銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第八十五話:戦いはまだ終わっていない 宇宙暦796年10月11日~17日 惑星シュテンダール進駐軍司令部

 一〇月一一日一八時〇〇分、遠征軍総司令部と解放区民主化支援機構の合同記者会見がイゼルローン要塞で開かれた。遠征軍司令部からは総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将、情報参謀シブリアン・ラモー准将、作戦参謀アンドリュー・フォーク准将、渉外部長代理ヴォー・バン・クエット大佐の四名、解放区民主化支援機構からはロブ・コーマック理事長、ユン・ドンウク理事、アドスティーナ・サンテ宣伝局長の三名が出席した。名前を見るだけで会見内容の重大さを推し量れる。そんな顔ぶれであった。

 

「まず、最初に皆様にお詫びしなければなりません」

 

 解放区民主化支援機構のコーマック理事長は、集まった多くの報道陣の前で頭を深々と下げた。占領政策の失敗を批判されても一切非を認めてこなかった民主化支援機構のトップの謝罪に、報道陣から大きなどよめきの声があがる。

 

「解放軍の到着に先行して解放区に配布されていたビラについてのお詫びです」

 

 無制限の利益供与を占領地の住民に約束して物資不足を引き起こしたビラが、同盟軍の兵站に負担をかけて足止めをはかる帝国軍の策略ではないかという疑惑は、ヨブ・トリューニヒトやジョアン・レベロの宣伝によって、広く受け入れられるところとなっている。

 

「私利私欲のために無意味な出兵を行ったエゴイスト」「帝国軍の策略に乗せられて、多大な国費を浪費して、前線部隊を困窮に陥れた愚者」という批判に対し、遠征軍総司令部と解放区民主化支援機構は、「ビラは同盟の機関の手によって配布されたもの」という見解を崩さず、「多少の狂いはあるものの遠征は概ね順調に進んでいる」と主張した。しかし、どの機関が実際にビラを配布したのかを問われると答えることができず、疑惑を払拭するには至っていない。

 

 さすがの民主化支援機構も帝国軍の策略に乗せられたことを認めざるを得ない段階に達したのではないか。コーマック理事長の発言を聞いた者は、誰もがそう考えた。

 

「あのビラを作成・配布したのは大きな誤算であったことを認めます」

 

 その一言でどよめいていた会見場は一気に静まり返る。呆気にとられた人々には、「作成」「配布」「大きな誤算」の主語が誰なのか、まったく想像がつかない。もちろん、俺にも。

 

「私達、解放区民主化支援機構がビラを作成し、遠征軍総司令部と国防委員会情報部の支援を受けて配布いたしました。皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」

 

 コーマック理事長並びに出席者全員が深々と報道陣に向かって頭を下げる。一瞬、目の前が真っ白になった後、民主化支援機構がビラを作成したことを認めたという事実を理解した。あれは帝国の謀略ではなかったのか。やはり、彼らの暴走だったのか。頭がこんがらかってしまう。

 

「ビラを作って配布したのには、二つの目的がありました。一つ目は我々の大義を圧政に苦しむ人々に知らしめ、希望を与えること。二つ目は帝国軍の抗戦意欲を挫き、降伏や撤退を促すこと。帝国軍の一般兵士は平民出身であり、圧政の被害者です。解放のために戦う我々が彼らの血を流すことは、本意ではありません。ビラが期待通りの効果はあげたことは、皆様にも御理解いただけると考えております」

 

 あのビラを彼らが作ったとしたら、確かに二つの目的は達成できたといえよう。同盟軍の存在を住民に知らしめて、帝国軍も抗戦せずに逃亡したのだから。本当に彼らが作ったとしたらの話だが。

 

「しかしながら、当初想定された以上の予算を費やしたのは誤算でした。解放戦争のために計上された補正予算は二〇〇〇億ディナール。本年度一般会計予算の約五パーセントに相当します。それから一ヶ月も経たないうちに、解放区支援のために一〇〇〇億ディナールの追加予算を組んでいただきました。そして今、新たに二〇〇〇億ディナールの追加予算を申請しております。国家財政が苦しい中、納税者の皆様に大きな負担をかける結果となり、まことに心苦しい次第です。前線の将兵を困窮に陥らせてしまったことも、まことに遺憾の極みです。どのようなご批判を頂いても、ただただ甘受するのみであります」

 

 コーマック理事長は神妙な面持ちで自分達のミスを認めた。やはり、あれは帝国軍の策略ではなくて、民主化支援機構の暴走だったのか。そんな疑念が頭の中に浮かぶ。

 

