銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

39 / 146
第三十二話:建前の使い方 宇宙暦794年3月21日 ヴァンフリート星系4=2基地

 憲兵隊は軍警察とも呼ばれ、軍隊内の秩序維持に専従する部隊だ。そのせいか、あら探しに熱心で弱い者いじめが大好きというイメージを持たれることが多い。そういう側面があることは否定しない。規則違反の摘発実績が憲兵の人事評価の中で大きなウエイトを占めているため、規則にやかましくて少しでも違反があれば、許されざる大罪を犯したかのように責め立てるような者が有能な憲兵とみなされがちだ。年度末になると隊内を見まわる憲兵の数が倍に増え、普段は摘発されないような違反まで摘発されるという笑えない光景が展開される。

 

 しかし、規則違反の摘発だけが憲兵の仕事ではない。軍隊の中で起きた交通事故や盗難事件の処理、軍施設や占領地の交通整理、揉め事の仲裁といった日常的な治安維持活動も行う。私的制裁、捕虜虐待、民間人への暴行などの取り締まりも憲兵が担当している。本来の憲兵は軍隊の平穏な日常を守り、まじめな軍人や市民を不良軍人の暴力から守る尊い仕事のはずなのだ。

 

「スライマーニー少尉が勤務中にミネラルウォーターを飲んでいたことはわかりました。しかし、小官にはそれのどこが問題なのかわかりかねるのです。説明いただけませんでしょうか」

「勤務中に水を飲むなど、怠慢の極みではありませんか。整備小隊長ともあろう者がこれでは部下に示しがつかないでしょう。憲兵隊長代理もそう思われませんか?」

 

 俺がいれたコーヒーに目もくれずに背教者を糾弾する審問官のごとく糾弾の言葉を吐くのはダヴィジェンコ曹長。輸送車両を整備していた時に三分ほど休んでミネラルウォーターを飲んでいた整備小隊長スライマーニー少尉の行為が職務怠慢にあたるのだそうだ。憲兵隊にはこの種の「情報提供者」がしょっちゅうやってくる。

 

「小官の知る限り、整備任務中に水を飲むことを禁ずる規定は存在しないはずですが」

「職務怠慢ではありませんか。整備員の気の緩みは事故につながります。厳罰に処して軍規の厳正を明らかにすべきです」

 

「職務怠慢」「風紀を乱す」などはこの種の情報提供者が大好きな言葉だ。他人の行動を強引なこじつけで悪事のように言い立てて、点数稼ぎをしようと思っているにすぎないのだが、それに乗っかって処罰を下す憲兵が少なくない。いくら摘発実績が欲しいからといっても、このような手合いと結託して処罰対象でない行動に軽々しく処罰を下すなど、本当に情けない。軍規の番人たる誇りはどこに捨てたのかと悲しくなる。

 

「整備員の義務と責任、禁止行為は同盟軍整備員服務規則に規定されています。これから全文読み上げますので、スライマーニー少尉の行動がどの義務条項に違反するか、どの責任条項に違反するか、どの禁止行為に該当するか、ご指摘ください。法律の世界では条文と実際の運用が必ずしも一致しないこともあります。『この条文はこう解釈できるのではないか』という疑問がありましたら、小官が一般的な解釈と代表的な適用例を説明して、貴官の解釈が成り立つかどうか、二人で話し合っていきましょう」

「あ、いや…」

「小官の記憶が誤っているかもしれません。ご指摘いただけると助かります」

 

 人の意見を聞く際には必ず根拠を求める。自分が意見を述べる際には必ず根拠を提示する。相手に根拠を求められた場合は説明の手間を惜しまない。説明するまでもなくわかりきってるようなことでも、手続きとしての説明を必ず行い、自分と相手がどのような根拠に基づいて動いているかを明確にする。ルール遵守と説明責任の徹底がドーソン中将から学んだ仕事のスタイルだ。

 

「いえ、小官ごときが憲兵隊長代理に指摘できることなど…」

 

 ダヴィジェンコ曹長の表情からは先ほどまでの勢いが消し飛び、目は前後左右にふらふらと泳ぎ、声はやや震えている。俺は彼の目にしっかりと視線を合わせた。

 

「貴官はスライマーニー少尉が職務怠慢であると告発なさってるんですよね。しかし、小官には根拠がわかりません。だから、指摘をいただければと思っているのです」

 

 軍隊ほどルールの遵守が求められる組織はない。何をするにもルール上の根拠を厳格に要求され、少しでも根拠が怪しいと追及を受ける。軍人に結果オーライで勝手な行動を許してしまうと、取り返しの付かないことになってしまうからだ。

 

 ドーソン中将は自らの行動の根拠を明示することで信頼性を高め、他人の行動の根拠を厳格にチェックすることで組織をコントロールする名人だった。細かい情報でも求めて現場に足を運んだのは、より確実な根拠を求めていたからだった。アイリスⅦや第一艦隊司令部にいた頃にドーソン中将に何度もレポートを書き直しさせられたが、今思えば根拠の明示を徹底する勉強だったのだろう。あの時に根拠の集め方と提示の仕方を学んだ。愚直なまでに根拠を求める姿勢が説得力を生む。ダヴィジェンコ曹長を「くだらないことを言うな」と叱って追い返すだけでは意味が無い。

