銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第百一話:風が吹くとき 宇宙暦797年2月19日 フェザーンに向かう船の一室

 自由惑星同盟最高評議会は二月六日夜の臨時閣議で、銀河帝国軍が申し入れてきた捕虜交換交渉の受諾を決定した。両軍ともに約四〇〇万の捕虜を解放するとみられる。細部はこれから詰めていくが、成立はほぼ確実とみられる。一五七年にわたる両国抗争の歴史の中でも前例の無い大規模な捕虜交換が成立した裏には、両国の政治的事情が絡んでいた。

 

 来月末に総選挙を控えた同盟では、各党の宣伝戦が激しくなっている。そんな中で四〇〇万人の帰国が実現すれば、立役者の最高評議会議長ヨブ・トリューニヒトの評価は大きく上がる。帰還兵四〇〇万とその家族一〇〇〇万の票は、有権者一〇五億の〇・一パーセントに過ぎない。しかし、「同胞を見捨てない指導者」というイメージは、その数十倍から一〇〇倍に及ぶ票を掘り起こすであろう。

 

 帝国領遠征の失敗は、国家財政を破綻寸前まで追い込んだ。国内に収容されている帝国軍捕虜は四〇〇万人。捕虜一人を一年間収容するのに必要な経費は二万五〇〇〇ディナール。四〇〇万人の捕虜を解放すれば、国家予算の二・七パーセントにあたる一〇〇〇億ディナールを節約できる。そして、同盟は四〇〇万の納税者を獲得する。トリューニヒトは財政面でも得点を稼げるのだ。

 

 昨年二月のアスターテ会戦で二〇〇万、秋の帝国領遠征で一五〇〇万を失った同盟軍は戦力不足に苦しんでいる。経験を積んだ将兵は一朝一夕で育つものではない。四〇〇万の帰還兵は喉から手が出るほど貴重な戦力であった。半数の二〇〇万を艦艇部隊要員とすると、まだ所属が定まっていない第八艦隊や第九艦隊の残存戦力と合わせて二個艦隊を編成できる。残る半数のそのまた半数の一〇〇万を地上部隊要員とすると、六六個師団を編成できる。捕虜交換によって、軍は大きな戦力を補充できるのだ。そして、トリューニヒトは軍に大きな貸しを作る。

 

 捕虜交換は同盟の国益、トリューニヒトの政治的利益の両方を満たすおいしい取引であった。申し入れを受けたトリューニヒトが二つ返事で飛びつくのは当然であろう。だが、同盟だけが得をするわけではない。提案してきた帝国、いや帝国軍宇宙艦隊司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥も得をする。

 

 昨年の一一月に皇帝フリードリヒ四世が後継者を決めないまま死亡すると、帝国政界は混乱の渦に叩きこまれた。次期皇帝の有力候補は枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵が推す皇孫エリザベート、皇帝官房長官リッテンハイム侯爵が推す皇孫サビーネのいずれかと思われた。枢密院保守派の支持を受けるブラウンシュヴァイク公爵、先帝側近グループの支持を受けるリッテンハイム侯爵の勢力は宮廷を二分する。次期帝位を巡る両派の争いは膠着状態に陥った。

 

 この状況を憂慮したのが国務尚書リヒテンラーデ侯爵である。昨年の秋に同盟軍三〇〇〇万が侵攻してきた際に、イゼルローン方面辺境を一時的に放棄することで帝都の混乱が収まるまでの時間を稼ぎ、疲弊した同盟軍を撃退することに成功した。しかし、一時的とはいえ国土の三割が敵の占領下に落ちたという事実は、帝国の権威を大きく傷つけた。帝国内地の反乱が一段落した後も各地で散発的な反乱が起きている。皇帝不在のままで門閥貴族の抗争が続けば、これを好機と見た不満分子や共和主義者が一斉蜂起しかねない。リヒテンラーデ侯爵は革命の恐怖に囚われた。

 

 リヒテンラーデ侯爵は個人的にも窮地に立たされていた。辺境の一時的な放棄を提案したのはラインハルトだが、苦肉の策として後援したのはリヒテンラーデ侯爵だった。先帝の政治的無関心に付け込んで官界の支配者となった彼は、ブラウンシュヴァイク公爵派とリッテンハイム侯爵派の双方に快く思われていない。どちらが次期政権の座に就いても、国土を敵に委ねた責任、反乱を招いた責任を理由に追放されるのは確実である。

