年が明けて間もない七九七年一月二日。俺は妹のアルマと一緒にブレツェリ家を訪れた。ジェリコ・ブレツェリ大佐とハンナ・ブレツェリ曹長の夫妻は、昨年の八月にダーシャと一緒に訪れた時と同じニューブリッジ地区の官舎に今も住んでいた。
「私一人ですまんね」
玄関に現れたジェリコ・ブレツェリ大佐は、ダーシャがいなくなった直後と比べると、やや活力を取り戻したようだった。
「奥様もまだお辛いでしょうから」
アルマは寂しげに微笑む。ダーシャの母親であるハンナ・ブレツェリ曹長は、一度に三人の子供をなくしたショックで体調を崩して入院中であった。
「子供達のために頑張ってみようと努力はしているんだが。まだまだ先は長そうだ。こういう時に年寄りは弱いな。失った過去は大きいのに、それを埋めるための未来は少ない」
「まだ平均寿命まで三〇年もあるじゃないですか。これからですよ」
「アルマ君らしくもないことを言うな。まるでダーシャみたいだ」
「ええ、ダーシャちゃんならきっとそう言うだろうと思いまして。たとえ余命が一年だと言われても、まだ一年もあるって言うような子でしたから」
「君の言うとおりだ」
ブレツェリ大佐はアルマの言葉に満足そうに頷くと、奥へと入っていく。俺とアルマはその後を着いていった。廊下はやや埃っぽい。これだけ大きな家に一人で住んでいるのだから、掃除が行き届かないのも仕方がない。まして、ブレツェリ大佐は子供を亡くした直後である。
「入ってくれ」
浴室の向かいにあるドアをブレツェリ大佐が開ける。一〇平方メートルほどの広い部屋には、ダンボールが所狭しと置かれていた。
「これが全部ダーシャの遺品ですか?」
「そうだ」
ブレツェリ家を訪れたのは、ダーシャの遺品整理を手伝うためだった。業務関係の物は軍に返却。私物はブレツェリ家で保管する物、ダーシャの友人知人に形見分けする物、寄贈する物、捨てる物に分類。一人でできる仕事ではない。
「一休みしてから取り掛かるかい?茶と菓子を用意するが」
「ご厚意はありがたいですが、遠慮しておきます。すぐ取り掛かりたいので」
「私もそうします」
俺とアルマは声を揃えてブレツェリ大佐の申し出を断る。遺品整理なんて気が重い仕事はさっさと片付けてしまいたかったのだ。
「わかった。さっそく始めよう」
こうして、俺達三人はダンボールを開けてダーシャの遺品整理を始めた。彼女が二七年生きて残したのがこのダンボールの山であった。多趣味な彼女はいろんな物を持っていたが、特に多かったのは衣服と書籍だった。
「あ、これ……」
「どうしたんだい、エリヤ君?」
「これ、デートの時にダーシャが良く着てたやつです」
俺が手にしていたのは、やや緩めでふわっとした素材のブラウスだった。
「へえ、そうだったのか」
「俺が今着てるシャツを選んでくれた時のダーシャは、このブラウス着てました」
あれは第三次ティアマト会戦が終わって間もない頃だった。自分の私服がダサいことにようやく危機感を抱いた俺は、ダーシャに頼んで一緒に私服を選んでもらったのだ。ほんの一年九ヶ月前なのに、遠い昔のように感じる。
「一昨年の四月三日だったっけ?」
横からアルマが口を挟む。
「ああ、そうだよ。ていうか、なんで知ってんの?」
「ハシェクさんに再会した日だから良く覚えてるよ。私もあの日はエルビエアベニューにいてさ。お兄ちゃんがすぐ近くにいたってのは、後でダーシャちゃんに教えてもらったの」
「そ、そうだったんだ」
藪蛇をつついてしまった。当時の俺はまだアルマを恐れていた。だから、再会した旧友リヒャルト・ハシェクから、アルマが近くにいることを知らされて逃げ出してしまったのだ。
「ダーシャちゃんは『妹にデート見られるの恥ずかしいのかなあ』って言ってたけど」
「ま、まあね。デレデレしてるとこ見られたら恥ずかしいからね」
頭をかいてごまかす。うまいこと勘違いしてくれてよかった。まあ、自分が恐れられてたなんて想像もつかないよな。
「ハシェクさんもそう言ってたよ」
「あの後もハシェクに会ったの?」
「メアド交換したからね」
