銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第八十一話:貴族の戦場、俺の戦場 宇宙暦796年9月5日~7日 イゼルローン要塞及び第三六戦隊旗艦アシャンティ

 その部屋は最前線の要塞に似つかわしくない作りだった。床には高価そうな絨毯が敷き詰められ、調度品はバロック調で統一されている。煉瓦造りの壁で時を刻むのは巨大な振り子時計。そんな豪奢な部屋に招き入れられた俺は、緋色の上質なソファーに腰掛けていた。

 

「お初にお目にかかります。第三六戦隊司令官のエリヤ・フィリップスです」

「卿の名前は良く耳にする」

 

 ガウンを身にまとった部屋の主のその一言で、俺はすっかり恐縮してしまった。彼の放つ高貴な雰囲気にすっかりのまれてしまっている。

 

「光栄です」

「お初にお目にかかる。わしはマティアス・フォン・ファルストロング。今は遠征軍総司令部の顧問ということになっている」

 

 そう名乗った老紳士は、綺麗に整えられた銀髪と口髭に、細身の剣を思わせるような体躯を持ち、匂い立つような気品を全身にまとっている。同盟に生まれた者がどれだけ富と権力を獲得しても、決して身につけられない風格を持っているこの紳士は帝国からの亡命者、しかも門閥貴族であった。

 

 ゴールデンバウム朝初代皇帝ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに仕えたエルンスト・ファルストロングは、義務教育の歴史教科書にも名前が出てくる歴史上の有名人だった。ルドルフが率いる国家革新同盟の非合法活動を警察内部から支援した銀河連邦の警察官僚。ゴールデンバウム朝の内務尚書と社会秩序維持局を兼ねた秘密警察のボス。反ルドルフ派を四〇億人もの抹殺した人類史上最悪の白色テロリスト。同盟ではルドルフの次に嫌われている歴史上の人物だった。

 

 三つの有人惑星を有する星系と伯爵号を賜って初代ファルストロング伯爵となったエルンストは栄華を堪能する前に共和主義者に暗殺されてしまったが、子孫は名門貴族として繁栄した。

 

 分家のうち二家が子爵、五家が男爵となり、最盛期には一族全体で一五の有人惑星を領有した。高級官僚を多数輩出し、閣僚となった者は一三人、次官級ポストを得た者は四〇人、局長級ポストを得た者は数えきれない。二四代皇帝コルネリアス一世の時代には皇后も出している。そんな名門中の名門の二二代目の当主で、フェザーン駐在高等弁務官を務めていたマティアスが自由惑星同盟に亡命してきたのは、今から一〇年前の宇宙暦七八六年のことだった。

 

 マティアス・フォン・ファルストロングが亡命してきた事情を理解するには、多少の前提知識を要する。ゴールデンバウム朝銀河帝国の皇帝権力は、行政を担当する官僚、軍事を担当する軍隊、帝室の藩屏たる貴族の三本の柱によって支えられていた。

 

 ゴールデンバウム朝において、貴族と呼ばれるのは、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、帝国騎士の称号を保持する人々とその子女だった。その中で特に力を持っているのは、公爵から男爵までの門閥貴族六〇〇〇家である。彼らは婚姻や養子縁組を通じて強固な血縁ネットワークを張り巡らせ、神聖不可侵の皇帝ですら妥協せざるを得ない影響力を持っていた。

 

 門閥貴族は軍部や官界の上層部に人材を送り込む一方で、枢密院を通じて国家の意思決定に介入した。皇帝の諮問機関である枢密院は、門閥貴族から選ばれた一〇〇人前後の枢密顧問官によって構成される。

 

