒りで体中が燃え上がった。司令室にいる者は全員同じ気持ちだった。マイペースなチュン大佐ですら、目に怒りの色を一瞬だけ浮かべた。

 

 第一二艦隊の行為を不名誉とみなしたこと、第一二艦隊の生き残りをここで死なせるつもりでいること、「死なせてやるんだからありがたく思え」と恩着せがましく言っていること。そのすべてが腹立たしい。

 

 誰が第一二艦隊を抗命のやむ無きに追い込んだのか。悪いのはロボス元帥ではないか。そして、勝ったのに功を焦って強引に追撃して今の苦境を招いたのもロボス元帥だ。それなのにどうして俺達が尻拭いしなければならないのか。こんな総司令官のために戦えるものか。

 

 何か言ってやらなければ気が済まない。そんな思いに駆られて通信機に手を伸ばす。だが、強い力で腕を掴まれた。

 

「おやめください」

 

 俺を止めたのは、人事部長のセルゲイ・ニコルスキー中佐だった。

 

「あちらを」

 

 ニコルスキー中佐が目配せした方向を見ると、統括参謀アナスタシア・カウナ大佐配下の憲兵が銃に手をかけている。総司令部批判が燃え上がれば、それを口実に司令室を制圧するつもりでいるのだろうか。怒りに駆られて軽挙妄動しようとした自分が恥ずかしくなった。

 

「ありがとう」

 

 礼を言って頭を下げた。つくづく俺は部下に恵まれている。彼らには生き残ってもらいたい。それが俺にできる唯一の恩返しだ。

 

 後退許可を得て部下を救うことはできない。そんなことをすれば、監視役のカウナ大佐は戦意不足の口実で俺の指揮権を剥奪するだろう。戦意不足を理由とする戦地での司令官解任は、いくらでも前例があった。総司令部の代理人であるカウナ大佐が指揮権を掌握したら、第三六戦隊の将兵に無茶な戦いを強いるのは火を見るよりも明らかだ。指揮権を手放すわけにはいかない。

 

 俺の下手な用兵では、勝利など到底望めなかった。上官のクレッソン少将は優秀な指揮官だが、先制速攻型で守りにはあまり強くない。おそらく第三六戦隊は敗北する。しかし、敗北を少しでも先延ばしする努力ぐらいならできるはずだ。生き残ればどうにでもなる。現にラインハルトは悪あがきを続けて逆転したではないか。

 

 俺はメインスクリーンに視線を戻す。帝国軍は練度こそ低いものの実に生き生きと動いている。一方、同盟軍は疲れきっていてせっかくの練度を生かし切れない。

 

「前方より敵の新手が出現しました!およそ五〇〇隻!」

「砲火を三時方向に集中して分断せよ!」

 

 オペレーターはひっきりなしに敵の接近を知らせ、俺は休む間もなく指示を出し続けた。撃退したと思っても、すぐに次の敵が押し寄せてくる。直線的な波状攻撃は疲れた将兵から、残された体力と気力を奪い去った。味方艦の動きはどんどん鈍くなり、敵の火線に捕捉されて火球と化していく。

 

 アムリッツァ星系全域で同盟軍は後退を重ねていた。開戦から一週間死守した第四惑星、第五惑星、第七惑星のラインを突破され、星系内縁部の第一惑星、第二惑星、第三惑星のラインまで押し込まれた。

 

 ラインハルトの奇跡的な戦いを直接目の当たりにした第八艦隊は、同盟軍の中で最も動揺が激しかった。第八艦隊の将兵は同盟軍最精鋭と名高く、司令官のアップルトン中将は最優秀の提督であったが、ブリュンヒルトを先頭に突入してくる熱狂者の渦に飲み込まれて恐慌状態に陥った。最も帝国軍の奥深くに切り込んでいたことも災いした。アップルトン中将は戦死、残存部隊も苦戦している。

 

