七九五年二月二日。最終調整を終えた第一一艦隊は出兵を待つばかりとなっていた。整備状態、補給状態ともに極めて良好。各艦、各部隊の連携にも不安はない。連日、汚れた作業服を身にまとって現場を訪れる司令官の姿に、将兵の士気は否が応にも高まっている。司令官交代直後で調整時間が足りなかったにも関わらず、宇宙艦隊総司令部が算出した最終戦力評価は、精鋭と名高い第五、第九の両艦隊と遜色ない。
最後の打ち合わせを終えた俺は第一一艦隊司令部を出て、近くのコーヒーチェーン店「コーフェ・ヴァストーク」でケーキセットを注文した。このチェーンはコーヒーもケーキもはっきり言っておいしくないけど、深夜まで営業しているから良く使っている。俺以外にも軍服姿の客は結構多い。私服の客の何割かもおそらくは軍人だろう。
ケーキセットが来るまで暇をつぶそうと、バッグから三冊の文庫本を取り出す。「実録銀河海賊戦争Ⅸ ウッド提督VS海賊の神様」「嫌いになれない彼女」「サードランナー四巻」のどれにしようか迷っていると、人の気配を感じた。顔を上げると、よれよれの背広とコートを着た人物が俺のテーブルに近寄ってくる。
「やあ」
だらしない服装にふさわしい緊張感のない声で第一一艦隊人事部長チュン・ウー・チェン大佐は呼びかけてきた。正直言って苦手な相手だが、妙な愛嬌があって邪険にはしにくい。立ち上がって敬礼をしようとすると、チュン大佐は右手を軽くあげて手のひらを上下に振って、座るように促す。俺が座ると、チュン大佐は向かいの席に無造作に腰掛けた。バランスを崩したらしく、一瞬上体が大きくよろめく。本当にこの人は軍人なんだろうか?
「なかなかいい趣味じゃないか」
チュン大佐は俺が持っている文庫本に興味を示す。よりによって、この人に恥ずかしい物を見られてしまった。「実録銀河海賊戦争」は昨年までデイリー・ハイネセンに掲載されていたライトな歴史小説、「嫌いになれない彼女」はベストセラーの若い女性向け恋愛小説、「サードランナー」は泣き虫の天才投手が主人公の青春小説。いずれも軍人が読むような本ではない。
「あ、いや、その…」
「軍人らしくないのが君の長所だな。筋金入りの軍人というのはどうも苦手だ」
「あ、ありがとうございます」
たぶん褒められているのだろうけど、彼に言われると同類扱いされてるようで微妙な気分になる。写真の中の俺はとても軍人らしく引き締まった感じに写るのに、実物では子供っぽく見えてしまう。ポリャーネ補給基地や駆逐艦アイリスⅦで勤務していた頃は、民間企業の事務職みたいな人ばかりだった。しかし、階級が上がるにつれて、軍人らしい人が多くなっていった。屈強な軍人や鋭そうな軍人を見ると、小心者の悲しさで気後れがしてしまう。軍人らしく見えないというのは悩みの種だ。
「『銀河海賊戦争』は君の趣味、『嫌いになれない彼女』と『サードランナー』は姉妹か彼女の趣味といったところかな」
「友達ですよ、友達」
銀河海賊戦争以外の二冊はダーシャから借りた。銀河海賊戦争は彼女のお父さんがはまっていると聞いて買った。勉強になるような本しか読まなかった俺だったが、最近はダーシャの影響で小説にも手を出すようになっている。
「そういえば、君はブレツェリ大佐の娘さんと親しかったね」
「いや、だから友達なんですって」
「しかし、君はそんな彼女に少なからず好意を抱いていると」
「いや、そんなことは。嫌いという意味じゃなくて、好意はありますが、それは…」
チュン大佐のすべてを見通しているかのような口調に慌ててしまう。好意を持っていることは事実だけど、友達としてのそれであって、それ以上ではない。ていうか、何をこんなに動揺してるんだ、俺は。
「ハムチーズベジタブル二つ、ホットカフェオーレ一つ」
俺が頭を抱えているのを横目に、チュン大佐は店員をつかまえてサンドイッチと飲み物を注文していた。いつもながら、とんでもないマイペースだ。勝てる気がしない。それにしても、彼がパン以外の食べ物を口に入れているところを見たことがない。よく見ると、胸元にパンくずが付いている。ここに来る前にもパンを食べていたのか。
「ああ、私としたことが」
俺の視線に気づいたチュン大佐はネクタイで口元を拭く。そこじゃないだろ、と思ったけど、口にはしない。こうも突っ込みどころが多いと、かえって何も言えなくなってしまう。
前の歴史のチュン・ウー・チェンは紛れも無い英雄だった。宇宙艦隊総参謀長としてアレクサンドル・ビュコック元帥とともに落日の同盟軍を背負って戦い、知謀の限りを尽くして帝国軍を苦しめ、民主共和制の再興をヤン・ウェンリーに託して散っていった。マル・アデッタ会戦での壮烈な最期は旧同盟人の涙を誘わずにはいられない。高潔な人格者、冷静沈着な知将というイメージを持っていたのだが、実物は全く違っていた。