 最高評議会議長の諮問機関である安全保障諮問会議、経済財政諮問会議、公共政策諮問会議などに相当する機関が枢密院であると言えば、わかりやすいだろうか。門閥貴族の中でも卓抜した家柄や閲歴を有する者が選ばれる枢密顧問官は、公共政策諮問会議委員オリベイラ博士や安全保障諮問会議委員アルバネーゼ退役大将に相当する帝国政界のフィクサーである。実力者が集う枢密院の助言を皇帝が無視することは滅多に無い。まさに貴族勢力の牙城と言える。

 

 枢密院議長は議事運営を通じて、枢密院の意見を誘導できる立場にあった。枢密顧問官の選任にも大きな影響力を持っている。宮廷席次では国務尚書の上、帝国宰相の下にあった。三一代皇帝オトフリート三世が皇太子時代に帝国宰相を務めて以来、国務尚書が帝国宰相代理を兼ねるのが慣例となっており、枢密院議長が宮廷席次最上位にあった。

 

 名実ともに帝国の筆頭重臣である枢密院議長の座を巡って、オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵とコンラート・フォン・マイツェン公爵が争ったのは、七八〇年代のことだった。

 

 当時の皇太子ルートヴィヒは、爵位を持たない帝国騎士の娘を正妻としたことがきっかけで門閥貴族の反感を買ってしまい、病気がちでもあったことから、廃嫡が取り沙汰されていた。そこで皇帝フリードリヒ四世の娘婿であり、ルートヴィヒに代わる皇位継承者候補の一人と目される皇孫エリザベートの父親であるブラウンシュヴァイク公爵は、貴族達に次代の重臣の座を約束することで支持を広げていく。

 

 劣勢に立たされたマイツェン公爵は、フリードリヒ四世のもう一人の娘婿で有力な皇位継承者候補の皇孫サビーネの父親にあたるリッテンハイム侯爵と手を組んで、皇位継承者カードを手に入れようとしたが、かねてからの遺恨を理由に拒否されてしまった。貴族に嫌われているルートヴィヒ皇太子の擁立は論外である。

 

 既存の皇位継承者候補を利用できないマイツェン公爵が目を付けたのは、妊娠中だった皇帝の寵妃シュザンナ・フォン・ベーネミュンデ侯爵夫人だった。皇帝の寵愛厚く子爵家の出身である彼女が子を産んだら、後継者の座を射止めることは間違いない。そして、マイツェン公爵は皇位継承者と皇后の後見人として、ブラウンシュヴァイク公爵を圧倒できるはずだった。有力な後見人を欲するベーネミュンデ侯爵夫人は、マイツェン公爵の申し出を受け入れた。

 

 しかし、マイツェン公爵の期待を裏切るかのように、ベーネミュンデ侯爵夫人は流産してしまう。その後も三度妊娠したが、いずれも死産や流産に終わった。新たな寵妃アンネローゼ・フォン・ミューゼルの出現によって、ベーネミュンデ侯爵夫人は皇帝の寵愛を失ってしまい、皇位継承者カードの取得が絶望的となったマイツェン公爵は失意の中で急病に倒れて帰らぬ人となった。毒殺との噂もあるが、真偽は不明である。

 

 枢密院議長に就任して、帝国の第一人者となったブラウンシュバイク公爵は、マイツェン派の粛清に乗り出した。末端の支持者は官職を返上して領地で謹慎するだけで済んだが、指導的な立場にあった者は徹底的な追及を受けた。ある者は数か月前に酔って口にした冗談を「不敬罪にあたる」と告発されて自決に追い込まれ、ある者は遠縁の親類が一〇年前に犯した犯罪を理由に逮捕された。

 

 マイツェン派幹部のマティアス・フォン・ファルストロング伯爵は、フェザーン駐在高等弁務官の立場を利用して工作資金を集めていたが、収賄、背任、機密漏洩、反乱軍との通謀など一四の容疑で告発されたことを知り、粛清を逃れるために家族を連れて同盟に亡命した。

 

 俺の今の人生は八年前に始まっている。だから、ファルストロング伯爵亡命事件の記憶はほとんど無かった。亡命に至るいきさつも同盟国内ではほとんど知られておらず、訪問前に亡命者のハンス・ベッカー中佐から教えてもらった。

