見慣れた扉を開ける。
それもそうだ、自宅のそれも居間に通じる扉、今まで生まれてからずっと暮らしてきた自宅の扉、その色も形も、そしてドアノブの少しだけメッキの剥がれた感触も変わらない。扉の前の廊下の硬さも、わずかな床板のきしむ音も。
ふと、ドアノブ近くに小さな傷があることに気が付いた。真新しいというほどでもなければ、かといって元からあったとは思えないくらいの小さな傷跡。魔術師の生命線ともいえる工房である自宅、その管理状態は逐一観察しているつもりであったし、補修だってしてきたつもりだった。だからこの傷跡がいついたか、なんていうのは正直すぐにピンときた。むしろなぜ今まで気が付かなかったのかなんて笑ってしまうくらい。
それだけ忙しかったからともいえるし、むしろ今だからということもできるかもしれない。見慣れた光景を一つ一つ確認するようにその傷跡に少しだけ触れてから、あの時とは違って、ゆっくりと扉を開ける。
既に真夜中を回った部屋の中は暗く、窓から差し込むわずかな外光が暗い部屋の中その輪郭だけが浮き出ていた。明かりをつけ無くとも、目を閉じていたとしても分かるその部屋。誰もいないその部屋の電燈をつける。一人暮らしならばこの家に自分以外がいるのが非凡なことで、むしろ電気がついていない事が自然であるというのに、その光景に少しだけ、小さく笑う。いつものように整然と置かれた家具たちがが目に入る。椅子と、テーブルと。微かに橙色の電燈の光の色が部屋に移る。飴色のような家具の木目がつややかにその光を受ける。
そしてそのカウチの中央に見つけた。
それは小さな少年の姿だった。
陽光のように淡い黄色の髪に深く遠い藍色をした少年だった。
大きな椅子に小さく座ったその姿。
どこか遠くを見たようなその少年の視線がこちらへと向く。
絵本の王子様のような小さな少年は小さく首をかしげるとゆっくりと口を開く。
「あいあすくゆー」
その姿は騒々しく落ちてきた誰かとは正反対で
皮肉屋で擦れた誰かとは比べるべくもなくて
焼きついたあの光景にその様はよく似ていた。
「私はあなたのマスターじゃないわ、ごめんなさいね」
「いい、しってた」
まだ冷える三月の夜、空になった台所に残されていたココアを一杯、少年へと渡すと少年は両手で抱え込むようにそのカップを持つと小さくすする。
「からくない、あまい」
「ココアだもの、辛かったら訴訟ものだわ」
気に入ったのかすぐに飲み干した少年の口の端、ココアココアの汚れをぬぐってやる。
「貴方はどこから来たの」
「ずっとむこう」
そういって少年が指さしたのはまだ暗い窓の外、夜の闇の中、月のない静かな空。荒唐無稽なその言葉、一般常識として、そして魔術師として、それが有り得ないほどのことだとは知っている。
けれど、少年のその言葉はすっと、胸の中へと落ちていった。
「どう、星の大海の旅は」
「たいへんだよ、このはいんせきにぶつかられそおうになっちゃった」
空になったカップをいじらしく眺める少年に変わりに自分のココアを差し出すと分かりやすく笑みを浮かべる。
「なんにもないときはずっとなんにもないのに、いそがしいときはみんないっぺんにくるからたいへん」
「そう」
少年は語る
その道行を
星の海を渡る術を
超新星の輝きを
彗星のきらめきを
小惑星の孤独と倦怠を
ブラックホールの歪を
いずれ来るべき終わりと
いつか出会う誰かと
そしていつまでも残る黄金の音色を
「それにえりせのめんどうもみなきゃいけないからたいへんなんだ」
「あら、ガールフレンドかしら」
「いいや、ぼくのマスターさ」
少年は笑った。
偉大なる人類の航海者は笑った。
遠き道の海を渡る少年はそのすべてを残したままそれもなお、綻ぶように笑った。
一つの戦争があり
誰かと出会い
少年と駆け抜け
何かを成しえず
けれど一つの答えを得た。
そしてその答えを抱えたまま生きていく。
いずれ終わるとてそれまでをまだ歩かねばならない。
未踏なる道を、誰かへと向けたその言葉を。
「私もマスターだったのよ」
「そうなんだ」
「そう、それでサーヴァントと契約して、駆け回って、納得がいく終わりだったのかな、それは私にもわからないけど」
それでも
「託されたからには進まなくちゃね」
いつの間にか握られていたのは明日の印字がされた英国への旅券。
少年は小さくうなずき満足したようにコップを置いた。
「うん、それでいい。それがいい」
ゆっくりと瞳を閉じる。夢を見るのか、夢を見たのか。
「キミの道行きに幸多からんことを」
「ありがとう、小さな王子様」
言えるのは一つだけ、今夜は少しだけ夢見が良かったこと。
よく朝寝坊して飛行機に乗り遅れそうになったことはまた別のお話。