銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第八十六話:背負いすぎた者達 宇宙暦796年10月17日 惑星シュテンダール進駐軍司令部

 シュテンダール進駐軍司令室のスクリーンに現れたアンドリュー・フォークを見た俺は、言葉を失ってしまった。肉がげっそり落ち、落ちくぼんだ目は異様な光を宿している。まるで表情筋が死んでしまったかのように顔が引きつっていた。

 

「久しぶりだね、エリヤ」

 

 アンドリューの笑顔はとても痛々しく感じられた。ぴくぴくと動く頬や口元を見るだけで、今の彼が笑顔を作るのも難しいほどに疲弊しきっていることを察するに余りある。声も台本を棒読みしているかのように平板だった。

 

「いろいろ話したいのはやまやまだけど、今は時間がない。手短に用件を頼む」

 

 総司令部と前線の間の連絡を一手に引き受けている彼が多忙なのは言うまでもない。しかし、俺には「時間がない」という言葉が別の響きをもって聞こえる。

 

 アンドリュー・フォークという人間はもう長くない。そう言っているように聞こえるのだ。不吉な予感が胸の中をどんどん侵食していく。押し潰されてはいけない。今の俺には第一二艦隊の運命がかかっている。

 

「わかった、用件を言うよ。第一二艦隊は撤退の許可を求めている。君から総司令官閣下にそう伝えてほしい」

「撤退?なんで?」

「第一二艦隊はもはや戦闘に耐えられる状態じゃない。士気は落ちきっている。軍規は乱れきっている。物資は底をついている。今戦えば確実に壊滅する」

「司令官のボロディン提督もそう言ってたね。そんな話はロボス閣下に聞かせられないから、引き取ってもらったけど。士気や軍規は指揮官の統率の問題じゃない?物資だってちゃんとやりくりすれば余裕はあるでしょ。実際、ホーランド少将の分艦隊は士気旺盛で物資も豊富だよ。努力もしないで、撤退したいなんて言い分が通ると思う?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、怒りで目の前が真っ赤になった。相手がアンドリューでなければ、怒鳴っていたに違いない。あのアンドリューがそんなことを本気で言うはずが無い。そう自分に言い聞かせて、ギリギリで自分を抑える。

 

「まさか、本気で言ってるわけじゃないよね?」

「本気だよ。勝利は目前なのに、どうして撤退しなきゃいけないの?オーディンからはるばる遠征してくる敵を解放区に引きずり込んで迎え撃てば、間違いなく勝てるのに」

「引きずり込まれてるのは俺達だよ。占領地に足止めされて、際限なくリソースを吸い取られて、部隊はボロボロになってしまった。敵は休養十分で物資にも不自由していない。地理も敵の方が詳しい」

「戦力は数と速度の二乗に比例する。平均すると、同盟の正規艦隊の実質的な運用速度は帝国の正規艦隊のそれを一五パーセント上回ってる。数式に当てはめると、同盟軍の正規艦隊は同数の敵の一.三倍の戦力を発揮できる計算になる。これは士官学校でも幹部候補生養成所でも学ぶ基本中の基本だ」

 

 確かにアンドリューの言う通り、正規艦隊の質は同盟軍が圧倒的に優っている。それゆえに数の上で優位に立つ帝国軍に対抗できていた。しかし、それも戦意と補給が十分でなおかつ戦力を集中できている状態に限られる。同盟軍は計算通りの戦力を発揮できる条件を完全に欠いている。

 

「帝国軍を率いるローエングラム元帥は一個艦隊の指揮官としては天才だ。でも、複数艦隊の運用経験は持っていない。艦隊、分艦隊、戦隊、群までの各級指揮官を全部経験の浅い若手に入れ替えてしまったおかげで、部隊単位の運用能力も急落している。昨日まで一艦しか指揮したことがなかった者が提督の称号を帯びて、数百隻の戦隊を率いてるなんてことも珍しくない。部隊運用は才能じゃなくて知識と経験の世界。どれほど勇敢で戦術に長けた指揮官でも、経験を積まなければ思うように部隊を動かせない。ただでさえ低い帝国軍の戦力はさらに低下してる」

 

 部下をまとめて命令を出す指揮はリーダーシップ、計画と連携と調整によって部署を動かす運用はノウハウである。指揮においては、臆病なベテランは勇敢な若手に劣る。運用においては、その逆となる。

