私は走っていた。ただ、ただ、走っていた。走ることしかできなかった。
気を紛らわすために、何も考えないようにするために、歯を食いしばってひたすら走る。腕を大きく振って、足を目一杯前に出して、顔は下を向きながら、ただひたすらに走っていた。
部屋を飛び出してどれくらいの時間が経っただろう。いったい私はどこへ向かっているのだろう。
その答えは自分自身にもわからない。
あの時、部屋を出た瞬間、背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。だけど、振り返らずにそのまま走った。
彼女の、幸せそうな顔を見ているのがつらかった。彼の、驚いた顔を見ているのがつらかった。
もう、だめかもしれない。息が続かない。全身汗でびっしょりだ。足が痛い。痛くて、痛くて、たまらない。だけど、何よりも、
――心が痛かった。
立ち止まったら、もっと大きな痛みが襲ってくる。その恐怖のせいで、足は常に前へと踏み出すことしかできずに、私をさらに追い込んだ。
家の灯りが眩しくて、人の賑わいが鬱陶しくて、静かな暗闇を求めて走ってしまう。靴を通して伝わってくるコンクリートの感触だけが、今はひどく安心できた。
『並走する電車の中で目が合ったんやけど』
うそだ。
『向こうも次の駅で降りたみたいで、私を探してくれてたみたいなんよ』
そんなこと、あるはずがない。
『会ったその日の夜にお付き合いすることになって』
『ということは、付き合ってまだ1週間も経ってないの!?』
どうしてそんなことになってしまうの?
だって、その日初めて会ったんでしょ?今まで会ったことも、話したことも、食事をしたことだってないはずなのに、名前も知らないはずなのに。
そんな彼のことを、どうして?
『でもこれだけはわかる。私はその大切なことを、大切な人を、もう一度知りたい、思い出したいと思ってる。これだけは確かなんよ』
いつかの光景が蘇る。足をケガして、部屋に泊まったときの彼女との会話。
どんなに考えないようにしていようと、瞼の裏にそのときの光景が浮かんできてしまう。
あの日、私の姉は確かに言った。苦しそうな表情を浮かべながら、儚い声に力いっぱいの想いを込めながら、彼女は確かにそう言ったのだ。
『大切な人』だと。
彼女にとって大切な人。それがいったい誰なのか。今ではもうわかりきっている。
それは―――立花瀧、その人だ。
姉の、彼女の、宮水三葉の、あの嬉しそうな顔を、楽しそうな表情を、弾むような声を聞いていれば、もう納得するしかない。姉を変えたのは彼なんだと、本能的にわかってしまう。
でも、どうして、どうして……
「彼じゃなきゃいけないの……ッ!?」
この言葉が何度も何度も自分自身に突き刺さる。身体中から悲鳴が聞こえる。足はすでに限界だ。それでも唇を噛む力だけは、より一層強くなった。
コンクリートで塗り固められた道の上をただひたすらに走っていく。どこに向かっていようとかまわない。たとえ人や車とぶつかったとしても、立ち止まるのだけは嫌だった。だって、もし立ち止まってしまったら…私は……
だけど、そのとき、道路の凹凸に足をとられて、バランスを崩して前から転んだ。ズサッと嫌な音が響き渡ると、硬い床に全身を打ち付けられ、大きな衝撃に襲われた。
ここがどこかもわからない。あれからどれだけ経ったかもわからない。時間も場所もわからずに、ただ、うつ伏せになって転んでいる。この事実が、ひどく馬鹿らしく思えて仕方がなかった。
起き上がる気力なんてなかった。もうすでにガス欠状態。だけどそれでも、今は走らなくちゃいけない。どこまでも、いつまでも、進み続けないといけない。
痛みで閉じていた瞼を少しずつ開いていく。目の前には右手があって……
『四葉、紹介するね。この人が立花瀧くんだよ』
あのときの光景を思い出す。部屋に彼を連れてきたとき、彼女の右手は彼の左手を固く握りしめていた。もう絶対に離さないと、強い意志が込められているかのように、二人の手は繋がっていた。
右手を少しだけ動かしてみる。空気を掴むように、何度も何度も握っては開いて、握っては開いてを繰り返す。誰かの手を掴んでいたかった。それが彼なら……そう思っていた。でも、
「空っぽだよ」
