銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第七十八話:悪夢の一つの終着点 宇宙暦796年8月13日 惑星ハイネセン、ホテル・カプリコーン

 俺がホテル・カプリコーンのレストランに着いたのは、待ち合わせ時間の一時間前だった。まだダーシャは来ていない。彼女はいつも時間ギリギリに来るのだ。

 

 テーブルについて周囲を見回すと、前にアンドリューと来た時より賑わっている。客の八割は軍服姿だ。帝国領出兵を控えた現在、各地の部隊から遠征軍に編入されてハイネセン入りした軍人の多くが国防委員会の近くにあるこのホテルに滞在しているからだろう。

 

 暇潰しをしようと思って、バッグから本を取り出す。出てきたのは『憂国騎士団の真実―共和国の黒い霧』。退役軍人が多く参加している暴力的極右組織「憂国騎士団」について書かれたノンフィクションだ。こんな場所で読んでいい本ではない。慌ててバッグの中に戻し、代わりにウォリス・ウォーリック元帥の伝記『男爵ウォリス・ウォーリック』を取り出した。

 

 同盟軍史上最高の用兵家ブルース・アッシュビー元帥の盟友として知られるウォリス・ウォーリック元帥は、俺と同じ惑星パラスの出身だった。しかも、俺と同じ二八歳で准将に昇進している。パラスの一部メディアは俺のことを「ウォーリック元帥の再来」と呼んでいるそうだ。多芸多才なところが似ているそうだが、それは過大評価というものだろう。それはともかく、最近の俺は郷里の英雄を意識せずにはいられなかった。

 

 勉強、運動、課外活動の全てにおいて万年二位に終わったミドルスクール時代のウォーリック元帥が「所詮、俺は器用貧乏」と自嘲していたという記述に、「全然俺と似てないじゃないか」と憤慨したところで、俺を呼ぶダーシャの声が聞こえた。

 

 振り向くと、手を振りながら近づいてくるダーシャの後を知らない人物が付いてくるのが見える。細身で小顔で手足が長いシルエットには見覚えがある。先日、統合作戦本部のカフェルームでダーシャといちゃついてた奴だ。

 

 なんであんな奴を連れてくるんだ。俺には愛想が尽きたってことなんだろうか。俺のことを可愛いって言ってたダーシャでも、やっぱり背が高い男の方が好きなんだろうか。別れ話のために半ば同棲している俺をわざわざここまで呼び出したんだろうか。考えれば考えるほど、悪い方向に考えてしまう。

 

 二人から目を逸らして、レストランの中のデザートコーナーを見て現実逃避をする。今月のジェラートは、ナシのジェラートらしい。カプリコーンのジェラートだから、甘さは抑えめにして、爽やかな風味を前面に押し出してくるに違いない。早く食べたい。

 

「エリヤ?どこ見てるの?」

 

 テーブルの向かい側から聞こえてくるダーシャの声で現実に引き戻される。いつの間にか、ダーシャと知らない奴は俺の向かいに座っていたようだ。恐る恐る視線を二人の方に向ける。

 

 ニコニコしているダーシャの隣にいたのは、恥ずかしそうにうつむいている女の子だった。軍用ベレーの下にはふわっとした短い髪の毛。肌は白く、顔の輪郭はきれいな卵型。目はぱっちりとしていて、まつげは長い。鼻はまっすぐに筋が通っていて、唇は薄い。ドーソン中将の副官だったユリエ・ハラボフ大尉をだいぶ幼くした感じで、一〇代後半に見える。

 

 この顔には見覚えがあった。ネットにおいて第八強襲空挺連隊四大美人の一人に数えられる「天使」である。カプラン大尉から見せられた画像はあまり画質が良くなかったが、それでも見間違えようがない。イレーシュ大佐と第八強襲空挺連隊の話題をしたその日のうちに出会うとは恐ろしい偶然であった。ダーシャと一緒にいるということは、もしかして彼女があの「陸戦部隊の子」なのだろうか。

 

「ダーシャ、この子がいつも言ってた陸戦部隊の子?」

「そうだよ」

 

