銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第七十九話:父親の願い 宇宙暦796年8月15日~22日 惑星ハイネセン、ニューブリッジ地区及びフリジントン軍港

 妹のアルマと再会した二日後の八月一五日。結婚の挨拶をするために、ダーシャと二人でタクシーに乗って、ハイネセンのニューブリッジ地区にあるジェリコ・ブレツェリ大佐の官舎に向かった。彼は先月から宇宙艦隊総司令部付になり、ハイネセンの官舎に住んでいる。挨拶に行こうと思った時期に、ハイネセンに異動してくれたのは幸いだった。前任地のレサヴィク星系だったら、長期休暇を取らなければ挨拶に行けなかった。

 

 少尉以上の士官は数年おきに転勤するのが一般的だ。広い視野を身につける必要がある士官学校卒のエリートは、一年から三年おきに転勤して多くのポストを経験する。下士官兵からの叩き上げや予備士官出身者も、現場に根を張っている下士官兵と一線を画するために、三年から五年おきに転勤する。

 

 士官の子供に官舎で生まれ育ち、親の転勤と同時に転校する。持ち家に子供と配偶者を置いて単身赴任する者、父母や兄弟姉妹に子供を預ける者もいることはいるが、例外的と言って良い。彼らにとっての実家は、親が現在住んでいる官舎なのだ。

 

 長い間ハイネセンポリスに住んでいる俺であっても、三〇〇〇万の人口を擁する巨大都市の全地区に足を伸ばしたわけではない。ニューブリッジ地区に行くのも今日が初めてだった。

 

 都市計画の都合上、軍人の官舎はひとまとめに作られることが多い。このニューブリッジ地区もそんな官舎街の一つであるようだった。広くてきれいな道、計画的に配置された緑地帯、大きくて立派な公共施設はアッパーミドル層が多く住む新興住宅街といった風情だ。立ち並ぶ一戸建てや集合住宅はどれも手入れが行き届いているように見える。

 

「とても環境のいい街だね。結婚したら、この街の世帯向け官舎に移ってもいいね」

「でも、人通りが少なすぎない?今日は休日なのに」

 

 ダーシャが言うとおり、人通りが全くない。地上車もほとんど走っていない。

 

「もうすぐ出兵だからね。みんな家にいるどころじゃないんだよ、きっと」

「そうかなあ。ちょっと寂しすぎない?」

「気のせいだよ」

 

 隣にはダーシャがいれば、どこにいたって寂しくない。そう言おうと思ったけど、恥ずかしくてやめた。

 

「お客さん、一八丁目公園に着きましたよ」

「どうも」

 

 料金を払って一八丁目公園で降りた俺達は、携帯端末のナビ機能を頼りにジェリコ・ブレツェリ大佐から教えられた住所に向かって歩く。

 

「あれじゃない?」

 

 ダーシャが指差したのは、周囲の家よりもひときわ大きい二階建ての一軒家だった。邸宅といった方がふさわしい大きさで、庭も広々としている。驚くべきことに、プールやテラスまで備わっていた。どう見ても大佐の住むような官舎ではない。いや、准将の俺だってこんな官舎には住めない。

 

「俺達の知らない間に、お父さんが大将に昇進してたなんてことはないよね」

「あるわけないでしょ」

 

 一言で切り捨てると、ダーシャはさっさと玄関に歩いて行った。慌ててついて行く俺。

 

「はじめまして。エリヤ・フィリップス君」

 

 奥から出てきたのはよれよれのTシャツにハーフパンツ、サンダル履きというラフ過ぎる格好の初老の男性だった。白髪混じりの短髪で目は細く、体つきも細身というよりガリガリで見るからに貧相な印象を受ける。彼こそがダーシャの父親であり、この官舎の正式な居住者であるジェリコ・ブレツェリ大佐だった。

 

「どうも、はじめまして」

 

 予想と全く異なる人物像に拍子抜けして、芸のない挨拶になってしまった。悪い印象を与えてしまったかもしれない。

 

 今年で五九歳のブレツェリ大佐はキャリアの大半を辺境で過ごし、補給艦の艦長、支援部隊司令、補給基地司令を歴任した後方支援指揮のベテランである。士官学校を卒業しておらず、補給専科学校を一八歳で卒業して伍長に任官してから、四〇年以上かけて大佐まで昇進した。