「三〇〇〇億ディナールの血税を無駄にするわけにはいかない。前線の将兵の一ヶ月間の労苦を無駄にするわけにはいかない。皆様の期待と費やしたコストに見合った成果をあげなければならない。そのような思いを胸に刻み、解放戦争を闘い抜こうと考えております」

 

 頭がくらっとした。要するに失敗は認めるけど、遠征を止める気はまったく無いということだ。三〇〇〇億ディナールの浪費と俺達の苦労をだしにして、「戦いをやめれば全部無駄になるんだぞ」と暗に言っている。嫌らしいぐらいに巧妙なレトリックだった。

 

「帝国内地の人々は圧制を打倒して自由を求める戦いに立ち上がりました。圧制を憎み、自由を愛する気持ちに国境はありません。すなわち、彼らは同胞です。同胞が解放区からわずか数十光年の彼方で解放軍を待ちわびているのです。アーレ・ハイネセンの末裔たる我々が自由を求める同胞を見殺しにして良いものでしょうか。オーディンの宮廷では未だ混乱が続いています。解放軍が帝国内地の同胞とともに自由の旗を掲げてオーディンに行進すれば、圧制者はたちまち倒れるでしょう。自由の勝利は目前に迫っています。最後のお力添えを心よりお願いする次第です」

 

 コーマック理事長のスピーチは、いつの間にか謝罪から煽動にすり変わっていた。スクリーンの中の会見場は、大きな拍手に包まれている。それを眺めている俺は心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じていた。

 

 それから、民主化支援機構のサンテ宣伝局長と遠征軍総司令部の宣伝担当者ラモー准将がビラ問題の責任を取って辞任することが発表された。コーマック理事長とグリーンヒル総参謀長に紹介された後任者の名前は、茫然自失となっている俺の耳を右から左へと通り抜けていった。

 

 

 

 合同記者会見から世論の風向きは明らかに変わっていった。民主化支援機構と遠征軍総司令部と国防委員会情報部が、ビラ作成に関与した証拠となる文書を公表したこともあって、ビラを帝国軍の謀略文書とするトリューニヒトやレベロの主張は勢いを失っていった。

 

 遠征中止を唱える者が遠征継続派の政治家、遠征軍総司令部、民主化支援機構を「帝国に騙されて莫大な税金を浪費した愚か者」と攻撃したことも裏目に出た。

 

「我々は帝国に騙されたわけではない。多少予定が狂っただけだ。今、遠征を中止したら、三〇〇〇億ディナールの出費は無駄になってしまう。税金を浪費しろと言っているのは遠征中止派だ」

 

 継続派は既に莫大な税金を使ってしまったことを大義名分として、中止派に反撃したのである。俺には信じられないことであったが、三〇〇〇億ディナールが無駄になるという主張は、損失を三〇〇〇億ディナールで抑えるべきという主張より、はるかに強い説得力を持って受け入れられていった。

 

「前線の将兵を見よ。彼らは何のために苦労したのか。遠征を中止してしまえば、ただ帝国領に行って苦労して帰ってきただけに終わってしまうではないか」

 

 統一正義党のマルタン・ラロシュがこのような主張をしているのを立体テレビで見た時は、怒りではらわたが煮えくり返ってしまった。戦う意味なんか、とっくの昔に空腹とわがままな住民によって吹き飛ばされてしまった。望んでいるのは、前線を離れて本国に帰って、腹いっぱい食べてゆっくり眠ることだけだ。前線の代弁者のふりをして、前線に苦労を押し付けるなど許せない。

 

 反戦派が好んで使う「戦争に賛成するなら、まず自分が前線に行け」というロジックは好きになれなかった。後方にいることが前線にいることより卑怯とは思わない。前線にいるか後方にいるかは、立場や役割の違いにすぎない。後方のオフィスや工場で仕事をする人間がいなければ、前線の人間は戦えないのである。

 

 しかし、あまりに前線を蔑ろにした物言いをされると、主戦派寄りの俺でも反戦派のロジックに一理あると思ってしまう。実際、正規艦隊や陸戦部隊には反戦派を支持する者が多い。前線に後方の都合を押し付けてくる者を憎んでいる彼らは、反戦派の権力者批判に溜飲を下げるのだ。

 

 主戦派の俺ですら反戦派に共感したくなってしまうほどにふざけた「前線の苦労を無にしないためにも遠征を続けろ」という意見は、前線の怒りをよそに支持を広げていった。

 

 帝国内地の反乱勢力はいずれも同盟軍の侵攻を待ち望んでいる。「我らは自由を求めて帝国から逃れたハイネセンの末裔だ。自由のために戦う彼らを見捨ててはならない」という意見もハイネセン主義を国是とする同盟においては、説得力を帯びていた。

