「あの、そのカツラみたいなの、何なんですか?」
銀色の正六面体を手に入れて上機嫌になった工藤を連れて、廃墟の一室に戻った私は開口一番でそう尋ねた。
女の黒髪の毛を掻き集めて、撚り合わせたような不細工な集合体。明らかに非物質的な白い人影を殴り付けた道具。
そして、何より工藤が持つそれから漂う熱気にも似た異様な感覚が、どうにも無関心ではいさせてくれなかった。
部屋にある埃塗れのテーブル付近にあった椅子に彼は腰を下ろすと、そのカツラのようなものをテーブルの上に無造作に置いてみせる。
「ああ、これか? こいつは『呪いの髪飾り』だ」
「呪いの髪飾り……?」
実話怪談に出てきそうな、チープかつ曰く有りげな単語に好奇心が
ただ髪に付ける飾りにしては些か大き過ぎる気がする。付け毛みたいなものだろうか。
工藤は私が興味津々なことを見るや、得意げに腕組みをして語り出す。
「おうよ。こいつはな、『コワすぎのファイル01』を撮った時に手に入れたもんでな、口裂け女が残していった、人毛で作られた飾りなんだよ。この髪飾りはその口裂け女が人を呪い殺すために作った呪具らしい」
「ええ! じゃあ、それ、髪飾りじゃなくて、髪の毛で編まれた飾りじゃないですか⁉︎」
予想を遥かに超えたヤバい物だった。
というか、それ所持してで大丈夫なのか? そんなアイテム使っている工藤も呪われるんじゃ……。
そう思って聞いてみると、事もなさげに返した。
「あ? 大丈夫大丈夫。俺もこいつが腕ん中に入った時は流石にヤベェと思ったが、なんかこっちに飛ばされたら、また分離してたし。まあ、うん。今んとこ、問題ねぇから」
「はい? 腕の中に、入る……? その髪の毛の飾りが?」
発言の内容が意味不明過ぎる。この人、ひょっとして頭イカれてるんじゃないの?
その時、卓上に置かれた髪飾りが揺れた。
グニャリと軟体生物が触手を動かすように、毛の束を
要するにテーブルの上を這ったのだ。
「え……。なんか、これ、這ってますよ⁉︎ 動いてますよ、活発に!」
工藤の方をちらりと振り返ると、奴はもう既に椅子に腰掛けてはいなかった。
部屋の片隅に退避して、落ちていた食器の破片を握って構えていた。なんかもう一人だけ護身完了している。
「ちょ、工藤さん!」
「紙越、お前、ちょっとそれ触ってみろ」
何言ってんだ、こいつ⁉︎
傲岸不遜が服を着て歩いているような癖して、このタイミングで私に丸投げするのかよ!
暴力的なのに臆病ってどういう性格してるんだ。
「オラ、早くしろ! 何かあったら、俺がなんとかしてやるから! なあ!」
情けなく、私にがなり立てる工藤は髪飾りに触れることを強要してくる。
今まで平然と使っていた奴があそこまで慎重になっている辺り、今の状況は相当ヤバいんじゃないだろうか。
冷や汗が額にじっとりと滲む。
触っていいのか? 余計にまずいことにならないか? 具体的には触って瞬間、私死んだりしないか?
眼鏡の縁に流れた汗が溜まる。普段なら直ぐに顔を洗いたくなるレベルの発汗量だ。
逃げ出したい。けれど、この怪奇なものに背を向けた瞬間、後ろから襲われそうで逃げられない。
実話怪談の中で、どうして登場人物は怪異からさっさと逃げないか昔から疑問に思っていたが、今ならその答えが分かる。
逃げたら逃げたで怖いのだ。視界外から何かされるより、視線の先で何か起きた方がずっとマシだ。
「紙越!」
「わ、分かりましたよ!」
私は髪飾りの方に近寄ると、震える手を伸ばした。
テーブルの上で広がったタコ、もしくはアクティブなヒトデのように動く髪飾りは絶えず、小刻みに髪束を振っている。
大人しくしててくれよ、と無機物に内心で頼みながら、それを片手でぐっと掴んだ。
想像していたよりもずっと湿った感覚が手のひらに密着する。私だって女だ、ウィッグのサンプルくらいはデパートで触れたことがある。
でも、これは違う。この感触は……風呂上りにタオルで拭った後の
この髪は生きているものの質感だ!