 

 公人としての責任感と私人としての保身から、リヒテンラーデ侯爵は自らの手で新皇帝を擁立することを決意した。革命を恐れた保守派貴族官僚はリヒテンラーデ侯爵を支持したが、彼らの勢力だけでブラウンシュヴァイク公爵派とリッテンハイム侯爵派に対抗することはできない。改革に消極的な両派を嫌う若手改革派エリートの支持、そして軍事力が必要となる。その両方を持つラインハルトを取り込んだリヒテンラーデ侯爵は、五歳の皇孫エルウィン・ヨーゼフを強引に即位させた。

 

 新皇帝が即位すると、リヒテンラーデ侯爵は爵位を公爵に進め、摂政と帝国宰相を兼ねて、臣下の身としては前例のない強大な権限を手中に収めた。ラインハルトは爵位を伯爵から公爵に進め、宇宙艦隊司令長官に就任した。同盟軍三〇〇〇万を撃退したラインハルトの権威は、軍務尚書エーレンベルク元帥と統帥本部総長シュタインホフ元帥の権威を大きく上回り、軍部の第一人者となった。ここにリヒテンラーデ=ローエングラム枢軸体制が成立したのである。

 

 門閥貴族は新体制に激しく反発した。漁夫の利をさらわれた形になったブラウンシュヴァイク公爵派とリッテンハイム侯爵派はもちろん、両派に与しなかった者も不快感を露わにした。爵位を持たない帝国騎士の娘を母に持つ新皇帝エルウィン・ヨーゼフは、門閥貴族との繋がりを持っていない。ラインハルトは下級貴族や平民出身の若手改革派エリートに人気があるが、門閥貴族との交際は皆無に近い。官僚が改革派と結託して、門閥貴族抜きの新体制を作ろうとしているように映ったのだ。

 

 リヒテンラーデ公爵は枢密院と相談せずに、閣議決定だけで国政を動かしていった。先帝の側近も国政から排除された。門閥貴族の意見を国政に反映させる枢密院と皇帝側近職という二つのルートは、いずれも閉ざされてしまった。貴族官僚と改革派の力は日を追うごとに大きくなり、門閥貴族の力は小さくなっていった。

 

 貴族官僚は門閥貴族の出身だが、貴族としての立場より官僚としての立場を優先する傾向がある。昨年死亡した前財務尚書カストロプ公爵は、貴族財産への課税に言及していた。貴族特権を放棄しようと考える者はいないが、行政上の問題を解決するために部分的制限を検討する者は多い。

 

 新体制に協力している改革派は、免税特権廃止、正規軍と私兵軍の指揮権一元化、皇帝直轄領と貴族領の行政機構一元化、各種優遇措置撤廃といった貴族特権の大幅制限を主張する。すべての貴族領を廃止し、貴族に宮廷常駐を義務付けて国庫から支給される年金で生活させるよう主張する者もいる。

 

 貴族特権が全面廃止されることはないにせよ、財政難打開や行政効率化のために貴族官僚と改革派が協力して部分的制限に踏み切る可能性は高い。門閥貴族の危機感は頂点に達した。部分的制限はやむ無しと考える者、新体制に協力することで特権を守ろうと考える者もいたが、大多数は特権死守と新体制打倒を目指した。

 

 この動きを復権のチャンスと見たブラウンシュヴァイク公爵とリッテンハイム侯爵は、声高に特権擁護を主張することで新体制に反発する貴族の支持を集めた。新体制打倒を望む支持者の声、権力を横取りしたリヒテンラーデ公爵に対する憎悪に動かされた彼らは同盟を結んだ。

 

 リヒテンラーデ=ローエングラム枢軸体制と、ブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合の対立は、激しくなる一方だった。何度か両派の間で話し合いが持たれたが、妥協が成立せずに決裂した。もはや、両派の亀裂は話し合いで解決できないほどに深いと、専門家の多くは考えている。

 