 

 占領地住民のわがままぶりは、遠征支持派でもさすがに取り繕うことができなかった。二〇〇〇億ディナールの追加予算に尻込みする意見も根強い。民主化支援機構と遠征軍総司令部がビラへの関与を認めたことで盛り返したとはいえ、継続派の意見も完全に受け入れられたとは言えなかったのである。

 

 継続派も遠征を継続したところでオーディンまで進めると本気で思うほど愚かではない。辺境星域にいる間に金と時間を空費しすぎたという事実、今の同盟軍に長期戦を継続する能力が無いという事実は理解している。

 

 時間が経てば経つほど、帝国の権力闘争は決着に近づいていく。オーディンで釘付けになっていた敵の正規艦隊が動き出す可能性が高まっていく。クーデター疑惑のあった近衛兵総監ラムスドルフ上級大将は、既に指揮権を剥奪されたという見通しが強くなっている。一ヶ月の猶予を与えてしまったのは、取り返しの付かない失敗だった。帝国の内憂外患に付け込む好機を逸してしまったことは、誰の目にも明らかであった。

 

 現在は「いつ、いかにして遠征を終わらせるか」が論点になっている。遠征中止派は即時中止を求め、継続派は一定の戦果をあげて勝利宣言を行った上での終結を求めた。ハイネセンでは、連日のように両派の激しい論争が続いていた。

 

 軍部では相変わらず中止派が優勢だった。統合作戦本部と国防委員会が中止論に傾いていること、困窮状態にある前線部隊に対する同情が大きな要因となっている。ロボス元帥の片腕とされる第八艦隊司令官サミュエル・アップルトン中将ですら中止派に転じており、同盟軍で遠征継続を支持しているのは、遠征軍総司令部と一部の強硬派ぐらいであった。

 

 強気一辺倒の主張を繰り返す遠征軍総司令部は、すっかり前線部隊の信頼を失ってしまっている。前線と総司令部の間の連絡窓口を一手に引き受けている作戦参謀アンドリュー・フォーク准将は、無理を押し付けてくる総司令部の象徴として、前線部隊の憎悪を一身に集めていた。

 

 総司令官ロボス元帥はおろか、総参謀長グリーンヒル大将、作戦主任参謀コーネフ中将、情報主任参謀ビロライネン少将、後方主任参謀キャゼルヌ少将も前線への対応にほとんど顔を出さないため、アンドリューがロボス元帥の耄碌に付け込んで、総司令部を壟断しているともっぱらの評判である。前の歴史の愚劣な参謀そのままの姿に変貌した親友のことを思うと、胸が傷まずにはいられなかった。

 

 

 

 一〇月一五日、最高評議会は賛成六、反対三、棄権二で遠征継続を決定し、二〇〇〇億ディナールの追加予算案を同盟議会に提出。一七日、同盟議会は賛成九〇四、反対五七二、棄権七八、欠席者八五で最高評議会の決定を支持し、追加予算案を可決。与党から大量の造反者、棄権者、欠席者が出たものの、過激主戦派野党の統一正義党が賛成に回ったため、僅差で遠征継続が決定した。

 

 その結果をシュテンダールの進駐軍司令部で知った俺は、あまりのショックに手に持っていたコーヒーカップを取り落としてしまった。机の上の書類にコーヒーの染みが広がっていくのも忘れ、呆けたようにニュースを伝えるスクリーンを眺めていた。

 

 第三六戦隊の士気低下は留まるところを知らない。勤務中に持ち場を離れてさぼる者、住民から物を盗もうとする者が相次いだ。住民に不正の方法を教えて、見返りを受け取っている者も出ている。軍規違反者を閉じ込める営倉は満杯で、物資を保管する倉庫は空っぽ。今の第三六戦隊は軍隊としての体裁を保つのも困難になりつつある。遠征継続決定なんて、想像しうる限り最低最悪の悪夢だった。

 

「私としたことが、彼らを追い詰めすぎてしまったようだ」

 

 携帯端末から聞こえるトリューニヒトの声は、潔く敗北を受け入れているように淡々としていた。

 

「まさか、彼らがビラを作成したことを認めるとは思わなかった。やられたよ」

「どのような意図があったのでしょうか?本当にあのビラを作ったとしても、今頃になって認める理由が俺にはわかりません」

「帝国に騙されたわけではない、自分達の手違いだ。そう言い張ることで、事態の主導権が帝国ではなく、同盟にあることを示そうとしたのだろう。死地に誘き出されたのであれば、遠征中止以外の選択は有り得ない。しかし、手違いであれば、仕切り直した上で遠征を続ける余地も出てくる。だから、作ってもいないビラを作ったと認めたのだろう。我々の主張の最大の弱点は、物的証拠がないことだった。だから、わざわざ証拠書類まで捏造して公表した彼らの主張が支持を得た。さすがというしかない」

