恐怖の軋む十階建て分の梯子をどうにか乗り越えた私は、緊張と疲労で震える手を動かして解す。
なんせ下でカメラを落としたら殺すとがなり立ててくるオッサンまで居たのだ。その心労たるや凄まじかった。
鞄の内側にカメラを押し込んで慎重に降りて行く。そのせいで片側に比重がかかり、梯子から降りるのに手間取らされた。
先行していた工藤の方は金属バットの柄を腰のベルトに差し込んで降下していたため、降りる度に揺れたバットがガンガン梯子にぶつかり、衝突音が響く度驚かされて何度も硬直してしまった。
そんなこんなで、どうにかして生きて〈裏側〉の大地に足を着けた私は、ハンディカムカメラを再び起動させ、降りて来たビルを撮影する。
……壁がない。あるのは天井と柱だけ。骨組みだけの廃墟だ。
隙間から中を見ても階段はない。エレベーターシャフトも影も形も見えない。一体、私たちはどこから出てきたというのだろうか。
「よっしゃぁ! 行くぞ!」
「うわぁっ……急に大声出さないでください」
背後で気合を入れた工藤の叫びにびっくりして、カメラを落としそうになる。
文句を言うと、面倒にそうに私を睨んだ。
「うるせぇな! 気合入れてんだよ、こっちはよぉ! お前は大丈夫なのかよ、気合の方は」
こういう精神論だけをごり押ししてくる化石みたいなオッサン、まだ現存していたのか……。
大体、気合だけで物事良くなるなら、日本はもっと住みよい国になっていたはずだ。
げんなりする言動に心底うんざりしていると、工藤は事も無さげに言う。
「しゃんとしろよ、しゃんと。お前は臨時とはいえ、『コワすぎ』のスタッフなんだからな」
「そうは言われましても、私、その心霊ドキュメンタリー? 見たことも聞いたこともありませんし……どんな作品なんですか?」
私はそう言ってから、しまったと内心後悔した。
質問された工藤は待ってましたとばかりに、『コワすぎ』の内容を語り出す。
オッサンの自慢話や武勇伝ほど若者の気力を削ぐものはこの世には存在しない
話の内容も荒唐無稽で聞いていると頭がおかしくなりそうなものだった。
曰く、高速で追いかけて来る口裂け女を車で轢いた話。
曰く、五芒星の上で人喰い河童と相撲で対決した話。
曰く、トイレの花子さんを撮影するために時間遡行をする話。
実話怪談が好きな私だが、この頭がおかしいオッサンの視点から語られる妄想じみたストーリーは怪談というよりZ級クソ映画だ。
その内容を口頭で、しかも熱意を込めて聞かされていれば、ぐったりもしてくるというものだ。
「工藤さん。そろそろ……」
三十分以上、『コワすぎ』の内容を聞かされて、くねくね捕獲の前に力尽きそうになる私は、切りのいいところで、話を遮った。
こっちから止めないといつまでも話し続けそうだったので、罵倒を受ける覚悟で制した。
しかし、意外にもさほど機嫌を悪くしなかった工藤は応じてくれる。
「まあ、今回はこのくらいにしとくか。暗くなると面倒だしな」
そう言われて、〈裏側〉がもし夜になった場合を初めて考えさせられた。
私が訪れた時は大抵が昼だったけれど、表側と同じように日が昇ったり沈んだりするのかもしれない。
碌な光源もなく、こんな場所に居るのはあまりに危険だ。明るくても、くねくねが居るくらいだから夜になったらもっとヤバいのが出て来てもおかしくない。
工藤に追従して頷いた。
しばらく、荒れた道を進んで行くと、やがて周囲に見覚えのある草むらが見えて来る。
工藤と最初に出会った場所の辺りだ。となれば、当然くねくねが出現していた地域な訳で、否が応でも身体が強張ってしまう。
「そういや、お前。くねくね野郎のことはどこまで知ってんだ?」
「私ですか? 結構……いや、実話怪談についてはそれなりに詳しいですよ」
何気ない工藤の台詞に、大学で専攻している文化人類学の研究テーマで調べた現代の実話怪談について綴った論文を思い出す。
教授には芳しい反応はもらえなかったが、自分での評価はそこそこ高かった。
内容については少しオタク色が強くなった感じも否めなかったが、それでも自信があった分評価の低さに落胆も大きかった。
「私はくねくねのことを蛇の怪異譚の一種だと考えてました。名前が何かそれっぽいですし、出現する場所が田舎の田んぼだっていう点も蛇の生息域です。ネットで有名なくねくねの話の中には
そこまで持論を語っていると、聞いて来たはずの工藤の視線は別の方向に向けられていることに気付いた。
横柄な態度には多少慣れてきたとはいえ、流石の私もムッとする。聞いておいてその態度はいくらなんでもないだろう。