 

「え、ええと…」

 

 落ち着かない様子のダヴィジェンコ曹長はテーブルの上のコーヒーを一息に喉に流し込む。俺はテーブルポットを手にとって、空になった彼のコーヒーカップにすかさずコーヒーを注ぐ。これは徴兵される前のコーヒーショップのバイトで身につけた習慣だ。帝国での捕虜収容所生活、帰国後の迫害、数度の服役、サイオキシン中毒、自殺未遂などを経て何も考えられなくなった頭でも、これだけは忘れなかった。

 

「指摘いただけないのでしょうか?」

「う、ううっ…」

「指摘はできないということでしょうか?」

 

 問い詰めると、ダヴィジェンコ曹長は声を出さずに軽く頷く。ようやく言質が取れた。

 

「我々憲兵隊は皆さんの情報提供に支えられて活動しています。貴官が協力したいという気持ちはありがたいです。しかし、軍規に反していない行為は処罰できないのです。貴官はスライマーニー少尉を厳罰に処して軍規の厳正を明らかにすべきとおっしゃいましたが、軍規に反していない行為を厳罰に処したら、誰も軍規を信じなくなってしまいます。憲兵の仕事は厳しく罰を与えることではありません。皆さんに軍規を信じていただけるよう努力するのが仕事です」

 

 俺が言っているのは建前だ。しかし、建前を大事にしなければ自分勝手がまかり通ってしまう。気に食わないからといって罪もない人間を告発し、むかついたといって新兵を殴り倒すような輩を処罰する根拠になるのは建前なのだ。ルールで動いている場所では、建前を愚直に守ることが力となる。

 

 ドーソン中将は憲兵司令官に着任すると、俺が集めた資料から公文書や会計の不正などを暴き出して、不正は許さないという建前を貫くことで憲兵司令部を掌握した。エル・ファシルを脱出した時にネットで自分の行動が合法であることを知ってホッとした時から、軍人の行動には建前が必要なことは知っていたが、それを押し通すことがこれほど強い力を発揮するとは思わなかった。基本法令集と国防基本法と軍刑法は幹部候補生養成所時代に全文暗記したけど、副官になってからは他の法律や軍の内規も勉強するようになった。ルールの建前と実際の運用を理解しなければ、ドーソン中将の副官は務まらないと思ったのだ。

 

 決してルールを踏み外さないシェーンコップ中佐のような相手には通用しない手法だけど、今の俺の立場ならそういう相手と対立する理由はない。理由がないことをしたら、建前が使えなくなる。

 

「こちらを見てください」

 

 俺が指さした先には、私的制裁追放のスローガンと匿名相談窓口のアドレスが書かれたポスターと、大隊ごとの相談受理数及び摘発数のグラフが貼られている。

 

「現在、当基地の憲兵隊は一丸となって私的制裁追放キャンペーンに取り組んでいます。協力したいという気持ちをお持ちなら、憲兵隊がどのような情報を求めているかもご理解いただけると助かります」

 

 俺は着任すると私的制裁追放の方針をぶち上げて相談窓口を設置し、憲兵隊を動かして三日かけて広大な四=二基地内にポスターを貼って回った。あまりにたくさん貼り過ぎたせいで苦情が来たほどだ。大隊、中隊、小隊ごとに相談受理数と摘発数のノルマを設定し、朝礼のたびに檄を飛ばした。基地の中では歓迎する声もあるが、やり過ぎだという声の方が大きい。特に中央支援集団司令部からの批判は激しかった。以前からパワーハラスメントの噂がささやかれていた中央支援集団司令部を憲兵隊が重点監視対象に指定し、憲兵を常駐させたからだ。

 

「フィリップス少佐は功績を焦っているのではないか」

「じゃがいもの威光を笠に着て威張りおって」

「勇み足にも程がある」

 

 このような声があちこちでささやかれている。生意気で鼻持ちならないエリート、暴走気味の理想主義者というのが中央支援集団司令部での俺の評判だろう。老練な憲兵である副隊長ファヒーム少佐も俺のやり方を快く思っていない。嫌われるのは辛いけど、それでもあえて強硬にやらざるを得ない理由があった。

 

 中央支援集団司令部メンバー全員の拘束が俺の本当の任務だ。四=二基地の憲兵隊内部にもサイオキシン麻薬組織の協力者がいる可能性を考慮して、ファヒーム少佐にすら本当のことは知らせていない。

 

 誰の協力も得ずに中央支援集団司令部を監視下に置き、総司令部の戦闘終結宣言が出ると同時に拘束命令を執行できる態勢を整えておかなければならない。司令部内部にいる麻薬組織メンバーの警戒を逸らす必要もある。これらの問題を解決するために私的制裁追放キャンペーンをぶちあげてブラフにした。中央支援集団司令部に堂々と憲兵を送り込み、なおかつ麻薬密売が露見していないと思わせる一石二鳥。

 