 

 腐敗した門閥貴族の典型としか思えない経歴。しかも、前の歴史において、偉大な英雄ラインハルト・フォン・ローエングラムに対して陰湿な攻撃を繰り返した挙句に自滅したベーネミュンデ侯爵夫人の仲間とあっては、好意的になりようもない。経歴を知ってしまうと、あの邪悪なエルンスト・ファルストロングの子孫であることも悪感情を呼び起こさせてしまう。反射的にアポを取ってしまったことを後悔していた。

 

 しかし、目の前にいるマティアス・フォン・ファルストロング伯爵は、端整な容貌と優雅な挙措を持つ紳士だった。前の歴史でラインハルト・フォン・ローエングラムに滅ぼされた愚劣な門閥貴族とは似ても似つかない。エル・ファシル政庁で自決したカイザーリング中将みたいに貴いという言葉がふさわしい貴族だ。彼の風格と豪奢な部屋に、すっかり圧倒されてしまっていた。

 

「良い部屋じゃろう?要塞司令官の居室だったが、誰も使いたがらんでな。わしが使わせてもらっている」

 

 確かにこんな豪奢な部屋で落ち着ける同盟人がいるとは思えない。生まれながらの貴族であるファルストロング伯爵にこそふさわしい。

 

「酒は嗜むかな?フェザーン経由で手に入れたヴェスターラントワインの四七〇年物、宇宙暦では七七九年物ということになる。領主は煮ても焼いても食えん奴だが、ワインはうまい」

 

 ファルストロング伯爵はグラスに注がれたワインを差し出してくる。ヴェスターラントと言えば、彼を亡命に追い込んだ枢密院議長オットー・フォン・ブラウンシュバイク公爵の所領のはずだ。そんな場所で作られたワインをわざわざフェザーン経由で取り寄せて飲んでいる時点で、並の神経ではない。

 

「あ、いや、小官は酒は飲まないんです」

「毒は入っておらんぞ?わしはオットーの奴と違って、飲み物に毒を混ぜる趣味はないでな」

 

 ガチガチに緊張している俺には、ファルストロング伯爵の冗談はきつすぎた。オットーとは、ブラウンシュヴァイク公爵のことだろう。ベッカー中佐によると、ブラウンシュヴァイク公爵はしばしば政敵が都合良く病死してくれるという幸運に恵まれる人なのだそうだ。

 

「閣下の酒が飲めないというわけではないんです。前に酒で失敗したことがありまして」

「そうか、それは残念だな。この国に来てから、なかなか飲み友達に恵まれなくて困っている。すっかり一人酒に慣れてしまった」

 

 愉快そうに笑うファルストロング伯爵にどう答えればいいのかわからなかった。目の前の人と言い、ワルタ・フォン・シェーンコップ准将と言い、名前にフォンが付いてる人には勝てる気がしない。

 

「さて、卿の用向きは占領政策についての話だったな」

 

 本題に入ってくれて助かった。完全にファルストロング伯爵のペースに巻き込まれてしまっていて、どう話を切り出せばいいかわからずに困っていたところだ。

 

「はい。閣下が解放区民主化支援機構の占領地民主化プランに反対なさっていると聞いて、お話を伺いに来ました」

「わしは何を話せばよいのかね」

「小官も民主化プランには、違和感を感じています。自分なりの占領政策の参考にしようと思い、閣下が反対なさった理由を教えていただこうと思いました」

「よかろう」

 

 ファルストロング伯爵は軽く頷くと、ワインを軽く口に含んで話し始めた。

 

