「四葉!」
「あっ、お姉ちゃん!」
男性と別れてほどなくしてから、私の姉――宮水三葉の声が聞こえた。ハッとしてその方向に顔を向けると、息を切らして走ってくる姉が見える。本当に急いで駆けつけてくれたみたいだ。仕事で疲れているのに、なんだか申し訳ない。
「ごめん。遅くなった!」
「そんなことないよ」
いつのまにか太陽は地平線の彼方に沈み、公園の街頭には照明が灯っていた。いつ点いたのかは記憶にない。ずっと空を見ながら考え事をしていたからだろうか、時間が過ぎた感覚もあまりなかった。
「階段から落ちたって、身体は本当に大丈夫なの?」
姉は心配そうに電話越しのやりとりをまた繰り返す。
「大丈夫だって。足を少しひねっただけだから」
私はひねった足を軽く持ち上げ、大きなケガではないことをアピールする。
「それよりお姉ちゃん。今日家に戻るのしんどいからさ、お姉ちゃんの家に泊まってもいい?」
「それはいいけど……」
と、そこまで言い終えると、姉は私を観察するような不信な目で見つめてきた。
「なに?」
「…あんたさ、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「えっ」
「携帯とか、大事そうに両手で抱えちゃってるし」
「な、なんでもないよ!」
「それに、そのタオル」
姉が足に巻かれたハンカチを指差す。いつもの私だったら、今しがた起こったことを正直に話していただろう。でも、このときばかりはなぜか、宮水三葉にすべてを打ち明ける気にはなれなかった。
その日の夜、私は姉が暮らすアパートの中にいた。あれから、姉にサポートしてもらいながら移動し、部屋に転がり込んだ。部屋にお邪魔するのは何も初めてじゃない。むしろけっこう頻繁に遊びに来ているので、部屋の勝手はよく把握している。
姉は大学卒業と同時に一人暮らしを始めた。わざわざ一人暮らしをしなくても、と最初は思ったけど、どこか思うところがあったらしく、また強く反対されることもなかったため、こうして自分のプライベートルームを持つようになった。正直うらやましいと思う。私もしてみたいなぁ、一人暮らし。
「これで、よし!」
右手に持っていたドライヤーを洗面所の定位置へと戻す。今日はいろいろなことがあり過ぎた。不意に気を抜くと、一日の出来事がフラッシュバックして頭の中がパンクしそうだ。
それでもこの部屋はどこか安心感がある。もしかしたら自宅以上にリラックスできるかもしれない。身体もぽかぽかだしね。
部屋に入ってまず優先したのはシャワーを浴びることだった。足の手当てが先でしょ!と姉にたしなめられたけれど、もう我慢ならない。早く身体を綺麗にしてさっぱりしたかった。ひねった足は最初こそ痛かったけど、案外たいしたことはなさそうだ。それに残りの擦りキズくらいなら我慢できる。昔、明里からは「四葉は男勝りな性格だ」と言われたことがあるけれど、こういうところが男の子みたいな印象を与えるのかもしれないな、とふと思う。
洗面所を出て姉の待つ部屋へと向かう。終わったら呼んでくれと言われたけれど、これくらいの距離なら普通に移動できそうだ。
そうして部屋の前まで来たはいいけれど、目の前のドアは少しだけ開いていて、そこからベッドの淵に腰かけている姉が見えた。
姉は右手をおもむろに覗き込んでいた。目線からして掌を見ているのは間違いない。けど、心はどこか遠くを見つめているような、そんな表情だった。
まただ。私はそう思った。
彗星災害以降、何度となく見た、姉のあの顔、あの表情。あの寂し気な表情を見る度に、心臓を鷲掴みにされる感覚に陥ってしまう。
いったい何が、宮水三葉をあんな表情にさせるのだろう。彼女はいったい、何を見ているのだろう。
一瞬、部屋に入るのを躊躇った。けど、ずっとこうしているわけにもいかないので、意を決してドアを開けた。それに気づいた姉は立ち上がってこちらに駆け寄ってきてくれた。
「終わったら呼んでって言ったやないの!」
「大丈夫やよ、お姉ちゃん」
言葉は自然と地元のそれになっていた。
ひねった足にテーピングをするというので、今度は私がベッドの上に座り、姉がベッドの下で両膝をつく格好になった。タオルで軽く私の足を拭いた後、スルスルとテープを巻き始める。マメな人やなー、とそんなことを思いながら、そして今日出会ったあの男性のことを思い出しながら、テープで固定されていく足先を眺めていた。
ただ、無言の時間が過ぎていった。姉はテーピングの作業に集中しているのか、何も話さない。別に無言の時間が気まずいわけじゃない。一緒にいて無言の時間が気にならない。それは家族の証だ。他人だったらこうはいかない。
ただ、今だからこそ、聴けること、話せることがもしかしたらあるんじゃないか、そんな考えが頭をよぎったのだ。
「…お姉ちゃんてさ」
