ピンポーンと玄関前で呼び鈴を鳴らした。時刻は夜の8時を回っている。これだけ待ったのだから、さすがに帰っているだろう。私はそう思って、扉の前で返事を待った。
いなかったらどうしよう? そのときは諦めて帰るつもりだったけど、何やらパタパタと中から足音が近づいてくる。その音に私はホッとした。次第に足音が大きりなって、そうこうしているうちに目の前の扉がバタンと大きく開け放たれる。
「おかえりっ!どこまで行ってた…の……?」
姉は満面の笑顔で出迎えてくれた。しょうがないなぁ。ここは私もその素敵なお出迎えに答えるとしよう。目の前で固まっている彼女に向かって、こちらも満面の笑顔で返事をした。
「ただいま。お姉ちゃんっ!」
さてさて場面は変わって部屋の中。彼女に尋ねたいことは山ほどある。というわけで、私の姉―――宮水三葉に全神経を注ぐ。
姉は何だか挙動不審だった。
「どしたの?」
「…四葉、今日うちに来る予定なんてあったっけ?」
恐る恐るこちらに質問を投げかけてくる。それに対する答えは明確だ。
「サプライズやよ!」
わざと顔を綻ばせながら、どう?驚いた?と言わんばかりに答えを返す。
「えーー」
姉はなんだか不満顔だった。態度もどこかそわそわ気味だ。ときどき視線が玄関に移るのを私は当然見逃さない。
そんな姉の反応はおもしろくて仕方がなかった。ついついイタズラ心に灯る火が大きくなる。
私は視界の隅で、もう一度部屋の中を観察した。今日はいつも以上に部屋の中が綺麗に整頓されている。小物関係はすべて見えないところに隠れていて、テーブル周りもテレビ周りも塵一つない徹底ぶり。特にベッドメイキングなんかはバッチリに見える。洗面所やトイレだって隅から隅まで掃除が行き届いている。
同性の知り合いが来るくらいではまずここまではやらないだろう。ということはだ、いよいよそれは本当らしい。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「なんで今日はこんなに部屋がきれいなの?」
「……」
まずは変化球を投げてみる。しばらくはこれでカウントを整えるつもりだ。
「えっと、ほ、ほらっ、今日は時間があったから、たまには掃除に力を入れるのも悪くないかなーって」
ほうほう、そうきたか。なかなか苦しい言い訳だ。たまたま時間があったからって普通こんなに几帳面に掃除をするものだろうか。ましてや一人暮らしなのに。
「さっきさぁ、玄関前で出迎えてくれたじゃん。よくわかったね。わたしだって」
「そ、それはほらっ、こんな時間に部屋に来るのは四葉ぐらいかなーって」
うちに来る予定なんてあったっけ?ってさっき思いっきり私に聞いてましたよね?
あははと姉は笑って誤魔化しているけれど、目が泳いでいるので嘘をついているのはバレバレだ。しかも、言葉は東京の標準語。気を抜いていない警戒モードなのは手を取るようにわかる。
やれやれ、お姉ちゃんも意地っ張りな人やなー、なんて思いながら、最後に三振を取るべくストレートを投げつけた。
「それより、彼氏さんは今はどこにおるの?」
その言葉に姉の体が跳ね上がる。ほんとわかりやすい人やなー
「四葉! あんた知っとったの…!?」
この状況で気付いていないとでも本気で思っていたのだろうか。部屋は隅々まで掃除されていて、キッチンには一人じゃ食べきれないほどの食材が買い込んである。
物証はすべて押さえた。探せばもっと出てくるような気さえする。
姉は「あー」とか「うー」とか、まるで小動物のような反応をしていた。彼氏の存在を知られたことで恥ずかしい気持ちが込み上げたらしい。すごく初々しい。なんだかこっちまで照れ臭くなってくる。
でも、間違いない。私は少し安心した。姉のこんなにも幸せそうな表情は見たことがない。「もうっ四葉は意地悪やね」なんて言っているけど、心の底から彼女は笑っている。
目を伏せるようした、あの苦しそうな表情も、淡く切ない表情も、今の彼女からは消えている。悲しさを紛らわすための笑顔ではなく、心の底から嬉しくて、楽しくてつくる本当の笑顔を、こうして彼女は浮かべている。
その事実が私にはとても嬉しかった。
「それでその彼氏さんとはいつから付き合っとるの?」
そう聞いたはいいけれど、もしかしたら、彼氏なんて呼ぶのはまだ早いのかもしれない。姉はちょっと抜けているけれど、身持ちは固い方だと思っている。
もし男性とお付き合いをするとしても、しっかりとした手順を踏むだろう。告白したのがどちらなのかはわからないけれど、まずは友達からはじめて、交流を深めた上で付き合い始める、そんなイメージだ。
「ええと、はじめて会ったのが、そう、四葉と玄関前でばったり会ったあの日やね」
やっぱりそうだったか。だから、あの日はあんなに急いでいたのかと頭の中で納得した。なるほどねぇ。
「…えっ?」
でも待って。その日に初めて会ったということは、まだ数日しか経っていない計算になる。そんな人をもう自宅に上げているのかこの人は?