 

 前の歴史において、ラインハルト・フォン・ローエングラムとともに人類世界を征服した名将達も現時点では運用経験を欠いている。卓越したリーダーシップを持っていても、運用経験が乏しければ思うように部隊を動かせない。艦隊から群に至る指揮官をすべて若手で入れ替えたラインハルトの部隊の戦力が大きく低下しているという分析自体は間違ってはいない。同盟軍の戦力がもっと低下しているという分析が加われば完璧だった。

 

「ローエングラム元帥と彼に登用された若手指揮官が優秀なのは間違いないよ。でも、彼らが優秀だからといって、各艦の艦長や部署長や下士官が急に優秀になるわけじゃない。そういった人材を育てるには、時間がかかるよね。各艦レベルでの運用能力も同盟軍は優位にあるのは言うまでもないね」

 

 それも正しい。一人前の下士官を育てるには一五年、艦長を育てるには二〇年かかると言われている。戦時中の現在ではそれぞれ五年は差し引く必要があるが、それでも同盟の優れた教育人事制度によって育てられた下士官や艦長の質的優位は容易に動かないはずである。仮にラインハルトが今から下士官教育や艦長教育を改革したとしても、成果が出るのは早くて一〇年後になる。しかし、いかに優秀な人材も戦意を失っていては力を発揮できない。

 

 ラインハルト配下の部隊の質は同盟軍正規艦隊よりもはるかに低い。だからこそ、策略を用いて戦意と物資を奪い取り、辺境に釘付けにして分散した状態の戦いを強要して、質の差を埋めようとしているのではないか。

 

 前の人生で戦記や伝記を読んだ時より、軍務を経験した今の方が理解できる。ラインハルト・フォン・ローエングラムの凄みを。彼は最初から無制限の権限と綺羅星のような名将と鍛えぬかれた精鋭をもって、勝ち易きに勝ったわけではない。限定された権限と未熟な指揮官と質の低い部隊をもって、難敵に挑んで勝つ方法を考え抜いた。

 

 必死で勝とうとする執念が、彼の天才的なひらめきの源ではないかと思える。ラインハルトの本質は天空を駆け巡る華麗さではなく、這いつくばってでも勝利をもぎ取ろうとする泥臭さではなかろうか。戦場を政治闘争のラウンドの一つと考えている連中がそんな相手に勝てるわけがない。

 

「帝国内地では反乱軍が炎のように広がっている。ローエングラム元帥が敗北して正規艦隊の半数を喪失すれば、帝国は内地の維持すらおぼつかなくなるのは明らかだ。追い詰められてるのは敵なんだよ?それがわからないの?」

 

 自信に満ちた表情で同盟軍に都合のいい話ばかりをとめどなく語るアンドリューは、もはや正視に耐えなかった。士官学校を首席で卒業し、宇宙艦隊総司令部で経験を重ねて、二〇代半ばにして同盟軍屈指の行軍計画のオーソリティーとされる優秀な参謀に、自分が言ってることの愚かしさがわからないはずがない。何かをごまかそうとするかのように空疎な弁舌を紡ぎだす友人がどうしようもなく哀れに感じられた。

 

「もう、やめようよ」

 

 涙で画面が霞んで見える。今日で三度目の涙。こんなときに出てくるのが叱咤ではなく、涙というのが小心な俺らしい。

 

「総司令部には各部隊からの報告が上がってるよね?士気や補給の不足が努力でどうにもならないレベルに達しているというのは、まともな参謀なら誰でも理解できるはずだ。そして、君はまともな参謀だ」

 

 俺が涙声で語りかけると、アンドリューの弁舌はピタリと止まった。

 

「総司令部が物資を現地調達しろって指示をしてきたよ。手段は各部隊に任せるって。でも、現地での購入は事実上不可能だよね。配給した物を力づくで接収する以外の選択肢は残されていない。しかし、自分の判断でそれをやってしまったら、帰国後に略奪行為の責任者として軍法会議で訴追される可能性が出てくる。各部隊に任せると言って、逃げ道を作ってる」

 

 アンドリューの目に浮かんでいた光は急速に輝きを失っていく。自信の仮面が剥がれていき、本来の理性が顔を覗かせてきたように見えた。

 

