四月の最終日。私は姉の暮らすアパートにいた。キッチンの一角で話をしながら、夕食の準備を手伝っていた。
「それで式はいつになったんですか?」
「えっと、今年の秋口かな。後で四葉ちゃんにも招待状送るから。都合がよかったら来てほしいなぁ」
「絶対行くに決まってますよ~」
「本当は6月が良かったんやけど、予定がなかなか噛み合わなくて」
「へぇ、それじゃもう準備は万端って感じですね」
「それがなかなか進まんのよぉ。三葉、あんたのときは計画的に進めんといかんよ」
「えっ、わたし!? わたしは、ほらっ、まだ早いと言うか。まだ付き合って1か月も経ってないわけやし」
照れに照れながら、満更でもないような顔をする。そんな彼女を見ていると、私も名取早耶香もニヤニヤ顔を崩せない。
私たち3人はこの後のイベント?に備えて料理の下ごしらえをしていた。手元を動かしつつも、このメンバーが集まると自然と会話も弾む。まぁ、料理半分、話半分といったところだ。東京に出てきて以降、3人で何かをすることなんてなかったから、昔に戻ったような感じがしてこれはこれでなんだか楽しい。
ただ、そんなとき。三人の笑い声に触発されたのか、除け者扱いになっていた人がするりとキッチンに顔を出した。
「なあ、三葉、おまえの彼氏はいったいいつになったら来るんや?」
勅使河原克彦がもう待ちくたびれたと言わんばかりに思ったことを口にする。どうやら相当暇なようだ。
「文句の多い男やな。立花くんは今日仕事なんやから、多少遅くなるのは仕方がないんよ」
早耶香はそう言って、勅使河原のことを戒める。その答えに、勅使河原は納得できないといった表情をつくった。
「仕事?今日は土曜日やぞ」
「瀧くんの会社は完全週休二日制なんやて」
もっともな疑問を口にする勅使河原を見て、すかさず姉が説明を加える。
「週休二日制?だったらなおさら今日は休みやろ?」
「んー 日曜日が休みなのは他の会社と同じなんやけど、祝日とかで平日が休になると、必然的にその週の土曜日が出社日になるみたい」
漠然とした説明だったけれど、勅使河原はおおよそ理解したようだった。でも、自分がまた暇になるのが嫌だったのか、私たち3人にこんなことを提案する。
「おれも何か手伝う?」
まぁ、昔馴染みとは言っても、一人暮らしの女性の部屋で男一人がぽつんと待たされるのは考えてもみれば苦痛かもしれない。そんなことを思ったけれど、きっぱり「いらない」と早耶香に言われてしまったものだから、気を落とすようにして彼は部屋の中に戻っていった。がんばれ彼氏さん…!
勅使河原と早耶香の二人が瀧くんと対面するのは、それから二時間ほど経ってのことだった。でも、正直なことを言うと、私は少し心配していた。姉の親友とは言っても、この二人と彼は初対面のはずだ。だから、最初から宅飲みなんてハードルが高いんじゃないか、とそう思ったのだ。
最初はどこかに食べに行くとか、軽く喫茶店でお茶するとか、別な方法があるのでないか、と。でも目の前の光景を見て、そんな心配はいらなかったことを理解する。
最初こそ固さがあったものの、この3人、いや、姉を含めれば4人か、はあっと言う間に打ち解けていた。男の勅使河原とは、まぁ、それなりに馬が合うのかもしれないけれど、早耶香も瀧んに対して心を許しているように思える。本当に初対面なのか疑わしいくらいで、まるで、昔からの友達であるかのように仲良しに見えた。
まぁ、お酒も入っていたからその影響があるのかもしれない。お酒ってスゲーとずれたことを考えつつも、4人がつくる暖かな雰囲気は私にとってもすごく心地のいいものだった。
「それホンマか!?」
いつの間にか、話題は宮水三葉と立花瀧の出会いの件に移っている。勅使河原が驚いたのは、どうやら電車で目が合って…のくだりを聞いたからだろうか。
「ほんと信じられんよね。なんやの、その運命的な出会いは」
「そ、そうかな」
早耶香の言葉に姉は相当照れている。相変わらずわかりやすい人や。
「だけど三葉、ほんとは彼のこと、もっと前から知っとったとかやないの?」
「んー……違うと思うよ。ほんとにその日にはじめて会ったんやから」
「おれも、大学の頃から同じ電車に乗ってたけど、その日にたまたま三葉を見つけて」
早耶香の言葉に、二人は否定の言葉を繰り返す。でも「もっと前から知っていた」という言葉を否定する際、どことなく自信なさげに見えたのは私の思い過ごしだろうか。
「私もいつもあの電車で、同じ場所から外を眺めていたんやけど、瀧くんを見たのはその日がはじめてやね」
「だったら、もっと前に会っていても不思議やないやろ?」
勅使河原はニヤリと笑いながら、そんなことを言っている。何か裏がありそうだと半信半疑のようだ。何かにつけて裏の事情を考えるのはオカルト好きの特性だろうか。
「んー、その日は確か、ちょっとだけ電車が遅れていたから、それでタイミングよく会えたのかもしれんなぁ」
「事故があったってこと?」
「事故ではないみたいよ。数駅先の踏切でな、学生二人が踏切の中に入っちゃったみたいで、それで、安全点検のために電車が止まったみたいなんよ。その男の子と女の子にケガはなかったみたいやし、すぐに運行も再開して―――」
