「目を覚ませ、オラァ、オラァ!」
身体中に横線の紋様が入った上半身裸の工藤が、肋戸の頬を叩きまくる。
するとパンパンに頬を腫れ上がらせた肋戸は、口の中から黒いシャボン玉のような泡を吐き出し始めた。
「ぼっ、ぼぼぼぼっボぼぼぼボボぼぼぼぼぼぼぼっ‼」
奇妙な奇声と共に吐き出された黒いシャボン玉は天井付近まで近付くとパチンパチンと一斉に割れていく。
割れた途端に生魚のような臭いが辺りに漂い、室内に充満する。
この生臭さは……くねくねの時と同じ臭い!
もしかして、あの黒いシャボン玉が肋戸の認識を歪めて、引き寄せようとしていたものなのかもしれない。
その証拠に肋戸の瞳はしっかりと自分を叩く工藤を見据えている。
「や、やめてくれぇ……だ、大丈夫だから……正気に戻った……」
「おう、戻ったか。なら早速だが、この場所にある『力を与えるグリッチ』ってのを教えろよ」
正気に返ったことを確認すると、工藤は呪いの髪飾りを彼の懐から引きずり出す。
「グ、グリッチは……あそこだ」
肋戸が指で示した先には数歩先。ちょうど建物の中央だった。
だけど、その場所には目に見えて何かある訳ではない。強いて言うなら、八尺様が背を向けている場所のすぐ近くということぐらいだ。
「あそこだな? よーし」
「工藤さん、流石に危なくないですか!? あれに近付くのはまずいですよ!」
私や工藤はまだ肋戸のように認識を歪められてはいないものの、くねくねの時のように近距離で視認すれば、同じようにおかしくなる可能性は高い。
「安心しろ、紙越。俺にはこいつがあるからなぁ」
右手に握り締めた呪いの髪飾りを見せる付ける。
ん……。それを改めて見直した私は違和感を感じた。
くねくねの被害者の遺体から採取した突起物を呑み込んだ呪いの髪飾りは一部だけ半透明に変化していた。
半透明になった部分は、全体からすると八分の一くらいだったはずだ。
だが、今は五分の一くらいの髪の束が半透明になっている。
明らかに変色した箇所が増えている……!
「工藤さん、それ、何か透明の部分増えてますよね!? 成長してますよ! 何かヤバい気がしますよ!」
「ガタガタうるせえ! 俺はなぁ、この髪飾りでヤベー状況を幾つも乗り越えて来たんだよ! いいから黙って見てろぉ!」
怒鳴り散らす工藤に一瞬、身を強張らせる。
クソオヤジめ……こっちが珍しく心配してやったのになんて言い草だ。
ムッとして何か言い返してやろうと思った時、今の今まで背中を見せて佇んでいた八尺様が――。
『……ぽ』
――振り返った。
濡れたカラスの羽ような黒髪。
目蓋のない魚類じみた澱んだ眼球。
真っ赤な弓型に反り返った唇。
人間を模していながら、致命的に人間を理解していない歪な造形。
『ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽっぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっ‼』
肋戸が黒いシャボン玉を吐き出した音に近かったが、致命的な悍ましさを含んだ鳴き声。
泡が割れる時に発生する破裂音を無理やり、喉から出しているような形容しがたい音が連続して続く。
ヤバいヤバいヤバいヤバい。
これ、ヤバい!
頭の中を掻き混ぜられているような気分だ。
――懐かしい。
何が?
――帰りたい。
どこへ?
――着いて行きたい。
誰に?
――そこへ、戻りたい。
やめろ。やめろやめろ。それ以上考えるな。
自分の思考を弄られている。感情を弄ばれている。
私自身理解できない思考が感情を伴って、湧き上がってくる。
駄目だ……。感情を抑えられない。
とうとう噴出された郷愁が、脚を勝手に動そうしたその瞬間、工藤の声が聞こえる。
「紙越! お前はそこでカメラ回しとけ! 一世一代のおもしれー
何だ、この人。この状況で何を言ってるんだ?
