終わった。終わってしまった。
紙越空魚の冒険は始まる前に終わってしまいましたとさ……完。
何もかも投げやりな気持ちで、私はこの一週間を過ごした。
工藤は何か向こうで拾った銀色の六面体を見て、ぶつぶつ言っていたが、もうどうでもよかった。
ほとんど無意識で廃墟から出て行った後、アパートに帰って、ベッドの上で大泣きしてから三時間ほど眠った。
目が覚めて、〈裏側〉の入口が消滅してしまったことを思い出して、また少し泣いた。
心が虚ろでもお腹は空くし、通っている大学にもちゃんと通わなきゃいけない。
友達が居ないので講義をサボれば、それだけツケがテストの時に回ってくる。
そうして、私は今日もまた無意味で簡素なキャンパスライフウィークを堪能していた。必修の講義を死んだ目で受けた後、重い足取りで帰宅する。
大学の門を出た時、私は背後から突然腕を掴まれた。
私にこんなスキンシップを図る友人は居ない。というか、大学二年になっても碌に会話する知人さえ居ない。
よってこの手の持ち主は新手の宗教勧誘か、さもなきゃ柄の悪い連中か。どちらにせよ、好意的な相手でないのは確かだ。
このまま、振り切ってダッシュで逃げてやろうと画策したが、思いの外力強く掴まれた腕を払い退ける筋力は私にはなかった。
「あの、いきなり何ですか?」
嫌々ながら振り返れば、そこに居たのは一週間に出会ったあの暴力親父だった。
「く、工藤さん⁉︎ なんで、ここに? ていうか、私に何の用ですか?」
「あん? 前にお前の財布に入ってた学生証見てたんでな。ちょいと呼びに来たんだよ」
財布をなんていつの間に見たんだ……。多分、私が気落ちしてた時にこっそり抜いていたんだろうが、最低過ぎて言葉も出ない。
見た目以上に中身の方が反社会的だ。
「こっちの世界な。どうにも俺が居た世界とは微妙に違うんだよ、いわゆるパラパラワールドっつう奴だな」
「パラレルワールドですよね?」
「うっせぇ、馬鹿。んなもんどっちでもいいんだよ! 要するにここは俺の元居た世界じゃねぇってことだ!」
訂正したら切れられた。
常に人に噛み付かないと生きてられないんだろうか、この人。泳ぎ続けないと死ぬマグロみたいな人種だ。
とにかくだ、と工藤は一呼吸開けて、傍に停めてあるハイエースバンのドアを叩いた。
「もう一度、あの異界に行くぞ。今度はあのくねくね野郎を生きたまま、捕まえてやる。映像もきっちり残して、こっちの世界でも覇権取ってやんよ! パラパラワールドにも『コワすぎ』の名前を轟かせてやるぜ」
え、ちょっと待って。色々と無駄に情報量が多いけど、重要な部分を抜き出すと……。
「また〈裏側〉に行くってことですか⁉︎ でも、あの廃墟のドアはもう……」
「馬鹿野郎! 異界の入り口が一つだけって誰が決めたんだ! あんなもん、俺が探しゃあ、千個でも二千個でも出てくんだよぉ! いいからさっさと車乗れ、紙越ィ」
押し切られる形で私はハイエースに助手席に乗り込まされた。
私としてももう一度〈裏側〉に行けるなら願ったり叶ったりだが、ホントこのオッサン無茶苦茶だな……。
パラレルワールド、並行世界から来たと言っていたけれど、どこまで真実なのかは分からない。もっとも〈裏側〉なんてものや呪いの髪飾りがある時点で今更疑うのは野暮か。
こうして、私は工藤に半ば拉致されるように、〈裏側〉の入り口があるらしき場所へ連れて行かれることとなった。
だが、一つばかり気がかりなことがある。
この車についてだ。
「工藤さん。こっちの世界の人間じゃないんですよね? この車ってまさか、誰かから盗んだんじゃ……」
車を持ち主を恐喝して強引に奪い取る工藤は容易に想像できた。
「違ぇよ、馬鹿! こいつは中古で勝ったんだよ。それだけじゃねぇ、後ろ見てみろ」
悪態を吐いた後、後部座席を見るように言ってくる。
言われた通りに後ろへ顔を向けると、ハンディカムカメラや金属バッド等雑多なものが置いてある。
聞いてもいないのに工藤は運転しながら得意げに話し始めた。