 

 トリューニヒトの説明を聞いて、ようやく理解できた。そんな手段があったとは、想像もつかなかった。それにしても、前の歴史で「保身の天才」「権謀術数の芸術家」と言われたトリューニヒトが出し抜かれるなんて、パウル・フォン・オーベルシュタインやアドリアン・ルビンスキーが策を練っているとしか思えない。

 

「帝国やフェザーンが糸を引いてるということはないんでしょうか。委員長閣下を出し抜ける策士が同盟にいるだなんて、想像もつかないです」

「代議員であれば、数百万の有権者、支持母体、有力後援者など数百万から一千万人。評議員や派閥領袖であれば、自分の支持者に加えて傘下の代議員の支持者をも含む億単位。一人の政治家の背後には、それだけの集団が控えている。君達から見たら老害にしか見えない改革市民同盟の長老だって、何十年も支持者の集団を背負いながら、権謀術数の世界を生き抜いた猛者ばかりだよ。必要があれば、卑劣にも冷血にもなれる。あのサンフォードも寝業では超一流だ。彼らが簡単に出し抜けるような相手だったら、私もとっくに最高評議会議長になれてるんだけどね」

 

 そう言えば、二年前の麻薬捜査の時もトリューニヒトはアルバネーゼ退役大将に出し抜かれている。今回の遠征でもアルバネーゼ退役大将とロボス元帥を止めることはできなかった。テルヌーゼン補選では、憂国騎士団を使ったのが裏目に出て敗北している。

 

 今の歴史のトリューニヒトは負けることもあれば、狙いを外すこともある。前の歴史では単なる無能者とされるロイヤル・サンフォードやラザール・ロボス、名前すら残っていないルチオ・アルバネーゼに負けることだってある。遠征中止のキャンペーンだって、清廉潔白で権謀術数に疎いとされるジョアン・レベロの方が一歩早く仕掛けていた。

 

 歴史に名が残っている強者は、名が残っていない無数の強者との闘争を経て名を残すことができた。前の歴史の強者だけを意識していたら、足をすくわれてしまう。敗北して無能のレッテルを貼られた者や名前が残らなかった者も侮ってはいけない。軍人に関しては、軍務経験を経てそれを理解したつもりだった。しかし、文民に関しては、認識が甘かった。

 

 トリューニヒトが戦っている同盟の長老政治家達の実力、そして彼らのような強者ですら名を残せなかった歴史に名を残せた者の真の恐ろしさを肝に銘じる必要がある。バウル・フォン・オーベルシュタインやアドリアン・ルビンスキーも前の歴史の本で言われるような全知全能の策士ではなく、同等の力を持つ無名の強者との闘争を勝ち抜いた凄みゆえに、畏怖に値する存在なのではないだろうか。そんなことを思う。

 

「申し訳ありません、つまらないことを言ってしまいました。政治家は手強いということを改めて思い知りました。そして、委員長閣下が戦っておられる相手の恐ろしさも」

「勝つためなら、彼らは何でもする。こちらも手段は選んでいられない。だから、多少乱暴な仕掛けをしてしまうこともある。それでも彼らに出し抜かれてしまう。コーマックは単なる官僚だ。仕掛けたのはレンかオッタヴィアーニかアルバネーゼあたりかな。いや、オリベイラ博士の線もあるかもしれない。しかし、今さら詮索しても意味はない」

 

 最高評議会書記局長レン・ミンフーは、サンフォード議長の懐刀と言われている。改革市民同盟元幹事長パオロ・オッタヴィアーニは、トリューニヒトと対立する党長老で遠征軍総司令官ロボス元帥の有力な後援者である。

 

 エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・ オリベイラ博士は、二〇年近くにわたって歴代政権の指南役を務めてきた政治学者だ。三大難関校の一つ国立中央自治大学閥の頂点に立つ彼は、政界・官界・学界に超党派的な人脈を持ち、最高評議会の諮問委員を務めるフィクサーの中でも最大最強の存在とされる。

 

 前の歴史の評価では、オリベイラは小物、アルバネーゼやオッタヴィアーニやレンは評価対象にすらなっていない。歴史の知識だけで判断していたら、彼らがトリューニヒトを出し抜きうる存在とは想像も付かないだろう。しかし、現時点のトリューニヒトには、強敵と認識されている。

 