 もちろん、こんな作戦を俺一人で思いつくはずがない。出発前にドーソン中将と相談して練り上げた。純粋に俺のアイディアといえるのは、司令部のパワーハラスメントに関する情報提供を歓迎して、憲兵隊以外の人間も情報提供者として監視網に組み込むぐらいだ。

 

 ドーソン中将は悪口や自己アピールを真剣に聞き入れて貴重な情報としたため、そういう話を持ち込むつまらない人間が集まって憲兵司令部の空気が悪くなった。俺が空気を良くしようと思って憲兵司令部メンバーの良い話をするように務めると、ドーソン中将が良い話を聞きたがっていると思った人達が集まった。他人が良い話を持ち込んでくることまでは予想外だったけど、この経験から下は上が喜ぶ情報を敏感に察知して持ち込んでくるということを学んだ。摘発実績がほしい憲兵のもとに、規則違反の情報を持ち込む人間が集まるようなものだ。

 

 この手段で集まる情報は玉石混交だが、今回のように情報網を作ること自体に意味がある場合は有効だろう。実際、変な取り巻きができる弊害があったドーソン中将の情報収集手法も他人の粗を大小漏らさず知りたい場合には有効だった。だから、憲兵司令部の不正を洗い出すことができた。

 

 ブラフとして始めた私的制裁追放キャンペーンだったけど、やる気は十分以上にあった。現実で故郷を追い出された後に志願兵として軍に入った時に受けたリンチは俺を廃人同然の状態にした。除隊が半年遅れていたら殺されるか自殺に追い込まれるかしていただろう。今の俺が士官になっているのも元はといえば、兵役を満期まで勤めるのが怖かったからだ。私的制裁を批判する時は言葉に熱がこもってしまう。

 

 どうやら、俺は酷い目に遭ったことを思い出すと、必要以上に感情が入ってしまうようだ。エル・ファシル脱出前日の記者会見の時もそうだった。嫌われるのが怖い俺が今回の任務でなんとか悪役を演じていられるのもサイオキシン中毒の記憶のおかげだ。メディアの前で思ってもいないことをぺらぺら言ってた英雄や義勇旅団長をやってた時とは気合が違う。

 

「そろそろ、失礼してよろしいでしょうか…」

「お疲れ様でした。今後とも憲兵隊への協力をお願いします」

 

 顔から血の気を失って足元がふらついているダヴィジェンコ曹長のためにドアを開ける。曹長が出て行くと俺も廊下に出て、彼の背中に向かって軽く敬礼をする。曹長とすれ違うように廊下の向こうから悠然と歩いてくる人影が見えた。こんな場所を貴族のような優雅な足取りで歩く人間はこの世でただ一人。ワルター・フォン・シェーンコップ中佐だ。俺に気づくと、お出迎えご苦労といった感じで軽く手を上げる。

 

 シェーンコップ中佐は最近は二日に一回ぐらい憲兵隊長室にからかいに来る。俺が出したコーヒーを三杯ぐらい飲んで帰って行くけど、一体何を考えているんだろうか。リンツに聞いたところによると、「コーヒーをただで飲めるから」らしいが、ローゼンリッターの司令部と逆方向の憲兵隊本部までわざわざ来る理由になるんだろうか。この人の考えることは本当にわからない。

 

 今回の任務は何かと精神的ストレスが多い。今日三月二一日の未明から同盟軍と帝国軍は戦闘状態に入り、基地の中も戦時支援体制に移行してピリピリしている。これから、もっとストレスが多くなるだろう。この基地のある第四惑星宙域は同盟軍の勢力圏のど真ん中で、戦闘に巻き込まれる可能性は低い。そもそも、こんな大規模な後方基地は戦闘が起きることが想定される場所には作られない。

 

 現実ではヴァンフリート四=二は激戦地になっているが、帝国軍のミュッケンベルガー元帥がグリンメルスハウゼン中将を主戦場から隔離するために配置したのがきっかけだった。北半球に陣取ったグリンメルスハウゼン艦隊と南半球のヴァンフリート四=二基地駐留部隊の間で遭遇戦が始まり、やがて上空に帝国軍と同盟軍の主力がなだれ込んで混戦となった。偶然から始まった戦闘は偶然の連続で展開し、誰も状況を把握できないままに不本意な戦いを強いられ、惰性で長期戦に突入してうやむやのうちに終結した。戦記では「これほど必然性と無縁な展開に終始した戦いはなかった」と評されている。

 

 ミュッケンベルガー元帥がなぜ敵の勢力圏の奥深くにわざわざグリンメルスハウゼン中将を配置したのか、グリンメルスハウゼン中将はなぜすんなり第四惑星宙域まで辿りつけたのかなど、発端からして不明なのだ。いくつもの説が存在したが、どれも無理があって定説となるには至らなかった。戦記を読んだからこそわかる。あんな偶然は何度も起きるものではないと。

 

 仮に戦いが起きるならシェーンコップ中佐は頼りになる存在だけど、今回は単なる困った人で終わるだろう。役に立たないであろう現実の戦いのことは頭から追い払い、シェーンコップ中佐に飲ませるコーヒーを用意するために部屋に入った。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。