 

 専科学校を卒業して伍長に任官した者が大佐になるには、九階級昇進する必要があった。これは士官学校を卒業して少尉に任官した者が大将になるまでの昇進回数と同数である。そのため、専科学校卒業者の大佐は、士官学校卒業者の大将に匹敵する重みがあると言われる。

 

「お父さんは一人も人を殺さないで大佐になったんだよ」

「お父さんの持ってる勲章は、全部災害派遣や治安出動の功績に対して授与されたの」

 

 ダーシャはいつもそう自慢していた。補給、通信、整備のような非戦闘部門の専門家であれば、ブレツェリ大佐のようなキャリアはそれほど珍しいわけでもない。しかし、下士官から非戦闘部門一筋で一人も殺さずに大佐まで昇進する者は滅多にいない。叩き上げの大佐といえば、ほとんどは軍艦乗りか陸戦屋か空戦屋と相場が決まっている。

 

 一人も人を殺したことがない下士官の大将で、あのダーシャの父親とくれば、誰だって頭の天辺から指先までプロ意識で充満しているような人を想像するはずだ。それなのに俺の目の前に現れたのは、定年間近の中小企業の事務員みたいな風貌の人だった。

 

「この子がエリヤ君?可愛いじゃないの」

 

 ダーシャの母親のハンナ・ブレツェリ曹長は、夫より五歳若い五三歳。くりっとした大きな目と丸っこい顔を一目見ただけで、ダーシャが母親似であることがわかる。初対面でいきなり可愛いと言ってくるところも似ている。地上基地の通信士を長らく務めて、今年いっぱいで定年を迎えるとダーシャから聞いていた。

 

 両親に案内されて官舎の奥に進むと、ダーシャの二人の兄が食事の用意をしていた。祖父の代にフェザーンから移民してきたブレツェリ家は、何よりも独立心を大事にするフェザーン的な家風だった。だから、男子にも家事をひと通り習得させ、女子にも肉体を鍛錬させて、一人でも生きていけるような教育をする。

 

 上座につかされた俺はテーブルに山盛りのチョコレートを食べながら、父親、母親、ダーシャを加えて家族総出で食事の用意をしている様子をぽつんと眺めていた。俺を放っておきたい時は甘い物をたくさん置いておけばいいというのは、ダーシャの入れ知恵に違いなかった。

 

 やがて、食事がテーブルに並ぶ。ポグラチというパプリカ風味のシチュー、ペチェンカという豚肉のオーブン焼き肉料理、豆とじゃがいものサラダ、クルヴァヴィツェという腸詰めといったフェザーン風料理の他、俺が大好きなマカロニアンドチーズやピーチパイといったパラス風料理も並んでいる。

 

「今日のメニューはマテイ兄さんが作ったんだよ」

 

 ダーシャがそう言うと、上の兄のマテイ・ブレツェリ軍曹は口元を軽くほころばせて、握手を求めるように右手を差し出した。

 

「エル・ファシルの英雄に俺の料理を食べてもらうことができるとは思わなかった。給養員として学んだすべてを出し尽くしたつもりだ」

 

 今年で三〇歳になる彼は、補給専科学校で調理を学び、現在は軍艦の厨房を預かる給養主任を務めていた。「どんな時代でも絶対に食いっぱぐれない技術がほしい」という理由で調理を学んだ彼は、堅実そのものの性格であった。そんな人がここまで気合を入れて俺をもてなそうとしていることに、心が熱くなる。

 

「メニューにパラス風料理を加えたのは、俺の発案なんだ。わざわざ妹さんにメールして聞いたんだよ」

「そんなこと、いちいちアピールしなくていいから」

 

 ダーシャに軽くあしらわれたのは、下の兄のフランチ・ブレツェリ准尉。俺と同い年の二八歳で長身と甘いマスクの持ち主だった。通信専科学校を卒業して、正規艦隊の旗艦で勤務した経験もある優秀な作戦オペレーターである。来年から幹部候補生養成所に入所して、士官への道を歩む。キャリアも容貌も申し分なく、結婚相談所に登録したら紹介希望が殺到しそうなスペックの持ち主なのに、ダーシャに軽視されているふしが端々から伺えた。

 