メアドを交換。その言葉に心臓が高鳴る。前の人生のハシェクは帝国領遠征で戦死した。全然意識してなかったし、安否確認も忘れていたが、彼が生きている可能性に思い当たったのだ。
「メアド知ってる?」
「知らないの?」
「聞きそびれてさ」
「てっきり知ってると思ってたよ。同じ部隊だったし」
「同じ部隊?」
「ハシェクさんも第三六戦隊だから」
「いや、知らなかった。どうしてるのかな」
さらに心臓は鼓動を早める。俺が率いた第三六戦隊は過半数が戦死した。ハシェクが生きている可能性は低い。
「生還したよ。怪我もほとんどなし」
それを聞いて安心した。あれだけ多くの人が死んだ戦いで生き残ってくれたというのは嬉しい。心に温かいものが広がるのを感じながら、作業を続ける。
「あー、これ懐かしい」
アルマが手にとったのは、ふかふかしたニットの帽子だった。
「ほう、この帽子にも何か思い出があるのかね?」
「初めて会った時にダーシャちゃんがかぶってた帽子ですよ」
「確かカプチェランカだったか」
「ええ、そうです」
「私は行ったことがないが、専科学校の同期が寒い星だと言っていた。そいつは灼熱の砂漠で死んでしまったがね」
アルマとブレツェリ大佐の会話に出てきたカプチェランカという惑星は、同盟と帝国の歴史的な係争地の一つだった。地表は雪と氷に包まれていて一〇日のうち九日はブリザードが吹き荒れているという極寒の惑星だが、地下に眠っている膨大な鉱物資源を巡って激戦が繰り広げられていた。この一〇年間だけでも四度の地上戦がカプチェランカで起きている。ダーシャとアルマが出会ったのは、四年前の戦いだった。
「あの時にダーシャちゃんからもらったパウンドケーキの味は今も忘れません。ブランデーがたっぷり染みこんでて体があったまりました」
心の底から幸せそうな笑顔になるアルマ。薄々予想はしていたが、やはりダーシャに食い物で釣られたらしい。食い意地の汚さだけは前も今も変わらない。
「そういえば、ダーシャがエリヤ君と最初に出会った時はロールケーキをあげたと……」
「このスカートにもいろいろ思い出あるんですよ!」
遺品を手に取るたびにいろんな記憶が蘇る。服や帽子の一つ一つがそれを身に着けていた時のダーシャを思い出させてくれるのだ。俺達三人は遺品を整理しながら、それにまつわる思い出を語り合った。ダーシャのことだけを考え、ダーシャのことだけを語り合う。とてもとても幸せな時間だった。
それから四日間、俺とアルマはブレツェリ家を訪ねて遺品整理を手伝った。時間がかかったのは、しょっちゅう手を止めて三人で思い出話にふけっていたからである。こんな時間がいつまでも続いたらと思った。しかし、遺品には限りがある。ブレツェリ夫妻が保管する物、俺やアルマが保管する物、形見分けする物、遺贈する物などの仕分けが進むにつれ、どうしようもなく寂しい気持ちになっていった。
「やっぱり、ダーシャちゃんは生きてますよ」
すべての作業が終わった時、アルマはポツリと呟いた。俺とブレツェリ大佐は大きく頷く。今もなお、ダーシャの存在感はそこらの生者よりはるかに大きい。二度と会えなくなっても、ダーシャが俺達の中から消えることはない。俺達が生きている限り、ダーシャも生き続ける。そう確信した。
「いつでも好きな時においで。私はハイネセンに残るから」
別れ際にブレツェリ大佐は俺とアルマの手を握りしめながら、そう言った。
「シュパーラ星系に赴任されると伺ってましたが」
アムリッツァの敗戦から二か月が過ぎ、人事も動き始めていた。大打撃を受けた部隊の統廃合がだいぶ進み、承継部隊のポストが埋められていった。ブレツェリ大佐は准将昇進と中央支援集団への栄転を打診されたが、昇進を辞退してフェザーン方面転属を希望した。数日前にシュパーラ星系のJL77通信基地司令官代行の話が来ていると聞いたばかりであった。
「父の故国の近くで最後のお勤めをしたい。そうすれば、休暇のたびにフェザーンに住む親戚に会いに行ける。子供がいなくなった今、夫婦だけで過ごすのは寂しい。そう思っていた」
ブレツェリ家はダーシャの祖父、ブレツェリ大佐の父の代にフェザーンから移民してきた。親族のほとんどは今もフェザーンに残っている。だから、そちらの方面への転属を希望したのだ。