「総司令部は前線の俺達が置かれた現実を理解しているはずなのに、無茶な指示ばかり出してくる。軍規違反をしなければ生き残れない状態に追いやっておいて、責任を取ろうとしない。そんな総司令部の方針に従って戦うように部下に命令できるかどうか問われたら、自信が持てないよ。自分が信じられないものを部下に信じろなんて言えるはずがない。そんな状況で戦えると思う?」

 

 ふーっと息を吐いて、何かを考えているかのように目を細めた後、アンドリューはゆっくりと口を開く。

 

「わかったよ。強制徴発を許可する」

「君の一存で決められることなの?」

「心配はいらない。俺の権限は君が思ってるより大きいから。他の部隊にも俺の名前で通知しておく」

「補給部門の責任者は後方主任参謀のキャゼルヌ少将、参謀部門の責任者は総参謀長のグリーンヒル大将、遠征軍全体の責任者は総司令官のロボス元帥。君は補給部門、参謀部門、遠征軍のいずれにおいても責任者じゃない。作戦すら統括していないヒラの作戦参謀だ。そんな君の名前で何を保証できるの?」

 

 まっすぐにアンドリューの目を見る。涙で視界が曇っていても、アンドリューの目だけははっきりと捉えることができた。

 

「総司令官閣下に取り次いで欲しい。第三六戦隊司令官ではなく、第一二艦隊司令官ボロディン中将のメッセンジャーとして面談を望んでいると」

 

 そう言って、将官会議終了後にボロディン中将から送られてきた委任状を示した。

 

「それはできない」

「どうして?」

「撤退は許可できない」

「許可するかどうか決めるのは、君じゃなくて総司令官閣下だ」

「とにかく、だめなものはだめだ」

 

 面談を求めた途端にアンドリューは頑なになった。だが、俺も引くわけにはいかない。

 

「君が決めることじゃない。総司令官閣下が決めることだ。取り次いでくれ」

「取り次げない。これは俺の判断だ」

「艦隊司令官のメッセンジャーが総司令官に面談をしている。それも一個艦隊の進退を賭けて。作戦参謀の一存で却下していい案件じゃないのはわかるだろ」

「いいんだよ、俺の一存で却下する」

「君の責任問題になるぞ?」

「構わない。責任は全部俺が取る」

 

 はっきりと分かった。アンドリューは俺がロボス元帥に会うことを恐れてる。同盟軍刑法の規定では、命令や通報や報告を伝達すべき立場にある者が自分の一存で握り潰した場合は、五年以下の懲役刑に処される。もちろん、軍人としてのキャリアもそこで終わってしまう。そんな危険を冒してでも、彼は俺とロボス元帥の面談を阻止しようとしている。

 

 アンドリューを良く知らない者には、一介の参謀がロボス元帥を蔑ろにして暴走しているように見えるだろう。しかし、付き合いの長い俺には理解できる。アンドリューが尊敬するロボス元帥の意志を無視して動けるはずがない。暴走しているように見せかけるのが彼の狙いではないか。

 

 俺とロボス元帥が面談すれば、ロボス元帥は第一二艦隊の進退に対して何らかの判断を求められる。撤退を拒否すれば第一二艦隊壊滅の責任、許可すれば第一二艦隊管轄の解放区失陥及び遠征中止の責任が降り掛かってくる。しかし、俺と面談しなければ、彼自身が責任を負うことはない。アンドリューが勝手に握り潰したと言い逃れることができる。

 

 撤退を許可できないというアンドリューの発言は、間違いなくロボス元帥の意思から出ている。アンドリューに前線と総司令部の間の連絡を任せ、彼の独断で総司令部が動いているように印象づけているのも、いざという時は参謀の暴走として言い逃れるためではないか。

 

 前の歴史では、ラザール・ロボスは無気力ゆえに参謀の暴走を許した司令官、アンドリュー・フォークは司令官を蔑ろにして暴走した愚劣な参謀と評価されている。しかし、俺が知るロボスは失脚寸前まで追い込まれても勝機を待ち続けた不屈の闘士、アンドリューは純粋で真面目な好人物だった。

 

 同盟の権力者の恐ろしさは、帝国領遠征をめぐる一連の動きでさんざん思い知らされた。前の歴史で無能と評価された者、評価対象外だった者でも途方も無い力を持っていた。ロボス元帥もそんな権力者の一人、しかもあのヨブ・トリューニヒトに「軍人にしておくにはもったいないほどの政治家」と評された策士である。忠実な部下をダミーに仕立てて、無気力を装いながら一切責任を負わずに遠征軍総司令部を動かす程度の芝居はお手の物であろう。