 昨日の帝国軍の攻勢で大打撃を受けた第九艦隊、司令官を欠く第一〇艦隊は、第八艦隊に次ぐ損害を被った。第四独立機動集団司令官ルイス少将の指揮下に入った第七艦隊残存部隊も大きな損害を出した。

 

 第三艦隊、第五艦隊は善戦していた。第三艦隊司令官ルフェーブル中将は、重厚な防衛陣を敷いて付け入る隙を与えなかった。第五艦隊司令官ビュコック中将は、巧妙に構築した火線と闘志あふれる指揮で挑んだ。同盟軍きっての実戦派提督と言われる二人の老将は、敗軍の中でその真価を示したのである。

 

 特筆すべきは第一三艦隊である。司令官ヤン中将は巧妙に敵を誘い込んで強烈な逆撃を加え、追撃部隊を敗走に追い込み、ほとんど損害を受けずに後退している。

 

 ロボス元帥率いる本隊は素早く陣形を再編して、迫ってきた帝国軍に先制攻撃を加えて撃退すると、全速力でイゼルローン方面に離脱してしまった。撤退指示も自分が合法的にイゼルローンに逃げ込むための布石だったのであろう。最高の能力と最低の責任感を兼ね備えたロボス元帥を象徴する一幕であった。

 

 同盟軍との戦いで消耗していたせいか、帝国軍は深追いを避けた。相手が手強いと見たら早めに追撃を中止し、さほど手強くない相手でもほどほどで切り上げた。ラインハルトはこの勝利の価値を知っている。だから、同盟軍の殲滅にこだわらずに、自軍の撤収という当初の目的を優先したのである。

 

 

 

 一七時〇〇分、死守命令を受けて同盟軍の最後尾で戦っていた第一二艦隊は、第一独立機動集団とともに敵中に取り残された。第三六戦隊に残された戦力は三二四隻。遠征開始時の半数以下まで減少した。七人いた群司令のうち、三人は既にこの世にいない。

 

「第三〇二巡航群より報告!ポターニン大佐戦死!」

 

 たった今、群司令の死者は四人目となった。第三〇二巡航群司令と第三六戦隊の副司令官を兼ねるポターニン大佐は兵卒から叩き上げたベテランで、最初は俺とうまくいかなかった。しかし、苦労を共にするうちに信頼関係が生まれて、今では作戦行動に欠かせない存在であった。彼の死は第三六戦隊にとっても俺個人にとっても計り知れない損失だった。

 

 次々と味方艦が打ち減らされ、敵艦はどんどん数を増していく。火力を担う戦艦、機動力を担う巡航艦、防御を担う駆逐艦と艦載機。そのすべてが決定的に足りない。敵の攻撃は激しく、防御は分厚い。

 

「第二分艦隊旗艦セントクレア撃沈されました!」

 

 その報を聞いた瞬間、心臓が止まったような錯覚を覚えた。この激戦のさなかに上官が戦死したら、最悪の事態になる。第五二戦隊司令官カトルー准将は一時間前に戦死した。クレッソン少将まで死んでしまったら、第二分艦隊の指揮を引き継ぐのは俺だ。

 

「司令官は脱出されたか!?」

「わかりません」

「早く確認しろ!」

「りょ、了解しました!」

 

 オペレーターを怒鳴りつけて確認を急がせる。今の俺には狼狽を隠す余裕などなかった。

 

 確認するまでの時間はとてつもなく長く感じられた。焦燥感で胸が一杯になり、靴の足底でコツコツと床を叩く。オペレーターが第二分艦隊副参謀長サルキシャン大佐からの連絡を伝えたのは、六分後のことであった。

 

「副参謀長サルキシャン大佐より通信が入っております」

「繋いでくれ」

 

 スクリーンに現れたサルキシャン大佐は、苦悩に満ちた顔をしていた。敬礼をする手にも力がない。不吉な予感がする。しかし、どんな結果が待ち受けていたとしても、聞かないわけにはいかない。