「それでな、会ったその日の夜にお付き合いすることになったんやけど」
「…は?」
姉の話に思考が追いつかない。おいおいちょっと待って。初めて会ったその日に付き合うことになった? えっ…?
「それでね、今日は付き合ってはじめての休みやから、昼間お出掛けして、夜は部屋でご飯を食べようってことになってな。あっ、それで今はね。買うのを忘れてた食材があったから、今買いに行ってもらってるんよ。私はまた買い物に行くのも面倒やから別にいいってゆうたんやけど、すぐに買ってくるからって……」
「ちょ、ちょっと待って!」
なんだろう。お姉ちゃんてこんなにおしゃべりだっけ?
「ということは、付き合ってからまだ1週間も経ってないの!?」
「……はい」
姉はみるみる顔を赤くした。
「会ったその日のうちに付き合ったのもびっくりやけど、付き合って早々彼氏を家に上げるとか、お姉ちゃんてけっこう大胆なんやね」
「ちっ、違うの! これには深い事情があって!」
姉は両方の手をあわあわ。その動きが可笑しくて、私はつい笑ってしまった。
「深い事情って?」
「うっ」
「何?何?」
「…別に、ないです」
赤くなっていた顔がさらに赤くなるのを確認。あの姉が、宮水三葉が、こんなにもハイペースに男性と付き合っていることには正直驚いた。もしかして、今日はこの部屋に泊めるつもりなのだろうか?
だけど、ここまでの話を聞いて別な不安が頭の中に浮かんだ。失礼とは思いながらも、私はそっと尋ねてみる。
「お姉ちゃん、正直、大丈夫なん?」
「大丈夫って?」
「……変なもの買わされてない?」
すると、姉は頬っぺたを大きく膨らまし、こう断言したのだった。
「騙されてなんていませんッ!」
そのあと、姉は彼と付き合うことになった経緯を話してくれた。さっきの話だけでも驚きの連続だったけれど、その話を聞いて私は再び衝撃を受けた。
なんでも、朝の通勤中、並走する電車の中で目が合って、お互いが次の駅で降りてそれぞれを探していたなんて、それなんてドラマ?と突っ込みたくなるというものだ。
でも、姉がその人の話をするときの表情はとても魅力的で、その人のことを深く想っていることが直に伝わってくる。好きという感情が私の方にまで流れ込んでくる。そんな雰囲気を放っている。
“運命の人”そう言葉にするのは簡単だろうけど、姉にとってその人は本当に会うべくして会った人なのだろうと私は思う。
『絶対に忘れたくない大切な人』
かつての姉が言っていた言葉を思い出す。
もしかしたら、彼女はその大切な人に会うことができたのかもしれない。そうじゃないとこんなにも優しげで強さのある表情をつくれるはずがない。姉が話している間、私は終始、彼女のそんな表情に見惚れていた。
「それで、その彼氏さんはいつ帰ってくるの?」
「そうやね。もう少しで帰ってくると思うんやけど」
私は会ってみたかった。姉をここまで変えてくれたその人に。宮水三葉に笑顔を戻してくれたその人に。心の底から会ってみたかった。
そして、そんな姉を近くで見ていたからだろうか、姉の姿をつい自分自身に重ねてしまった。私もあんなふうに笑えたらいいな、とそんなことを考える。
「どうしたの?急に黙り込んじゃって」
姉がこちらの顔を覗き込む。その幸せそうな顔を見ていると、何か無性にちょっかいを出したくなってくる。よし、ここは。
「それより、あれ何やの?」
右手で指し示した先には、服を掛けるためのポールハンガ―が置いてあった。その中に見慣れた服がかけてあった。他の洋服と一緒になっているため一見するとわかりづらいけど、私はそれを見逃さない。
「はっ、そっそれはな……ッ」
姉は動揺しまくりだ。ちょ!とか、あ!とか言葉になっていない言葉が口から漏れる。やれやれと思いつつ、私は例の服、高校時代の制服を確認した。