 これほどの大物であれば、遠征の先行きを見通すには十分な情報が集まってくるはずだ。トリューニヒトと渡り合えるほどの切れ者でもある。同盟軍の負けが見えないとは思えない。

 

「しかし、俺にはなぜ彼らが遠征継続に執着するのか理解しかねます。このままでは危ういということぐらい、わかっていないとは思えないのです」

「三〇〇〇億ディナールも遣って何の成果もなく遠征が中止されてしまったら、彼らの信用は決定的に失われる。遠征中止によって敗北を回避することができても、それで利益を得るのは私やレベロであって、彼らではない。遠征軍が戦わずに戻ってきても、戦って敗北しても、自分達に未来はないということに気づいてしまった。だから、戦果をあげて信用を取り戻す可能性に賭けたのだろう」

「六〇近い有人星系と一億人以上の人口を帝国の圧政から解放。十分な戦果とはいえませんか?」「代償を支払って手に入れたものには価値を見出し、代償無くして手に入れたものには価値を見出さないのが人間だ。現在の占領地域を戦闘によって手に入れたのであれば、流した血の量を思って満足することもできたかもしれない。しかし、現状では敵が捨てたものを拾っただけだ。三〇〇〇億ディナールに見合う戦果とは言えない」

 

 同盟軍は帝国の総国土面積の三割を制圧した。結果だけを抜き出せば、空前の大戦果と賞賛されてもおかしくない。しかし、そのような声は継続派、中止派のどちらからもあがっていなかった。

 

 敵が勝手に逃げ出しただけで、戦って勝ち取ったわけでもなければ、工作して寝返らせたわけでもない領土を戦果と認めるのは難しい。わがままで欲ばかり深く、解放者としての自尊心を満たしてくれない住民を保護下に置いたことを解放戦争の成功とみなすには無理がある。

 

 これは占領地の住民の心理にも当てはまるかもしれない。彼らの要求が果てしなく大きくなっていったのも、同盟軍が何の代償もなしに物資を供給したからだった。ホーランド少将がやったように少しでも代償を要求していたら、住民は代償と得た物を天秤にかけて満足していたことだろう。

 

 さらに言えば、この遠征のきっかけとなったイゼルローン要塞攻略も代償が少なすぎた。これまでの攻防戦に匹敵する血を流した末に攻略していたら、市民は「要塞も手に入ったことだし、これ以上の犠牲はごめんだ」と満足していたのではないか。まったく血を流さなかったせいで、さらなる戦果を求める声が盛り上がってしまったのではないか。

 

「議会で会議が始まる直前に、オーディンのローエングラム元帥が指揮下の艦隊を動員中という情報が代議員の間に流れたのが決定的だった。艦隊決戦の可能性が生じて、戦果を欲しがっている継続派への追い風となった。あれさえ無ければ、違う結果もありえた」

 

 あのラインハルト・フォン・ローエングラムがついに動き出した。事実だとしたら、最悪としか言いようが無い。

 

 同盟軍は物資不足と士気低下によって、本来の戦力の五割も発揮できない状態にある。進軍速度と距離から計算すると、本国から補給物資が届くより、ローエングラム元帥の艦隊が同盟軍の占領地まで到達する方が早い。

 

 しかも、同盟軍は広大な辺境星域を制圧するために戦隊単位で分散して、惑星を占領している。このまま戦えば、確実に各個撃破の対象となる。惑星全土に分散している占領部隊を戦隊単位で集結させ、戦隊を分艦隊単位で集結させ、分艦隊を艦隊単位で集結させて、ようやく帝国軍と対抗しうる戦力になる。占領地が不安定な上に士気が低下している現状では、集結は容易ではない。このまま艦隊決戦に持ち込まれたら、確実に敗北してしまう。

 

「その情報は事実ですか?偽情報の可能性はありませんか?事実だったら、真っ先に前線の俺達に伝えられるはずですよね?」

 

 間違いであって欲しい。心の底からそう願わずにいられない。

 

「信用に足る情報であるという中央情報局、軍情報部、フェザーン駐在高等弁務官事務所の所見付きだった。中央情報局長官、軍情報部長、フェザーン駐在高等弁務官はいずれも継続派に近い。この情報を切り札として、今日の会議直前まで温存していたのだろう」

 

 真っ先に前線に伝えるべき情報を、味方の情報機関が政治的な駆け引きに使うために隠していた。その事実に気が遠くなった。

 

「この時期に動員を始めるって、どう見ても罠でしょう!?同盟軍に艦隊決戦という餌を差し出して、誘き出そうとしてるんですよ!誰が見てもわかるでしょう!?」

 

 わかっているのに、なぜ引っかかるのか。そこまでして戦果がほしいのか。苛立ちのあまり、机に左手を叩きつけて声を荒らげてしまった。

 