 

「クレッソン司令官はどうなさった?」

「司令官閣下はお亡くなりになりました」

「やはり、お亡くなりになられたんだね」

 

 目をつぶり、確認するように言った。クレッソン少将はもうこの世にいない。その事実を胸に刻みつける。

 

「ジェリコー参謀長は?」

 

 副参謀長が通信を入れてきた時点で、参謀長ジェリコー准将の死も予想できていた。俺の質問はその事実を受け入れるための儀式だった。

 

 だが、サルキシャン大佐は俺の質問に答えなかった。目が涙でうるみ、唇は震え、今にも泣き出しそうに見えた。容易ならざる事情を感じ取った俺は質問を続けた。

 

「参謀長に何があったか教えてくれないか?」

「退艦を拒否なさって、セントクレアと運命を共にされました」

 

 質問に答えるサルキシャン大佐の声は震えていた。艦長が退艦を拒否するという話はたまに聞く。軍艦乗りは艦に対する愛着が強い。艦を失って心が折れてしまう者もいるのだ。だが、参謀が退艦を拒否したという話は聞いたことがない。

 

「どういうこと?」

「一言だけ、『疲れた』と」

 

 言い終えると同時にサルキシャン大佐は手で顔を覆って泣いた。

 

「そうか。『疲れた』か」

 

 短い言葉に込められた絶望の深さに涙がこぼれそうになり、ぐっと奥歯を噛み締めてこらえた。ジェリコー准将は正直な人だった。スクリーン越しにも苦悩や葛藤がありありと感じられた。もはや、自分や第一二艦隊を取り巻く現実に耐えられなかったのであろう。

 

「ご苦労だった。今から第二分艦隊の指揮を引き継ぐ」

 

 気を取り直して、指揮権を引き継ぐ意思を伝えた。悲しんでいる余裕は無い。すぐ指揮権を引き継がなければ、司令官のいない第二分艦隊は敗北する。

 

「第二分艦隊司令部の生き残りを連れて、アシャンティまで来れるか?」

「やってみます」

「難しいと判断したら、第一二四戦艦群旗艦ケイローンに向かってくれ。万が一の時は、群司令のハーベイ大佐が指揮を引き継ぐから」

 

 サルキシャン大佐との会話を終えると、俺は通信機に向かった。そして、非常用回線の一つを開く。第二分艦隊の全艦につながる回線だ。これを使う日が来るとは夢にも思わなかった。深呼吸して心を落ち着けてから、マイクに向かう。

 

「第二分艦隊の諸君。第三六戦隊司令官エリヤ・フィリップスだ。クレッソン司令官は旗艦セントクレアと運命を共にされた。よって、本刻をもって小官が第二分艦隊の指揮を引き継ぐ」

 

 力強くゆったりした口調を務めて作る。今の俺が成すべきことは、第二分艦隊の将兵を安心させること。頼れる司令官像を演じなければならない。

 

「小官は運が強い。エル・ファシルでは司令官が敵前逃亡した。ヴァンフリートでは敵兵に殺されかけた。ティアマトでは乗艦が撃沈されかけた。ゲベル・バルカルでは海賊の奇襲を受けた。だが、小官はそのことごとく生き延びた。アムリッツァでも絶対に諸君とともに生き延びる。小官の幸運を信じて欲しい」

 

 俺は自分自身の幸運に確信を持っているわけではない。生き残ってきたのは、単なる結果だと思ってる。しかし、司令官を失ったばかりの第二分艦隊には、信じられる何かが必要だった。用兵を信じさせることは、俺にはできない。実力と無関係の幸運を信じさせるしか無かった。

 

「運を掴む秘訣は諦めないこと。諦めずに戦い続ければ、きっと運が巡ってくる。小官はそうやって生き残ってきた。運が巡るまで粘り続ける。流れが変わる瞬間に一気に仕掛ける。しばらくは目前の敵を打ち破ることだけを考えてもらいたい」