 ダーシャの友人である陸戦部隊の子は俺の熱烈なファンだった。俺を「爽やかすぎて嘘くさい」と嫌っていたダーシャをファンにしてしまった。彼女のおかげで、ダーシャと俺は出会うことができた。高級店のマフィンを貰ったこともある。一度も会ったことがなかったとはいえ、足を向けて寝れないほど世話になっていた。そんな子が第八強襲空挺連隊の天使だったという事実は衝撃的だった。

 

 陸戦部隊の子は一言も発しようとせずにうつむいたままだ。俺もびっくりしていて、何を話せばいいかわからない。こういう時はダーシャが何か言って緊張をほぐすものと決まっているのに、何も言わずに笑顔で俺と陸戦部隊の子を見比べている。

 

「ちょっと席外すね」

 

 二、三分ほど俺と陸戦部隊の子の間で続いた膠着状態を打ち破ったのは、ダーシャだった。

 

「ど、どうしたの?」

「用事」

「どうしても行かなきゃいけない用事なの?」

「うん」

「本当に?」

 

 今、ダーシャがいなくなってしまったら、俺は陸戦部隊の子と二人きりになってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。

 

「本当」

 

 そっけなく返事をすると、ダーシャは立ち上がった。

 

「ダ、ダーシャちゃん、ちょっと…」

 

 陸戦部隊の子が初めて声を発した。真面目な人柄が伝わってくるような声だ。顔を上げ、すがるような目でダーシャを見詰めている。

 

「頑張って、アルマちゃん」

 

 ダーシャはにっこり微笑むと、陸戦部隊の子の肩をポンと叩いた。

 

 妹と同じ名前を聞いて、少し嫌な気分になってしまう。もちろん、目の前の女性と妹は全く似ていない。喋り方はもたもたしていないし、太ってもいないし、愚鈍とは程遠そうだ。目の前にいるのは妹とは別人だと自分に言い聞かせる。

 

「ありがとう、ダーシャちゃん」

 

 天使の二つ名にふさわしい笑顔で陸戦部隊の子が応じると、ダーシャは満足そうにうなずいて席から離れていった。

 

 これで俺と陸戦部隊の子は二人きりになってしまった。緊張している相手と二人きりでいるのはきつい。目の前の人間が緊張していると、小心者の俺はつられて緊張してしまうのだ。

 

 陸戦部隊の子から話しかけてくる可能性が低い以上、俺から話しかけなければ、緊張状態を終わらせることはできない。話題を探そうと思って、陸戦部隊の子をじっくり観察する。彼女の容貌を話題にするわけではない。軍人の経歴は、階級章、勲章、徽章を見ればある程度わかるようになっている。そこから会話の糸口を探す。

 

 まずは首元に注目する。階級章は中尉。外見から伍長か軍曹と踏んでいたのに、意外と階級が高い。

 

 彼女は五年前のエル・ファシル地上戦に参加している。士官学校卒業者であれば二五歳以上のはずだ。その年で中尉というのは昇進が遅い。しかし、第八強襲空挺連隊に配属される者は平均より昇進が速い。彼女が士官学校卒業者である可能性は低い。

 

 専科学校を卒業してすぐにエル・ファシル地上戦に参加した場合は二三歳だが、さすがにそれはないと思う。五年で五階級も駆け上がるなんて、ローゼンリッターのカスパー・リンツやライナー・ブルームハルトのような例外中の例外ぐらいである。

 

 専科学校卒で俺やダーシャと同年代と考えるのが妥当だろう。専科学校を出た下士官あがりの中尉であれば、よほど優秀でも二七、八歳ぐらいが相場だった。陸戦部隊の子はそれより一〇歳は若く見えるが、世の中には俺やヤン・ウェンリーのように極端に若く見える人間だっている。

 

 次に注目すべきは胸元だ。どのような徽章が軍服の胸元に付いているかによって、その人物の勤務歴、従軍歴、表彰歴、所持資格などが一目でわかるようになっている。徽章の数は一般的に軍務経験と比例する。軍歴が一〇年そこそこの若手士官より、軍歴三〇年のベテラン下士官の方が多くの徽章を付けているのである。

 

 俺自身を例にあげると、二〇代後半の士官の平均よりかなり多い徽章を付けている。豊富な表彰歴と所持資格のおかげだ。手前味噌ではあるが、徽章の数が「エリヤ・フィリップスは勤務歴が浅いわりに経験豊富」と教えてくれる。

 