 両派は軍事力を動員して相手を威圧しようと試みている。ブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合側の門閥貴族は、領地に残っている子弟や家臣に命じて私兵軍を動員させているそうだ。旗幟を明らかにしていない正規軍部隊に対して、両派が勧誘工作を展開中という報道もある。帝都オーディンは一触即発の緊張状態だった。

 

 軍事力では門閥貴族の過半数と正規軍の一部を取り込んだブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合が優位にある。リヒテンラーデ=ローエングラム枢軸体制は正規軍の支持を固めきれず、信頼できる軍事力はラインハルトが率いる九個艦隊のみ。しかも、アムリッツァ会戦で総戦力の三割を失い、定数割れを起こしている。

 

 捕虜交換を申し込んできたラインハルトの真意が戦力増強、そして正規軍の支持獲得にあることは明らかだった。これほど双方にとっておいしい取り引きは珍しい。

 

「ご理解いただけたでしょうか?」

 

 国防委員会情報部対外情報課のバグダッシュ中佐は、どこか得意げに見えた。今の俺はフェザーンに向かう船の一室で、一〇人ほどのトリューニヒト派高級士官と一緒に、帝国情報の専門家バグダッシュ中佐から帝国情勢のレクチャーを受けていたのだ。

 

 ようやく傷が完治して少将に昇進した俺の最初の任務は、捕虜交換交渉の随員だった。国防委員会高等参事官の肩書きで交渉団に加わり、軍人としての立場から助言を行う。俺と一緒のレクチャーを受けている者は、みんな交渉団のメンバーだった。

 

 同盟と帝国の間には正式な国交がないため、形式上は両軍の前線部隊同士で捕虜を交換する。同盟側の代表はイぜルローン方面管区司令官ヤン・ウェンリー大将を務めることになっていた。しかし、四〇〇万人の捕虜交換ともなると、前線司令官の判断では決められないことも多い。そのため、実際の交渉は両国の政府高官が中立国のフェザーンに赴いて行うのだ。

 

 同盟側の代表は国防委員会副委員長ハリス・マシューソン退役准将。地方部隊でキャリアを積んで、タナトス星系警備管区司令官で退役。前々回の総選挙で改革市民同盟から立候補して代議員に当選し、二年前からトリューニヒト派に加わった。地方部隊重視のトリューニヒトに重用され、昨年一一月から国防副委員長に就任した。経験不足からか、評価はあまり高くない。

 

 帝国側の代表は宇宙艦隊総参謀長パウル・フォン・オーベルシュタイン中将。前の歴史では銀河最高の策士と言われた彼だが、現時点の同盟ではほとんど知られていない。同盟が詳細な情報を持っている帝国軍将官は大将クラス、もしくはキャリアが古い中将クラス以上に限られる。ラインハルト配下の将官はいずれもキャリアが浅いため、情報部は必死で調査している最中だ。彼が代表と聞くと、裏に何かありそうで不安になる。

 

 宇宙艦隊、辺境総軍、イゼルローン方面軍のいずれにも赴任せずに済んだのは喜ばしいことであった。同盟軍で最も勇名高い三提督の部隊に派閥抗争要員として送り込まれるなんて、想像するだけでも心臓に悪い。

 

 あの策士オーベルシュタインが代表を務める交渉団とやり合うのも十分心臓に悪いが、数日で終わる分だけまだマシである。帝国も交渉成立を望んでるから、変にこじれることもないはずだ。いや、こじれないと祈りたい。

 

「質問がある」

「どうぞ」

「門閥貴族はなぜそこまで特権にこだわるのだ?内戦など愚の骨頂だろう。国のことを思うなら、妥協するべきではないか。それに戦ったら自分や一族だって死ぬかもしれん。特権を手放せば、丸く収まるはずだ」

 

 質問したのは初老の准将だった。姓はジャクリだったはずだ。今年に入ってから、トリューニヒト派の人数が急増していて、なかなか覚えきれない。

 

「貴族の特権とは、何のためにあるものと思われますかな?」

「支配階級の力を強化するためであろう。だが、支配階級がいかに強くとも、国が滅んでしまっては意味が無いぞ」

 

 ジャクリ准将の答えはもっともだった。しかし、バグダッシュ中佐は「わかってないな」と言わんばかりの表情を浮かべる。

 