「帝国には皇帝私領と貴族領と自治領があるのはご存知かな?」

「はい」

「それぞれ、統治機構の仕組みが異なっている。内務省から派遣された官僚が統治している皇帝私領はまだいい。どこも統治機構の仕組みは同じだから、内務省のマニュアルさえ手に入れば、行政サービスの運営はどうにかなるはずだ。問題は貴族領と自治領だな。統治者ごとに機構が全く違う。統治機構の機能を警察と裁判に限定して、行政事務の大半を住民の代表者に委託している貴族領もあれば、歩道の掃除や健康体操の指導にまで専門の役所を置いている貴族領もある」

 

 帝国に皇帝私領と貴族領と自治領の違いがあるのは知っていた。貴族領と自治領が統治者ごとに違う機構を採用しているのも知っていた。ただ、ここまで違うとは思っていなかった。せいぜい、同盟に加盟している星系共和国ごとの差と同じぐらいだと思っていた。根本の統治思想まで領地ごとに違っているとなると、想像を絶する。

 

「さらに領有関係も複雑だ。星系によっては、ある惑星は皇帝私領なのに、他の惑星は貴族領ということも珍しくない。ある惑星の三分の一が某男爵領、三分の一が某伯爵領、残る三分の一が皇帝私領などということも良くある。同盟のように一つの星系を単一の星系政府、一つの惑星を単一の惑星政府が統治しているとは限らない」

 

 領有関係の複雑さも話としては聞いていた。しかし、統治機構の違いを踏まえて考えると、とんでもなく厄介になる。四つの貴族領に分かれている惑星を占領したとしたら、それぞれ別の方式で統治しなければならない。一つの惑星占領軍司令部をもって四種類の統治機構に対応するなんて器用なことができるわけがない。

 

「領主や行政官を取り込んで、従来通りの統治を続けさせるしかなかろう。彼らが逃げたとしたら、その下にいる役人に代行をさせる。現地の機構を温存すべきだとわしは思う」

 

 確かに統治方式と領有関係が混み合っている帝国領を安定させるには、ファルストロング伯爵のプランが妥当だろう。帝国内務省や貴族が設置した行政機構を解体し、民主化支援機構のサポートで現地住民による自治に移管して、民主化を進めていくなんて、できるはずがない。

 

「今のお話で良くわかりました。民主化以前の問題です。行政官や領主を追放し、現地の住民代表と民主化支援機構メンバーが協力して、民主的な政府を作っていくなんて、到底不可能です」

「そう言ったんだが、聞いてもらえんかったよ」

「民主化支援機構の上層部には、亡命者が何人もいますよね。特に副理事長は元内務次官です。行政のプロがなぜこんな初歩的な欠点を指摘しなかったのでしょうか?」

「ああ、ハッセルバッハか。あいつは派閥のボスが内務尚書になった時に、宮内省から呼ばれて次官になった元宮内官僚だ。内務省にはほとんど出勤せずに、宮廷工作にかまけていた。帝国騎士だから領主経験もない。行政はわからんだろう」

 

 がくっと来てしまった。宮内官僚って皇室関係の事務をする役人じゃないか。内務省にほとんど出勤していないってことは、素人と変わりがない。

 

「三人の理事はどうなんですか?元帝国軍少将のグロスマン理事、反体制組織指導者のシェーナー理事はともかく、子爵のネルトリンガー理事は領主経験があるはずですよね?」

「ネルトリンガーは共和主義にかぶれて、領内で村長選挙をやったのが問題になって亡命してきた奴だ。民主化に賛成する理由こそあれ、反対する理由はなかろう」

 

 あのゴールデンバウム朝の帝国で選挙をやってしまったという根性は凄い。貴族領の統治機構が領主によって全然違うことが良くわかる。しかし、そんな変人の経験があてにならないのは確かだった。

 

「しかし、閣下のご意見は、領主としての経験を踏まえた説得力のある意見であるように思えました。それなのになぜ聞き入れられなかったのでしょうか?」

 

 同盟の政治家や軍高官と接した経験から言うと、彼らは総じて合理的で慎重だ。ファルストロング伯爵の意見より、元宮内官僚や変人領主の意見に説得力を感じたというのが信じられない。