 陸戦部隊の子が付けている徽章の数はとんでもなく多かった。従軍章を見れば、彼女がこの数年間の主な地上戦にほぼ参加していることがわかる。記念章の数は彼女が多種多様な任務で表彰に値する実績をあげたことを示す。取得している技能章の数からは、努力で何とかできることは全部努力で何とかしてしまう気質が伺える。

 

 一般部隊でこれだけの数の徽章を持っているのは、四〇代や五〇代のベテランぐらいだ。二〇代でこれだけ取得しているというのは、第八強襲空挺連隊のような精鋭部隊であっても珍しいと思う。とんでもない若作りで実は三〇代という可能性もあるが、その年齢でも一流で通用するキャリアだろう。

 

 色とりどりの徽章に比べ、着用している勲章の略綬は地味なものだ。上位の戦功勲章は国防功労章一つ。従軍歴のわりに大きな武勲は少ない。名誉戦傷章三つは注目に値する。

 

 軍事行動中に死傷した軍人に授けられる名誉戦傷章は、勲章としての格こそ俺の胸に光っている自由戦士勲章やハイネセン記念特別勲功大章に劣る。しかし、戦場において、生死の境を乗り越えた者にしか与えられないがゆえに、特別な価値を持っている。何個も名誉戦傷章を持っている者は、勇者の中の勇者として尊敬された。

 

 勇敢で努力家、若いながらもベテランに匹敵する経験量を持ち、個人の武勲よりチームプレイを優先する。陸戦部隊の子はそんな軍人であるようだ。それに加えてネットで天使と呼ばれるような容姿。アルマという名前のおかげで辛うじて完璧超人であることを免れている。写真と経歴を見せられたら、出来の悪い娯楽小説の作者が考えたんじゃないかと誰もが思うに違いない。

 

 これで陸戦部隊の子のキャリアはほぼ掴めた。それに沿った会話をしていけば、お互い緊張せずに済む。

 

「はじめまして、中尉」

 

 優しげな笑顔を作って挨拶をした。管理職になって何年もたつと、自分の笑顔の見せ方もわかってくる。一〇種類の笑顔を使い分けられるダーシャには及ばないが、今の俺は場所と相手に応じた笑顔を作れるようになっていた。

 

「えっ…?」

 

 顔を上げた陸戦部隊の子は驚きの表情を浮かべた後、傷ついたような顔になった。何がまずかったんだろうか。いずれにせよ、気まずい空気が流れていることは確かだ。何とかしなければいけない。

 

「エル・ファシルの地上戦で頑張ったんだってね。ダーシャから聞いたよ」

 

 軍人の自尊心をくすぐるには、過去の活躍を褒めるのが一番だ。五年前のエル・ファシル地上戦のような過酷な戦場を生き残った経験は、大抵の軍人にとっては輝かしい栄光となる。過酷すぎて思い出したくないという者もいることはいるが、そういう者は軍を去ってしまう。

 

「あ、いや、おに…、エル・ファシル義勇旅団の活躍に比べたら大したこと、ないです」

 

 いきなり義勇旅団の話に持っていかれるとは思わなかった。まったく戦場に出なかったにも関わらず、政治的な事情から活躍したということにされてしまった義勇旅団は俺の軍歴の中で一番の汚点なのだ。どうにかして、陸戦部隊の子の話に持っていかなければいけない。

 

「軍人が命を張って戦ったんだ。大したことだよ、それは。華々しい武勲を立てるだけが活躍じゃない。部隊の一員として、見えないところでコツコツ頑張るのも立派な活躍なんだ」

「任官して右も左もわからないうちに、怪我して帰っただけです」

 

 専科学校卒業者は一八歳で伍長に任官する。つまり、任官してすぐにエル・ファシル地上戦に参加した彼女は現在二三歳ということになる。有能だがまだまだ未熟な副官のシェリル・コレット大尉と同い年だ。妹とも同い年だが、それはどうでもいい。彼女は専科学校卒の尉官としては、異例なほどに若い。しょっぱなから推測を外してしまった。

 

「ってことは、最初の戦傷章はエル・ファシル地上戦で貰ったの?」

「はい」

「どの戦い?」

 

 勲章の由来を聞かれて喜ばない軍人はいない。名誉戦傷章のような誇るべき勲章であればなおさらだ。だから、俺は新しい部署に異動するたびに、上官や同僚の持っている勲章の由来を調べて、会話のネタに使っていた。