「あまりにも身勝手すぎませんか?だって、継続派は遠征軍の生命をチップにして、博打を打とうとしてるってことでしょう!?」

「それが政治家だよ。政治家の権力の源泉は信用だ。信用あってこそ、人も金も集まってくる。信用を失った瞬間、権力を失う。そうなれば、彼らの権力の下で生きていた支持者も生きていけなくなる。ロボス君やアルバネーゼと同じだよ。支持者のためにも、パワーゲームから降りることができない」

「それはエゴです!」

 

 トリューニヒトが語る政治家の論理には、イライラさせられる。イオン・ファゼカスの帰還作戦が最高評議会で可決される前日もそうだった。彼はなぜ、政治家のエゴを何のためらいもなく肯定できるのか。

 

「個人のエゴではない。数百万、数千万、数億のエゴだ。政治家は個人ではなく、支持者の集団として捉えなさい。背負っている数の重みが彼らの力になっている。君も一〇万の兵を背負っているはずだ。君は一人ではない。一〇万人だ。それだけの重みを背負っている」

 

 一〇万の兵。トリューニヒトが口にしたその言葉に、はっとなった。そうだ、指揮官の俺が冷静さを失ったら、一〇万人が死ぬ。絶体絶命だからこそ、冷静にならなければいけない。

 

「力になれなくて、すまなかった」

「委員長閣下には可能な限りのお力添えをいただきました。ありがとうございました」

「私が頼んだぐらいでどうにもなることではないが、生きて帰ってきて欲しい」

 

 そう言うと、トリューニヒトは通信を切った。彼はどんな時でも落ち着いて話す。声から感情を読み取ることは容易ではない。携帯端末の向こうでどんな表情をしているのか、伺い知ることはできなかった。

 

 ローエングラム元帥が動員を開始したという情報は、俺一人の手に余る。参謀会議を開いて協議しようと思い、席を外してもらっていた副官のシェリル・コレット大尉を呼び出そうと携帯端末に手を伸ばした。

 

「司令官閣下」

 

 端末のボタンを押したところで、ちょうどコレット大尉が入ってきた。

 

「第二分艦隊司令部より通信が入っています」

「なんだろう。繋いで」

 

 俺の率いる第三六戦隊は、第一二艦隊の第二分艦隊に直属している。遠征継続が決まった直後の上級司令部からの連絡が良い知らせとは考えにくい。不吉な予感に苛まれながら、コレット大尉に通信を繋ぐように指示をする。

 

 スクリーンに映った第二分艦隊参謀長ジャン=ジャック・ジェリコー准将は、気の毒そうな表情で遠征軍総司令部からの指示を告げた。

 

「物資が届くのは一週間後。それまで各部隊は必要な物資を現地調達するように」

「現地調達ですか?」

「そうだ、現地調達だ」

 

 シュテンダールは典型的な単一作物農業惑星だった。一三〇万人の住民の大半は領主や農場委託経営業者が所有する土地で、サトウキビ栽培に従事している。住民が生産したサトウキビはシュテンダールの流通を独占している二人の貴族領主と一人の皇帝私領長官が一括して買い上げ、代金を住民に支払う。住民は貴族領主と皇帝私領長官が他の惑星から輸入した食料品や燃料その他の物資を購入して消費する。サトウキビの買い上げ価格、住民が消費する物資の価格決定権は、貴族領主と皇帝私領長官が握っている。

 

 要するにシュテンダール経済は、独占企業である貴族領と皇帝私領の行政府に完全に依存しているのだ。貴族と行政官が逃亡したら、シュテンダール経済は機能しなくなる。だから、第三六戦隊はサトウキビしか作れない住民に物資を供給し続けなければならなかった。

 

 帝国辺境の人口が少ない惑星は、ほとんどシュテンダールのような単一作物農業惑星か、あるいは住民の大半が鉱山関係の職業に従事している鉱山惑星だった。経済構造も全く同じで、貴族領やや皇帝私領や自治領の行政府が独占企業として経済を動かしていた。そのため、貴族や行政官が逃亡すると、経済機能が完全に停止して、同盟軍に生活を依存することになったのである。

 

 そんな惑星で調達できる物資などあるはずもない。住民に与えた物資を回収するとしても、代金を払って購入することは不可能だ。多額のフェザーン・マルクを持っている彼らがいつ紙切れになるかわからないディナールと引き換えに貴重な物資を渡すわけがない。残された手段は強制徴発。要するに武力で脅して奪い取るということだ。

 