 俺の方を見ようともせずに黙々と料理を食べ、酒を飲んでいる父親。俺に物を食べさせようとして、皿が空になっていたら勝手に料理を乗っけてくる母親。俺が食べている様子をニコニコしながら眺めている上の兄。とても多弁で話題がコロコロ変わる下の兄。一緒に物を食べていると、ダーシャの家族の個性が見えてきて興味深い。

 

 ダーシャは家族の中で突っ込み役を担っているようだった。俺に物を食べさせたがる母親、おしゃべり好きな下の兄が特に突っ込まれている。

 

 ブレツェリ家の団欒を見ているだけで、心が洗われるような気持ちになってくる。この戦いが終わったら一度休暇を取ってアルマと一緒に実家に帰ろうとか、俺もこんな家族を作りたいとか、そんなことを考えていた。

 

 食事が終わり、みんなが後片付けを始める。俺も手伝おうとすると、ずっと黙っていたブレツェリ大佐が口を開いた。

 

「フィリップス君、君に見せたいものがある。ついてきてほしい」

 

 そう言って、ブレツェリ大佐は席を立った。俺は大佐の後を付いて行く。一体何を見せようというのだろうか?

 

「広い寝室だろう?」

「ええ、まあ」

 

 ブレツェリ大佐は官舎の中を俺に見せて、部屋ごとに設備の充実ぶりや住み心地の良さなんかを細かく解説してくれた。建物の作りからして、本来は士官本人の世帯とその親の世帯が同居することを想定して作られた二世帯住宅らしい。

 

 どの部屋も広くて、使いやすい間取りになっているのが素人目にもわかる。適切な確度で日光が差し込み、風が心地良く通り、ある部屋で大きな音を立てても他の部屋に聞こえないような設計がなされていた。そして、すべての部屋がバリアフリーに対応している。知れば知るほど、ブレツェリ大佐にこの官舎が割り当てられた背景がわからなくなってくる。

 

「ここが浴室。なんとジャグジーだよ」

 

 広々とした浴室の中には、円形の大きなジャグジーが据え付けられていた。

 

「ジャグジーのある官舎なんて、初めて見ました」

「凄いだろう?」

「凄いですよね」

 

 そもそも、同盟では浴槽にお湯をためて入浴する行為自体が一種の贅沢である。そもそも、清潔な水をタダみたいな値段で確保できるのは、ハイネセンや俺の故郷パラスのようなごく一部の惑星に限られる。それ以外の惑星では、シャワーで済ませるのが普通だ。浴室、しかもジャグジーなんて、富裕層にしか許されない贅沢だった。

 

「まさか、ジャグジーのある家に住めるなんて思ってもいなかった」

 

 どう答えればいいのか、さっぱりわからない。俺だってジャグジーのある家には住みたいけど、そんな答えを期待しているとも思えない。どういうつもりで官舎の中を俺に見せて回っているのか、さっぱりわからない。万事にストレートな娘と違って、掴みどころのない人だった。

 

「前にこの官舎に住んでいたのは、パストーレ提督だった。あの方が亡くなられたおかげで、私はジャグジー付きの官舎に住むことができた」

 

 第四艦隊司令官ロドリゴ・パストーレ中将は、今年二月のアスターテ星域会戦で帝国軍司令官ラインハルト・フォン・ローエングラムの奇襲を受けて戦死した。歴史的な大敗の責任者の名前が唐突に出てきたことに驚いてしまったが、大都市の人口に匹敵する将兵を統率する正規艦隊司令官が住んでいた官舎なら、この豪華ぶりも納得できる。

 

「パストーレ提督は一〇年ほど前の上官だった。歴代の上官の中でも飛び抜けて有能な方だったのに、亡くなる時はあっけないものだ。第四艦隊司令官の任期を終えたら、国防委員会事務局か統合作戦本部の次長として全軍の指導にあたるはずだったのに、それも幻となってしまった。一度の敗戦でパストーレ提督の評価は地に落ちてしまった」

 

 一万二〇〇〇隻もの戦力を率いていながら、帝国軍の攻撃に対応できずに一方的に敗北したパストーレ中将は、前の歴史においては「無能」の一言で片付けられている。現在の一般的な評価も前の歴史とあまり変わらない。

 

 しかし、同盟軍は無能者が中将まで昇進できるような組織ではない。能力・実績共に飛び抜けた実力者が揃っている将官の中でも、さらに飛び抜けていなければ中将にはなれない。

 