「小官も帝国で勤務するまではそう考えておりました」

 

 バグダッシュ中佐は帝国に潜入して諜報網を組織するケースオフィサーの経験者だ。この場にいる誰よりも帝国には詳しい。出席者は彼の言葉を聞き逃すまいと耳をすます。

 

「では、何のためにあるのだ?」

「門閥貴族には三つの義務があります。一つ目は領地を統治する義務。二つ目は私兵軍を率いて領地を警備する義務。三つ目は家臣団を維持する義務。我が国に例えて言うと、門閥貴族は地方政府の運営者であり、地方部隊の運営者です。そして、地方政府の公務員と地方部隊の軍人の雇用主でもあります」

「それは知っている」

「貴族はその必要経費をすべて私財で賄わなければなりません。それゆえに貴族の財産は免税特権で保護されます。帝国は実質的には皇帝私領、貴族領、自治領の連邦です。貴族領主や自治領主に統治や警備を丸投げすることで、中央政府の負担を軽くしています。免税特権の廃止というのは、言うなれば我が国の星系政府や惑星政府が持ってる財源に、中央政府が課税するようなものですな。いかに門閥貴族が贅沢をしても、領地経営費に比べたら微々たるものです」

 

 バグダッシュ中佐の説明はとてもわかりやすかった。同盟が各星系共和国の財政権に介入するようなものだ。地方財源に課税して得られた税金を補助金として還流したとしても、財政の独立は失われる。財政の独立が失われたら、地方は完全に中央に従属させられてしまう。事実上の連邦制だった帝国は、単一国家に変質するだろう。

 

「国体が根本から変わってしまうな」

「そうです。行政委託業者としての存在意義を失いたくないという者も多いでしょうが、それ以上に国体の変動を避けたいという者の方が多いでしょう。どれだけの混乱が生じるか、想像も付きませんからな。責任感から特権保持を望む立場もあるのです」

「要するに中央集権派と地方分権派の争いか。これは妥協できんだろう。我が国でも……」

 

 ジャクリ准将は途中で言葉を飲み込んだ。一五七年前に対帝国戦が始まるまでの同盟では、中央集権派と地方分権派が激しく対立していたのだ。正規艦隊が治安出動の名目で地方分権派弾圧に奔走した事実は、同盟軍史に暗い影を落としている。

 

「交渉相手はこれから国家の方向性を賭けて戦おうとしている。そういう連中であることを肝に銘じた上で、交渉に臨んでいただきたいですな」

 

 そうバグダッシュ中佐は締めくくった。前の歴史では、門閥貴族は権力欲とラインハルトへの怒りに目が眩んで、無用の戦いを仕掛けた愚者とされていた。しかし、彼らには彼らの正義があったようだ。ファーレンハイト提督のような良識派、オフレッサー上級大将のような低い身分からの叩き上げが門閥貴族に与した理由が少しは理解できたような気がする。

 

「他に質問は?」

「捕虜交換が罠という可能性はないかな?」

 

 質問したのはヤネフ大佐という壮年の士官だった。

 

「罠とは?」

「解放された捕虜の中に工作員が紛れ込んでくる可能性だ」

 

 ヤネフ大佐の疑問に他の出席者も同意を示す。俺以外の者は知らないが、オーベルシュタインは策士の中の策士なのだ。交渉以外の場所で罠を仕掛けてくることは、十分に考えられる。しかし、バグダッシュ中佐は軽い冷笑を浮かべた。

 

「それは十分に考えられます」

「対策はあるのか?」

「皆さんも御存知の通り、情報活動には人、金、時間が必要です。仮に出席者の皆さんが工作員かどうか、情報部が調査するとしましょう。一人あたり最低二人の防諜要員を貼り付けます。予算は一日あたり二〇〇ディナールから三〇〇ディナール。期間は最低でも二週間、普通は一ヶ月以上かかるでしょう。四〇〇万人を調査するとなると、防諜課に相応の予算と人員を割り当てていただきかねばなりませんな。一〇〇〇人に一人の割合で怪しい者を集中的に調べるとしても、八〇〇〇人の要員が必要ですが」

 