「では、どうしてハイネセンに?」
「私の子供は多くの人の中で今も生きている。君達がそれを教えてくれた。子供を知る人が大勢集まるハイネセンにいれば、彼らの中にいるダーシャやマテイやフランチに会える」
「ああ、なるほど。俺も大佐と話してると、ダーシャに会ったような気持ちになります」
「そうだろう。私がシュパーラに行ってしまっては、エリヤ君もアルマ君もダーシャに会えなくなってしまう」
ブレツェリ大佐は目を細めて笑う。ダーシャがいなくなってから、初めて見る大佐の笑顔である。俺とアルマもつられるように笑った。
ブレツェリ家を出た後、俺とアルマは人気のないニューブリッジ地区の歩道を歩いていた。第四艦隊の官舎街だったこの地区は、アスターテの敗北から一年近く経った現在ではゴーストタウンと化している。
「ダーシャのお父さんは何とか立ち直れそうで良かったよ。俺も頑張らないと」
「そうだね。落ち込んだ顔なんてダーシャちゃんには見せられない」
「あいつは俺の顔見るたびに『かわいいかわいい』ってうるさかったけど、暗い顔してる時だけは絶対に言わなかった」
「かわいいって言われると嬉しいよね。ダーシャちゃんの前だと、つい明るい顔しちゃう」
「ああ、わかるわかる」
「これまで出会った人が一人欠けただけでも、私は今の私になれなかった。だから、少しでもお返ししたいと思う。ダーシャちゃんに対しては、かわいいって言ってもらえる顔をするように頑張ることかな」
生真面目なアルマらしい決意だった。
「アルマならきっとできるよ」
「ありがと」
驚くほど自然に兄妹の会話ができていた。この数日間のおかげでアルマとの間にあったぎこちなさがだいぶ薄れていたのである。ごく自然にアルマを良い奴だと思えるようになった。ダーシャを好きな奴は良い奴に決まっているのだ。
「お父さんはもう大丈夫。心配なのは……」
「クリスチアン教官だね」
「うん」
俺の恩人であり、アルマの専科学校時代の教官である第四方面管区地上軍教育隊長エーベルト・クリスチアン大佐は、帝国領遠征で大勢の教え子を失った。逃げ遅れて戦死した者もいれば、味方に置き去りにされて行方不明になった者もいる。部下への愛情が強いクリスチアン大佐は、食べ物が喉を通らなくなるほど落胆した。現在は栄養剤で何とか体力を維持しているそうだ。
「最近はメールにも返信してくれるようになったけど、まだまだ辛いみたい。教官は情に厚い人だから」
「おとといのメールでは退役願いを書いてるって言ってた。あれほど軍隊を愛してたのに」
俺とアルマはため息をついて、顔を見合わせる。正確に言えば、自分より五、六センチほど上にあるアルマの顔を見上げたのだが。
「戦って死ねた艦艇部隊はまだいいよ。地上部隊は衛星軌道を制圧されたら、手も足も出ないから」
アルマの表情に影がさす。地上部隊の彼女にとって、帝国領遠征は無念な戦いだった。まともに戦う機会も与えられず、艦艇部隊にくっついて逃げるだけ。味方に置き去りにされて、逃げられなかった者も多い。アルマの所属する第八強襲空挺連隊は第九艦隊とともに逃げ延びたが、友人知人の多くが戦死または行方不明になった。
帝国軍の追撃を振り切るために、地上部隊からの救援要請を無視した俺に言える言葉はない。無視した救援要請の中には、アルマの専科学校時代からの親友が所属する部隊からのものもあったのだ。
「最近はうちの部隊でも国家救済戦線派の支持者が増えててね。私も勉強会の案内をもらったよ」
アルマの呟きは電光となって、俺を打ちのめした。政治家による軍部統制を否定する国家救済戦線派は、地上部隊を中心に支持を広げている。地上部隊の士官であるアルマに誘いの手が伸びても不思議ではない。しかし、自分の妹に過激思想集団が接触しようとしているのは、何とも寒気がする。
「行くの?」
動揺を悟られないように務めながら質問をする。
「極右の勉強会なんか行くわけないじゃん。怖いでしょ。講師があのアラルコン少将だし」
「変なこと聞いてごめん」
良く考えたら、真面目なアルマが過激思想集団なんかに近づこうとするはずがない。講師が悪名高いサンドル・アラルコン少将とくれば、なおさらだろう。