 パストーレ中将は調整能力と管理能力に長けた軍政家型の提督で、戦力を整備して適切に配置する手腕では並ぶ者がなかった。航路保安や治安出動で抜群の実績をあげて、将来の統合作戦本部長候補の一人にあげられていた。ブレツェリ大佐の評価は、アスターテの敗戦以前の一般的な評価と言って良い。

 

「正規艦隊の四分の一にあたる三個艦隊が一日で消滅するという歴史的な惨敗の戦犯の一人だ。批判されるのはやむを得ないのかもしれない。戦死者の遺族が怒りをぶつける対象を必要としているのもわかる。しかし、戦死者に例外なく認められる一階級の名誉進級の対象から外されたという話を聞くと、負けたから仕方ないの一言で片付ける気持ちにはなれないのも事実だ」

 

 世間はアスターテで奮戦したヤン・ウェンリーやポルフィリオ・ルイスを英雄と賞賛する一方で、敗戦責任者の第四艦隊司令官パストーレ中将、第六艦隊司令官ムーア中将、第二艦隊司令官パエッタ中将の三人を愚将と罵った。戦死したパストーレ中将とムーア中将は戦死者に例外なく認められる一階級の名誉進級の対象から外され、重傷を負って入院しているパエッタ中将は退院後に軍法会議にかけられる見通しだった。

 

 誰かが敗戦に責任を負わなければならないとはいえ、手放しで批判する気にもなれない。何のてらいもなく、けじめと同情の間で揺れる心情を吐露するブレツェリ大佐に好感を抱いた。

 

 軍人である以上、自分がいつパストーレ中将と同じ立場に立たされるかわかったものではない。俺の周囲にいるのは提督や参謀といった高級軍人ばかりだ。彼らが敗戦責任者として批判される可能性もある。今の俺は勝者を賞賛して、敗者を無能と罵れるような気楽な立場ではなかった。

 

「優秀な管理者は長期的な思考を得意とする反面で、短期的には柔軟性を欠く傾向がある。パストーレ提督も戦術指揮官としては今ひとつだった。『管理満点、用兵赤点』という評価は君も聞いたことがあるだろう。これは思考方式の問題であって、つまらない有能無能の二元論で片付けられる話じゃない。軍人は任務を選べない。戦術指揮という最も不向きな任務で、奇襲を得意とするローエングラム伯爵という最悪の相手に遭遇したのがパストーレ中将の不幸だった」

 

 管理者は数か月、数年といったサイクルで物事を捉えなければならない。一方、前線指揮官は数時間、数分、時には数秒のサイクルですべてが変わってしまう戦場で生きている。管理者の思考で前線に臨んだら柔軟性を欠いてしまい、前線指揮官の思考で管理業務を行ったらその場しのぎに終始してしまう。

 

 シンクレア・セレブレッゼ中将は後方支援システム構築、幕僚チーム作りといった長期的な計画においては卓越した力量を発揮する管理者であったが、前線指揮では素人以下だった。アーロン・ビューフォート准将はエル・ファシル動乱において、敵中突破、時間差各個撃破という芸術的な用兵を見せた指揮官だったが、管理者としては精彩を欠いた。

 

 管理者と前線指揮官の資質を併せ持つことは本当に難しい。管理者としても前線指揮官としても実績を示したクレメンス・ドーソン中将もその例外ではなかった。彼の思考サイクルは前線指揮官のそれに近く、短期的な問題の処理には抜群の力量を示すが、長期的な計画には視野が及ばない。管理者でありながらプレイヤーとして部署を引っ張っていくプレイングマネージャーの典型で、超一流のプレイヤーではあっても、管理者として一流とは言いがたかった。

 

 前の人生で伝記や戦記を読んだ時は、それがわからなかった。提督や参謀は有能無能の二極に分かれていて、結果を出した者は有能、出せなかった者は無能だと思っていた。ドーソン中将もパストーレ中将も結果を出せなかったために、歴史家によって無能と断じられた人物である。

 

 しかし、高級軍人としての経験を積んだ今なら、ブレツェリ大佐が語るパストーレ中将の不幸が理解できる。そして、不幸な指揮官の下で戦わざるを得なかった将兵たちの不幸も。ある能力に長けた人物は、それゆえに別の能力を欠いてしまうことが多い。そして、常に自分に向いた任務を選べるわけではない。