 

 放送を終えると、強烈な圧迫感と吐き気を覚えた。第二分艦隊の指揮権を引き継いだという事実は、俺の体に凄まじいストレスをもたらしたのだ。

 

 俺の異変に気づいたのか、コレット大尉、ニコルスキー中佐、メッサースミス大尉らが駆け寄ってきた。

 

「閣下、大丈夫ですか!?」

「ああ、大丈夫。ちょっと疲れただけ」

 

 心配顔の部下達に笑顔で答える。敵を打ち破る策もなければ、この場から逃れる策もない。無策な俺にできることは、頼れる司令官を演じて部下を落ち着かせることだけであった。

 

 マフィンを立て続けに四個食べて一息つくと、第二分艦隊の掌握に乗り出した。参謀を呼び集めて第二分艦隊配下の部隊に連絡させて、新しい指揮系統の確立を図る。部隊から送られてくる情報を集約して、第二分艦隊の現状を正しく把握する。指揮権を継承したと宣言するだけでは、部隊は動かせない。意思疎通の経路を繋ぎ、こちらからの命令を確実に伝達し、部隊からの報告を受け取る仕組みを作って、ようやく配下の部隊を円滑に動かせるようになるのである。

 

 チュン大佐を始めとする参謀はてきぱきと作業を進め、俺は手早く第二分艦隊の掌握に成功した。現存する艦艇の中で戦闘可能な状態にあるのは一二四一隻。ビーム砲用エネルギーや対艦ミサイルは残りわずか。将兵の疲労は激しく、戦闘効率は著しい低下を見せている。失敗に終わった追撃戦での消耗がここにきて大きく響いていた。

 

「参謀長、第二分艦隊はあとどれぐらいもつ?」

「残り二時間。弾薬を節約すれば、一時間ほど伸びます」

「なるほど。弾薬の残量と俺達の持ち時間がイコールなわけだね」

 

 チュン大佐に突きつけられた冷酷な現実に、思わず苦笑いしてしまった。絶望する気にもなれない。

 

「残り二、三時間。できるだけのことはやってみようか」

「ええ。おとなしく死を待つのは面白くありません。奇跡が起きるかもしれないですしね」

「奇跡に期待するしかないのか」

 

 名参謀の口から奇跡という言葉が飛び出してきたことに、そんなものに期待するしかない状況であるということを思い知らされて、少しやりきれなくなった。

 

「閣下の幸運に賭けさせていただきます」

 

 チュン大佐はにっこりと笑って、折り目正しい敬礼をした。最悪の状況にあっても希望を失わない参謀長の姿に勇気づけられ、やりきれなさが失せていく。

 

「がんばらなきゃね」

 

 笑って敬礼を返すと、指揮を取るべくメインスクリーンに向き直る。上下左右、どこを見ても敵ばかりであった。

 

 俺はチュン大佐のアドバイスを受けながら第二分艦隊を指揮して、帝国軍の突撃を四度にわたって撃退した。ブラツキー少将の死守命令に縛られて正面の敵と全力で戦う以外の選択肢がなかったこと、そして帝国軍の戦術が勢い任せであったことが幸いし、部隊をしっかり掌握しさえすれば、俺の単純な指揮でも十分に通用したのだ。

 

 しかし、いかに第二分艦隊が奮戦しても、俺達が敵中に取り残されているという事実を覆すことはできない。第一二艦隊に所属していた部隊のうち、第一分艦隊と第四分艦隊の戦列は崩壊しかけていた。第三分艦隊は健闘しているが、限界に近づいている。ブラツキー少将率いる第一独立機動集団も防戦で手一杯だった。

 

 俺が第二分艦隊の指揮を引き継いでから二時間半が経過した。第二分艦隊はチュン大佐の策によって、少ないビームとミサイルで強力な火線を構築することに成功し、辛うじて弾薬切れを免れている。しかし、四度の突撃で二〇〇隻近い戦力を失った。次の突撃を防ぐのは難しい。防げたとしても、弾薬が尽きてしまって次の次は防げない。