 

「ニヤラです」

「ああ、ニヤラか」

 

 ニヤラ攻防戦はエル・ファシル地上戦の中でも群を抜いた激戦だった。エル・ファシル地上戦を地獄とすると、ニヤラは地獄の最下層ということになる。。

 

「第八六機動歩兵連隊にいました」

 

 その名前を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。説明を聞く必要などなかった。

 

 第八六機動歩兵連隊はニヤラ攻防戦において二一〇六人中一七五四人が死亡、生存者三五二人全員が重傷という破滅的な損害と引き換えに、戦線崩壊を防いだ部隊だった。同盟軍は戦死者全員に二階級特進と国防功労章授与、生存者全員に一階級昇進という破格の待遇をもって、この部隊の功績に報いている。目の前にいる女の子は、作られた英雄の俺とは違う本物の英雄だった。

 

「そうか、君はあの部隊の生き残りだったのか」

「この出血じゃ助からないと思って自決しようとしたら、握力が無くなっててハンドブラスター掴めなかったんですよ」

「君は凄いな」

 

 芸の無い言葉であるが、凄いとしか言いようがなかった。初めて参加した戦場で所属部隊の八割が戦死して、自決を決断したという凄絶な経験をした相手に対して、言葉を飾るなんてできない。

 

「それだって凄いじゃないですか」

 

 陸戦部隊の子は俺の胸に付いている唯一の戦傷章の略綬を指差した。ヴァンフリート四=二基地攻防戦で獲得したものだ。

 

「一方的に敵に殴られて、運良く助かったおかげで貰えたんだよ。君みたいに勇敢に戦ったわけじゃない」

 

 あの戦いで俺はラインハルトに対して先制するチャンスがあったにも関わらず、声をかけるというミスを犯して殺されかけた。何一ついいところがなかったが、生き残ったおかげで名誉戦傷章を手に入れた。軍歴の大半をオフィスで過ごした俺が唯一持っている名誉戦傷章であるが、第八六機動歩兵連隊の生き残りの前では、誇るのが恥ずかしくなってしまう。

 

「身を挺してセレブレッゼ中将を救出なさったんですよね。私よりずっと凄いですよ」

 

 陸戦部隊の子の純粋な憧憬の視線に痛みを覚えずにはいられない。明らかに自分より凄い相手に凄いと言われるのは辛いものかと思う。かつての俺がユリエ・ハラボフに味あわせた辛さを、彼女と顔が似た子に実感させられるというのも皮肉な話だった。

 

「ところで任官してすぐエル・ファシル地上戦に参加したってことは、今年で二三歳になるのかな?」

 

 無理やり話題を変えるつもりで質問すると、陸戦部隊の子はまた傷ついたような表情になった。

 その年で中尉になるなんて凄いという方向に話を持って行こうとしたのに、しくじってしまった。彼女のように生真面目な人なら、若くして中尉に昇進した自分を誇るより、早すぎる昇進にプレッシャーを感じるのが自然だ。自分が持ち上げられるのを避けようとしすぎて、当たり前のことを見落としてしまった。

 

「に、二三、です」

 

 どうしたものか考えていると、陸戦部隊の子は震える声でそう答えた。肩をがっくり落として、今にも泣き出しそうな表情になっている。顔だけじゃなくて、生真面目過ぎてプレッシャーに弱い性格までユリエ・ハラボフに似ている。もしかしたら姉妹なのかもしれない。うっかり姓を聞きそびれたが、知らないままで良かった。

 

「俺が中尉になったのも二三だったよ。あの時の俺と比べると、君は…」

 

 ずっと軍人として優秀だ。そう言いかけてやめた。

 

 俺が中尉に昇進できたのは、エル・ファシル義勇旅団という茶番のおかげであって、実力によるものではない。少尉に任官できたのは学力のおかげ。俺が軍人としてまともな仕事をするようになったのは、大尉になって以降だった。

 

 一方、陸戦部隊の子は一八歳で伍長に任官してから、実力で中尉まで昇進している。持っている徽章の数を見ても、二三歳の時の俺よりずっと優秀なのは明らかだ。

 

 しかし、エル・ファシルの真実を知らない彼女から見れば、俺は本物の英雄に見えるはずである。俺が自分のことを卑下したら、彼女の中の英雄像を裏切ってしまう。

 