私はそっと立ち上がった。
「四葉?どうしたの?」
「ちょっと、友達から連絡が」
姉からの問いに答えると、そのままベランダに出た。部屋の中はなんだか室温が上がっているのか、少し暑いような気がする。一人暮らしの部屋に5人も入っているのだから、まぁ、当然と言えば当然か。外の風がとても心地よく感じる。
携帯を見ると、花苗からのメッセージが届いていた。次はここだ!の文字。どうやらまた気になるお店を見つけたらしい。昨日の今日だと言うのに、行動力のある子だと、つい感心してしまった。
そんなとき、ガラガラと窓を開ける音がした。振り返ると瀧くんがそこにいた。少しビックリしたものの、努めて冷静さを装った。
「どうしたの?」
「いや。ちょっと、外の空気を吸いたくて」
彼はそんなことを言う。
ベランダに出てから窓を閉め、そっと私の隣に並ぶ。携帯をいじりながら、彼の横顔をちらりと盗み見るものの、何を考えているのかまではわからない。そのまましばらく無言の時間が続く。
「……四葉ちゃんは」
沈黙を最初に破ったのは彼だった。
「今は平気?」
その質問にすぐには答えられなかった。別に答えたくないとか、そういうのではない。彼の発したその一言には、たぶん、多くの意味が込められている。それを理解したからこそ、空返事にはしたくなかった。ちゃんと自分が納得する言葉で返したい。そう思ったのだ。
だけど、なかなか答えは見つからなかった。思えば、彼は私のことをどう思っているのだろう? 公園で助けて、また会って、食事をして、そして、好きな人の妹だとわかった。そんな私をどう見ているのだろう。直接聞いてみたい気持ちもあるけれど、それは少し、勇気が出ない。
彼には彼の事情があって、私には私の事情があった。お互いがお互いのことを考えていたわけではない。つまりは、そういうことなのかもしれない。
「その名前、禁止ね」
「え?」
「四葉ちゃん呼び禁止。これからは四葉でいいから」
質問の答えにはたぶんなっていない。だけど、彼にはこの言葉だけで十分だろう。
「…そっか」
彼は一言つぶやくと、顔を上げて空を見上げた。大都会の夜にもかかわらず、今日は星々が輝いている。
その隙を見て、私は一旦部屋に戻ると、自分専用のバッグを持ってまたベランダへと戻った。彼には返さなくてはいけないものがある。渡すとしたらこのタイミングがいいだろう。そう判断したからだった。
「瀧くん、これ」
「これって…」
「公園で助けてもらったときに、足に巻いてくれたタオル。今まで渡せなかったけど、返すね。あのときはありがとう。すごく助かった!」
これはひとつの区切りだ。私が彼のことを「瀧さん」と呼ぶことはもうない。彼が私のことを「四葉ちゃん」と呼ぶこともないだろう。あのとき借りたタオルはここで返す。
そうすることで、これからは家族として新たな関係をつくっていける。今までのことを精算し、また前へと進んでいける。
私はそう思った。なのに、
「あれ?」
彼をなんとなく眺めていたら、お腹のあたりに何やら光るものを見つけた。
「瀧くん、それ」
「ああ、これ? 四葉が前にくれたネクタイピン。便利だから使わせてもらってる」
四つ葉のクローバー絵が施されたそれは、確かに以前私からプレゼントしたものだ。いつの日か、イタリアンレストランで食事をしたときのことを思い出す。彼は「ちょうど欲しかったものだから」と嬉しそうにもらってくれた。
(やれやれ、これじゃすべてを清算できそうにはないかな)
彼女と彼が出会う前の、彼と私の思い出のひとつ。それが、彼の使っているネクタイピンには込められている。私は不意に笑った。
(ごめんね、お姉ちゃん。でも、これくらいは許してね)
ガラガラとまた窓が開く音がする。
「瀧くん?四葉?二人で何やっとるの?」
姉が声をかけてくる。戻ってこないから心配になったのだろうか。やれやれ、まだ数分しか経ってないんですが……
そんな姉の表情を見ていると、私のイラズラ心がくすぐられる。なので、つい私は調子に乗ってしまい、咄嗟に瀧くんの腕にしがみついた。
「邪魔せんといて! せっかく瀧くんと密談をしてたんやから! ねっ瀧くん!」
「ちょっ、ちょっと四葉! あんたくっつき過ぎやないの!?それに密談てなんやの!」
「内緒の話なんやからそれは内緒やよ! それに、もう瀧くんは私のお兄ちゃんなんやから、これぐらい普通やない!?」
「お、お兄ちゃん!?」
「えっ違うの?」
「い、いや、違うことはないけど、まだ先のことやないかと~」
姉はもうしどろもどろだ。ほんとに可笑しな人や。その返答や仕草を見て、私も彼もつい笑ってしまった。
「おーおー 四葉ちゃんが相手なら強敵やなー」
気が付いたら、勅使河原と早耶香までベランダに顔を覗かせていた。勅使河原の顔はもう真っ赤。酔っぱらいのおじさんみたいだ。
「あんた飲み過ぎやないの?」
そんな勅使河原に呆れつつも、早耶香も満更じゃない顔をする。
五人集まってのイベントは、まだまだこれからが本番だとでも言うように、尽きることのない笑いに溢れていた。
翌日。五月一日、日曜日。姉の住むアパートからの帰宅途中。私は、あの場所を訪れた。ここに来るのはこれで何度目だろう?