 

 適材適所は組織の理想であるが、様々な事情によって、不向きな人物が不向きなポストにあてられることも珍しくない。たとえば、パストーレ中将の第四艦隊司令官就任は、人事内規の都合だった。パストーレ中将が前職の任期を終えた時、統合作戦本部次長への任用資格となるポストは第四艦隊司令官以外に空いていなかった。

 

「パストーレ中将は妻、四人の子供、そして養親と一緒にこの官舎に住んでいた。パストーレ中将がトラバース法で子供のいない下士官に引き取られた戦災遺児だというのは、知っているよね」

「ええ、テレビでも見たことがあります」

 

 トラバース法とは発案者の名前に由来する通称であって、正式名称は「軍事子女福祉戦時特例法」という。戦災孤児を軍人の家庭で養育させる法律だ。国から養育費が貸与され、義務教育終了と同時に返済義務が生じる。ただし、士官学校や専科学校といった軍学校に入学するか、少年志願兵として軍隊に入って一〇年間勤務すれば、返済義務は消失する。

 

 家庭を持っていて、なおかつ養育費を返還できるような余裕のある軍人は、そうそういるものではない。トラバース法が適用された時点で、子供の軍隊入りは決定されたも同然だった。法的責任能力が認められる年齢に達していない子供の将来を「同盟憲章の職業選択の自由に反する」と批判する意見も多い。七四〇年代に反戦派弁護士グループが提起したトラバース法違憲訴訟は、当時の国論を二分する大騒動に発展している。

 

 トラバース法の是非はひとまず置いておくとして、軍人に育てられて軍隊に入るよう義務付けられた子供達は軍隊文化に馴染みやすかった。彼らは「トラバース・チルドレン」と呼ばれ、同盟軍の中で地歩を築いていく。下士官として現場を支える者もいれば、士官学校を出てエリートの道を進む者もいた。将官まで昇進した者も多い。

 

 前の歴史で最も有名なトラバース・チルドレンはヤン・ウェンリーに育てられて、その後継者となったユリアン・ミンツ中尉だった。現時点で最も有名なトラバース・チルドレンは、伝説的な艦載機パイロットで歴代五位の撃墜数を誇る第七七飛行群司令ディン・グオリャン大佐、作戦畑の英才で二〇年後の宇宙艦隊司令長官候補の呼び声高い第七艦隊副司令官ダニエル・ドピタ少将、元従軍看護師で現在は女優として活躍中のナデージュ・ポーシャール退役曹長、そしてパストーレ中将だった。

 

 初めて士官学校を首席で卒業したトラバース・チルドレン。戦傷によって体が不自由になった養親への孝行ぶり。地方部隊に蔓延する旧弊と戦った改革者。半生を賭けて宇宙海賊撲滅に取り組んだ闘将。そんなパストーレ中将は、主戦派メディアによってたびたび模範的な軍人として取り上げられてきた。

 

「この官舎が全室バリアフリー対応なのも体が不自由な養親への配慮なんだよ」

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」

「しかし、パストーレ中将は亡くなって、家族もこの官舎には住めなくなった。養親は体が不自由だ。一番上の子供は大学受験を控え、下の三人は義務教育期間中。官舎を出て行った彼らはどこに行ったんだろうか。そんなことを思ってしまう」

 

 パストーレ中将にも家族がいた。老後を託した養子を失った養親、夫を失った妻、庇護を必要とする時期に親を失った子供。彼らの行方に思いを馳せると、暗澹たる思いがする。

 

 軍人の遺族年金は財政難の中で削減の一途をたどっていた。戦死者には名誉戦傷章が授与されて、遺族が勲章に付随する年金受給権を相続する慣例があった。しかし、敗戦責任者のパストーレ中将は「世論の理解が得られない」という理由から、名誉戦傷章を授与されなかった。

 

「戦死者遺族の貧困は社会問題になっています。トラバース法が適用されるのは、一五歳未満で三親等以内の父系親族がいない者だけです。パストーレ中将のご遺族も大変でしょうね」

「大変なのはパストーレ中将の家族だけではない。この地区は半年前までは第四艦隊の士官の官舎街だった。アスターテの敗戦で第四艦隊の士官が大勢死んで、今では空き家ばかりだ」

 