 この世には、自分より凄いと思った人を仰ぎ見ることで安心できる人がいる。ユリエ・ハラボフがそうだった。俺が仰ぎ見られるにふさわしい存在かどうかは置いといて、そうしたいと思う相手にわざわざ自分は英雄じゃないと言ってやる必要はない。比較するなら、等身大と思える相手と比較してやるべきだ。

 

「俺の副官のコレット大尉も君と同じ二三歳なんだ。とても優秀な子でね。経験を積めば、二〇年後には提督や参謀長になれると思ってる」

 

 これはコレット大尉本人の前でも言ったことがない本音。コレット大尉は士官学校の成績こそ良くないが、頭はとても良い。その上、かなりの努力家である。いずれは将官も目指せる。いや、目指させなければいけない。それが管理職の務めというものだ。

 

「俺は今年の春に初めて自分のチームを作った。一〇年後、二〇年後に俺がもっと大きな権限を持った時のことを考えて、一緒に成長していきたいメンバーを選んだ。彼らにはいずれ、将官として俺を支えてくれることを期待してる」

 

 参謀陣の中で最も年長のリリー・レトガー中佐もまだ三〇代。将官に昇進していれば、二〇年後も現役である。俺が大将や中将になった時、参謀陣の年長者は将官まで昇進していることだろう。分艦隊や戦隊を率いる者も出てくる。コレット大尉、ニールセン少佐、メッサースミス大尉のような若手は最低でも大佐に昇進して、主任参謀を務める年頃だ。

 

「でも、今のメンバーで完全ってわけじゃない。俺のチームはまだできたばかりだからね。まだまだ欠けている人材は多い。君のような陸戦の専門家とかね」

 

 陸戦部隊の子のぱっちりした目には、驚愕の色が浮かんでいた。傷ついた様子はもう見られない。他人に憧れて仰ぎ見ることで安心できる人なら、今の言葉は魅力的に感じるはずだ。

 

「俺が大艦隊を率いるようになった時、君が将官として艦隊陸戦隊を率いる。そんな未来だってあるかもしれない」

「そんな、私には将官なんてとても」

「君が将官になってくれなかったら、俺の陸戦隊の総指揮を任せることもできないよ?」

 

 陸戦部隊の子を持ち上げるためにとっさに思いついた言葉だったが、口に出してみると案外良いアイディアのように思えた。

 

 俺の知り合いには陸戦のプロがあまりいない。ローゼンリッターのシェーンコップやリンツは、アクが強すぎて扱いきれる自信がない。目の前の女性は始末に困るぐらい素直で生真面目だ。能力的にも申し分ない。部下にするなら、ひねくれ者の天才より、素直な秀才の方が好ましい。

 

「私を認めてくれるってことですか?」

「そうだよ、認めてる」

「本当に?」

「本当だよ。君は立派な軍人だ」

 

 俺がそう言った瞬間、陸戦部隊の子の両目から涙がぼろぼろこぼれだした。いったいどうしたんだろうか。そんなに感動するような言葉でもないだろうに。ともかく、人目のある場所で泣かれるのは困る。

 

「泣くことないじゃないか。せっかくの美人が台無しだよ」

 

 俺がそう言っても、彼女は一向に泣き止む気配がない。妹のように歪み過ぎているのは論外だが、彼女のように素直すぎるのも困ると思った。

 

「まいったなあ」

 

 女の子に泣かれるというのは本当に落ち着かない。周囲の客も何事かと俺達を見ている。こういう時はどうすればいいんだろうか。ダーシャならうまく切り抜けられるだろうに。いったい何をしてるんだろうか。

 

「良かったな」

 

 背中越しに聞き覚えのある太い声がした。その瞬間、陸戦部隊の子はぴたっと泣き止んで立ち上がった。

 

「教官殿!見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした!」

 

 陸戦部隊の子が直立不動で敬礼した相手はクリスチアン大佐。その横にいるのはダーシャ。

 

 なぜ、この二人がここにいるのか。陸戦部隊の子とクリスチアン大佐はどういう関係なのか。ただでさえ良くない俺の頭は、謎の組み合わせにすっかり混乱している。

 

「フィリップス中尉、貴官でも泣くことがあるのだな。面白いものを見せてもらった」

 