確かにこういう議論を話す相手も今まで居なかったので興が乗ってしまったというか、いつもよりも舌が回ってしまった帰来はあるが、それにしたってもう少し興味を持ってくれてもいいだろうに。
心霊ドキュメンタリーなんてオカルトめいた映像作品を作っているなら、こういう話題にも乗って来てほしいものだ。
そう思って、工藤に呼び掛ける。
「工藤さん、聞いてますか?」
すると、奴は正面の草むらに指差して言った。
「紙越。あそこ撮れ、あそこ! 何か倒れてるぞ!」
「えッ、どこどこどこです!?」
急に振られて、工藤の指差す先にカメラを回す。
そこにビデオカメラを向けた私は「うわっ」と思わず、声を漏らした。
五メートルくらい先。草むらの間を通るようにしてできた細い道に人型の何かが転がっている。
くねくねの説明に夢中だったのもあるが、草の背が高いせいでここまで近寄るまでまったく見えていなかった。
よくよく目を凝らせば、その人型が身に着けているのは白いワイシャツだ。見える範囲での体型や特徴から察するに男性だろう。
両手で顔を覆うようにして仰向けで倒れている。……私たちが近付いても微動だしていないので、死んでいるのかもしれない。
化け物とは違う、人間の死体に対する恐怖が染み渡るように脳裏に過る。
「く、工藤さん……どうしますか?」
よく見て観察するべきかと工藤に尋ねると、この理不尽を擬人化したような男は間髪入れずに答えて来る。
「撮るに決まってんだろ! ほら、行くぞ」
明らかに襲って来るタイプの存在以外には基本強気らしい工藤は率先して、それに近寄って行く。接近するのに抵抗はあったが、金属バットを所持したこの暴力男はこういう時には頼もしく見え、私は素直に従った。
工藤は倒れている男に言う。
「おい! あんた、生きてんのか? 生きてんなら返事しろ!」
金属バット片手に脅すような口振りだ。もし、私なら死んだふりをして、立ち去るまでやり過ごすかもしれない。
だが、ビデオカメラで男の顔を映そうとして、言葉を失った。
男の顔立ちに問題があった訳ではない。彼の顔は押さえ込むように張り付いた手のひらでほとんど確認できなかった。
代わりに映すことができたのは、その両手の指先から零れるように噴き出している謎の突起物だった。
一見するとそれは透明な木の枝に見えた。
しかし、枝状に分かれた突起物の先端には葉や蕾はなく、丸く膨らんでいている。
植物というより菌類。死体に生えたキノコ、もしくは繊細なガラス細工のように思えた。
気持ち悪いが、カメラマンを任された身としての意識からか、その姿をしっかりと撮影してしまう。
そこで私はあることに気付いた。
透明な突起物は顔の表面から生えているのではない。顔の内側から皮膚を突き破って伸びているのだ。
白くなった唇から覗く歯もクラゲの幼体のようにぶよぶよとした質感に見える。
更にカメラをズームすると、恐ろしいことに男の指は明らかに眼窩に潜り込むように突っ込まれいる。
錯覚じゃなく、第二関節までずっぽりと男の指は目の中に入り込んでいた。
戦々恐々としている私に工藤が言う。
「おい、何か魚臭ぇぞ」
言われて、鼻を動かすと確かに生魚のような臭気が辺りに漂っていた。
それに加えて、風の音が止んでいた。いつの間にか、草むらが揺れる微かな音さえ耳には届いて来ない。
耳鳴りがするような、不穏な静寂。
直後、視界の端で揺らめくシルエットが現れる。
白く、濁った煙草の煙を束ねて、人型に纏めたようなもの。
……くねくね。
「ううっ……」
直視しなように横目で見ているのに、眩暈に襲われる。
それでもどうにか映像に収めようと、カメラを回して焦点を合わせなようにくねくねを映す。
ティッシュペーパーを細く捻じって人間大にしたようなそれは、やはり蛇とは似ても似つかない。
細く捻じれた姿は蛇というより
怖いというより、気持ちが悪い。視界に入れているだけで不安感を煽って来るようだ。
「工藤さん!」
「任せろ!」
私が声を掛けると、工藤はビニール袋をガサゴソ漁り、呪いの髪飾りを取り出した。
そして、数メートル離れた先で蠢くくねくねに殴り掛かる。
「何がくねくねだ、クソ野郎! 俺のちんぽこよりもひょろいなりしてはしゃぐんじゃねぇ!」
最低かつ下品な発言と共に、かつて一撃でくねくねを葬った呪いの拳が飛ぶ。
喧嘩慣れしているらしきその拳は見事に奴の頭に届く――はずだった。
「……ああ?」
呪いの髪飾りを握り締めた工藤の拳は……くねくねの頭を通過して空を切った。