 

「卿らから見たら、帝国の政治は圧制であろう?わしは圧制の仕組みを維持しろと言っとるのだ。それも圧制者たる貴族領主としての経験からな。それと民主化支援機構の理想的な民主主義。どちらを取るかは自明であろうな」

 

 確かに帝国の圧制をそのままにしておくというのは、まともな同盟人には受け入れがたい。ファルストロング伯爵の言葉は、一つ一つが文句のつけようがない正論だった。こんなに賢明な人がどうして陰湿な宮廷闘争に深入りしたのか理解に苦しむ。

 

「ありがとうございます。勉強になりました」

「なに、こちらこそ楽しかった。国務尚書になり損ねて、異国に敗残の身を隠すような年寄りの戯言に付き合ってくれる者もそうそうおらんのでな」

 

 言葉でこそ自嘲しているが、表情はとても愉快そうだった。内心はどうあれ、今の境遇を楽しんでいるように振る舞うのは、貴族の矜持なのかもしれない。

 

「遠征が始まってから、わしの話を聞きたいと言ってきた者は卿が二人目だ。同盟軍にも変わり者が多いと見える」

「小官の前にも、このような話をなさったのですか?」

 

 まともな同盟人なら理想的と思う民主化支援プランに疑問を抱いた人間が俺以外にもいた。そのことに驚きを感じる。

 

「あちらは艦隊の全体会議に呼んでくれたがね」

 

 人目を忍んでこっそり訪れた俺と違って、艦隊全体会議という公式の場に招待するなんて、信じられないほど大胆だ。いったい何者だろうか。

 

「どなたですか?」

「卿と同じエル・ファシルの英雄だ。第一三艦隊司令官ヤン・ウェンリー中将」

 

 前の歴史における七九〇年代後半再興の用兵家にして、民主主義と自由主義のために全宇宙を敵に回して戦った英雄ヤン・ウェンリー。その名前がこんなところで出てきたことに驚いた。理想に殉じた彼がなぜ、ファルストロング伯爵の話に耳を傾けたのか。さっぱりわからない。

 

「どうした?」

「あ、いえ、何でもありません。意外だと思いまして」

「わしには卿も意外だがね」

「どういうことですか?」

 

 自分がファルストロング伯爵のような人に意外な印象を与えられるほど、面白い存在とは思えない。

 

「卿は亡命者ではないのかな?」

「違いますよ」

 

 想像もしなかったことを言われて、びっくりしてしまった。

 

「卿が話す帝国語は流暢だ。それに民主主義に対するこだわりがまったく無いように見える。ヤン中将も圧制を維持しろというわしの意見に多少表情を変えていたが、卿はそうではなかった。民主主義の国に生まれ育ち、民主主義は君主政治より正しいと教えられて育ったとも思えぬ。帝国で暮らしたことがあるのではないかな?」

「帝国語は幹部候補生養成所で勉強しました。小官の家系は父も母もその前の代もずっと同盟市民です」

「ふむ、では、フェザーンに赴任していた親に付いて行ったのかな?まあ、詮索しても仕方がない」

 

 俺は亡命者ではない。ゴールデンバウム朝の国土を踏んだのは、前の人生で捕虜収容所にいた時だけだ。帝国語は幹部候補生養成所で習得した。父方も母方も少なくとも祖父母までの代は同盟市民だ。父親は俺が生まれた時からずっとパラディオン市警の警察官だ。ファルストロング伯爵の推測はほぼ外れている。

 

 しかし、帝国で暮らしたことがあるというのは当たっていた。ゴールデンバウム朝ではなく、ローエングラム朝の帝国で。俺の住んでいたハイネセンは、宇宙暦八〇〇年にローエングラム朝の領土になった。前の人生の半分以上を帝国人として生きた。

 