 

 もしかしたら、ほとんど前面に出てこない総参謀長グリーンヒル大将、作戦主任参謀コーネフ中将、情報主任参謀ビロライネン少将、後方主任参謀キャゼルヌ少将ら総司令部首脳陣も無為を装って、アンドリューをダミーに使っているのかも知れない。

 

 グリーンヒル大将は人格者、コーネフ中将とビロライネン少将は忠臣、キャゼルヌ少将は前の歴史の英雄で、いずれも卑劣とは程遠い人々であるが、軍中枢の派閥闘争を生き抜いてきた政治家でもある。個人の良識や信念より優先すべき物を背負っている人間は、必要があれば卑劣にも冷血にもなれる。それぐらいの覚悟がなければ、数十万人や数百万人の生死を背負う軍幹部は務まらない。

 

 ロボス元帥に何らかの見返りを提示されて引き受けたのか、自分から志願したのかは知らないが、アンドリューを通じてロボス元帥に面談できる可能性は失われてしまった。アンドリューは全力でロボス元帥と総司令部のスタッフを守ると決めている。俺には彼を止めることはできない。

 

「やっぱり、友達は家族には勝てなかった」

「ごめん」

 

 アンドリューは落ちきった頬の筋肉を必死で動かして、曖昧な笑顔を作った。俺に対して罪悪感を抱いていることが感じられて、一層心が痛む。政治に足を踏み入れるには、アンドリューは善良過ぎた。

 

 イゼルローンまでの撤退戦を生き延びられるかどうかはわからない。これが最後の会話になるかもしれない。そう思えば名残惜しくなるが、いつまでもだらだらと話を続けるわけにはいかなかった。これから第三六戦隊の参謀会議、指揮官会議を開いて、シュテンダールからの撤収について話し合わなければならないのだ。

 

「ボロディン中将からの伝言をもうひとつ預かってるんだ。総司令官閣下に取り次ぐかどうかは、君が決めればいい。とにかく聞いて欲しい」

「なに?」

「第一二艦隊は許可が得られずとも後退する。理由は軍法会議にて弁明する。以上」

 

 俺がボロディン中将からの二つ目の伝言を伝えた途端、アンドリューは顔色を変えた。

 

「だめだ、そんなの認められない!」

「許可が得られなくてもいいと言ってた」

「抗命罪になるぞ!?司令官だけじゃない。主だった幹部はみんな責任を取らされる!誰も止めなかったのか!?」

「誰も止めなかった」

「死刑だって有り得るんだぞ!?」

「全員覚悟を決めているよ」

「エリヤ!なんで君は止めなかったんだ!第一二艦隊が勝手に撤退したら、作戦が破綻してしまう!君も死刑になるぞ!」

 

 アンドリューの言う通り、第一二艦隊が撤退したら、前線に大きな穴が開いてしまう。辺境星域全体に薄く広く展開する同盟軍には、その穴を埋めるだけの余裕はない。同盟軍は戦線を維持できなくなり、全軍即時撤退以外の選択肢が失われる。ボロディン中将はそれを見越した上で、無断撤退を決断したのだ。

 

「君と同じだよ。みんなそれぞれに守るべきものを持ってる。ある人にとっては部下、ある人にとっては矜持、ある人にとっては理想。人それぞれだけど、自分の身を捨てて守ろうとしている。君が後に引けないのはわかる。でも、第一二艦隊も後に引く気はない」

「あと一週間待ってくれ!そうしたら、物資が前線に届く!帝国軍を破ってから凱旋できる!死刑覚悟で撤退しなくてもいい!」

「今の第一二艦隊には一週間は長すぎる。それに無事に物資が届くとは限らない。君の言う通り、ローエングラム元帥配下の指揮官は大部隊の運用経験が浅い。だから、運用しやすい小部隊単位に分かれて辺境星域に侵入し、補給路の遮断を試みる可能性もある」

「輸送部隊にはルイス少将率いる第四独立機動集団を中心とする五〇〇〇隻の護衛部隊が付く!あのアスターテの英雄だぞ!?総司令部もちゃんと配慮してる!」

 