私に掴めるものなんて何もない。途端に視界はぼやけて、一瞬で前が見えなくなった。ほら、みろ。だから、言ったこっちゃない。
もし、立ち止まってしまったら、わたしは、私は
「泣いちゃうじゃんか……ッ」
震える声に刺激され、涙はもう止まらない。彼女が彼に出会う前の、あの淡く切ない表情と、彼が彼女に出会う前の、どこか遠くを見つめる表情が、心の中で重なった。
やめてくれ。認めたくない。認めたくないよ。運命なんて信じない。けれど、二人の出逢いは、運命としか言い表せない。それ以上の言葉が見つからない。
嗚咽が漏れる。
顔も心もぐちゃぐちゃのまま、時間だけが過ぎていく。季節はすでに春だというのに、暖かみなど感じない。冷たい道路をベッド代わりに身体を丸めて泣くしかない。今の私には、そうすることしかできなかった。
車のライトがこんなにも眩しいと感じたことはなかった。その光に照らされるだけで、身体がなぜか萎縮する。どこかもわからない街の中を、私はただひたすらに歩いていた。
さっき転んだ影響だろうか、ひざは擦り剥け、口の中には鉄の味が広がっている。心も体もくたくただ。
両手で自分の身体を抱えるようにして移動する。走ることはできなくても、じっとしていることが嫌だった。
歩く。歩く。どこまでも歩く。
次第に地平線の一部はうっすらと白み始め、もうすぐ朝が来ることを教えてくれる。どうやら私は一晩中歩き回ったようだった。
どこに行こうとも、どこに行きたいとも思わない。けれど、止まるのだけは身体が拒否反応を示している。
でも、ある住宅の角を曲がったところで、ぴたりと足が止まってしまった。私の視線はその先の一点を見つめている。この場所には見覚えがあると、頭の中で呼び止めがあった。
閑静な住宅街を貫く線路と、なんの変哲もない普通の踏切。どこにでもある光景に、なぜか胸がざわついた。
「……夢の中の、踏切」
いつの日か、私が学校帰りに偶然見つけて、興味本位に訪れた踏切でもある。
歩き回っているうちに、偶然ここに来てしまったのか、それとも無意識にここを目指していたのか。その踏切を眺めているだけで、なんだか不思議な感覚にとらわれた。
疲れ切った身体を前へと進めて踏切を渡る。道路間を移動する。あたりはだいぶ明るくなって、もう夜ではないことを実感できた。
敷板の隙間に足をとられないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと踏切内を歩いた。そうして渡り終えると、タイミングを見計らったように警告音が鳴り響いた。どうやら電車が通るようだ。少ししてから遮断機も下りて、道は完全に分断された。
こんな時間に電車が通るなんて珍しい。乗客なんて乗っているのだろうか。それとも貨物運搬でもやっているのか。
そんなことを考えているうちに、電車が徐々に目の前へと迫ってきた。ガタンゴトンと大きな音があたり一帯に響き渡って、強い風が私の髪を掻き乱した。風も音も、今の私には邪魔なものとしか思えない。それでも、電車が通り過ぎるまで、その場所に立ち止まっていた。
そうやって電車が通り過ぎた頃、私はあることに気が付いた。
線路を挟んだ反対側に男の子が立っていたのだ。
さっきまでいなかったはずの男の子。その子はこちらを見て、何か驚いた表情を浮かべている。私の今の表情も、もしかしたらあの男の子とまったく同じかもしれない。
私はあの子に会ったことがある。いや、もっと正確に言うのなら、あの男の子だったときがある。
夢の中で私は彼だったと、心が勝手に語りかけ、私の頭を混乱させた。
警報音が鳴り止んで、遮断機が勢いよく上へとあがる。道路を分断するものは何もない。だけど、私たちはしばらくの間、身体を動かすことなくお互いの顔を見つめていた。
夕方の黄昏時を、糸守の人はよく「カタワレ時」と呼んでいた。
人の輪郭がぼやけて、彼が誰だか分からなくなる時間帯。人ならざるものに出会うかもしれない時間帯、それがカタワレ時だった。
でも、もし、
“片割れの、もう一人の自分に会える時間帯”をそう呼ぶのだとしたら、この夜でも昼でもない時間帯――明け方もまた、もう一つのカタワレ時と呼べるのかもしれない。
踏切の前に立つ男の子を眺めながら、私はそんなことを思うのだった。