チュン・ウー・チェン大佐は今年で三二歳。士官学校を上位で卒業して、宇宙艦隊総司令部や正規艦隊司令部の参謀職を歴任している。アレックス・キャゼルヌ准将のように一つの参謀部門に特化したスペシャリストではなく、ドーソン中将のように作戦、情報、後方、人事のすべてに経験を積んだゼネラリストだ。この年で大佐というのは、かなりの昇進速度である。三〇代のうちに確実に将官昇進を果たせるだろう。将官になれるのは士官学校卒業者の上位五パーセント程度に過ぎない。英雄にふさわしい立派な経歴の持ち主だ。
人を外見で判断してはいけないのはわかる。わかるんだけど、チュン大佐の外見には、その建前を裏切りたくなりそうに思わせるものがある。
「パン屋の二代目」「とろいおのぼりさん」と言われる鈍そうな容貌、結婚していることが信じられないようなだらしない身なり、空気をまったく読まないマイペースな言動。ドーソン中将に疎まれているのも、統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の派閥に属しているせいだけではないだろう。どこをどう見ても警戒すべき要素がないのに、気が付くとあっちのペースに巻き込まれている。ローゼンリッターのワルター・フォン・シェーンコップ大佐とは、別の意味で掴み所がない。同盟末期の英雄って、曲者しかいないんだろうか。
「いよいよ、明後日出発だね」
「そうですね」
「しばらくはチャーリーおじさんの店のパンも食べられなくなる」
「買いだめして船に持ち込んだらいいんじゃないでしょうか」
「ああ、なるほど。君は賢いな」
アドバイスをすると、寂しげだったチュン大佐の表情が明るくなり、無邪気に目を輝かせた。本当に良くわからない人だ。
「いえ、それほどでも…」
「謙遜することはないさ。君が一番好きなブルーベリージャムのマフィン、あれは実にうまい。私はレーズンブレッドが一番好きだけどね。サンドイッチはきゅうりと卵のサンドかな。君はベーコンレタストマトサンドが好きだったか。好き嫌いの少ない私だが、トマトだけは小さい頃からどうも苦手で」
「チュン大佐は今回の出兵の見通しについて、どのようにお考えですか?」
脈絡なく話題を変えていくチュン大佐のペースに巻き込まれないように、無理やり仕事の話に持ち込んだ。ダーシャの話を蒸し返されたりしたらたまらない。
「負けはないと思うよ。今回は敵を撃破する必要はない。第四艦隊と第六艦隊が到着するまで粘れば、敵は帰っていく」
「粘れるんでしょうか」
「第五艦隊のビュコック提督と第一〇艦隊のウランフ提督は歴戦の勇将。我が艦隊のドーソン提督は実戦経験が乏しいが、今のところはそんなに不安はないかな」
前の歴史では第三次ティアマト会戦は、第一一艦隊司令官ウィレム・ホーランド中将の暴走で全軍壊乱の危機に陥ったが、ビュコック中将とウランフ中将の活躍で盛り返して痛み分けに持ち込んだ。今回はホーランドはビュコック中将配下の分艦隊司令官で、ドーソン中将が代わりに第一一艦隊を指揮している。展開がさっぱり読めない。
「実戦経験が乏しいというのは、不安材料にはなりませんか?」
「ドーソン提督の愛弟子なのに、ずいぶんはっきり言うね」
「小官はドーソン閣下から事実を見据える態度を学びました。問題点を問題点と指摘しなければ、閣下からお叱りを受けます」
「なるほどね」
チュン大佐は俺の言葉に感心しているが、これは口からでまかせだ。ドーソン中将が自分の実戦経験の乏しさを問題視しているのは事実である。だからこそ、必死で艦隊のパフォーマンス向上に取り組んだ。すべてを自分で取り仕切ったのも、欠点を自覚して用心を重ねたからだろう。しかし、気が小さいものだから、自分では認めている欠点でも、他人から指摘されると腹を立ててしまう。
「全部、ご自分で仕切ろうとなさるのも不安です。司令部の雰囲気が悪すぎるなあって」
確かにドーソン中将は司令官としても有能だった。短期間で艦隊のパフォーマンスを飛躍的に向上させ、演習でもなかなかの指揮ぶりを見せた。第一一艦隊の動きは、録画映像で見たウランフ中将の第九艦隊にもひけを取らなかった。違う人が同じようなことをしたら、第一一艦隊の活躍を確信したと思う。しかし、ドーソン中将は俺と同じ小心者だ。平時では手際が良くても、戦場ではどうなるかわからない。能力と実績を兼ね備えたロボス元帥が昨年のイゼルローン遠征でラインハルトに手玉に取られたところを見ているだけに、不安になってしまう。
「そんな司令官、珍しくもないよ」
「そうなんですか?」
意外な言葉に驚く。司令官ってロボス元帥のように参謀に策を練らせて、自分は指揮に専念するのが普通だと思っていた。
「参謀より司令官の方が階級が高いだろう?」