「あっあれは、ほら!たまたま見つけたから懐かしいなーて思って」
「たまたま見つけた制服にアイロンまでする?普通」
「うっ」
「もしや着ようと思ったんやないの?」
私の顔はニヤニヤ顔だ。
「うっ…は、はい」
姉はまた真っ赤になった。両手で顔を隠しているけど、耳まで赤いので相当恥ずかしがっている様子が窺える。つまりはそういうことなのかな。
「彼氏さんに着てほしいとか言われたんやないのー」
まさかと思いつつも、軽い気持ちで聞いてみる。すると、
「うっ…だ、だって、か、彼が見たいって言うから~」
ゆでダコ状態の姉からまさかの返事。図星だったか。正直びっくりだ。そんなことを頼む彼氏も彼氏だけど、その頼みを受け入れる姉も姉だ。
ここまでラブラブだとは思わなかった。なんだか私まで恥ずかしい気持ちになってきた。どうしてくれるわけ?この熱気……
「お姉ちゃんてほんっと大胆やねっ!」
「ちょっと待って四葉!!これには深いわけが~!!」
いつも通りの姉妹の会話。楽しさからかつい時間を忘れて話し込んだ。次はどんな話をしようかと、そんなことを考えながら。
でも、そのときだった。
ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴らされた。いよいよ彼氏の登場のようだ。
「はーい」と大きな声で姉は玄関へと駆けていく。なんだか新婚さんみたいなやり取りだと思った。
「…良かったね」
姉が部屋から出ていった瞬間、私は心の底から安堵した。きっと今の彼女なら、これからどんなことがあろうと乗り越えられる。それを確信する……
でも、同時にチクチクとした痛みに襲われた。それがきっかけとなったのか、途端にあの人の姿が頭の中のスクリーンに映し出された。
公園で助けてくれて、電車を一緒に待ってくれて、私のわがままに付き合ってレストランで食事をしてくれた彼。姉ののろけ話に触発されたのか、私も居ても立ってもいられなくなる。
姉が笑顔になれたように、私も彼と一緒に笑えたらいい。そんな日常が過ごせたらどんなに幸せなことだろう。彼と過ごす日々を考えるだけで心の中はぽかぽかで、彼と過ごしだ時間がかけがえのないものに思えてくる。
私はあの人に、“立花瀧”に会いたかった。
そのとき、部屋のドアが開けられた。「四葉、お待たせ」と言って最初に姉が現れる。まったくもうそんなに嬉しそうな顔せんでも…と私の口からは溜息が漏れる。
そして次に彼氏の姿の一端が垣間見えた。どうやら姉は、右手で彼の左手を握っているようだ。まるで、早くこっちに来てと、子どもが駄々をこねているようにも見えるその光景に、私は頬を染めたのだった。
そして――――――
「四葉、紹介するね。この人が くんだよ」
姉の言葉は聞き取れなかった。
私のまわりは一瞬の静寂に包まれる。耳に奥に届くのは心臓の鼓動一つだけ。ドクンドクンという大きな鼓動が耳の奥を刺激して頭の中を引っかき回す。
姉は引き続き何かを話していたようだけど、その声はまったく届いてこなかった。同じ部屋の一角で、こんなにも距離は近いのに、私と彼女の間には大きくて厚い壁が存在するかのようだった。
私は思う。自分の周りだけ別な世界に変わってしまったのだと。そうであってほしいと強く願う。
身体を動かしたくても動かせない。声を出したくても口がうまく動いてくれない。そして、目の前の状況を理解したくても、頭はそれを拒絶する。
私の心は真っ白だった。
だってそうでしょ?
姉の隣に立つ彼は…彼氏だと紹介された彼の姿は……
私がたった今心の中で思い浮かべた“あの人”のものと―――まったく同じだったのだから。