「総司令部は強制徴発を指示していると受け取ってよろしいのでしょうか?」

「調達手段に関しては、各部隊の判断にまかせるとのことだ。フェザーン企業からの購入という手もある」

「商魂たくましいフェザーン企業でも、戦地のど真ん中に惑星一つを養えるような物資を持って乗り込んでくるということはさすがにないですよね?」

 

 ジェリコー准将は俺の問いに答えようとしない。自分の声が震えているのがわかる。目に涙が滲んできた。

 

「同盟軍刑法第九六条によると、戦地及び占領地において住民から財物を強奪した者には一年以上の懲役が課されます。強奪の際に住民を負傷させた場合は五年から一〇年の懲役、死に致らしめた場合は一〇年以上の懲役か終身または死刑です。我々が本国に帰った後に軍法会議に訴追されたら、総司令部には責任を取っていただけるのですか?」

 

 軍規に精通しているジェリコー准将にそんなことがわからないとは思わない。総司令部の方針を伝達しているだけというのもわかる。それでも、言わずにはいられなかった。涙がとめどなく流れ出る。

 

「各自の判断に任せるということは、問題が起きても『現場が勝手にやった』と総司令部の責任を回避する余地を作っていますよね?そのような指示を出す総司令部を現場が…」

 

 信頼できると思っているのですか。そう言いかけたところで、ジェリコー准将は悲しげに首を振った。

 

「それ以上はよしなさい、私だって」

 

 何かをこらえるように奥歯を噛みしめるジェリコー准将を見ると、これ以上怒りを吐き出す気にはなれなかった。

 

「もう一つの指示を伝える。本日オーディンを出発した敵艦隊は解放区に向けて進撃中である。各部隊は地上部隊を解放区に残して艦隊司令官のもとに集結し、敵艦隊の迎撃にあたるように」

 

 さっさと切り上げたいと言わんばかりに、ジェリコー准将は二つ目の指示を伝えた。

 

 今日の午前中に代議員に知らされた情報では、ローエングラム元帥の艦隊は動員中だったはずだ。どんなに急いで動員しても、即日動員など不可能である。要するに情報機関は遠征継続のために、この情報を一日以上伏せていたことになる。この状況での一日の遅れは致命的だ。敵が到着する前に艦隊ごとに集結するのは限りなく難しくなった。

 

 疲弊して集結もできない俺達は確実に敗北する。地上部隊は占領地に取り残されて、戦死か降伏に追い込まれる。最悪の指示としか言いようがなかった。

 

「参謀長。第三六戦隊は士気低下、軍規退廃、物資不足が甚だしく、もはや戦える状態ではありません。そのようにクレッソン司令官にお伝えください」

 

 ジェリコー准将は悲痛な表情で俺から視線を逸らした。第二分艦隊の指揮下には、第三六戦隊の他に三つの戦隊が所属している。配下の戦隊からの定期報告は、第二分艦隊司令部が集約して第一二艦隊司令部に届けている。だから、第二分艦隊の司令官クレッソン少将も参謀長ジェリコー准将も現状はわかっている。わかった上で戦えと言えるほど、彼らは非情ではない。スクリーンの向こうからも苦悩がありありと伝わってきた。

 

「最後に第一二艦隊司令部からの指示を伝える。三〇分後、一六時より艦隊将官会議が開かれる。必ず出席するように」

 

 ジェリコー准将は俺の返事も聞かず、逃げるように通信を切った。いたたまれなくなったのだろう。彼は他の二人の戦隊司令官にも同じ指示を伝えなければならない。それがどれほど心の痛みを伴う仕事なのかは想像に難くない。俺は参謀長がいなくなった真っ暗な画面に敬礼を送った。

 

 

 

 一六時、俺はビデオ会議用のスクリーンの前に座っていた。分割された大画面には、第一二艦隊司令官ウラディミール・ボロディン中将、副司令官ヤオ・フアシン准将、参謀長ナサニエル・コナリー少将、副参謀長シェイク・ギャスディン准将、艦隊後方支援集団司令官アーイシャー・シャルマ少将、分艦隊司令官三人、戦隊司令官一六人の顔が映っている。

 

「諸君の希望はわかっている」

 

 会議が始まると同時にボロディン中将は口を開いた。いつも腕組みをして会議を聞いている彼が、こんなに早いうちに発言するのは珍しい。

 

「もはや、第一二艦隊は戦闘を継続できる状態にない。総司令部にその旨を伝えて、再三にわたって撤退を進言したが、聞き入れられなかった。もはや猶予はない。私は司令官として、将兵に対する最後の責任を果たすつもりである」

 

 最後の責任とはどういう意味なのか。ボロディン中将は何を言うつもりなのか。出席者は固唾を呑んだ。

 