 笑いながら敬礼を返したクリスチアン大佐の言葉で、陸戦部隊の子の姓がフィリップスであることを知った。つまり俺と同姓で、妹と同じ名前。聡明で生真面目な彼女と、愚鈍でだらしない妹が同姓同名だなんて、冗談にしてはきつすぎる。

 

「ああ、もう。アルマちゃんは可愛いなあ」

 

 ダーシャはアルマ・フィリップス中尉のベレーをひょいと取ると、ふわふわした髪の毛をくしゃくしゃっとした。フィリップス中尉は顔を真っ赤にしている。こんなに可愛らしい子と、憎々しい面構えの妹が同姓同名だなんて嘘に決まっている。

 

「お兄ちゃんと話せる日が来るなんて思わなかった。ありがと、ダーシャちゃん」

 

 アルマ・フィリップス中尉はクリスチアン大佐を「教官殿」と呼んだ。つまり、「お兄ちゃん」とは俺のことだ。つまり、アルマ・フィリップス中尉は俺の妹である。

 

 俺が徴兵される前のアルマは、怠け者で勉強も運動も大嫌い。いつも居間のソファーで横になってマフィンを食べてて、ぶくぶくに太っていた。喋り方はもたもたしていて、体の動きは一人だけスロー再生されてるかのように緩慢だった。人並み以上なのは身長と体重ぐらい。一人では何もできなくて、いつも俺に甘えきっていた。

 

 俺が捕虜収容所から戻ると、アルマは悪意の塊のような存在に変貌していた。逃亡者の汚名を背負った俺を人間と認めずに「生ごみ」と呼び、俺が触った場所に消毒スプレーをかけ、俺の持ち物を「ごみだから」と言って勝手に捨てた。せっかく作ったアップルパイを目の前で捨てられたこともある。病的なまでに太って目を血走らせ、耳障りな甲高い声で怒鳴り散らす妹の姿は、俺にとって悪夢そのものだった。

 

 俺が今の人生で最後に会った時のアルマは、徴兵される前とまったく同じ甘えん坊でだらしないアルマだった。それが前の人生の悪意に満ちた姿と重なって見えることに耐え切れなくなって、一切の連絡を絶った。メールが来るたびに着信拒否した。

 

 しかし、目の前にいるアルマ・フィリップス中尉は生真面目な秀才で、怠け者の甘えん坊でもなければ、悪意の化身でもない。すらっとした細身の体には、ひとかけらの贅肉も付いていないように思える。聡明そうな童顔は愚鈍とはほど遠い。エリート部隊の最若手士官と、時給八ディナールのハンバーガーショップのアルバイトすらクビになるほど無能なフリーターが同一人物とは信じられない。

 

 俺が混乱している間にダーシャとクリスチアン大佐は席についている。

 

「エリヤとアルマちゃんが一緒にいるの初めて見たけど、やっぱ兄妹だね。似てるよ」

 

 アルマの隣に座ったダーシャはしみじみと言った。

 

 俺とアルマと似ているなんてことはありえない。前の人生の俺は馬鹿で怠け者だったが、さすがにアルマほどひどくはなかった。目の前のフィリップス中尉は俺なんかよりずっと立派で、似ているはずがない。

 

「ブレツェリ大佐、内面というのは外見ににじみ出るものなのだぞ」

「ああ、確かに二人ともまっすぐな性格ですよね。不器用でほっとけないところもそっくりです」

 

 俺の隣りに座ったクリスチアン大佐の言葉に、ダーシャは目を輝かせて同意する。

 

「ごめんダーシャ、何がどうなってるかさっぱりわからない。説明してくれる」

 

 俺を置いてけぼりにして、ダーシャ、クリスチアン大佐、アルマ・フィリップス中尉の三人だけで話を進められてはたまらない。

 

「何がわからないの?」

「俺の記憶の中のアルマと、目の前のアルマが全然違うから混乱してるんだ。ダーシャとクリスチアン大佐が来るまで、妹だと気づかなかった」

 

 俺がダーシャにそう言うと、アルマ・フィリップス中尉は寂しげに微笑んだ。

 

「そういうことだったんだね。妙に他人行儀で年齢まで聞いてくるから、他人扱いされるほど嫌われてしまったと思って、がっかりしてたんだよ。気づかれてないというのも複雑な気分だけど」