 バグダッシュ中佐は明らかに皮肉を言っていた。ここにいる士官は全員トリューニヒト派であった。そして、宇宙艦隊総司令部とともに帝国領遠征を推進した情報部の予算は、トリューニヒト派の手によって大幅に削減されている。

 

「しかし、情報機関は我々だけではありません。中央情報局とフェザーン駐在高等弁務官事務所の協力を仰げば、何とかなるでしょう」

 

 ここでわざわざ中央情報局とフェザーン駐在高等弁務官事務所を持ち出してくるところに、バグダッシュ中佐の悪意が感じられる。どちらも国家保安局の強制捜査で事実上活動停止状態なのだ。そして、国家保安局のバックにはトリューニヒトがいる。

 

「議長閣下より十分な後援をいただければ、阻止してみせます。皆様から議長閣下に進言願いたいものです」

 

 芝居がかった口調が口ひげを綺麗に整えた伊達男のバグダッシュ中佐とよくマッチしていた。ヤネフ大佐は怒りで顔を赤くして席に着く。

 

 思わぬところから、トリューニヒト派に対する情報部の不快感が垣間見えた。部長のカフェス中将、次長のボーノ少将らアルバネーゼ系幹部も留任したままだ。現在の情報部は軍部における反トリューニヒト派の牙城の一つと言っていい。前の歴史では、情報部は救国軍事会議のクーデターに与した。バグダッシュ中佐については良く知らないが、前の歴史でヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツの情報部長を務めた人物も似たような名前だった気もする。いずれにせよ、危険な徴候なのは確かだ。

 

 出席者の殺気がこもった視線を背にバグダッシュ中佐が退出すると、緊張していた空気が一気に緩む。室内が雑談の声で騒がしくなった。

 

「なんだ、あいつは」

「情報部は長い間、国防委員長の統制を受け付けなかった部局だからな。特権意識があるんじゃないか?」

「困ったものだな。トリューニヒト議長が選挙で勝ったら、徹底的に掃除してもらわねば」

「そうだそうだ」

 

 出席者の情報部批判が耳に入ってくる。トリューニヒト派の軍人は真面目だが、刺々しい人が多くて困る。だから、第三六戦隊の参謀チームを編成する際に、トリューニヒト派をあまり加えなかった。

 

「あと、統合作戦本部もだ。シトレ時代の悪風がまったく改まっていない」

「国防委員の先生方を無視して話を進めようとするからな。おとといも国境防衛担当委員のランブラキス先生が怒ってた。この期に及んで、軍事の素人は黙ってろという態度はさすがにまずいだろう」

「幕僚専制を改めなければ、我が軍は市民の信を失ってしまう。国防予算が削減されればされるほど、市民が喜ぶ時代になってはたまらん」

「そうさせないためにドーソン大将が次長に就任されたのだ。あの方が統合作戦本部の膿を出し切ってくださるだろう」

 

 今度は統合作戦本部が槍玉に上がった。トリューニヒト派は良く言えば政軍関係を大事にする軍人、悪く言えば政治家の顔色を見る軍人が多い。そんな彼らには、プロフェッショナリズムを振りかざして、政治家の介入を拒む統合作戦本部のエリート参謀は我慢ならない存在なのだ。

 

 シトレ元帥が帝国領遠征の責任を負って辞任に追い込まれると、第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー中将が大将に昇進の上で統合作戦本部長に就任した。アムリッツァで功績を立てた三提督はいずれも中将の中では序列が低く、軍部の頂点に立てるような威信は持っていない。現職の大将は全員失脚した。そのため、健在な中将の中で最も序列が高く、人望も厚いクブルスリー中将が本部長に就任したのだ。しかし、彼は国防委員会に敵対的なシトレ元帥の姿勢を受け継いで、トリューニヒト政権と対立関係にあった。

 

 統合作戦本部が政治を軽視している現状を問題視したトリューニヒトは、国防委員会防衛部長クレメンス・ドーソン中将を大将に昇進させると、新設の統合作戦本部統括担当次長に任命した。統合作戦本部次長は作戦担当と管理担当の二人がいるが、統括担当はその上席にあって全体を統括する。他の次長二人は中将でドーソン大将よりも若い。忠実なドーソン大将を本部長と同格に近いポストに据えて、クブルスリー大将の影響力を弱めようとしたのだ。

