夕日に染まった公園で、夢でも見ているような感覚にとらわれていた。
今起こっていることは現実だろうか。周りの音は何も聞こえず、目の前に佇む男性からは目が離せない。身体がふわりと浮き上がるような不思議な感覚。まるで異空間にでもいるようだった。
けれど、差し伸べられた手を見ていると、身体は自然と反応してしまう。私はそっと、その掌の上に右手を重ねた。
それを確認すると、男性はひと回り以上も小さいこちらの手をぎゅっと握って、身体を引き起こそうとする。
まただ。手を握られた瞬間、心臓がドキリと跳ね上がる。いったい私はどうしちゃったの!? 身体の内側で起こる現象に戸惑う私。でもそのとき、下から鋭い痛みが襲ってきた。
「イタッ!」
「どうかした?」
男性は心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
「足をひねちゃったみたいで……」
目の前の出来事に気を取られて足の痛みを忘れていた。ひねった足に顔を向け、少しだけ力を入れてみるけれど、このままだと両足で立って歩くのは無理そうだ。
さて、どうしたらいいだろう? そんなふうに思っていると、背中と足に腕が回され、あっという間に身体は宙へと浮いてしまった。世に言うお姫様だっこの態勢だ。持ち上げられた瞬間、口から「あっ」と変な声が出てしまう。
「そこのベンチまでだから。ごめんね。ちょっとだけ我慢して」
助けてもらっているのだから、我慢だなんてとんでもない。男の人に抱きかかえられているという事実よりも、むしろ、自分の姿が気になってしまってしかたがない。
転んだのだから服は汚れて、泣いたのだから顔は涙でぐちゃぐちゃのはずだ。それに……
(ああ、スカートなんて履いてくるんじゃなかった。見えてないかな? きっと大丈夫だよね…?)
そう心の中でつぶやいて、自分で自分を励ました。
階段近くのベンチまで移動すると、男性はそっと身体を下ろしてくれた。触れていた手が離れるのに不思議な寂しさを感じながら、このとき初めて私は助けてくれた男性の顔を確認できた。
とても優しそうな人。それが彼を見た時の第一印象だった。端正な顔立ちだが、気取った感じはしない。年齢はいくつぐらいだろう? 年上なのは間違いないように思うけど、それほど私と離れているようには見えなかった。
「ええと、どうしようか?近くに病院があるから、見てもらった方がいいかな?」
彼は私と同じ目線まで頭を下げ、私のことをとても心配してくれる。
「あっ、いや…そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫です!」
対する私の返事は噛み噛みだ。
「それじゃ、タクシーでも呼ぶ? その足じゃ、家まで帰れないでしょ?」
「そ、それも、大丈夫です!」
心なしか声が上ずっているような気がする。
(しっかりしろ! わたし!)
「近くに姉が住んでいるので、姉に迎えにきてもらいます!」
即座に携帯を取り出して私は問題ないよのアピールをする。それを見て納得したのか、彼は安心した表情で公園の水飲み場の方へと向かっていった。
その隙に携帯で現在の時間を確認。もう終業時間を過ぎているから連絡しても大丈夫だろう、と考えて私は姉の番号をコールした。
結論から言うと、姉はすぐにでもここに来てくれるらしい。階段で転んで身動きが取れないことを伝えたとき、最初はとても驚いていた。大丈夫かと何度も同じことを聞かれたが、平気だと伝えたら安心したのか、すぐに行くから場所を教えてと返された。仕事が終わり帰り支度を整えていたところだという。本当だろうか? 私が気にしないよう嘘をついている感じもするけど、今日はありがたく姉の厚意に甘えることにする。
この場所が姉の暮らすアパート近くでよかったと思う。もしかしたら無意識に足を向けていたのかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えるものの、水飲み場から戻ってきた彼に気付いて思考を一旦停止した。
「これで少しは楽になると思うから」
どうやら彼は足を冷やすために自分のタオルを水で濡らしてきてくれたらしい。大丈夫ですから、と断る私をなんのその。彼はこちらの正面にしゃがみ込むと、ひねった方の足首にタオルを巻き付けてくれた。ひんやりした感触。それがすごく気持ちいい。
彼はクスリと微笑んだ。
その笑顔に私の心臓がまた跳ねる。今回のはとびきり大きい。私の心臓よ、そろそろ落ち着いてくれないか?
「お姉さんと連絡はとれた?」
「はい! すぐに迎えに来てくれるそうです。たぶん30分もかからないかと」
「よかった。それじゃお姉さんが来るまで俺はここにいるから。あっジュースでも飲む?」
「そ、そんな、悪いですよ!」
見たところ、仕事終わりじゃなさそうだ。そう思って聞いてみたところ、来月から新社会人だという。これから会社の研修が泊まりがけであるのだそうだ。それなら、なおさら私になんて構っていられないはず。私は彼からの申し出をできるだけ丁寧に断るけれど、彼も先方に連絡しておけば大丈夫だからと言って譲らない。でも、これ以上の迷惑はかけられない。そう強く決心して、再度その厚意を拒絶した。
その結果、最終的には彼が根負けしたようだった。私があまりにも粘り強く断ったからだろう。「それなら」と、しゃがんでいた身体を起こすと、バッグを肩にかけ直した。
「それじゃ、気を付けて」
彼は私を見て別れの挨拶をする。
自分からこうなることを望んだのだから、覚悟はできているはずだ。だけど、そのとき私は、夕陽に照らされるその姿を見て、その声を聞いて、なぜかとてつもない焦燥感に襲われた。まるで心が叫んでいるかのように心臓が脈打つ。このままでいいのかと。このまま別れても悔いはないのかと。不思議な感覚が全身を駆け巡る。なんだろう、この気持ちは……いったい私に何をしろというのだろう。
彼が背中を向けて駅方向に歩き始めたその瞬間、これまでで一番大きな波が押し寄せる。何か見えない力に背中を押されているような得体の知れない感覚。その見えざる力のせいなのか、私の口元は宿主に断りもせずに勝手に動きしていた。
「タオル!」
声は完全に裏返っている。恥ずかしくてたまらない。
えっ? という表情で彼は振り返る。もうどうにでもなればいい。半ば諦めの気持ちで私はさらに言葉を重ねた。
「あ、あとで洗って返しますから! だ、だから、携帯の番号、教えてください!」
「はぁ……」
今しがた起こったことは現実なのか夢なのか。そんな感覚が抜けきらなかった。
公園の中をまた風が吹き抜ける。何となく空を見上げた。
カタワレ時がもうすぐ終わる。一日の終わりが始まる。赤みがかった空も今はその色を失っている。けれど、未だに、
――私の顔は、真っ赤なままだった。