「うわっ……」
生理的嫌悪感が一瞬で許容量を超え、反射的に私は手を離してしまう。
その時、髪束の一房が跳ねた。
跳ねた房は明らかに伸びると、私の顔へ目掛けて急接近する。
悲鳴を上げる暇もなかった。咄嗟に後ろへ仰け反ったが、伸びた髪は止まらない。
私の左目一杯に黒い色が広がる。
その光景を右目で見た。
――左目に髪が入り込んでいる。
「あ……ああ、あああああ!」
激しい痛みと嫌悪感に私は絶叫した。
両手で左目に入り込む髪を防ごうとするが、髪の房は眼球の中に流れ込むのを止められない。
「うおおおおお!」
部屋の端に避難していた工藤が雄たけびを上げて、皿の破片をナイフのように持ち、私の左目から侵入してくる髪を攻撃した。
「暴れんじゃねぇ! 戻れゴラァ! 大人しくしやがれ‼」
髪の束を掴んで、皿の破片で切断しようと突き刺した。
ぶちぶちと鋭利な破片に切り落とされていく。何度目かの刺突でとうとう引きちぎれた髪の房は力なく髪飾り本体に戻っていった。
左目に雪崩れ込んできた髪はどうなったかというと、そのまま私の眼球の中に吸い込まれるようにして消えてしまった。
言語化できない奇妙な感覚が私の左目を襲う。
例えるなら、目玉をくり抜いてその中に柔らかい布製のものを押し込まれている感触だ。
痛みではなく、異物感だけがありありと残っている。
「おい、紙越! 大丈夫か?」
工藤に肩を掴まれ、揺すられる。
この人、こんなに真剣な顔もできるのかと何だか感心してしまった。
間近で見ると案外円らな瞳をしているという至極どうでもいい情報を観測する。
どこか他人事のような、テレビに映った映像を持ているような感覚だ。
しばらく頭がぼんやりしていたが、次第に実感が返って来る。
「あー……、工藤さん、顔近いです」
強面のオッサンの顔など至近距離で見ていて気分のいいものじゃない。
私は彼を軽く手で制して離れてもらう。
「お前、目ぇ赤いぞ」
「充血してるんですか? まあ、何か左目に髪が入って来ようとしてましたけど……」
内出血しているのか。無理もない。髪の毛が突き刺さっていたみたいだから、当然と言えば当然だろう。
だが、工藤は首を横に振った。
「いや、そうじゃねぇよ。左目の瞳孔……真っ赤に変わってんだよ」
「はい? ちょ、ちょっと退いてもらえますか?」
瞳孔が赤い? どういうことだ?
私は〈裏側〉探索のために色々物を入れて来たバッグから手鏡を取り出す。
小さな鏡の中に映る私の顔は酷く疲弊して見えたが、ある一点を除き、特筆する程の変化はなかった。
しかし、その一点。左目だけは明らかに普通ではなかった。
工藤が言った通り、左目の瞳孔は血のように真っ赤に染まっている。
充血や光の錯覚じゃない。白目の部分は何ともないのに中心の瞳孔だけが変色しているのだ。
ナニコレ……。私の目、どうなっちゃったの?
自分の身体に明確な異変が発生し、混乱していると工藤が後ろで言う。
「紙越。袋持ってねぇか、袋。ビニールの奴でいいんだけどよ」
このオッサン。私の目が変色したところはもうどうでもいいのか。
仮にも自分が持って来たもので、被害に合ったというのにまるで悪びれる素振りがない。
苛立ちはあったが、文句を言う気力はなかったので、コンビニで飲み物を買った時のビニール袋をバッグから取り出して渡した。
「ビニール袋なんかどうするんです、って……何やってんですかっ!?」
振り返るとビニール袋の中に手を突っ込んだ工藤が、呪いの髪飾りを掴んで回収していた。
公園で飼い犬の糞を拾う飼い主のような姿に思わず突っ込んでしまう。
今し方、人に危害を加えたアイテムをそんなぞんざいな方法で回収していいのか……?