 

 階級が上がるにつれて、旧シトレ派とトリューニヒト派の間に広がる亀裂の大きさを実感することが多くなった。戦闘に勝とうと思うのであれば、政治家の意見を雑音と切り捨てる旧シトレ派のやり方が正しいと思う。しかし、戦闘を継続しようと思うのであれば、政治家と協調するトリューニヒト派のやり方が正しい。どちらも正しいが、それゆえに歩み寄るのは不可能だろうと思う。

 

「だが、問題はトリューニヒト議長が次の総選挙で勝てるかどうかだ。ラロシュやエドワーズが勝てば、せっかくの布石も水の泡となる」

「ラロシュが勝てば国家救済戦線派が勢いづくからな。奴らの狙いは軍部独裁だ」

「エドワーズは我が派とも旧シトレ派とも距離を置いているが、どう動くかな。地方部隊に手を伸ばしているようだが」

「彼女はキャゼルヌ少将、ヤン大将、アッテンボロー少将らと個人的に親しい。彼らがブレーンになるんじゃないか?」

「幕僚専制、正規艦隊優遇か。やはり、トリューニヒト議長に勝っていただかねば、軍への逆風は続くな」

「勝つのではないか。一〇日前とは情勢が完全に違う」

 

 大佐の階級章を付けた壮年男性が言う通り、この一〇日間で同盟政界の情勢は一変していた。発端は二月九日のトリューニヒト新党結成だった。

 

 二月五日に改革市民同盟を解散させたトリューニヒトは、四日後の九日に新党「国民平和会議」の結成した。参加した代議員はトリューニヒト派代議員を中心とする一〇七名。主戦派政党でありながら、党名に反戦派をイメージさせる「平和」の文字を入れた理由は、「帝国打倒、恒久平和実現の意志を明確にするため」としている。そして、全選挙区への候補擁立と単独過半数の獲得を目指すと述べた。

 

 現在の同盟議会定数は一六三九。現有議席一〇七の国民平和会議が単独過半数の八二〇を獲得するには、最低でも七一三議席は上積みしなければならない。戦犯断罪で高まったトリューニヒト人気は、捕虜交換交渉受諾によってさらに盛り上がった。国民平和会議が立てた候補が当選する可能性は極めて高い。問題は資金、そして人材だ。候補者を立てるにはお金がかかる。候補者には代議員にふさわしい人材を選ぶ必要がある。どちらもトリューニヒトには足りない。新党結成にあたって、景気の良いことを言ってみたかっただけなんじゃないか。そう思っていた。

 

 しかし、国民平和会議は結党から三日後の二月一一日に第一次公認候補四四六人を発表、二月一三日には第二次公認候補五一二人を発表した。地方議員が一番多く、退役軍人、元警察官、元官僚も多い。政治評論家エイロン・ドゥメック、女優シエラ・ソラなど右派有名人も立候補している。候補者に地方議員と元官僚が多いのは旧改革市民同盟と共通しているが、ビジネスマンが少ない点が異なる。

 

 資金もかなり集まっている。新興複合企業ユニバース・ファイナンス、恒星間運輸の最大手サンタクルス・ライン、コンピュータソフト大手レッドグレイヴといった財界傍流の大企業が次々とトリューニヒト支持を表明。大物投資家ケアリー・マーケット、ヘンスロー社会長ハロルド・ヘンスローは五〇万ディナールを献金した。運用資産五〇〇億ディナールと言われる巨大投資家集団ウォーターズも近日中に献金する見込みだ。もちろん、小口の個人献金も殺到している。

 

 結党から一週間も経たないうちに、全選挙区の半数以上で国民平和会議の支部が開設された。その多くは旧改革市民同盟の遠征推進派代議員から離反した地方組織と言われる。傘下の支部を根こそぎ奪われて、立候補を断念した者もいるそうだ。

 

 国民平和会議から排除された旧改革市民同盟遠征推進派は、共和国民主運動、自律党、保守同盟の三党に分裂。激しい逆風の中、頼みにしていた地方組織はトリューニヒトによって切り崩されていった。全国企業家連盟、全国農業者連合会、十字教などの有力支援団体も自主投票を決定。集票力と集金力を喪失した三党の支持率は、いずれも一パーセントに満たない。