 そういえば、休日なのにこの官舎の周辺は全然人通りがなかった。そういう事情があったとは知らなかった。

 

「アスターテの敗戦でこれだけの官舎が空き家になったんですね。そして、パストーレ中将のご遺族のような苦難は、空き家の数だけ存在すると」

「軍人は死んでも住んでいた家は残る。部隊が存続していれば、新しくやってきた補充要員を済ませればそれで済む。しかし、第四艦隊のように部隊が解体された場合は話が別だ。正規艦隊ともなると、一〇万人以上の士官の官舎が空き家になる。空き家と同じ数だけ、不幸な家族が生まれる」

 

 アスターテの戦死者二〇〇万人の死が生み出した巨大な社会的空白、そして二〇〇万の不幸な家族。ゴーストタウンと化した第四艦隊の官舎街は、歴史的な大敗の傷跡の深さをまざまざと見せつけてくれた。

 

「空き家になったのは官舎だけではない。戦隊単位に分散している二〇か所近い艦隊基地、艦隊が消費する物資を備蓄していた倉庫群なども宙に浮いてしまった。整備、補給、基地業務などを担当する地上要員一〇万人の身の振り方も考えなければならない」

 

 一個艦隊が壊滅したということは、その活動を支える設備や人員が宙に浮いてしまったことを意味する。当たり前ではあるが、見落とされがちだった。支援群司令より高い地位を経験していないにも関わらず、広い視野を持つブレツェリ大佐は、やはり下士官の大将たるにふさわしい人物だった。

 

 前の歴史においては、七九六年に帝国領侵攻作戦で第一三艦隊を除く七個艦隊が壊滅、七九七年の内戦で第一一艦隊が壊滅、生き残った第一艦隊と七九九年のラグナロック戦役に際して編成された第一四艦隊・第一五艦隊はランテマリオ星域会戦とヴァーミリオン会戦で壊滅。アスターテで壊滅した三個艦隊と合わせると、同盟軍は七九六年から七九九年にかけての三年間で延べ一四個艦隊を失ったことになる。

 

 前の人生の俺は七九七年まで帝国の捕虜収容所にいて、アスターテと帝国領侵攻作戦の敗北をリアルタイムで経験していない。帰国してからは周囲の白眼視に苦しんで、社会に関心を持つどころじゃなかった。どんな大事件が起きても他人事のようにしか感じられなかった。ヤン・ウェンリーの孤軍奮闘によって、帝国軍の艦隊がいくつも壊滅したこともあって、「艦隊は簡単に壊滅するもの」と漠然と考えていた。

 

 しかし、一万隻以上の艦艇と一〇〇万人以上の将兵で構成される一個艦隊が簡単に壊滅してしまうなんて、本来は異常なことなのだ。ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーの二大天才がしのぎを削った時代を基準に考えてはならない。

 

 一個艦隊の壊滅はとんでもない大事件である。それが三つも重なったら、残された設備や人員の処理手続きだって数年はかかるに違いない。

 

「この地区の官舎も民間に払い下げようという話も出てるが、管理担当の役人が抵抗していてね。その中に私の友人もいる。この地区の官舎に人が住んでいるという既成事実を作りたい彼らに頼まれて、私はこんな豪華な官舎に住んでいるわけさ。三個艦隊の壊滅の余波はこんなところにも及んでいる」

「官舎一つをとっても、いろんなドラマがあるんですね」

「軍人が死ぬというのはこういうことなのだ。社会的な空白が生まれて、生き残った者はそれを埋めるための戦いを強いられる。娘にはそんな戦いをさせたくない」

 

 この官舎の背景を延々と話したブレツェリ大佐の口から、ようやく結婚に関係ある話が出てきた。仕事人間の俺には、軍隊の話を例にあげるのが一番わかりやすい。彼が恐れているものが実感を持って理解できた。

 

「四〇年も軍隊にいれば、軍人が死ぬのは当たり前だってことぐらいわかってる。今さら、帝国との戦争はやめられない。対外戦争がなくても、海賊やテロリスト相手の治安出動がある。治安出動がなくても、災害派遣がある。地方の後方支援が長かった私は対外戦争より、治安出動や災害派遣をずっと多く経験した。そんな現場でもやはり軍人は死ぬ。私は軍人だ。そんなことはわかってる」

 

 ブレツェリ大佐の語調が急に激しくなる。

 