 ちゃんと記憶していないが、前の歴史では遠征軍総司令部は一〇〇隻に満たない護衛しか輸送船団に付けなかったと本で読んだ覚えがある。司令部直轄戦力の四分の一に相当する五〇〇〇隻もの護衛部隊を付けるなんて、ずいぶんと奮発したものだ。

 

 第四独立機動集団は巡航艦と駆逐艦を中心とする三〇〇〇隻ほどの高速部隊。司令官のポルフィリオ・ルイスはアスターテであのヤン・ウェンリーとともに全軍崩壊を防いで勇名を馳せた気鋭の提督。他に三個戦隊程度の独立部隊も加わってるはずだ。誰の差し金かは知らないが、輸送部隊の護衛戦力としては豪華過ぎると言っていい。それでも一週間は待てない。

 

「ローエングラム元帥の艦隊は今日オーディンを出発した。余裕を持って行軍すれば一週間後、急いで行軍すれば五日前後で辺境星域に到達する。物資が届く前に戦闘突入しちゃうよ」

「二日ぐらい持ちこたえられるだろ!?」

「三時間だって無理」

「なあ、頼むよ!ボロディン中将を説得してくれ!」

「それはできない」

「どうしてだよ!友達だろ!」

 

 やっぱり、俺は凡人だ。懇願するアンドリューを突き放せない。

 

「ごめんね。君は友達だよ。でも、ロボス元帥は友達じゃない。君の力にはなりたいけど、ロボス元帥の力にはなれない」

「考え直してくれよ、頼むから!この遠征が失敗に終わったら、俺達はもう…!」

 

 必死なアンドリューに同情が湧いてくる。心は決まっているのに、彼を傷つけたくないと思ってしまう。これ以上話し続けたら未練が残る。ここで終わりにしなければ。

 

「第一二艦隊はイゼルローンまで後退する。総司令官閣下に取り次いでもらえたら助かる。話ができて嬉しかった。生きて帰れたら、また会おう」

 

 せめて笑って別れよう。そう思って泣き笑いの顔で別れを告げると、アンドリューの目が焦点を失い、顔全体がぴくぴくと痙攣を始めた。

 

「アンドリュー、どうした?おい、大丈夫か!?」

 

 やがて、痙攣はアンドリューの体全体に広がり、顔は何かに驚いているかのように強張った。唖然とする俺の目の前で、アンドリューは糸が切れた人形のように崩れ落ち、スクリーンから姿を消した。

 

「何が起きたんだ!おい!返事してくれ!」

 

 親友の異変に取り乱した俺は、誰もいないスクリーンに向かって叫んだ。

 

「閣下、落ち着いてください」

「落ち着けるわけ無いだろう!」

 

 側に控えていた副官のシェリル・コレット大尉の制止にも構わず、俺は叫び続けた。

 

「誰もいないのか!教えてくれ!何が起きた!?」

 

 背後からいくつもの足音が聞こえてくる。騒ぎを聞きつけた参謀達が司令室に入ってくるのもかまわず、俺が叫んでいると、スクリーンに白衣を着た壮年の男性が現れて敬礼をした。

 

「総司令部衛生部のダニエル・ヤマムラ軍医少佐です」

「小官は第三六戦隊司令官エリヤ・フィリップス准将である。フォーク准将に何があった?状況を説明せよ」

「フォーク准将閣下は急病につき、医務室に搬送されました」

「命に別条はないか?」

「転換性ヒステリーによる心因性視力障害です。一時的に視力が低下しますが、いずれ回復します」

 

 ヒステリーという負のイメージが強い病名に少々ひっかかりを感じたが、質問を続ける。

 

「どのような病気なのだ?」

「挫折感が異常な興奮を引き起こし、視神経が一時的に麻痺するのです。一五分もすれば一時的に見えるようになりますが、この先、何度でも発作が起きる可能性があります。原因が精神的なものですから、それを取り去らない限りは完治は困難でしょう」

「原因とは何だ?」

「逆らってはいけません。挫折感や敗北感を与えてはいけません。誰もが彼の言うことに従い、あらゆることが彼の思うように運ばなくてはなりません」

 

 ヤマムラ軍医少佐の説明を聞いて、頭がくらっときてしまった。そんな治療をしなければいけないメンタルの病気なんて、聞いたことがない。

 