なんだろう。今日の私は何かがおかしい。普段ならちゃんと自制できるはず。物事を考え、話すべきではない、そう判断すれば、例え家族だろうと話題には出さない。少なくとも普段の私ならそうしているはず。なのに、今は考えるよりも先に口が動いてしまう。
「ん? なあに?」
姉は手を動かしながら返事をする。対して私はこう続けた。
「お姉ちゃんてさ、ときどきものすごくボーとしとるときがあるよね、さっきもそうみたいやったし」
姉の動きが止まる。下を向いていた顔がゆっくりと持ち上がる。
「そういうときって、何を考えとるの?」
聞いてもいいことなのか、そんな想いが今更ながら浮かんでくる。踏み込んではいけない領域に入ってしまった感じがして、どうにも気分が落ち着かない。ただ、
それでも、私は、姉のあの切ない表情を、苦しそうな表情を見たくはない。それだけは確かだった。
姉と目が合った。目の奥の瞳はとても綺麗で、今にも吸い込まれそうだ。姉は何か躊躇しているみたいだったけど、こちらの目をもう一度見返したとき、意を決したように「ちょっと待ってて」と声を振り絞った。
私が冗談半分でそんな質問をしたわけじゃない、と受け止めてくれたみたいだった。
テーピングが終わり、姉は私の隣に腰を下ろした。ベッドがギシっと小さな音を立てる。
「…四葉とこういう話をするのは初めてやね」
私は無言のまま待った。姉は続けて口を開く。
「正直に言って私もよくわからんのよ」
「わからないって?」
「うん、何か大切なこと、大切な人を忘れているような、そんな感じがするんやけど、それが何なのか全然思い出せんの」
「大切な何か?」
「そう。絶対に忘れたくなかったことを、忘れちゃダメな人を記憶から消してしまったような、自分でもよくわからない不思議な感じがするんよ」
姉は目を細めて、とても優しげな表情を浮かべた。淡く切ない姉の顔。そんな顔は反則だ。妹の私でも、そんな顔をされたらこれ以上先のことを聞ける気がしない。
私が何を返せばいいのか迷っていると姉はさらに話の先を続けた。
「でもこれだけはわかる。私はその大切なことを、大切な人を、もう一度知りたい、思い出したいと思ってる。これだけは確かなんよ」
表情が苦悶の表情へと移り変わる。姉の両手に力が入るのが隣からでも見てとれる。
話の内容はあまりのも漠然としている。だけど、妙な説得力があった。
納得できてしまうものがある。頷いてしまうものがある。
姉も悩んでいるのだろうか? 整理のつかない自分の感情に。私が感じていた最近のイライラと同じように、彼女もまた正体不明の感情に悩まされているのだろうか。
それをどうしたら取り払うことができるのか、私にはよくわからない。ときどき感じる憂鬱さも自分ではどうすることもできない。なおさら姉にアドバイスできるものなど…ない。
でも、
隣に座っていた姉がハッと我に返って立ち上がった。
「ごめんね! 何言うとるのかね私は」
ご飯をつくると言って、そそくさとキッチンに向かう姉。私はその背中に言葉を投げかける。
「大丈夫やよ、お姉ちゃん」
その言葉に姉は振り向く。
「きっと見つかるんやさ。その探し物」
こんな励ましは無意味かもしれない。適当なことを言っていると思われるかもしれない。
でも、彼女にはできるだけ笑っていてほしい。宮水三葉にはずっと笑顔でいてほしい。なぜかって? 彼女は私の――理想なのだから。
それに、なんとなく予感があった。私の姉ならきっと大丈夫、なんとなくだけど、そんな気がした。
その言葉に姉は微笑む。
「何それ? 本当やの?」
「人生経験豊富な私が言うんだから間違いないわ。今日だってな、素敵な出会いがあったんやから!」
「四葉、あんた生意気ー」
久しぶりの姉妹の会話。楽しい時間が過ぎていく。昔はこれが当たり前だと思っていた。姉がいてお婆ちゃんがいて、ときどきお父さんが私たちの様子を見に来てくれる。もちろんいつもお婆ちゃんやお姉ちゃんがいないときだけど。
そんな暮らしがこれからも続くと思っていた。大きな転機はあの日。糸守を襲った彗星災害。あの災害で糸守町はなくなった。私たちの家も、神社も、帰るところすべて。
家族がバラバラになることはなかったけれど、大きなしこりを残したのは間違いない。姉は心から笑うことがなくなったし、お婆ちゃんも町と神社を失って以降、しばらくの間は意気消沈していたように思う。
みんな何かを抱えて生きている。
そんな中、姉と一緒に過ごす時間は大切だと思うし、ずっとずっと続けばいいとそう思う。おかしいなぁ。こんなことを考えるようになったのって、いったいいつからだっけ?
家族を感じながら、今夜はたくさんの話をしよう。私の中の小さな決心が花開く。願わくば、姉も同じことを想っていたら嬉しいけれど……キッチンで動き回る姉を見つめて、私はそんなことを思うのだった。