 

 何度も傷ついたような表情をしていた理由がようやく分かった。肉親に他人のような態度を取られたら、傷つきやすい性格でなくても傷つく。

 

「ごめんね、本当に気づかなかったんだ。気づいてたら、あんな態度は取らなかったよ」

「いや、悪いのは私だよ。八年ぶりだもんね。お兄ちゃんも私も変わったから」

 

 昔のアルマは自分に非があっても、ぐずぐず言い訳ばかりで謝ろうとしなかった。今のアルマは俺の非礼をあっさり水に流して、自分の非だけを認めた。年配者であってもなかなかできることではない。

 

「うん、本当に変わった。今のアルマはとてもしっかりした奴だよ。昔と全然違う」

 

 寂しげだったアルマの表情は、俺の言葉で一瞬にして明るくなった。そんなにストレートに喜ばれると、もっと褒めたくなってしまう。六八年ぶりにアルマを可愛いと思った。

 

「俺の知らない八年間にアルマがどう生きてきたか、聞かせてくれる?」

「いいよ。お兄ちゃんに聞いて欲しくて頑張ってきたんだから」

 

 とびきりの笑顔で答えるアルマを、ダーシャとクリスチアン大佐は誇らしげに見ている。この二人はアルマの八年間を知っていたのだろう。俺が最も信頼するこの二人が誇らしく思うアルマの物語に、俺は耳を傾けた。

 

 八年前のアルマは、甘えん坊で人に頼りきりな自分に不満を感じていた。そして、自分を鍛え直すには軍隊に入るしかないと思い、陸戦専科学校を受験する。当時のアルマの学力は、専科学校の合格ラインには到底届かないものであったにも関わらず、エル・ファシルの英雄の妹ということで入学が認められてしまった。

 

 自立したくて軍人を志したにも関わらず、俺の七光で専科学校に入れたことにアルマはショックを受けた。そんな時、広報室から陸戦専科学校の教官に転任してきたクリスチアン大佐から、俺が幹部候補生養成所を受験するという話を聞かされて、「兄が前に進もうとしているのに、落ち込んでいる場合じゃない」と奮起した。入学当初は最下位だったアルマは徐々に成績を上げていき、四位の成績で卒業すると、第八六機動歩兵連隊に配属されて、エル・ファシルの地上戦に参加する。

 

 カヤラ攻防戦で重傷を負ったアルマは、病室に設置された立体テレビの中で英雄として紹介される俺の姿を励みに療養していたそうだ。クリスチアン大佐から俺のアドレスを聞き出して、三年ぶりにメールを送ったのもこの時だった。

 

 あの頃の俺はまったく戦闘に参加していないのに、政治的な理由で英雄扱いされてイライラしていた。前の人生のアルマに対する不快な記憶もあって、メールを即座に着信拒否してしまった。知らなかったとはいえ、あまりに冷たすぎる仕打ちとしか言いようがない。俺がアルマだったら、絶望していたことだろう。しかし、アルマは着信拒否を「自分なんかに頼るな。早く独り立ちしろ」というメッセージと勘違いした。

 

 退院後のアルマは「英雄の妹ということで贔屓されたら、エリヤに迷惑がかかる」という理由で俺の妹であるということを隠し、自分から連絡しようというクリスチアン大佐の申し出も断り、ますます軍務に励むようになった。重傷を負って入院するたびに心細くなり、俺の励ましを受けようとメールを送っては着信拒否されて、「自分はまだまだ弱い。もっと強くならないと」と思ったそうだ。

 

 アルマがダーシャと出会ったのは、ヴァンフリート四=二基地攻防戦の一年前だった。アルマの説明によると唐突に、ダーシャの説明によると必然的に、二人は仲良くなっていった。要するにアルマを一方的に気に入ったダーシャが強引に距離を詰めていったのだろう。アルマは親友になったダーシャに、自分がエル・ファシルの英雄の妹ということも明かした。

 

「アルマちゃんみたいな健気な子が大好きなお兄ちゃんって、どんな人なんだろうって思ったんだよね。それがエリヤに興味持ったきっかけだったの」

 

 ダーシャが俺に興味を持った本当の理由も初めて分かった。すべてはアルマから始まったのだ。

 