呪いの髪飾りを無事掴み上げると、今度はビニール袋をひっくり返して、袋の内側に仕舞い込む。
「いいんだよ! 俺は大体これで回収してっから」
「さいですか……」
感情がジェットコースターのように揺さぶられたせいで、これ以上とやかくいう元気はない。
本当にこのオッサンは何者なんだろう。心霊ドキュメンタリーのディレクターだと名乗っていたけれど、『戦慄怪奇ファイル・コワすぎ!』なんてダサい名前の作品なんかあっただろうか。
心霊ものは大体網羅している私でさえ、聞いたこともないものだ。
ふとさっき工藤さんと初対面で私を誰かと勘違いしていたことを思い出し、聞いてみる。
「あ、そうだ。さっき工藤さん、私見て誰か別の人の名前言ってませんでしたっけ?」
「ああ。市川のことか。ウチのアシスタントディレクターだ」
「仕事仲間ですか? その人もあの場所へ一緒に来てたんですか? 映像制作のための取材とか」
そう尋ねると、工藤は否定する。
「いや……あいつは首を切り落とされてな。よく解らねえが異界の門みたいなのになっちまってた。でも、呪いの髪飾りのせいで巨大化した俺が元に戻ってるからあるいは、あいつもこっちで戻ってるかと思ってな」
「え、え……? ちょくちょく、工藤さんの背景、意味不明なんですけど」
「うるせえよ! 色々あんだよ、俺には!」
怒鳴り声を上げた工藤がドンとテーブルを叩く。
すると、呼応するかのように〈裏側〉へと繋がるドアがガンっと鳴った。
それは反対側から何者かが乱暴に蹴り付けたような音だった。
お互いびくりと身体を揺らして、会話を止める。しばらく、様子を伺っていたが、その後はドアから音が聞こえてくることはなかった。
「……工藤さん、どうします?」
「紙越。お前、見て来い」
「そういうと思いましたよ……」
工藤はいざという時には動いてくれるが、それ以外は平然と他人に危ないことを押し付けてくる。
きっと市川というアシスタントディレクターもこの男に散々こき使われていたんだろうな。
当てにならない工藤を放置し、私はドアに付いたドアスコープを覗き込んだ。
さっき、目から呪い髪飾りが入って来るという怪奇現象にあったせいで恐怖に対する感覚が麻痺している気がする。
見えた景色は青かった。
ドアスコープの向こうに見えるのは青一色で構成された空間。
空でも海でもない青。青い絵の具で何もかも塗り潰したような真っ青な世界。
前あったはずの広い草原はどこにも映っていない。
「おい、何が見えた? 何か居たか?」
後ろで工藤が聞いて来るので、私はそのまま答えた。
「青い色が一面に広がってます。他にはこれといって何も」
「紙越。ちょっとお前、ドアから離れてろ」
「え?」
ドアスコープから離れて、振り返るとテーブルの上に乗った工藤がドアに向かって跳んだ姿が目に入る。
何やっているんだ。その声が言葉になる前に、オッサンの飛び蹴りがドアに炸裂する。
衝撃により弾かれたように開くドア。そこから流れる風に埃が舞い、私は酷くむせ返った。
「ごほッごほッ……ちょっと工藤さん!? せめて、何するか事前に……」
最後まで言い切る前に、私は呆然として言葉を失くす。
開かれたドアから覗く光景は草原でもなければ、青い世界でもなかった。
「えええええええええ!?」
建物の隙間にある薄汚れた路地。
ゴミが入り切らずに飛び出たポリバケツ。転がったビールの空きビン。持ち主が捨てていったと思しき錆だらけの自転車。
〈裏側〉ではない。表だ。表の世界の単なる路地。
……なくなった。なくなってしまった。
私の大切な、未知の世界。誰にも開拓されていない無限のフロンティア。
まだ始まってもいないのに、冒険の舞台が影も形もなく消滅してしまった。
呆然とする私の前で工藤が顎を掻きながら言う。
「どーなってんだ、こりゃ。……普通の裏路地じゃねぇか」
その台詞は私が言いたい。
まさか、工藤のフライングチンピラキックが〈裏側〉との繋がりを破壊してしまったとでもいうのか。
崩れ落ちた私の耳に、遠くのアーケード街から聞こえる小さなハワイアンミュージックが届く。
ほろりと瞳から涙が流れ落ちた。
原作の空魚の相棒、鳥子の登場は予定していますが、大分先になりそうです。