「でも、私は軍人である前に親なんだ。娘には幸せになってほしい。軍人である前に夫であることを選んでくれる男と結婚してほしい。君には娘と一緒に生き続けてくれる男であってほしい」

 

 ブレツェリ大佐は俺の両肩を掴み、詰め寄るように顔を近づけた。気迫にただただ圧倒されてしまう。

 

「半年前のこの地区にはたくさん人が住んでいた。この官舎にはパストーレ提督の一家が住んでいた。しかし、今はもう居ない。寂しいだろう?なあ?」

「はい」

「娘にそんな思いをさせないでくれ、頼むから。君がいない空き家で娘が寂しくたたずんでる光景なんて、想像したくもない。わかるな?」

「はい」

「軍人に『死ぬな』なんて、我ながら馬鹿らしいことを言ってると思う。でも、それが親なんだ」

 

 俺の肩を掴んでいた力が急に弱くなった。ブレツェリ大佐の張り詰めた顔には、汗が何筋も流れていた。

 

「…娘をよろしく頼む」

 

 初老の大佐が四〇年かけて積み上げたプロとしての矜持をかなぐり捨てて、一人の父親として語った言葉。それ以上に重みのある言葉は、この世に存在しなかった。

 

「わかりました」

 

 こうして、俺とダーシャの結婚はブレツェリ家公認となった。

 

 

 

 プライベートで妹との再会、ダーシャの実家訪問といった大きなイベントをこなした俺だったが、オフィシャルでも帝国領出兵作戦「イオン・ファゼカスの帰還」に向けた準備で多忙を極めた。

 

 参謀とともに現実的な行動計画を作成して、検討を重ねる。作戦行動に必要な物資と人員を集める。帝国辺境の事情に通じた人物と会って、占領政策に関するアドバイスを受ける。戦隊会議を開いて配下の指揮官達の意思疎通を促す。臨時に編入される部隊との協力体制を構築する。時間は少ないのに、なすべきことは多かった。

 

 八月二二日、自由惑星同盟の帝国領遠征軍はイゼルローン要塞に総司令部を設置した。遠征軍に参加する三〇〇〇万人の将兵は、帝国打倒を望む人々の歓呼に送られて、地上から飛び立っていった。

 

 第三六戦隊が根拠地としているフリジントン軍港では、将兵達が見送りに来た家族や友人と別れを惜しんでいた。ハイネセンで勤務していた俺の知り合いはほとんど遠征軍に参加していて、見送りに来てくれた人は少なかった。

 

「帰ってきたら、凱旋式と結婚式だな。去年、礼服を新調しておいて本当に良かった」

 

 気の早いことを言ってるのは、国防委員会防衛部長クレメンス・ドーソン中将。彼は知り合いの祝い事に口を出したがる癖がある。完全な善意ではあるのだが、言うことが細かすぎてトリューニヒト派の若手士官には迷惑がられていた。脇にはわざとらしく結婚式場のパンフレットを抱えているけど、見ていないふりをする。

 

「貴官は海賊討伐作戦で参謀として力量を示した。今度は指揮官として示す番だ。イオン・ファゼカス作戦では政治が鍵になる。貴官ならきっとできると信じているぞ」

 

 第一一艦隊司令官フィリップ・ルグランジュ中将は爽やかに笑って、俺の肩を力強く叩く。政治に疎い彼を補佐したのは、ほんの数か月前だった。それなのに遠い昔のように感じられる。

 

 他にも国防委員会査閲部運用支援課長のナイジェル・ベイ大佐、統合作戦本部管理担当次長のスタンリー・ロックウェル中将らが見送りに来てくれた。国防委員長ヨブ・トリューニヒトは顔を見せなかった。

 

「司令官閣下、そろそろお時間です」

「わかった」

 

 副官のシェリル・コレット大尉に促された俺は、見送りの人達に別れを告げてシャトルに乗り込み、上空に係留されている戦隊旗艦に向けて飛び立った。地表がどんどん遠くなっていく。次にこの土を踏めるのは、いつの日になるだろうか。

 

 三二三年前にイオン・ファゼカス号に乗って帝国の流刑地を脱出した共和主義者の子孫は、今度は十万隻を越える軍艦に乗って帝国の民衆を解放するために帰還する。長きにわたる専制と自由の戦いは、最終決戦の時を迎えようとしていた。


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