 

 旗艦アシャンティの周囲は、ビーム砲と対艦ミサイルが乱れ飛ぶ最前線と化していた。護衛の駆逐艦は飛来する対艦ミサイルを迎撃し続けたが、敵の駆逐艦や艦載機の肉薄攻撃を受けて数を減らしていった。アシャンティ自身も敵艦と砲火を交えている真っ最中であった。

 

「二時方向より敵ミサイル!避けきれません!」

 

 オペレーターの悲鳴と同時にアシャンティは激しく揺れた。気が付くと俺の体は宙を舞い、視界がめまぐるしく回転していた。何が起きたかわからずに呆然としていると、体がバラバラになるような強い衝撃を感じ、次いで激痛が走った。

 

 体中が激しく痛むのに悲鳴が出ない。声が出せない。口の中に生ぬるい鉄の味が広がる。こんな経験は二年前のヴァンフリート以来だった。司令室には赤色灯が灯り、非常事態を知らせるサイレンがけたたましく響いていた。悲鳴、怒声、足音などが入り混じった騒音が耳に入ってくる。

 

「死ぬのかな、俺」

 

 焦点が定まらない目で天井を眺めながら、そんなことを思う。

 

「みんな無事だったらいいんだけど」

 

 ポケットから取り出したパンを笑顔で頬張るチュン大佐、プロテインバーをかじっているコレット大尉、じゃがいもにバターを塗って丸かじりするベッカー中佐、チキンにかぶりつくニコルスキー中佐、生野菜にドレッシングを掛けてむしゃむしゃ食べるレトガー中佐、冷めたヌードルをちまちますするニールセン少佐など、脳裏に部下の顔が次々と浮かぶ。

 

 ふと、視界が暗くなった。七、八人ぐらいの顔がこちらを覗きこんでいる。ぼんやりしてるけど、どの顔が誰なのかはすぐわかった。無事で良かった。

 

「早く逃げろ」

 

 そう口にしようとしたけど、出たのは血液だけだった。激痛と息苦しさで声が出ない。

 

「声が出せたら、俺に構わず逃げろと命令するのに」

 

 動かない体がどうしようもなく恨めしかった。痛みのせいで頭もろくに働かない。俺の顔を覗きこんでいる部下達が何を言ってるのかも良く聞き取れなかった。

 

「やっぱり、国には帰れないか」

 

 ハイネセンにいた三ヶ月前がとても遠い昔のように感じる。ダーシャ、アンドリュー、クリスチアン大佐、イレーシュ大佐、ドーソン中将、トリューニヒト、ビューフォート准将、アルマらも手が届かない場所にいる。

 

 意識がどんどん薄れて、何もかもがどんどん離れていくように感じる。視界も真っ暗になった。ヴァンフリートの時と同じ感覚だった。

 

「…援軍です!援軍が、援軍が!」

「…これでは聞き取れん!音量を最大に!」

 

 真っ暗な世界の中で妙に力強い声が響く。幻聴だろうか。

 

「…第五艦隊はあと二〇分で着く!第三艦隊と第一三艦隊も向かっておる!あと少しの辛抱じゃ!」

「…我々は第三艦隊である!軍艦乗りは仲間を見捨てない!一緒に祖国に帰ろう!」

「…第一三艦隊だ。これ以上、犠牲者は出さない。必ず助け出す」

 

 やっぱり幻聴だ。第一二艦隊は通信封鎖されている。他の艦隊はイゼルローンに向かってる。アムリッツァに戻ってきて、俺達に連絡を寄越すなんて有り得ない。

 

 でも、幻聴でも味方が来てくれてうれしかった。少しは安らかな気分で死ねそうだ。神様が敵中に置き去りにされて死ぬ俺を哀れんでくれたのかもしれない。軽い満足感の中で俺の意識は消失していった。


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