私は高校時代から廃墟探索が趣味だった。
だから、「そこ」を見つけたのも、日常的に行っていたフィールドワークという名の不法侵入の一環だった。
実話怪談が好きで暇を見つけては心霊スポットを一人で回る。大抵は何も見つからず、服の汚れと疲れだけを残して終わるのだが、その日だけは違った。
降り積もった塵や埃で覆われた荒屋の一室。
茶色い木製のドアに外れかけた金属の円形のドアノブを何気なく捻って開けた先には、
以来、私はそこをこの世界の裏に属する世界という意味を込めて〈裏側〉と呼んでいる。
***
うん……。ヤバイ。これは凄くヤバイ状況だ。
高校生の時から一人で廃墟探索なんてやっていた時から、危ないなとは思っていたけど、まさかこんなことになるとは流石に想像できなかった。
〈裏側〉の中にある色褪せた広大な草むら。暗い木立や小さな廃墟らしきものは点在しているものの、基本的に見えるのは水から生えている背の高い草だけの場所。
そこで私が見たものは縦に無理やり引き延ばした人影だった。
色は濁りのある白。
狼煙に似たようにゆらゆらと蠢くそれは、人型ではあったけれど、致命的に人間性が欠如した存在に見えた。
その白くて細長い人影は痙攣するように身をくねらせ、水に浸かった草原の上で踊っていた。
楽しいのか、それとも苦しいのか。くねりくねりと。
くねりくねり。
くねりくねりくねり。
くねりくねりくねりくねり。
「う……」
視界の中でそれが身を捩る度に頭が痛くなる。気持ちが悪い。
でも。
何故だか目を離すことができない。
むしろ、もっと見なくちゃいけないという気にさえさせられる。
例えるなら、朝、目を覚ました時に直前まで見ていた夢の記憶を手繰り寄せるようとするような感覚。
これを見ていれば、何かに気付けそうな、もどかしい気分にさせられる。
「いや……だめ。これ以上は……もう」
くねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねり。
もうこれ以上見ていてはいけない。そう思うのに視線を逸らせない。
けど、もう少し……。
もう少しで何か忘れていた記憶を思い出せるような、自分の知らない未知を理解できるような、そんな感情が脳内を占めていく。
「うっ、うっ、うううううううううううっ……‼」
口元から唸り声と共に涎が流れる。
思考が汚染されている。目の前のくねる白い人影に、私の頭を汚そうとしている。
脳内が外的な何かに満たされていく感覚に不快感と強い恐怖を感じた時——。
「何だ。てめえ……。くねっくねっ動きやがってよぉ!」
中年のオッサンの声が聞こえた。
奇怪に揺らめく人影の後ろに、誰か見えた。
人間だ。多分、三十代後半から四十代くらいのオッサン。
サイドは短く刈り込んでいるのに、前髪だけはオールバックに撫でつけている。チンピラか一昔前のヤクザがしていそうな髪型だ。
手前に居る人影はぼやけて見えるのに、オッサンの方は剃らずに伸びた無精髭まではっきりと視認できる。
「舐めてんじゃねーぞ! オラァ!」
オッサンはその手に長いカツラのようなものを握って、白い人影を殴り付けた。
うん……?
その人影、物理的な攻撃が効くの? というか、このオッサン何者!?
脳裏に疑問が湧き出し始め、思考が汚染させる感覚が消え去ったことに気付く。
私が目の前の状況を正常に考えようとしたせいなのか、オッサンが人影にカツラパンチを食らわせたせいかは分からないが、ひとまず、あの嫌な感覚はもうしない。
「オラッオラッオラァ!」
殴られて傾いだ人影に再度、殴る。殴る殴る殴る。
武道の達人のような正拳突きじゃない。本当にチンピラや不良がやるような素人めいた殴り方だ。
オッサンの握ったカツラ……というか女性の髪の毛を集めて束ねたような塊は、白い人影に衝突する度にゴシャっと水気を含んだ布を叩くような湿った音を響かせた。
次の瞬間、ぐりんと絞られた雑巾のような捻じれ方をした白い人影は――消滅した。
視覚的には蒸発といった方が正しいかもしれない。マジックショーのようにパッと消えた訳ではなく、高温に熱した鉄に水を数滴零した時のような消滅の仕方だった。
「うおっ、消えやがった……。何だ、ここは。緑色のミミズの次はヘンテコなくねくね野郎かよ。ん? そこに誰か居るな? 市川……じゃねぇな」
ヤバい。白い人影が消えたことでオッサンが私の姿を見つけてしまった。
どうしよう。一応、人間には見えるけれど、あのよく解らない人影を殴って倒したこの人も〈裏側〉の住人ではないという確証もない。
そして、仮に人間だとしても正気か怪しい。
「おい。聞こえてんだろ? 返事しろよ、返事!」
「は、はい! き、聞こえてます……」
怒鳴り声につい返事をしてしまう。