「それが治療なのか?小官も管理者としてメンタルケアの指導を受けた経験があるが、そのような対応が必要なケースがあるとは、寡聞にして聞いたことが無い」

 

 俺の問いにヤマムラ軍医少佐はやや狼狽の色を見せたが、咳払いをして言葉を続ける。

 

「これはわがままいっぱいに育って、自我が異常拡大した幼児に時として見られる症状です。したがって善悪が問題ではありません。自我と欲望が充足されることだけが重要なのです。したがって、前線部隊の方々が准将閣下の指導に従って遠征を成功させて、准将閣下が賞賛の的となる。そうなって初めて、病気の原因が取り去られることになります」

 

 単なる説明以上の悪意がこもったヤマムラ軍医少佐の言葉にいらっときてしまう。わがままいっぱいに育って自我が異常拡大した幼児なんて、ロボス元帥に無私の忠誠を誓うアンドリューとは正反対ではないか。アンドリューが遠征を主導しているかのような前提でヤマムラ軍医少佐が話しているのも気に入らない。

 

「軍医少佐はフォーク准将の内面に随分と詳しいらしい。小官は彼と知り合って五年になるが、そのような人物だとは寡聞にして知らなかった。貴官はよほど彼と深い付き合いなのだろうな。今日は教えられてばかりだ」

 

 自分の口からこんな皮肉が出てくることに驚いてしまった。遠征を継続した同盟の権力者、前線に無理を押し付ける総司令部、アンドリューをここまで追い詰めてしまった人々、そして何もできなかった自分への苛立ちを、三階級下のヤマムラ軍医少佐にぶつけてしまっている。将官としてあるまじき態度だ。抑えろと自分に言い聞かせる。

 

「総参謀長閣下に替わります」

 

 ようやく俺の顔色を察したのか、ヤマムラ軍医少佐はスクリーンからそそくさと姿を消した。代わりに端整な紳士風の人物がスクリーンに姿を現す。

 

「遠征軍総参謀長のグリーンヒル大将だ。用件があれば、私が聞こう」

 

 総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将は同盟軍でも屈指の社交能力の持ち主として知られる。シトレ派ではあるが、ロボス派やトリューニヒト派とも親交があり、すべての派閥に顔が利く稀有な存在であった。巨大な官僚組織たる軍においては、あちこちに顔が利くというのはきわめて有用な能力である。

 

 彼との付き合いはほとんど無かったが、俺の将官昇進祝賀会に顔を出してくれた唯一のシトレ派幹部であり。優秀なエドモンド・メッサースミス大尉を第三六戦隊司令部によこしてくれた恩もある。物分かりが良く、目下に対しておごらないという評判が鳴り響いていることもあり、良いイメージがある。

 

 アンドリューがああなった瞬間を見ていた俺としては、今頃になって出てきやがったという不快感も無いわけではなかったが、話が通じるのではないかという期待感がそれをはるかに上回った。

 

「ありがとうございます。第一二艦隊は撤退の許可を求めています。総司令官閣下への取り次ぎをお願いします」

 

 ボロディン中将の委任状を示すと、グリーンヒル大将は困ったような表情になって軽く首を傾げた。

 

「総司令官閣下は昼寝中だ。第一二艦隊の要望は起床後に伝えよう」

 

 出兵中の高級指揮官は二四時間勤務中みたいなものだから、必要があれば随時睡眠を取り、非常時に備えて体力を温存することが非公式に認められている。しかし、今は一刻の猶予も無い。よりによって、こんな時に睡眠中とは間が悪すぎる。

 

「事が事ですので、今すぐお呼びいただけるとありがたいのですが」

「敵襲以外は起こすなとの厳命である。第一二艦隊の要望は起床後に伝える」

「総司令官閣下はいつ頃起床されるのですか?」

「私にはわかりかねる」

「普段は何時間ほどすれば、起床されるのですか?」

「決まっていない。とにかく起床後に伝える」

 

 問答を続けるうちに、ようやくグリーンヒル大将の意図に気づいた。ロボス元帥は今度は狸寝入りという手段に出たらしい。

 