腕を振り抜いた工藤はスカッと空振りして、バランスを崩してよろめく。
「ちょっ、工藤さん?」
「あ? うるせえな! 今のは生け捕りにしようとして加減を間違えただけだ! もういっちょ行くぞオラァ‼」
再び、工藤はくねくねを殴ろうと拳を振り抜く。
しかし、またも拳はすり抜け、呪いの髪飾りが勢いで揺れただけで何の効果も得られない。
手応えはないにしろ、髪飾りが通過したはずのくねくねには一切変化が見られなかった。
「どうなってんだよ、紙越! 俺、ちゃんと殴ったよなぁ?」
「知らないですよ!」
むしろ、こっちが聞きたいくらいだ。
この危険な場所に付いて来たのは、工藤の呪いの髪飾りがくねくねに有効だと信じ切っていたからだ。
だから、くねくねと対峙しても初見ほど焦りや恐怖は感じなかった。
でも、今は違う。
こちらには相手に抵抗する手段がない。
呪いの髪飾りが駄目であれば、ただの金属バットなんて何の効果ももたらさないだろう。
諦めが心の中で過った時、一際激しい眩暈に襲われる。
これはヤバい。もの凄くヤバい。どうしたらいい。
頭の中には最初にくねくねと接触した時に感じた得体の知れない感覚。
何かを、自分の理解し得ない何かを理解してしまうような、そんな感じ……。
待って。まさか、あの顔から透明な突起物の生え出した男って、このくねくねを見て“ああ”なったの?
てことは何? 私も“ああ”なっちゃう訳……?
狂って。
顔から何かが生え出して。
最後には自分の目を……。
「おい、紙越! 何か手はねぇのか!?」
金属バットを杖代わりにして立つ工藤。私よりもずっとくねくねの近くに居るせいか、相当眩暈を感じている様子だった。
何かって、私に丸投げかよ! 無茶言うな。どうにかして欲しいのはこっちの方だ。アンタが最初の時みたいにさっさと倒してくれれば、こんなことにはならなかったのに。
無茶振りに苛立った私は、ふと疑問を感じた。
待って。逆に何で最初のあの時は聞いたんだ?
そう、あの時は確か私がくねくねを見ておかしくなりそうになって、そこに通りがかった工藤が呪いの髪飾りで殴った。
そうか、それなら……!
「工藤さん。最初! 最初の奴、再現します!」
「最初ぉ!? 何言ってんだ、お前」
「私、くねくねを見て頭おかしくなりかけてたんです! その時は工藤さんの呪いの髪飾りが効きました。だから、もう一回同じことやれば……!」
「くねくね野郎も殴れるって寸法か! いいぜ、紙越。乗ってやるよ!」
むしろ、危険なのはアンタじゃなくて、私の方なんだけど……まあ、いいや。やる気になったのなら、こっちはこっちで覚悟決めるだけだ。
「私が本気でヤバくなったら、何とかしてくださいね!」
「おお、そんときゃまともに戻るまでこのバットで何回でもド突いてやるよ!」
いい笑顔でそんなふざけた提案を投げて来る。
「いや、死にますよ! それぇ!?」
「じゃあ、死ぬ気でやれよ。俺たち、『コワすぎ!』のスタッフはな、いつだって映像に命懸けてんだよ!」
駄目だ、このオッサン……。程よく頭がイカレてる。
何でこんな奴について来ちゃったんだか。
それでも、まあ……死にたくないから。
「死ぬ気でやりますよ! ……うっ」
工藤を無視して、私の方に寄って来ていた白い人型の姿を直視する。
脳に響くような衝撃。続いて、脳の中身を指で弄られているかのような不快感。
込み上げてくる吐き気。頭痛。眩暈。緊張。
「ひ、ひひひひひひいいいいいいいいじいいいいいいいいいいいいいいりいいいいいいいいいいいのおおおおおおおおおおおおおお!」
喉から漏れたのは唸り声のような叫び。
「ひいいいいいいいいいじいいいいいいいいりいいいいいいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおかあああああああでええええええええええええええ‼」
揺れる揺れる、頭が、脳が揺らされる。
それなのに眼球だけはがっちりとくねくねを焦点に合わせたまま、動かない。
もう少し……もう少しで何かが分かる。理解できる。
チカチカと点滅する視界は、青いインクを直接流し込まれたように真っ青に染め上げられて……。
——気付く。それをリカイする。
これは、こいつは物体じゃない。これは映像。投影。スクリーンに映された映像のようなものなんだ。
くねくね自体に実体はないんだ。脳に流し込まれているこれは、私と世界の間にある何かに投影されているだけ。
前回、工藤の攻撃が合ったのはこの映し出しているスクリーンのような何かを、私が認識していたからなんだ!