「あの六面体よぉ、鏡みてーに周りの景色反射するんだが、何でだか分かんねぇけど人間だけは映さない変なモンでな。ネカフェでその話を何の気なしに書き込んだら、売ってくれって奴が出て来てよ。直に会って吹っ掛けてやろうとしたんだ。したらよ、いくらになったと思う?」
「いくらになったんですか?」
私が聞くと、横顔がにやっと歪んでこう言った。
「百万だよ。百万!」
「マジすか!?」
あの六面体にそんな値段を付ける奴が居るなんて、世の中道楽な金持ちも居るものだ。
そして、この車や後ろにある荷物はそのお金で購入したらしいと何となく読めた。
「そんでな、そいつとちぃと話したんだがよぉ。くねくね野郎を生きたまま捕まえたら、その五十倍で買うって話になったんだ」
「五十倍!? っていうと……五千万円!?」
貧乏大学生の金銭感覚では、ざっと想像しずらい金額だ。
銀色の六面体一つ百万円。白い人影、くねくね一体五千万円。まるでゲームの報酬張りに実感が湧かない。
「紙越。お前は見込みあっからよ。一口噛ませてやるよ。さらに俺は向こうの映像を取って、有名にもなってやる。お前はアシスタントだ」
「え、〈裏側〉をビデオにするんですか? それはちょっと……」
くねくね捕獲には少し心惹かれるものがあったが、〈裏側〉が世間の目に晒されるのは気が進まなかった。
あそこはあくまで未開のフロンティアで、私の秘密の場所だからいいので合って、一般に公開されるべきところでは……。
「売れたら、その分お前にもギャラをやるぞ。割合報酬だ。三割くれてやる。もちろん、くねくね野郎の捕獲の報酬は別で払う」
「やります!」
学生ローンでお先真っ暗だと思っていたが、ひょっとしたら卒業する前に返せてしまうかもしれない。
〈裏側〉が白日の下に晒されるのは抵抗があるが、目先のお金という分かりやすい報酬が私の心を揺り動かした。
「そうと決まれば、かっ飛ばすぜ!」
ハイエースバンをかっと飛ばし、工藤が向かった先は東京の神保町。
その一角にある十階建てのビルだった。
古本屋街の裏手に屹立する背の高い雑居ビルは年季こそ入っているが、前の廃墟とは違って今も人の手が入っているのは一目で分かった。
「本当にここなんですか? あの普通にあそこ、人は入ってますよ?」
前回と同じく廃屋か、廃ビルみたいな完全に人界から放棄された場所かと思いきや、バリバリ街の一部である。
こんな場所に〈裏側〉への入口があるなら、とうの昔に誰かに発見されいるはずだ。
不安に思って工藤を見やると、頭をべしっと叩かれる。
本当に
「俺を信じろ、俺を! カメラ持って、付いて来い」
後部座席から金属バッドとビニール袋を取って、ビルへと向かっていく工藤。
ビニール袋の方は恐らくはあの呪いの髪飾りだ。よくあんな危険なものを平然と所持できるのか理解に苦しむ。
冷静に考えれば、金属バッドであのくねくねと立ち向かう時点で何かおかしいが、それが気にならない程工藤という男は狂っている。
渋々ながらハンディカムカメラを片手に私は奴に続いて、雑居ビルへと足を踏み入れる。
もうここまでくれば腹を括るより他にない。〈裏側〉の探検は私の夢であり、全てなのだ。
……決して、工藤の暴力が怖くて屈した訳ではないことをここに明言しておく。
中に入るとエントランスホールは薄汚れていて、それなりに雰囲気が出ていた。実話怪談っぽさが漂っていて、自分がまるで物語の登場人物になったような錯覚を覚えてしまう程だ。
工藤はエントランスをそそくさと抜けるとエレベーターに乗り込む。続いて、私もそこへ乗った。
「紙越、そろそろビデオ付けとけ」
ドアが閉まると、工藤はそう指示を出し、四階のボタンを押した。
四階に入口があるのか、と思ったら四階に着いた直後に二階のボタンを押す。
その次は六階。その次は九階。かと思えば一階にまで戻ったりする。
ビデオカメラで映像を取りながら、オッサンの奇行を無言で撮影していたが、流石に我慢できなくなり問いかけた。
「あの、工藤さん。何をやってるんですか?」
「あん? お前、異世界の行き方って奴知らねぇのか? こうやってな、エレベーターで階数ボタンを特定の順番で押すと異世界に行けるっつぅ話だ」
「いや、まあ、知ってますよ。でも、それ、ネットで一時期流行った都市伝説じゃないですか」