首都防衛管区第二巡視艦隊司令官サンドル・アラルコン少将は、苛烈な戦闘精神と卓越した指導力の持ち主で、子飼いの部下は「アラルコン親衛隊」と呼ばれるほどの結束を誇る。正規艦隊や教育部門で抜群の実績を示したが、非戦闘員殺害疑惑で何度も告発されたために軍上層部の忌避を買った。海賊討伐作戦「終わりなき正義」の際に民間人虐殺疑惑で世論の批判を浴びてから、言動が急速に右傾化。現在は統一正義党代表マルタン・ラロシュ系列の極右メディアで人気を集め、ラロシュ思想の勉強会から発展した国家救済戦線派では代表世話人の一人だった。
「クーデターとかそういうのは論外だけど、総司令部にはちゃんと責任取ってほしいよ。若手参謀だけ裁くとか言ってるけど、それじゃ納得できないって」
「俺もそう思うよ」
「総司令官は病気で仕事できなかったから悪くないとか、総参謀長はいい人過ぎて強く出られなかったから悪くないとか、作戦主任や情報主任や後方主任は若手参謀に仕事取られてたから被害者だとか、上の人はそんなことばっか言ってていらいらする。若手参謀を止められなかったのは罪じゃないの?」
アルマの疑問に答える言葉を俺は持っていなかった。軍上層部はアンドリュー・フォークとリディア・セリオ大佐を中心とする若手参謀グループの暴走で片付ける方針に決めたらしく、総司令官ロボス元帥、総参謀長グリーンヒル大将、作戦主任参謀コーネフ中将、情報主任参謀ビロライネン少将、後方主任参謀キャゼルヌ少将らの役割を軽く見せようと努力していた。
上の人の末端に連なる俺には、敗戦責任問題が彼女の求めるけじめと別の論理で動いていることが理解できる。ロボス元帥の責任を追及すれば、総参謀長や主任参謀の責任問題も浮上する。彼らは同盟軍で最優秀の人材だ。断罪したら軍はさらに弱体化する。生真面目なアルマの耳を上の人の論理で汚したくなかった。
「それなのにロボス元帥暗殺未遂は取り調べるっておかしくない?」
「まあね」
曖昧に言葉を濁す。昨年末のロボス元帥狙撃事件は、市民を大いに喜ばせた。市民の怒りは若手参謀グループに集中していたが、ロボス元帥に同情的なわけではない。彼が戦犯でないというのは軍部の主張であって、市民から見れば立派な戦犯なのだ。
警察には実行犯の免罪を求めるメールが殺到した。気の早いことにまだ逮捕もされていない実行犯の弁護費用を負担すると言い出す実業家、無料で弁護を引き受けると表明する弁護士まで現れた。窓を開けさせるきっかけを作ったアムリッツァの英雄ルフェーブル中将が共犯の疑いで事情聴取を受けたとの報が流れると、抗議の電話やメールで警察の回線はパンクした。もちろん、情報はまったく集まらない。捜査陣もまったくやる気を見せようとせず、ルフェーブル中将と会話した俺が事情聴取を受けてないほどだ。軍部は捜査の徹底を求めたが、進展する見込みは皆無だった。
軍部の主張と市民感情は完全に乖離してしまっている。アルマの発言からも分かるように、軍部でも上層部の計算と中堅以下の感情は乖離していた。俺の気持ちは市民のそれに近い。冷静でいるには、あまりに多くの物を帝国領遠征で失ってしまった。俺もアルマもルールにかなり忠実な性格だと思う。それでもルールを飛び越えた断罪を求めたくなるのが今の同盟軍の現実であった。
「お兄ちゃん、あれ見て」
アルマが指さした先には、クリームたっぷりのパンケーキのイラストが描かれたスタンド看板があった。
「住民が全然いないのに営業してるのか」
「五ディナールだって。安いよね」
「一〇枚食べても五〇ディナールだもんな」
「二〇枚食べても一〇〇ディナールだよ」
さすがにそれは食べ過ぎじゃないかと思った。スイーツはパンケーキだけではない。ケーキやパフェもある。そして、スイーツを食べるなら、パスタやサンドイッチも頼んでアクセントを付けないと、舌が甘さで麻痺してしまうのだ。
しかし、アルマは突っ込む隙も与えずに店の中に早足で入っていく。食い意地の張った妹に苦笑しながら、俺も後を着いていく。心がささくれだった時は甘い物を食べて心を癒やすに限るのだ。