 民主主義国家の同盟が滅亡し、君主独裁国家のローエングラム朝に取って代わるのを見ていた。官僚の権力を奪おうと企んだ軍人が、普通選挙と議会制度をローエングラム朝に導入させたのを見ていた。いずれの制度の下でも変わらず不幸だった俺にとっては、民主主義は絶対的なものではない。

 

 みんなが前提と信じているものに対して懐疑を示すことで賞賛を得られるのは、お話の世界ぐらいのものだ。現実の世界では前提を共有できない相手とみなされて、話が通じないと思われてしまう。第三六戦隊司令部の参謀達も民主化支援機構のプランを悪く言う俺に引いていた。ファルストロング伯爵のような鋭い人なら初対面で見抜いてしまうほどに、俺のこだわりの薄さは見えやすいようだ。気をつけなければいけないと思った。

 

 

 

 敵が目立った動きを見せておらず、味方が不安を感じさせる動きばかりしている中、俺の所属する第一二艦隊は、予定通り九月六日にイゼルローン要塞を出発して、帝国領に進入していった。

 

 今のところ、イオン・ファゼカスの帰還作戦の失敗を予感させるような要素はない。先行して現地に潜入している工作員達からは、敵の駐留部隊が動く気配は無いという報告が入っている。物資徴発やインフラ破壊などの焦土作戦も行われていないらしい。それどころか、安価な食料が大量に流れこんできて、農家は農産品価格の下落に頭を痛めているそうだ。

 

 帝国側の迎撃指揮は、前の歴史と同じく宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が執ることになった。しかし、「辺境の防衛体制には問題がある。こんな時だからこそ、根本から見直さなければならない」と言い出して、帝都オーディンに留まって改革案を作成しているという。

 

 ローエングラム元帥がオーディンを動かない理由に関しては、「フリードリヒ四世が危篤に陥った」「指揮官をベテランから若手に入れ替えたことに反発した指揮下の部隊がサボタージュをしている」「同盟軍の侵攻に呼応して、オーディンの共和主義者組織が大規模蜂起を準備している」「旧カストロプ派の憲兵隊が反乱の兆しを見せている」など、様々な憶測が流れていた。

 

 報道の自由がない帝国では、メディアの流す情報は信用できないとされている。一番信用できるのはフェザーンのメディアが流す情報だが、報道管制が敷かれたらそれも途絶えてしまう。今回の帝国領遠征のような大事件の前後に、「隠された真実」と称する怪情報が乱れ飛ぶのはお馴染みの光景だった。

 

 旧カストロプ派の重鎮で近衛兵総監のラムスドルフ上級大将をめぐる情報一つをとっても、「ラムスドルフ上級大将が近衛兵を率いて、新無憂宮を包囲した」「クーデター計画が露見して、ラムスドルフ上級大将とその一派は既に逮捕されている」「クーデターを起こしたのは、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵。ラムスドルフ上級大将は戒厳司令官に任命されて鎮圧にあたっている」など、矛盾する情報がいくつも同時に流れている有様だった。

 

 どれも胡散臭いこと極まりなく、「フリードリヒ四世が危篤に陥った隙に乗じて、近衛兵と憲兵隊が新無憂宮に乱入し、皇孫エルウィン・ヨーゼフを新帝に擁立。ラムスドルフ上級大将が帝国宰相に就任した」という噂に至っては、笑うほかない。どれが本当かはわからないし、全部嘘である可能性も高い。帝国軍が流した情報はもちろん、同盟軍情報部が流した情報も含まれているはずだ。

 

 どの情報が真実かはわからないが、ラムスドルフ上級大将が掌握している近衛兵は、オーディンに駐屯する地上部隊の中で最大の戦力を持っている。皇帝が住まう新無憂宮を警備する部隊でもある。五〇〇年近いゴールデンバウム朝の歴史の中で、近衛兵のクーデターは何度も起きている。痴愚帝ジギスムント二世廃位事件のような政変の実行部隊となったのも近衛兵だった。ラムスドルフ上級大将の動静は、政局に決定的な影響を及ぼす。