ネットで実話怪談を漁っている時に、異世界に行く類のネット怪談でそんな話はいくつか読んだ。
私はそういう子供っぽい内容の話には興味が持てず、実際近くでやっている奴が居たら嫌だなと思って流し見していた。
まさか、それをいい歳して実践するオッサンが居ようとは。これ、他の人乗り込んで来たらどうしよう。
そんなことを思ってビデオカメラを回していると、エレベーターは五階に止まる。
ドアが開いた瞬間、奥の暗がりから猛ダッシュで駆け込んでくる女性の姿がレンズ越しに見えた。
背の高い、長い黒髪の女。顔の前に髪が掛かって表情は見えない。
「ぅ————————!」
前傾姿勢で走って来るのに、物凄く速い。唸り声を上げて、こちらに直進してくる姿に血の気が凍る。
普通じゃない。そう思って、工藤に叫ぶ。
「あれ、何かヤバいです! 閉めてください、工藤さん!」
「やってんだよ! さっきから! クソッ、このッ」
だが、工藤はガチャガチャと音を立てながら、既に閉ボタンを連打していた。
なのにドアは一向に閉まる気配がない。女とドアはもう目と鼻の先くらいの距離しかない。
カメラを回しながら、私はその異様な存在感に押されてエレベーターの隅へと後退りして、背中を壁に押し付けた。
「ううううううううううううううううう――!」
低い唸り声がはっきりと聞こえるようになった頃、ようやくエレベーターが締まり始める。
……よかった。そう安堵した時、女は閉まりかけたドアに顔を突っ込んで来た。
乱れた髪の隙間から正気には到底見えない焦点のズレた目が私を睨む。
「ひッ」
小さな悲鳴がしゃっくりのように喉から競り上がった。
しかし、その脇から工藤が女の頭に向かって、金属バッドを振り下ろす。
「オラァ!」
脳天を直撃する上から下へのスイング。女は頭を垂れるようにドアから弾き飛ばされる。
ドアが無事締まると、私も工藤も荒い息を吐き出した。
あれはヤバい。人じゃなかった。ひょっとしたら、頭のおかしい人かもなんて思わない。
あの女は間違いなく、この世の人間ではなかった。そう断言できる。
「ネカフェで読んだが、あの女、乗せたら駄目らしい」
工藤の言葉にコクコクと必死に頷いた。
最近ネカフェで仕入れた情報かよと詰る気にもならなかった。
再び、工藤はさっきまでと同じ階数ボタンの連打を繰り返す。階に止まる度、明らかに同じ階でも場景がまったく異なるという現象に見舞われた。
操作盤と階数表示にレンズを向けると、もはや言語かも怪しい模様のようなものが描かれている。
乗った時は間違いなく、アラビア数字だったのは録画した映像を見なくても分かる。
ドアの開く速度も閉まる速度もだんだんと加速していき、1.5倍速の早送りで映像を再生させているようだった。
そして私たちは、目的の場所へと辿り着く。
工藤が最期にボタンを押した後、ドアが開いた先は屋上だった。
あの雑多ビルの屋上ではない。
亀裂の入ったコンクリートの床と鉄柵の向こうに広がる色あせた黄色の草原は、少なくとも神保町には存在していなかった。
「行くぞ、紙越」
金属バッドを担ぎ、呪いの髪飾りが入ったビニール袋を片手に工藤がドアの向こうへ歩き出す。
「はい、工藤さん」
私もまたハンディカムカメラを起動させながら、レンズを通してその光景を見た。
ビルの屋上から見下ろしたそこは波のように起伏のある広い草原地帯。点々と合い間に置かれているのは蔦に覆われたビルや無造作に転がった人工物の断片。
人の声や車のエンジン音はまったく聞こえない、無人の世界。
私はここに帰って来たんだ。
そう思うと胸が高鳴った。
――ただいま、〈裏側〉。今度こそ、じっくり探索させてもらうからね。
一人感慨に
「え、そこ。降りて、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃなかろうが、降りんだよ。じゃなきゃ、あいつら捕まえに行けねぇだろうが! 俺が下りたらお前もさっさと来いよ」
マジか……。私の前に立ち塞がったのは凡そビル十階分に及ぶアホみたいに長い錆びた梯子だった。
やっぱり工藤さんはイカレてるなぁと書いていて思います。