心霊映像とは比較的平気だけど、こういう暴力で物事を解決する人間に対してはまるで免疫がない。
ビビりながら、相手に媚びるように上目遣いでそーっと見ると、オッサンはじっと睨むように私を眺めている。
緊張が全身に走る。あわや私まであのカツラパンチによる打撃を喰らってしまうのかと覚えていたところ、返って来たのは溜息だった。
「やっぱ市川じゃねぇよな。……まあ、話通じんならいいや。それよりここはどこなんだ」
「えーと、私もよく解らないです。ただ向こうの建物のドアを開けたら、この草原が広がってて……それで入ってみたというか」
しどろもどろになりながら視線をオッサンの顔からずらして喋る。
ああ……止めてくれ。こういうのボッチ女子大学生には荷が重すぎる。大体、私だってこの場所に足を踏み入れるのは三回目なんだ。
それも五十メートル以上、ドアから離れたのは今回が初。
こっちの方が色々聞きたいくらいだ。
「あ……」
「何だよ、急に変な声出して」
いけない。まずは最初に言うべき台詞があった。
向こうはそのつもりはなくても、結果的にしてもらったならお礼の一つでも言っておくのは日本人として最低限の礼儀だろう。
「その、ありがとうございました。私、あの白い人影を見て、頭がおかしくなりそうだったので……」
「あのくねくね野郎か。まあ、お礼なんて別に要らねえよ。どうしてもって言うなら、そうだな。一発やらせろ」
「はぁー!?」
何を言い出すんだこのオッサン。
最低だ。本当に最低の人間。
私の中でのこの男の認識が『命の恩人』から『下品なクソ親父』にまで転落する。株価でいえばストップ安だ。
貞操の危機を感じ、身体を自分の手で押さえ、オッサンから数歩後退りして距離を取る。
「冗談だよ、冗談。んな顔すんなよ、俺が悪ぃみてぇだろうが!」
いや、百パーセントあんたが悪いわ!
何で逆切れしたんだ、この人。どういう神経しているんだろうか。
向こうも私が本気で不愉快に感じているのを察すると、若干だが罰が悪そうに頭を掻いた。
「ま、なんだ。俺は
どのタイミングで自己紹介してんだよ! 正直、好感度駄々下がりで対応に困る。
だが、相手が名乗った手前、こちらも無言を貫くことはできず、こちらも渋々と名前を名乗った。
「……私は
「ソラ夫? 何だ、お前。男だったのか?」
「
流石に男扱いされるのは絶え切れず、カッとなって工藤に言い返す。
今はジャージ姿だけど、胸だってちゃんと付いてるだろうが! ……同世代の女の子より、少し、いや、かなり小さいけれど、あるかないかでいえばある。
「分かった分かった。そんじゃ紙越。その入口って奴の場所を教えてくれ」
工藤は投げやりな態度で私にそう頼んで来る。
どうしてやろうか。既に私の中の工藤の株価は大暴落している。素直に教えたいという気持ちはゼロに等しい。
だが、このオッサンを撒いて、入口まで戻るのは至難の業だ。逃げている間に草むらしかないこの場所で迷子になる可能性だってある。
それにもし逃げて追い付かれたら、それこそ何をされるか分かったものじゃない。
「…………分りました。教えます」
「今、何か間がなかったか?」
「イイエ、ソンナコトナイデス」
「この
ぼんくらに見えて観察眼があるのか、即座に私の目論見は見透かされた。
まずい。私も殴られるかもしれない。
引きつった苦笑いを浮かべ、どうにか誤魔化そうと視線を動かすと、工藤の少し先の草むらに何か光るものを発見した。
ちょうど白い人影が消えた辺りの草むらだ。
これはいい。何だかしないけど話題を変えるチャンスだ。
「工藤さん。足元に何か光るもの落ちてますよ」
「お前、俺がそんな手に……マジじゃねぇか!」
疑っていた彼だったが、下を見て私の発言が嘘ではないと理解した瞬間、急いで草むらをかき分けて、光を反射したものを拾い上げた。
工藤が拾ったそれは一辺が五センチくらいの、銀色の正六面体。それぞれの面は鏡のように滑らかで、空から注ぐ光を反射している。
「おい、こりゃ金になりそうだな。鬼神兵とのやり合って異界に送られた時にはもう終わったかと思ったが、案外俺の付きも消えてなさそうだ」
キシンヘイ? 誰かのあだ名だろうか。昔金曜ロードショーで見たジブリ映画にそんな名前のキャラが登場したような気がするが、関係ないだろう。
それより異界に送られたってなんだ。この〈裏側〉のことだろうか。
何にせよ、この工藤という男のことはどこまでが本当なのか分からない。
けれど、工藤があの白い人影を倒したことは確かだ。
私がこの〈裏側〉を探索するためのボディガードになるかもしれない。
もう一度、あの廃墟に戻ったら、少し奴と交渉してみるのもありだろう。
そう考えて、私は工藤を連れ、元来た道を引き返す。
これが明確な、初めての〈裏側〉探索だった。
この工藤さんは時系列的には劇場版コワすぎの直後を想定しています。