私がいる場所は例の公園だった。立花瀧とはじめて出会った場所。
当然、いつものベンチに腰を降ろしてまわりを見渡す。駅近くの公園にしては、人がいないといつも思う。通勤通学で人が増える朝と夕方以外は、いつもこんな感じなのだろうか。
桜はピンクの花びらをすべて落として今は青く色づいている。ひとつの季節が終わりを迎え、新しい季節がやってきていることを実感する。
「ん~~」
私は大きく伸びをした。ベンチに座りながら、両手両足を大きく広げ、今まであったいろいろなこと出来事に思いを馳せる。ここ1か月半あまり、忙しい日々の連続だった。心も体も揺れ動き、何かを捨てて何かを拾うことの連続だった。
思い返せば……とても幸運な出来事ばかりだった。
立花瀧に出会えたこと。それもただの出会いじゃない。宮水三葉よりも先に出会えたこと。それ自体がとても幸せなことだったように思う。
もし、あの二人が先に出会っていて、今の恋人関係になっていたら、私は心の整理をつけられないまま、ずっと彼のことを想い続けていたに違いない。姉に遠慮して一歩引いてはみるものの、それでも諦めきれなくて。毎日鬱屈とした日々を過ごしていたのかもしれない。
あの日、立花瀧が姉の彼氏だと知ったとき、とてつもなく落ち込んだ。現実に押しつぶされそうになった。でも、それがきっかけで区切りを付けられたのも事実だ。
私は確かに立花瀧の側にいたかった。彼の隣にずっといることができたならどんなに幸せだっただろう。
でも、それ以上に強く願うことがある。
それは、お姉ちゃんの、宮水三葉の幸福だ。彼女には幸せになってもらう必要がある。そうじゃないと私が困る。
なぜかって? だって彼女は私の憧れであり理想なのだから。
私が目標にしている以上、幸せになるのが彼女の義務だ。そうじゃないと、彼女を目指す私だって幸せになんてなれない。彼女を目標にすることもできなくなると思うから。
8年前から、いや、それ以上にずっと前から、私は彼女を見続けてきた。当たり前だよね。家族として、いつも彼女のそばにいたのだから。
彼女が彗星災害以降、何かに苦しみ、何かに悩み、何かを探す姿を、ずっと見続けてきた。8年という長い間、私はずっとそうやってきた。
でも、私がやったのはそれだけだ。
“見るだけ”
それが私の取った行動で、踏み込むことをしなかった。彼女が苦しんでいることを知っていながら、彼女の問題に踏み込むことができなかった。
でも、立花瀧は違った。彼は彼女の問題に踏み込んだ。私にはそう思える。
ここ最近、大人になるにつれて感じることの多かったイライラは、もしかしたらこれが原因なのかもしれない。理由がないと動くことができない自分に、きっと私は飽き飽きしていたのだ。
もう一度言う。とてもとても幸運だった。
宮水三葉よりも先に立花瀧に出会えたことが。そしてそんな彼に
―――恋をしたことが。
私は立花瀧が好きだった。大好きだった。
今だったらこの気持ちに名前をつけることができる。頭の中に浮かぶ数多くの候補から一つを選ぶことができる。
私のそれは間違いなく“恋”だった。
桜の季節の訪れとともに始まったその物語は、桜の季節の終わりとともに終わりを迎えた。
とても素敵な物語だったと思う。あんなにいい人に出会えて、好きになれて、本当に“幸運”だったとそう思う。
後悔なんてしていない。
だって桜の季節は終わったけれど、季節はまた巡ってくる。ここの公園の桜の木だって、来年にはもっと綺麗な花を咲かせてくれる。
季節が巡るのと同じように、人との出会いもまた巡る。ムスビは決して途切れることはない。新たな出会いに私は胸を弾ませる。もう私は大丈夫。きっと私は大丈夫。
私は立ち上がった。瞬間、公園の中を風が吹き抜ける。突発的に吹いたその風は私の背中にぶつかった。
「背中でも押してくれるわけ?」
つぶやいた独り言に答える者は誰もいない。桜の季節の終わりと共に私は前へと歩きはじめる。この先に何が待っているのかはわからない。
だけどこれだけは言える。
私の物語は―――今、ようやくはじまったばかりだ。