 

 帝都に駐留する一八個艦隊、オーディン駐在の地上部隊としては近衛兵に次ぐ規模の装甲擲弾兵であっても、近衛兵には容易に手出しはできない。ラムスドルフ上級大将のクーデター疑惑が存在しているうちは、帝国軍も動きがとれないはずだった。

 

「どうかされましたか?」

「どうもしてないよ」

「いつもよりマフィンを召し上がるペースが早いので」

 

 第三六戦隊旗艦アシャンティで定例報告を終えた副官シェリル・コレット大尉は、珍しく仕事に関係のない指摘をした。そういえば、いつもより多くマフィンを食べている。ストレスが強い時ほど、俺はたくさんマフィンを食べる。

 

「初めての任務で緊張してるのかな。二〇〇万の人口を持つ有人惑星の攻略なんて、未経験だからね」

 

 俺の率いる第三六戦隊は、ヴェルツハイム星系第三惑星マリーエンフェルトの攻略を命じられていた。幸いなことにこの惑星は全土が皇帝私領だった。帝国内務省の行政マニュアルは、既に入手済みである。占領統治に不安はない。敵の駐留部隊の戦力は二〇〇隻の艦艇と三〇〇〇人の地上部隊に過ぎなかった。増援が送られてきた気配もない。俺の指揮下にある六五四隻の艦艇と二五〇二〇人の地上部隊をもってすれば、容易に制圧できる。

 

 アンドリューに見せられた作戦案概要では、ヴェルツハイム星系は同盟軍の侵攻に呼応して独立と自由惑星同盟への加盟を宣言する予定だった。皇帝直轄領の長官や貴族領の領主は寝返りの見返りとして、統治者の地位を保つはずだった。それなのに抵抗の姿勢を示している。アンドリューの案を知らない人から見れば、もともと抵抗するつもりに見えるだろうけど。

 

 理由はわかっている。民主化支援機構のプランが公表されて、自由惑星同盟に寝返っても何の旨味もないと判断したのだろう。

 

 コレット大尉の報告によると、マリーエンフェルトの地上部隊は集結して抗戦の構えを見せているらしい。トーチカや塹壕を作り、高値で食料を買い集めて長期戦の構えを取っているそうだ。艦艇部隊も地上に降りて、地上部隊と合流しているという。前の歴史のように食料を全部持って逃げられるよりはマシであるが、戦わなくて済んだはずの相手と戦わなければならないと思うと、気が重くなる。

 

「今のところ、不安要因は全然ないんだけどね。でも、戦いは始まってみないとわからない。敵も本気みたいだしね。定価の倍で食糧を買い集めてるぐらいだし」

「閣下が緊張なさるところ、初めて見ました」

 

 笑顔を見せるコレット大尉にびっくりしてしまった。彼女が笑うところなんて初めて見た。最近はだいぶ痩せてきて、顔もすっきりしてきている。可愛らしいというより、爽やかな感じの笑い方をすることを知った。

 

「君が笑うところも初めて見た」

 

 俺がそう言うと、彼女は何も言わずにいつもの無表情に戻る。俺に心を開いてくれるのは、まだまだ先になるようだ。

 

「あと三日でマリーエンフェルトに着く。第一〇艦隊や第一三艦隊も明日には、最初の有人星系に到達するはずだ。これからが本番だよ」

 

 本番は意に沿わない形で始まることになりそうだったが、思い通りになる戦いなんて滅多にあるものではない。同盟軍は既に帝国領に侵入している。予想と準備は終わり、めまぐるしく変わっていく戦場に対応する段階に入っていた。

 

 計画段階では想定しうる可能性に優先順位をつけてそれぞれに対応策を練り、実施段階では高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応するのが用兵だと、アンドリューが言っていたことを思い出した。


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