俯いていた顔を上げた先には。
五芒星の上に立った半裸の工藤が八尺様を迎え撃っていた。
一瞬目に入った情報を処理しきれず、思考が凍る。
何で足元に巨大な五芒星が発生したのかもそうだが、八尺様を呪いの髪飾りを握り締めた拳で殴り付けている光景は純粋にインパクトが強すぎた。
唖然としつつも、私は持っていたハンディカムカメラを片目に当て、その光景を撮影し始める。
身体はもう、八尺様へ向かっていこうとはしなかった。
「オラァ! 何がぽぽぽだ! 鳩ぽっぽかよ! ボケがぁ! まーめがほしいか、鳩ぽっぽ!」
五芒星の上で工藤が殴る。
八尺様を殴る。殴り付ける。
恐怖の権化のようだった八尺様は、もはやただの背の高い女性にしか見えない。
「おめえが八尺様なら、俺は八百尺様だ、コラァァァ!」
非現実な怪異が、生々しい暴力という現実に叩きのめされている。
為すがままの八尺様、いや、背の高い女はサンドバッグでしかない。
……いや、冷静に考えれば、何で攻撃が当たるんだ?
くねくねの時は〈裏側〉の理屈に歩み寄らなければ、干渉することもできなかったというのに。
あの呪いの髪飾りがくねくねの影響を受けた突起物を吸収してからだろうか。
それとも……。
「あ、あのグリッチは……〈五芒星〉。〈ゾーン〉の住人に干渉できるようになるグリッチだ……」
私の視線に気付いたのか、肋戸はぼそりとそう呟いた。
異存在に干渉するためのグリッチ。だとするなら、あの〈五芒星〉こそが彼の切り札だったということか。
「グリッチを制する者が……〈ゾーン〉を制する……。工藤なら、奴に勝てる……!」
肋戸にとっては八尺様は奥さんを連れ去った仇だ。
憎悪を込めた瞳で工藤に殴り付けられる八尺様を見つめていた。
だが、あれだけ殴られ続けているのに八尺様は堪えた様子はなかった。
拳が当たれば、身体は傾ぐものの、致命的なダメージは与えらていない。
まだ、何か足りていないのだ。
〈タトゥー〉の作用なのか、工藤は激しく動いているのに息を切らしていなかった。
しかし、工藤の表情には致命傷を与えられない焦りが見え隠れしている。
このままだとマズいかもしれない。私も何かしないと……。
思い出せ。くねくねの時はどうやって窮地を脱したのかを。
確かあの時は……ミミズだ。
ミミズの亡霊が私の左目から出て、それを受けたくねくねが弱っていた。
あの感覚を思い出せば、また同じことが起きるかもしれない。
右目をカメラに、そして左目を八尺様に向ける。
「出て来て、ミミズの亡霊!」
まっすぐに殴られ続ける八尺様を見据える。
すると何か半透明の小さな粒が視界の端で蠢き始めた。
ずるりと這い出たそれらは悶えるように細い身体をくねらせながら、八尺様へと降り注ぐ。
『ぽ……ボボボぼっ』
半濁音だった鳴き声が、濁音に変わった。
半透明のミミズの亡霊に纏わり付かれた八尺様は、姿を歪めて〈歪な鳥居〉へと変化する。
大きな二本の縦棒を小さな横棒が繋いだそれはできの悪い巨大なコンパスにも見える。
「うおっ、何かいきなりコンパスみたいになったぞ!」
「工藤さん、それが多分、奴の本当の姿なんだと思います! その鳥居モドキを思いっきり殴り付けてください!」
「お、おお! 任せろ、紙越! これが最後の一・撃・だぁぁぁぁぁ!」
鳥居モドキになった八尺様へ、大きく振り被った工藤に拳が突き刺さる。
『ぼぼぼぼぼぼぼおぼボボボぼぼぼオボぼぼぼぼぼぼぼぼぼボボボぼおぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼおお!』
殴られたそれは鳴き声。いや、排気音と呼べる音を出し、八尺様の姿に戻って倒れ伏した。
横たわった八尺様は、身長こそ変わらなかったが、横幅が細くなり、空気の抜けた長風船のような姿を呈している。
これで、一応倒せたのだろうか。