視界の中で滑るように蠢くくねくねを見て、確信する。
これは……
私がようやく、その真実を気付いた時、目の中でくねくね以外の何かが動いた。
白い半透明のミミズ……。そうとしか言い表せない小さなものが、踊るくねくねの周囲に一つ、また一つと増え始める。
一瞬、くねくねの一部かと思ったが、次の瞬間違うと確信した。
その白いミミズのようなものは滑るように蠢くくねくねを攻撃するように群がり始めた。
くねくねは蟻に集られた昆虫のようにもがき、苦しむようにしてのた打ち回る。
青い世界は一変して、赤い世界に塗り替えられた。
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
目から、視界から何かが飛び出す。
それは大量の白いミミズが張り付いたくねくねだった。
ミミズの幽霊のようなものはくねくねを、正確にはくねくねが映し出されている膜のようなものを食べるようにその体積を削っている。
何? 何が起きたの? この大量のミミズの幽霊みたいなものは、一体?
呆然とした私の前で呪いの髪飾りを握った工藤の拳がミミズに纏わり付かれているくねくねの真芯を捉えた。
「オオォラァ!」
殴られた白い人型は、それが投影されている膜ごとガラスが割れたように砕け散る。
次の瞬間にはその膜の破片は一塊に集合するようにして、一つの物体へ変わった。
細道の間に転がったのは銀色の六面体、ではなかった。
工藤が歩み寄って、それを拾い上げる。
「何だ、こりゃ……。ちゃんと売れるんのか、これ?」
その手の中には、歪な
六面体だったかも分からない程に虫食い穴ができている。表面を大量の小さな虫に齧られたリンゴのようにも見えた。
「かー! くねくね生け捕りは失敗か、おまけにこんなんじゃ百万になるかもあやしいじゃねぇか! 返せよ、俺の五千万!」
無機物相手に切れて、怒鳴り付ける工藤の姿を見て、私は脱力した。
生命の危機を乗り越えたというのに、このオッサンはまだ金のことしか頭にないのか……。
大きく息を吐いた後、ハッとして顔からあの突起物が生え出していないかチェックした。顔の表面をペタペタ触ると指先にはふにふにとした感触しか返って来ない。
どうやら、あの倒れた男の死体のように突起物は生えてはいない様子だ。
ひょっとすると、あのミミズの幽霊のおかげなのか。あれが何かは具体的には分からないが、心当たりならある。
工藤が持つ呪いの髪飾り。あの一部が私の左目の中に入り込んでいた。
実話怪談の一つに寄生するように憑いた悪霊が別の悪霊を倒したという話がある。今回のそれも多分、それに近いんじゃないだろうか。
くねくねが視界を通して侵入してくるものだったから、先に入っていた呪いの髪飾りの一部が自分たちが攻撃されたと誤認して、防衛反応を働かせた。
そんな気がする。少なくても、あのミミズたちは私に対して別段好意があるようには思えなかった。
……やめよう。今は思考が纏まらない。ただ、おかしくならずに済んだことを素直に喜ぼう。
怒鳴り声を上げる工藤を撮影しながら、私は緊張から解放されて、引きつった笑みを浮かべた。
この〈裏側〉は怖い。そして、ヤバい。
想像していたよりも、この場所はずっと異様で危険なところだ。
それでも。
それでも、私はこの場所が、気に入ってしまった。
くねくねのせいで頭が少し変になってしまったのかもしれない。
「工藤さん」
「ああん? 何だよ」
身勝手、理不尽で、暴力的で、その癖臆病なオッサンに言った。
「楽しいですね、何か……私、充実してます」
工藤はしかめっ面を次第に弛め、口角を引き上げた。
「分かって来たじゃねぇか、お前。それが『コワすぎ!』の醍醐味って奴だ」
ほう……。このオッサンも少しは尊敬できるところがあるみたいだ。
年長者らしい振る舞いを見て、少し彼の評価を見直す。
工藤はそう言った後、私の持っていたビデオカメラへ視線を向けた。
「そうだ、紙越ィ! ちゃんとカメラ回してたんだろうな! 映像取れてなきゃ、ぶっ飛ばすぞ!」
前言撤回。このオッサンはどこまでも最低だ。
一瞬でも見直した私が馬鹿だった。
「あ……撮れてますよ、バッチリでーす」
がくりと肩を落とした私は雑に返事を投げて、周囲の景色を撮る。
この青空も、この野原も気に入った。怖い存在が居るのもいい。
要らないのは……このオッサンだけだ。
レンズから〈裏側〉を覗いて、私はそう思った。
くねくね編終了です。
もう少し進んだら、ネオ様も出したいなーと思ってます。