 政治家や官僚などの要人は「面会したくないけど、追い返せない相手」に急な用件で面会を申し込まれると、「急用で外出中」という手段を使う。秘書に「急用で外出中。戻り次第折り返し連絡する」と言わせて相手を帰らせる。折り返し連絡なんか絶対にしないし、求められても「まだ戻っていない」と秘書に言わせる。再度面会を申し込んでも「急用で外出中」と突っぱねる。面会を申し込んだ側も忙しいから、しつこく食い下がれない。そうやって、用件そのものが消滅するまで時間稼ぎをする。

 

 エル・ファシル警備艦隊や第一一艦隊で要人と折衝する仕事をしていた時に、この手で良く逃げられたものだった。イゼルローン要塞で総司令官が外出する用事なんてそうそうないから、「昼寝中」にアレンジしているのだろう。

 

 ロボス元帥は「敵襲があった場合は起こせ」と一言付け加え、「職務怠慢ではない。戦いに備えて体力を温存していたのである」と言い逃れる余地を残した。グリーンヒル大将は起床予定時間を曖昧にして、こちらが一日待ち続けたとしても、「まだ昼寝中」と言い張る余地を作った。嫌らしいぐらいに予防線が張リ巡らされていた。

 

 ロボス元帥は「戦いに備えて休養を取っていたから聞いてない」、グリーンヒル大将は「起床後に伝えると言った。起きてないから伝えられなかった」と言い逃れつつ、時間を稼いで第一二艦隊の撤退許可申請をうやむやにするつもりではないか。撤退の機を失った第一二艦隊が申請を取り下げて、惰性で占領地に留まればしめたものだろう。

 

 グリーンヒル大将と話しても埒があかないと判断した俺は、さっさと話を切り上げることにした。彼が良識のある好人物であることは間違いない。しかし、それは個人としての顔であって、公人としては軍部の権力闘争を生き残って最高幹部に上り詰めた政治家だ。彼が第一二艦隊の撤退許可申請をまともに取り次ぐ可能性は、万に一つもない。

 

「第一二艦隊は許可が得られずとも後退します。理由は軍法会議にて弁明するとのことです。こちらも総司令官閣下が起床された後にお伝え下さい」

 

 精一杯の笑顔を作ってグリーンヒル大将に答える。彼は悪くない。俺達を犠牲にしてでも守らねばならない物があるだけだ。しかし、俺達にもグリーンヒル大将の思惑を挫いてでも守るべき物がある。優先順位が違うに過ぎない。彼を憎んではいけない。そう自分に言い聞かせる。

 

 グリーンヒル大将の返事を待たず、俺は通信を切った。

 

「閣下…」

 

 心配そうなコレット大尉の声でようやく我に返った。周囲を見ると、参謀達が真っ青な顔で俺を見ている。よほどピリピリしていたらしい。こんな非常時に部下を不安にさせるなんて、指揮官失格としか言いようがなかった。だが、失格でも指揮官は指揮官である。務めは果たさなければならない。

 

「心配かけてごめん。総司令部との交渉は決裂した」

 

 笑顔を作って、頭をペコリと下げる。安堵する参謀達の顔を見て、ようやく自分のいるべき場所に帰ったような気がした。ここは権謀術数の場と化した総司令部とは違う。戦う司令部である。

 

「コレット大尉。参謀会議と指揮官会議で使う資料の用意を頼む」

「はいっ!」

 

 俺の指示にコレット大尉は、これ以上無いぐらいにピシっとした敬礼を返す。出兵が始まってから、随分と軍人らしく引き締まった雰囲気になった。士官学校を受験した際にダーシャにキリッとしてると評されたのも肯ける。前線の緊張感が良い影響を与えているのだろう。

 

「参謀長。各群司令、各旅団長、各支援部隊の長、各市町村の宣撫担当チームに撤退を伝えてくれ」

「承知しました」

 

 戦場だろうとパン屋だろうと締まりのない雰囲気に変わりがない参謀長チュン・ウー・チェン大佐であったが、どういうわけか敬礼だけはいつも教本のように端整だった。

 

「第一二艦隊司令部に総司令部との交渉結果を伝えた後、参謀会議を開く。参謀会議終了後は指揮官会議。しばらくは休む暇も無いと思うけど、ここが正念場だ。頑張って欲しい」

 

 俺の指示に参謀達は一斉に敬礼を返した。今から第三六戦隊の長い戦いが始まる。行き着く果てに何が待ち受けているかは分からない。願わくば、一人でも多く生き残って帰って欲しい。そう願わずにはいられなかった。


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