萎びた八尺様をハンディカムカメラで撮っていると、それにバサリとタモ網が上に覆い被さる。
「おっしゃあああ! これで八尺様捕獲成功だぜぇ!」
カメラをスライドさせると、タモ網を持ってガッツポーズを取る工藤が映り込む。
今回ばかりは流石にこのバイタリティには平服するしかない。
ただのビビりで金にがめつい暴力的なチンピラかと思っていたが、勇気を持って怪異に立ち向かう姿はちょっとしたヒーローのようだった。
せっかくなのでバストアップして撮ってやろうと、カメラをズームした私はふと奥の壁で動くものに気付く。
「ん……? 何だ、これ」
奥の壁から黒く長いものが垂れていた。
帯のようにも見えるそれを更に拡大する。
「……っ!?」
右目に映った光景に、血の気が引いた。
これは髪だ。濡れカラス色の垂れ下がる髪は八尺様と同じもの……。
慌てて、カメラから目を離して周囲を見れば、屋内の壁という壁から髪が飛び出していた。
いや、髪だけではない、頭が、腕が、胴体が孵化した虫の幼虫のように這い出ようとしている。
「工藤さん!」
「お、何だ、紙越! ちゃんと俺の雄姿を撮って……」
「八尺様が、八尺様がまた壁から生え出してる!」
「は? ……うおっ!」
勝利の余韻に浸っていた工藤は、壁の異変に気付き、私と同じように驚愕している。
肋戸は私が落としたタモ網を拾い、それを構えて私たちに言う。
「ゾ、〈ゾーン〉の住民はまだ居る……戦うぞ、工藤!」
彼の戦意は衰えるどころか、なお激しく燃え上がっている。
ひょっとするとこの状況も想定していて、私たちを連れて来た可能性まである。
私はどうするべきかと工藤を見つめると、彼は一目散に出口へと駆け出した。
「やべやべやべっ! オイ、早く逃げっぞ!」
戦う気満々の肋戸を後目に猛ダッシュをかます。
私も当然その後に続いた。
背後で肋戸の叫びが飛ぶ。
「く、工藤ー! 逃げるのかー! 命懸けてたんじゃないのかぁぁぁぁあ! おぉぉぉぉぉい!」
ちらりと背後を一瞥した時に見えたのは、大量の八尺様に群がられている彼の姿だった。
入口から全速力で飛び出した私たちは、白い建物自体が巨大な八尺様へと変化していくのを目撃した。
「う、うわああああああああああああああ! やべえ、これやべえって」
「わああああああああ! 逃げましょう! いいから遠くに逃げましょう!」
巨大八尺様が見えなくなるまで充分に距離を離すと、私たちは足を一度止め、息を整える。
グリッチに引っかかって死ななかったのは、奇跡と言ってもいいだろう。
「はあ、はあ……あいつ何で逃げなかったんだ?」
「命懸け」を豪語していた工藤は心底不思議そうに建物の方を振り返る。
この人の頭には自分が何と言って肋戸に協力を要請したのか記憶にないらしい。
いや、覚えていた上で、命懸けの定義が常人とは違うのかも……。
だが、私もあのオッサンのために残って戦う気は起こらなかったので、責める気はあまりしない。
「どうします? 一応、戻ります? あの人居ないとグリッチ調べられませんし……」
「そうだな。とりあえず、どうなったか見に戻るか」
お互いに同意見だったので元来た道を恐る恐る戻って、白い建物があった場所を見に行く。
すると、そこには何もなかった。
四角く開かれた空き地だけが、そこに残されていた。
「マジかよ……」
呆然と呟く工藤。
私はそんな彼に何て声を掛けたらいいか、分からず名前を呼ぶ。
「工藤さん……」
「俺の五百万が、消えちまった……」
「……やっぱそこですか」
肋戸と共に消えた白い建物の跡地で、守銭奴は残念そうに項垂れた。
今回で八尺様編は終了です。
次回はネオ様と鳥子の話にしたいと思ってます。
それにしてもアニメ化したというのに、裏世界ピクニックの二次創作が増えません……。
やはり一話のくねくねの出来が悪かったからでしょうか。
漫画版はクリーチャーデザインが良いので、興味がある方はぜひ購入を検討してみてください。