脆く浅ましい恋であっても   作:なんじょ

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脆く浅ましい恋であっても

 いっそ全て奪ってしまえたら、楽になれるのに。

 

* * *

 

 ふと眠りを妨げられたのは、夢が不快だったからだ。

「…………」

 明かりを落とした教室の中、すっと目を開いた俺はしばらくの間、身じろぎもせずじっと天井を睨みつける。

『ユリウス』

 彼女の声が蘇る。同情。憐憫。悲しみ。相手への思いに満ちあふれたその声が震え、瞳から涙がこぼれ落ちた。

『泣いているのか……俺の為に』

 それを見た男は、悲しげに、それでいて満足そうに笑った。

 無駄な人生だったと。闇の中でもがき苦しむだけの生だったと、ユリウスは述懐した。

 それには、少なからず共感を覚える。

 俺は奴と違い、自分自身で生き方を選んできた。楽しみや喜びが無かった訳ではない。だがそれ以上に、苦しみのほうが何倍も多かった。

 報われる事の少ない生き方は、きっとあの男と似ていただろう。

 だが――少しばかりの親近感を持っていたユリウスに、俺は今、嫉妬している。

「……」

 身を起こして目をこらすと、教室の片隅で眠るマスターの姿がすぐ見つかる。

 俺は静かに立ち上がり、音もなく近づいた。すぐそばで足をつき、見下ろす。

 前回は友人、今回は亡者を打破し、その上自身の正体まで暴かれた。

 精神的な負担も相当なはずだが、彼女は折れない。今日もしばらくは寝付けない様子で何度も寝返りをしていたが、やがて泥のように深い眠りの底へと落ちていった。

「マスター」

 念のため、と小さく呼びかけてみたが、少女はびくともしなかった。すー、すーと規則正しい寝息を聞きながら、俺はそっと手を伸ばす。

 戦いの中で鍛えられていった無骨な、血にまみれた指。それで触れるには、マスターは平凡に過ぎた――あるいは、清純だった。

 故に俺は指を触れさせぬまま、ゆっくり、頬の輪郭をなぞった。あの時涙がこぼれた場所を、宙に浮いた指先で追う。

『俺の為に』

 あの涙を見て、ひどく嬉しそうに笑った男。俺はその笑顔に、身を焼き尽くすような嫉妬を覚えてしまった。

(泣くな、マスター)

 我ながらよく、あそこで我慢が出来たものだ。

(君を暴いた男の為に、泣くな)

 そう怒鳴りつけずに済んだのは、ひとえに強靱な自制心のおかげだ。

 俺はあの時、怒っていた。彼女を亡者と呼ぶあの男に。そしてあの男の為に泣く、彼女に。

「……マスター」

 身を乗り出した。赤い布にくるまって横たわる少女の両脇に手をつき、覆い被さる。マスターは起きない。一度寝付けば、彼女は朝まで目を覚まさないからだ。

(もう手遅れだ)

 いつの頃からか分からないほど自然に、俺は彼女を最優先事項に据えてしまった。

 俺の全ては彼女の為にある。そしてそれ故に、彼女も俺の為にあるべきだと、誰かが嗤いながら囁いてくる。

「……っ」

 ドッドッと激しく鼓動する上体を、沈める。

 ふれ合うほどに近づけば、マスターからほのかに甘い香りが漂う。健やかな寝息。緩やかに上下する胸元。艶やかな髪が広がる赤い布の下から覗く白い素足。そして微かに開いた、柔らかそうな唇――

「マス、ター……」

 その全てに溺れてしまえたら、どんなにいいか。からからに乾いた喉から声を絞り出した俺は、無防備に晒された首筋に顔を埋めて、とくとくと脈打つ柔らかな肌に唇を寄せようとする――それでマスターが目を覚まして、己のサーヴァントの所行に悲鳴をあげるだろうと、思いつくまで。

「っ……!!」

 脳裏に描いたマスターの姿が、楔になった。熱くたぎる体の欲するままに少女を蹂躙する、その暴力的で甘美な誘惑を、俺はかろうじて振り払った。それに抗い、後ろ数メートルの距離まで一気に飛び退く。

「っは、は、はぁっ、はぁっ――!」

 昂揚する劣情に、脳まで焼かれる。視界が歪み、少女の元へ戻れと命じるように足に力がこもる。

「……せぃっ!!」

 ドッ、と重たい手応え、そして激痛。前方へ走り出ようとする足を、俺は干将で突き刺した。物理的に進行を妨げられ、体が足下から崩れ落ちる。

「痛……は……何を、しているんだ、俺は……」

 刃を抜けば、太股からとろりと血が溢れ出す。息を荒げてそれを見下ろしながら、俺は俺を侮蔑した。

 サーヴァントたる本分を忘れ、まるで一人の人間のようにマスターを思い、挙げ句、自分勝手な欲望で彼女を傷つけようとするなんて、度し難いにも程がある。

 自分は幽霊のようなものだ。この戦いの間だけ現世に顕れる事を許された、ただの始末屋。目前に迫った最終決戦、それが終われば消えてしまうだけの――

(……あぁ。そうか。それは、マスターも同じなのか)

 そこでやっと、気がつく。

 マスターはかつて生きていた人間の再現データが自我を持った存在であり、地上の肉体はない。聖杯戦争が終われば消えてしまうのは、彼女とて同じ事なのだ。

(だから。彼女が欲しいと)

 マスターの未来を思い、一時の陽炎に彼女を奪う権利などないという、頑なな思いこみが壊されて。

 同時に、他の男のために涙を流す彼女に、どうしようもなく独りよがりな怒りを覚えて。

(今だけでもいいから、俺だけの物にしてしまいたいと、そう、思ったのか)

 つかみ切れていなかった自身の心をようやく把握し、俺は、ハッと失笑した。

 あきれたものだ。正義の味方を名乗り、私心を殺し、他者のためだけに生きてきたこの身にまだ、これほど浅ましい欲望が残っていたとは。

(欲しい。抱きたい。何もかも俺のものにしてしまいたい)

(やめろ。抑えろ。俺は、マスターを傷つけたくない)

 相反する望みがぶつかり合い、心がきしむ。俺は歯を食いしばり、自分の体を拘束するように腕を回し、暴走する熱を押さえ込む。

 

 だから、気づかなかったんだ。

 いつの間にか目を覚ましたマスターが、自分から、俺の元へやってくる、その足音に。

 俺を気遣う少女が、自ら罠の口に飛び込んでこようとしているなんて――気づいていたとしても、もう、手遅れだったんだ。

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