昔、こんなことがあった。
私がまだ、糸守に暮らしていたころ、小学四年生ぐらいの時だろうか。姉の行動がおかしくなったときがあった。
何がおかしいかというと、スイッチが切り替わったように別人になる日があるのだ。例を挙げると、まず、身だしなみが雑になる。髪なんて一個所をヘアゴムでまとめて「はい終わり!」くらいの適当さ。他にも、食事の量がいつもより増える。言葉遣いが男っぽくなる。自分の胸をよく触る。など、挙げれば本当に切りがない。
今思うと、あのときの姉は何だったのだろう。そんな姉を見て、おかしな人やなぁ、と一歩引いていた記憶を思い出す。遠い昔の忘れていた記憶。楽しかったあのころの記憶だ。
それは、学校からの帰り道だった。その日、私は上機嫌で家路を急いでいた。理由は単純で、友達から借りたマンガを早く読みたかったからだ。おもしろいとみんなが言うものだから、前々から気になっていた。
学校にマンガなんて持ってきていいかって?案ずるなかれ。わざわざ友達の家から借りてきたのだ。気負うことなく読むことができる。
でも、手提げ袋にマンガを入れていると、どんな内容なのか、すぐにでも中身を確認したい衝動に駆られるのが少年の心というものだ(私は女だけど)。少しぐらいいいかと思って、一冊だけ手に取ってその場でパラッとページをめくった。
なるほど。こんな感じなんやぁ。と納得していると、数人の女の子が後ろから走ってきて、私の横を通り過ぎていった。一学年ぐらい下の子たちだろうか。何をそんなに慌てているのだろう?
最初は不審にも思わなかったけれど、よくよく見てみると、二人の女の子を、一人が必死に追いかけているようにも見える。何かの遊びかなと思いつつ、マンガを再び袋の中に戻そうとした。そのときだった。
「わぁっ!!」
誰かがまた、私の横を猛スピードで走り抜けていったのだ。「待てこらあ!」と何やら大きな声まで上げるものだから、驚いてマンガを落としてしまった。
やばいやばい。人から借りたものなのに汚したら大変だ。そう思って、すぐに拾い上げてハンカチで汚れを拭いた。でもよくよく考えてみると、今の声には聞き覚えがある。そう思って、最後に走り去っていった人をもう一度よく見ると……
「お、お姉ちゃん!?」
私の姉、宮水三葉が走って小学生を追いかけていた。髪を適当に結んでいるから、今日は“おかしな日”だと理解する。何をやっているの?そう思って、私も彼女の後ろを追いかけていった。すると、少し先で女の子三人に、いや、二人に対して何やら説教をしているようだった。
「お、お姉ちゃーん!?」
「えっ、四葉?なんでここにいるの?」
「それはこっちのセリフやよっ……お姉ちゃんの方こそ何やっとるの!?」
姉は「あー」とか「うー」とか唸っていたけれど、やがて右手の人差し指で頬をカリカリと掻きながら、こんなことを言い出した。
「まあ、ちょっと、見ていられなかったから…」
何が何だかわからず、私は終始キョトンとしていた。
あとで聞いた話だけど、どうやら姉は、女の子二人組の嫌がらせ現場を目撃したらしい。その二人はある女の子の大事なものを奪ってしまった。それで追いかけっこになったというのだ。二人にしてみれば遊びのつもりみたいだったけど、やられた方は泣きながら必死に追っていた。そんな光景を見て、つい我慢できなくなったとか。
姉の話を聞いて、「なるほどなぁ」と納得する反面、とても驚いたのを覚えている。お姉ちゃんてそんな行動力のある人やった?子供同士とはいえ、人様のケンカに踏み込むような人だとは思っていなかった。
でもその翌日。不意に昨日の話題を振ってみると、なんだか忘れてしまったかのような反応が返ってきた。そればかりか、もう少し詳しく教えてと、逆に事の内容を聞かれてしまった。
昨日のことをすべて話し終えると「あの男は~!!」なんて言って憤慨していた。なんだろう。情緒不安定なの? さらに自分が説教をした女の子を教えてほしいと言ってくる。ますますわけがわからない。昨日こと覚えとらんの?
その後、姉が取った行動も不思議だった。昨日叱った二人の元を訪れると、また説教しているような感じなのだ。ただ今回は、昨日の勢いに任せた感じではなく、優しく言い諭すように形なのだ。まるで、自分の行いを今日の自分がフォローしているようにも見えて、つい私は可笑しくなって笑ってしまった。
思えば、この時の姉はいつもこんな感じだったと思う。姉の身に何が起こっていたのかはわからない。そんな姉を見て、当時の私は「ほんとおかしな人や」としか思っていなかったように思う。
でも、今なら言える。
あの頃の彼女は、本当に、本当に―――魅力的だったと。
うまくは表現できないけれど、あの頃の彼女には、今までにはなかった“何か”があった。宮水三つ葉にはなかった何かを、宮水三葉自身が手に入れたような、そんな感じがするのだ。
仮に今まで持っていたものを「優しさ」とするならば、そこに「強さ」が加わったような。強さに裏付けられた優しさを、優しさの中で光る強さを、彼女は持つようになった。今だから言えることかもしれないけれど、姉に憧れを抱くようになったのは、たぶん、このときからだと思う。
だけど、あの彗星災害によって環境は変化した。あの事故以降、彼女は心の底から笑わなくなった。何かを失ってしまったような、暗い表情を浮かべることが多くなった。そのときの彼女の様子は今になってもはっきりと覚えている。
当たり前だ。だって私は、姉の一番近くで、ずっと後ろ姿を見ていたのだから。
そして、今―――
彼女は再び心の底から笑うようになった。正直、信じられなかった。誰かが彼女を変えたのだと確信した。誰かが心に踏み込んだのだと思った。あの小学生3人の問題に自ら率先して踏み込んだ、あの頃の姉のように……きっと誰かが宮水三葉の問題に足を踏み入れ、そして彼女を変えたんだ、とそう思わずにはいられなかった。
彼女が笑顔を取り戻してくれた。本当は喜ぶべきことなのに、彼と並んで浮かべる笑顔を見た途端、私の心は嫉妬の炎で真っ赤に燃えていた。
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意識はまだぼんやりとしている。太陽の光が眩しすぎて、瞼がなかなか開けられない。
この瞳を晒したとき、私の世界はどう変わっているのか、それを思うと途端に不安になった。
あの選択は女の子の決断を裏切る行為に他ならない。でも、これが私の選択。宮水四葉の選んだ答えなのだ。
遠くの方で誰かが名前を呼んでいる。夢と現実の狭間にあっても、それだけははっきりとわかる。
その声を聞いていると、無性にあの言葉を口にしたくて居ても立ってもいられなくなる。
それは、誰かに対する謝罪。
誰かに対する想い。
私はそっと小さな声音に乗せて心の形を表現した。
「ごめんね。お姉ちゃん」