井岡は、足を止めた。
少し先に人影が見えたからである。
その夜、井岡は珍しく眠りに就けなかった。
そこで涼を得ようと屋敷を出て散歩をしていた。
何者だ、と井岡が言おうとしたとき自分の後ろにも人の気配がすることに気がついた。
それと同時に鞘から刀を抜く音が聞こえた。
自分を挟んでいる二人の男が自分の命を狙っているのだと井岡は思った。
井岡は素早く刀を抜き、前方にいる大柄な男に斬りかかった。
男は井岡の斬撃をかわすと、井岡の肩に剣を飛ばした。井岡は刀を合わせ何とか防いだ。
今度は男のほうから攻撃をしてきた。
井岡は、脇へ跳びざま刀身を払った。
男の左袖を裂いたが、傷を負わすことはできなかった。男は巨体に似合わぬ敏捷さで井岡に近付くと、迅く鋭い剣を繰り出してきた。
井岡は反応に遅れた。
男の剣は井岡の首筋をとらえた。
血飛沫が、激しく飛び散った。井岡の膝が、がくっと地面につき腰が折れた。
「絶命したか?」
井岡と大柄な男の戦いを離れたところから見ていた細身の男がそう言った。
その言葉に大柄な男は頷いた。
二人は鞘に刀を戻すと逃げるようにしてその場から去っていった。
「井岡が死んだだと」
長井八郎は東軍流を教える松崎道場に向かう途中、友人の服部源三から昨夜、井岡が殺されたという話を聞かされた。
その話を聞き八郎は足を止めたが、すぐに歩き出した。道場に着くと二人は着替え部屋で井岡の件について話しあった。
「しかし、あの井岡が死んだとはな」
「五日前の西村と同じく首筋を一太刀だそうだ」
五日前に殺された西村は空鈍流の達人である。
また、昨夜殺された井岡は天心独名流の奥義を極め、精妙な剣技の遣い手として知られていた。
「相手はかなりの手練れだな」
「次はわしか貴様かもしれないぞ」
「そうだな。しばらくは夜の外出を控えなければな」
「うむ。しかし、西村と井岡はなぜ殺されたんだ?」
「さぁな。もしかしたら、一年前のあの日の出来事が誰かにばれたのかもしれんぞ」
「もし、そうだったらわしらが狙われるのは確実」
着替え終わった八郎たちは井岡の件についてはまた今度話すことにして部屋を出て稽古の準備をしだした。
八郎と服部は松崎道場の高弟である。
門弟の筆頭は八郎で、服部は次席で、いまは後輩に稽古をつけている。稽古が終わった後、八郎たちは師の松崎甚三郎に呼び出された。松崎甚三郎は川崎道場で東軍流を修行し、若くして名手の域に達した人物である。
「井岡が死んだことはすでに存じていると思う。五日前には服部も死んだ。二人ともここらでは五指に入るほどの剣の腕だった。敵は只者ではない。決して自ら挑もうと思うな。よいな」
八郎と服部は頷いた。
すると松崎は今日はもう帰っていい、と言った。
八郎たちは挨拶をして部屋を出た。
道場から出てきた二人は気を付けろよ、とお互いに言うといつもよりわずかに早足で帰っていった。
帰宅した八郎を笑顔で出迎えたのは結婚して五年目になる妻の高江であった。
高江は町では美人と評判である。
その上、家事も人並み以上にできる、まさに完璧な妻である。
一方、八郎は剣の腕以外は自慢できるものはない。
学問はできないわけではないが苦手だし、親しい人物以外とはまともにしゃべることができない。
それにもうひとつ八郎には自慢できないものがあった。それは容貌である。
八郎は醜貌の持ち主である。
浅黒い肌に細い眼、三十半ばにしては少なすぎる毛髪。もし八郎が六尺以上の巨躯であればまだなんとか釣り合いがとれたが、八郎は小柄でほっそりして頼りがいのない体つきをしている。
そのため、親しい人物以外は八郎を見ようとしないし、無視する者もいる。
だが、高江はそんな八郎を嫌な顔ひとつせず、八郎の世話をしてくれる。八郎にとってとても大切な存在である。
「お帰りなさいませ。食事の支度が出来ております」
高江はさぁ、と八郎の手を引き部屋まで連れて行った。「道場で何かありましたか?」
高江は八郎がいつもより口数が少なく暗い顔をしていることに気がつき、何かあったのではないかと心配していた。
「井岡が死んだ。何者かに斬られたらしい。それも一撃で」
八郎は淡々とした口調でそう言った。すると、高江は驚愕した表情を浮かべた。
「あの井岡さまが一撃で」
高江は微かに震えた声で言った。
八郎の友人である井岡は何度かこの屋敷に来たことがある。高江も井岡が剣の達人であることは知っている。
それに井岡と話したこともあった。井岡は温厚な性格で周囲からの信頼の厚い男であり、八郎と違い話しの上手い男であった。
「今度、服部と一緒に井岡の通夜に行く」
「くれぐれもお気をつけて」
飯を食べ終えた八郎は今ぐらい井岡と西村のことは忘れようと、しばらく高江と話しをしてゆっくりした。