 

 連立与党体制の破壊者として支持を伸ばしたジェシカ・エドワーズの反戦市民連合とマルタン・ラロシュの統一正義党は、よりラディカルな破壊者トリューニヒトの出現によって、すっかり影が薄くなってしまった。一時期三〇パーセントに迫った両党の支持率は、二〇パーセント前後まで低下した。

 

 旧改革市民同盟と二大政党の一角を形成した進歩党は、不人気な緊縮財政の継続に固執したこと、超法規的なトリューニヒトの戦犯断罪に批判的なこと、遠征継続派に与した代議員を公認したことなどが重なって低迷。世論に迎合しない党委員長ジョアン・レベロの誠実な姿勢が裏目に出た。党支持率は一〇パーセントを切っている。

 

 国民平和会議は、結党から一週間後の世論調査でいきなり支持率三二パーセントをマークしてトップに躍り出た。今後もさらに伸びるものと予測される。懸念材料があるとすれば、憂国騎士団の暴走ぐらいだ。

 

 世論の圧倒的な支持を得た憂国騎士団の行動は、どんどん過激さを増していった。遠征推進派に与した旧改革市民同盟や進歩党の集会への殴り込みは、世論の期待に沿ったものといえる。しかし、反戦市民連合や統一正義党のデモ隊への襲撃、トリューニヒトの断罪行為を批判したマスコミへの攻撃は支持されなかった。市民が憂国騎士団に期待していたのは戦犯断罪であって、戦犯以外への攻撃など、誰も望んでいなかったのだ。

 

 憂国騎士団ハイネセン支部のメンバーが二月一三日にハイネセン都心のグエン・キム・ホア広場で集会を開いいて三万八〇〇〇冊に及ぶ本を燃やすと、さすがに断罪行為を歓迎していた者も鼻白んだ。反戦的な本、体制批判の本、個人主義を賛美する本を次々と火中に投じ、「国家を破壊せんとする文化的攻撃を粉砕せよ!」を高らかに叫ぶ白マスクの集団ははっきり言って怖かった。

 

「なんという奴らだ!規律も何もない!ただの過激派ではないか!」

 

 携帯端末の向こう側でクリスチアン大佐は激怒していた。彼は反戦思想、体制批判、個人主義を嫌っている。しかし、それらを排除するために過激な行動をしてもいいとは思っていない。秩序を愛し変化を嫌う保守主義者のクリスチアン大佐にとっては、憂国騎士団の焚書集会は過激すぎて秩序を乱す行動と映ったのだ。

 

 過激な行動を好むのは、「正義のための暴力は肯定される」と主張するマルタン・ラロシュの支持者ぐらいだが、憂国騎士団とラロシュは対立関係にある。焚書集会はどの層にも受け入れられなかった。保守層からの思わぬ反発に直面した憂国騎士団は、二名を団員資格無期限停止、五名を団員資格一時停止、数十名を戒告、ハイネセン支部の執行部全員を辞職させるなど厳しい処分を下して収拾を図ったが、イメージ回復は容易でないとみられる。

 

 警察の手で断罪が進んでいることも憂国騎士団の人気に陰りを生じさせた。国家保安局は情報操作に加担した中央情報局とフェザーン駐在高等弁務官事務所の幹部四名を逮捕。国家刑事局によって別件逮捕された遠征推進派の中からは、遠征絡みの汚職について取り調べを受ける者も出ている。法が悪を裁いてくれるのであれば、暴力の出番は無い。

 

 違法捜査に近い国家刑事局のやり方にはちょっと引いてしまう。しかし、国家保安局はルールに則った捜査を進めていて好感が持てる。

 

 今日は二月一九日。ハイネセンを出発してから九日目。あと四日から五日でフェザーンに到着する。二年七ヶ月ぶりのフェザーン、待ち構えるは義眼の参謀長、そしてカフェレストラン「ジャクリーズ」の冬メニュー。いずれも生半可な覚悟で向き合える相手ではない。政治談義にふける高級士官たちを横目に、ほっぺたをパチンと叩いて気合を入れた。


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