「地上部隊を収容後、すべての解放区を放棄。第一二艦隊はイゼルローンに後退する」

 

 誰もが待ち望んでいながら、口に出来なかった即時撤退。同盟軍きっての紳士、逸脱という言葉から最も縁遠い存在とみなされていた提督は、禁断の果実に手を出した。

 

「しかし、それでは抗命罪に問われます!敵前で無断撤退した司令官は死刑です!」

 

 参謀長コナリー少将は色をなして叫んだ。

 

「わかっている。しかし、部下に犬死にせよと命ずることはできない。もはや勝利が望み得ない以上、将兵を生きて帰すのが司令官の果たすべき責務であろう」

 

 いつもの物静かな表情を崩さずに、ボロディン中将は決意を語る。

 

「私の命で二〇〇万近い将兵が助かるなら安いものだ。そうは思わないかね?」

 

 ボロディン中将が軽く口角を上げて上品に微笑むと、コナリー少将もつられたかのように穏やかな表情になった。

 

「閣下以外にも何人か軍法会議の被告を出さなければ、上も収まりがつかんでしょう。小官もお供いたします」

「すまんな、コナリー少将。迷惑をかける」

「そんなことはおっしゃらないでください。このような戦いを将兵に強いた者どもの責任を軍法会議で問うてやるのも面白いではありませんか」

 

 ボロディン中将とコナリー少将のやり取りに、スクリーンの中の出席者は誰もがすすり泣いた。俺もその例外ではない。ボロディン中将と会話したことはなかった。コナリー少将は露骨に俺を嫌っていた。それでも、感動せずにはいられない。ノブレスオブリージュを果たさんとする真のエリートの姿がそこにあった。

 

「小官も副参謀長として、抗命の責任は免れませんね」

 

 先日三〇歳になったばかりの若き副参謀長ギャスディン准将は爽やかに笑う。士官学校を首席で卒業して、二〇代で将官に昇進したエリート中のエリートは、いともあっさりと輝かしい未来を捨てることを受け入れた。

 

「副司令官として、司令官を制止しなかった責任も問われますなあ」

 

 闘将にふさわしい精悍な面構えの副司令官ヤオ少将は大きな口を開けて、豪快に笑い声をあげた。彼にとことん嫌われていた俺ですら、惚れ惚れするほどに男らしくて格好良いと思った。

 

「少将中最先任の私も告発されるでしょうねえ。まあ、民主化支援機構のプランを率先して支持した落とし前を味方の銃口に付けてもらうのもそれはそれでありですか」

 

 第一二艦隊で最も民主化支援機構を支持していた後方支援集団司令官シャルマ少将は、吹っ切れた表情をしていた。この老いた女性提督が責任を取ることを最後の務めと定めたことは、誰の目にも明らかだった。

 

 なぜ、彼らはこうもあっさりと身を捨てることができるのだろうか。凡人の俺には非凡な人間の考えは理解できない。理解できないけど、たまらなく格好良い。

 

 シトレ派が多いこの艦隊では俺は嫌われていた。理想主義でエリート的なシトレ派とは、はっきり言って肌が合わなかった。しかし、この土壇場で彼らが見せたノブレスオブリージュの精神には心が震えてしまう。

 

 ためらいは無かった。そうするのが当たり前であるかのように、俺はすっと右手を上げた。

 

「司令官閣下!」

「何だね、フィリップス准将」

 

 ボロディン中将は温顔という形容がふさわしい表情を俺に向ける。この人を死なせるわけにはいかないと強く思う。

 

「総司令部作戦参謀のアンドリュー・フォーク准将は小官の友人です。総司令官の信頼厚い彼を通じて、第一二艦隊の行動に総司令部の許可がいただけるよう、交渉してみようと思うのですが、いかがでしょうか?」

 

 スクリーンの中の視線が一斉に俺に集中する。ボロディン中将は一瞬の間を置いて、首を縦に振った。

 

「そうだな。正式な許可を得られれば、他の艦隊も後退しやすくなる。第一二艦隊は許可が得られずとも後退する。理由は軍法会議にて弁明する。その旨も合わせて伝えてもらいたい」

「かしこまりました!」

 

 俺が敬礼すると、スクリーンの中の将官達は一斉に敬礼を返してくれた。初めて心が通じたような気がして、ほろりときた。

 

 まだ終わったわけではない。諦めるにはまだ早い。最悪の状況にあってなお、第一二艦隊の将官達は最善を尽くそうとしている。俺にもまだできることはあるはずだ。アンドリューは良い奴だ。話せばきっとわかってくれる。何としても第一二艦隊を救ってみせる。そう決意した。


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