「ええ、まあ」
「階級って業務経験と比例するからね。自分より業務をわかってない参謀の言うことを聞きたがらない司令官も多いのさ」
「ああ、確かに小官がドーソン閣下だったら、小官みたいな参謀の言うことは聞きたくないかもしれません」
「実際、それでうまくやっている司令官もいるね。第二艦隊司令官のパエッタ提督とか」
「ということは、パエッタ中将のような活躍を期待してもいいんでしょうか!?」
興奮のあまり、声がうわずってしまう。第二艦隊司令官パエッタ中将は同盟軍屈指の戦術家だ。二度にわたって正規艦隊の参謀長を務めるなど、参謀業務にも豊富な経験を持っている。前の歴史ではヤン・ウェンリーを用いなかったことで評価を落としたが、天才ラインハルト以外の提督相手に遅れを取ったことはなく、今の名将という評価に誤りはないだろう。そんな人物とドーソン中将のスタイルが同じというのは希望が持てる。
「気が早いね、そんなに焦らなくてもパンは無くならないよ」
いつの間にか、チュン大佐の注文したサンドイッチがテーブルに置かれていた。
「いや、すいません。なんか嬉しくなってしまって」
「それにしても、君は面白いな」
あなたに言われたくないと内心で突っ込む。俺ってかなりつまらない奴だぞ。真面目だけがとりえで、趣味も少ない。生活ぶりだって地味なものだ。トリューニヒトみたいに話題が豊富なわけでもなく、チュン大佐みたいな天然でもない。
「小官ほどつまらない人間はそうそういないですよ」
「ドーソン提督の実戦経験不足が不安だとか、自分が司令官だったら自分のような参謀の言うことは聞かないとか、そんな話を他派閥の私にストレートに言うところが面白い。そして、私がストレートに答えたくなってしまうのも面白い」
「それって面白いんでしょうか?」
チュン大佐が何を面白いと感じているのか、さっぱりわからない。彼の考えることなんて、俺には何一つわからないけど。
「パフェは好きかい?」
「はい、好きですが」
「これはどうかな。新メニューの桃のパフェ」
「おいしそうですね」
「食べてみるかい?おごるよ」
「ありがとうございます!」
「礼には及ばないよ。こちらこそ礼を言いたいぐらいさ。君が出兵中に書く分析書に私の意見を盛り込んでくれたお礼」
やられた、と思った。ていうか、おごられなくても、頼まれたら引き受けるつもりになっている。参謀達がドーソン中将に抱いている不満が収まるなら、俺の分析書に彼らの意見を書き加えるぐらいどうってことはない。最近は作戦参謀や情報参謀にも頼まれるようになった。それでも、チュン大佐のペースに巻き込まれてしまったことがちょっと悔しくなるのだ。
二月一八日。同盟軍の第五艦隊、第九艦隊、第一一艦隊はティアマト星系に展開した。総兵力は三万三九〇〇隻。対する帝国軍は三万五四〇〇隻。同盟軍の総司令官ロボス元帥は後方に控えて、第四艦隊と第六艦隊の到着を待っている。財政規律堅持を理由とする進歩党の反対で補正予算案の可決が遅れ、第四艦隊と第六艦隊の動員が遅れたためだった。
第一一艦隊司令官ドーソン中将は、旗艦ヴァントーズの司令室で第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将及び第九艦隊司令官ウランフ中将と通信回線を開いて最後の打ち合わせを行っていた。
「では、総司令官が到着するまでは、先任たるわしが指揮をとるということで良いかな?」
「異存はありません」
「間断なく小規模攻撃を仕掛けて主導権を確保しつつ、第四艦隊と第六艦隊が到着するまで前線を維持する。ウランフ中将、ドーソン中将、よろしく頼むぞ」
「承知しました」
ドーソン中将はビュコック中将に敬礼をする。強い反骨精神の持ち主でシトレ派に属するビュコック中将と、権威主義者でトリューニヒト派に属するドーソン中将の仲は決して良いとはいえない。しかし、二人とも私情を任務に優先させるような人間ではなかった。
統合作戦本部の参謀チームは第六次イゼルローン攻防戦の戦闘分析から、数千隻規模の奇襲戦術における帝国軍の技量を極めて高いものと判断。いくつもの対策を練り上げて全軍に周知した。間断ない小規模攻撃で主導権を握り続けるというのも奇襲対策の一つである。前の歴史では第一一艦隊の暴走で足並みが乱れてラインハルトの奇襲を許したが、今回は三個艦隊の司令官が協力態勢を築いている。付け入る隙を見つけるのは難しいはずだ。
「砲撃開始!」
ドーソン中将の合図とともに数千本の光条が虚空を切り裂き、第一一艦隊は他の二艦隊とともにゆっくりと前進を開始した。メインスクリーンには砲撃しながら前進してくる敵艦隊が映っている。汗がにじんでいる拳を強く握りしめた。第三次ティアマト会戦の幕開けである。