 アルマがクリスチアン大佐やダーシャを通して俺と連絡を取ろうとしなかったのは、「人の力を借りて連絡を取ったら、甘えてると思われる」という理由だった。自力で連絡を取って、初めて認めてもらえると思ったのだろう。二人ともアルマの気持ちに理解を示して見守ってきたが、俺が結婚することになっても連絡が途絶えたままでいるのは良くないと判断して、俺にもアルマにも内緒で今日の席を設けたのだそうだ。

 

「結局、ダーシャちゃんと教官の好意に甘えちゃったけど、それでもお兄ちゃんに会えて良かった」

「甘えるもなにも…」

 

 俺は「甘えるな」とは言っていない。そもそも、かつてのアルマの甘えん坊ぶりを不快に思っていたわけでもない。

 

「お兄ちゃんが甘えた空気が嫌いなの、昔は気づかなかったんだ。父さんも母さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんができない子だと決めつけて、世話を焼き過ぎたんじゃないかって反省してた」

「甘えた空気が嫌い?」

「軍隊に入ってからのお兄ちゃんの活躍を見て、やっとわかったんだよ。お兄ちゃんが不正や甘えを嫌う人だってことに気づかずに腐らせちゃったのは、私達家族だった」

 

 家族は俺に対して、変な勘違いをしているらしい。俺は実際にできない子だったし、世話を焼いてくれる家族はありがたいと思っていた。前の人生の記憶さえ無かったら、躊躇なく実家に戻って家族の世話になっていたはずだ。

 

「そんなことないよ」

「じゃあ、なんで出てってから一度も連絡しなかったの?」

 

 前の人生で酷い目にあったからとは言えない。今の人生で俺が家族を避ける理由なんて、俺以外には全く理解できないだろう。家族が避けられてる理由を必死で考えて、間違った結論に達してしまうのはむしろ当然といえる。

 

 アルマが俺の拒絶を「甘えるな」というメッセージと受け取ったのも、存在しない理由を必死で探したせいかもしれない。仲の良かった兄が理由も告げずに家を出て行って、一度も連絡をしてこない。療養中に励まして欲しくてメールを送ったら着信拒否。アルマは自分なりに理不尽な拒絶について納得しようとしたのではないか。俺の拒絶を「独り立ちしろ」というメッセージと思っている間は、関係修復の希望を抱ける。

 

 認めなければいけない。今の人生のアルマと、前の人生のアルマは違う。今のアルマは俺の理不尽な拒絶にもめげずに、関係修復の日を夢見て頑張り続けた健気な女の子だった。悪いのは前の人生の記憶を引きずって、理由もなく家族を拒絶した俺だ。

 

「ごめんね、アルマ。全部、俺の問題だ。アルマは何も悪くない」

 

 謝った俺にアルマは初めて笑顔を見せた。子供のような無邪気な笑顔に、甘えん坊だった頃の面影が残っていた。

 

「エリヤもアルマちゃんも意地っ張りだからねー。本当に世話が焼けるよ。ま、そこが可愛いんだけど」

「似すぎていると、行き違いも多くなるのだろう。二人とも単純で正直だからな。一度こうと決めたら、テコでも動かせん。そういう奴でないと、いざという時には役に立たんがな」

 

 ダーシャとクリスチアン大佐もアルマと同じように、俺が意地を張っていたと思っているようだ。彼らは俺の前の人生を知らないのだから、そう思うのは当然といえる。

 

 今の人生に限れば、家族は俺に対して何も悪いことをしなかった。それなのに俺は一方的に拒絶してしまった。怒っても許される立場なのに、家族は自分に非があったんじゃないかと考えて、俺を責めようとはしなかった。彼らは俺が逃亡者になる前の優しい家族のままだった。

 

 アルマは俺を悪者にせずに、断ち切られた縁を繋ごうとひたむきに努力した。ダーシャやクリスチアン大佐は、俺の行動に善意的な解釈をして見守ってくれていた。目の前の三人のひたむきな善意が、前の人生の記憶によって断ち切られた縁を再び繋いだ。このような人達が周囲にいる限り、俺が暗闇に落ちることは決してない。光はずっと俺を照らし続ける。

 

 前の人生と完全に違った妹の姿は、六八年前のエル・ファシルから始まった悪夢の終わりを告げていた。


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