1
酒場の「母」が玉狛支部に現れたのは、迅と別れた遊真が本部に向かって移動を始めた頃だった。
「すみませーん」
という女性の声が聞こえて、オペレーター室にいた宇佐美は「誰だろう?」と不思議そうに呟く。一方、隣にいたレイジはその声に聞き覚えがあった。声の主が誰であるかがわかったと同時に、レイジの警戒心は限界まで引き上がる。
あれは酒場の母親だ。
だが、なぜ来た——?
思考をフル回転させて彼女がここまでやって来た理由を考える。酒場の様子を見に来たわけではないのは明白だ。彼女は毎日ボーダーでの出来事を報告書にまとめている。わざわざ危険をおかして玉狛まで来る必要はない。酒場を利用していることに気づかれた? いや、もしそうなら迅が何か連絡を入れてくるはずだ——いやいや違う。駄目だ。迅は酒場の母を「視て」いない。昨日の夜はずっとカーテン越しに監視していたし、彼女は普段ほとんど姿を見せないから、酒場の姿は見ていても、迅は母親の姿を確認していないのだ。予知から漏れていたとしても不思議はない——いや待て、落ち着け。情報は漏洩していない。もしバレていたら、酒場はあんなに敵と戦わず、この混乱に乗じて逃げ出しているはずだ。母親がここに来たのには別の目的がある。
混乱——まさか玉狛の隊員が出払っているのを好機と捉え、トリガーに関する資料を盗みに来たのか? それとも酒場が卓越した銃の腕前を披露したことによって、こちら側が酒場を疑い出すことを危惧して探りを入れにきた?
目的が何にせよ、危険人物には変わりない。
「宇佐美」
「はい?」
急に名前を呼ばれた宇佐美は、怪訝な顔をしてレイジを見上げる。
「陽太郎と雷神丸を連れて支部長の部屋へ行け。裏の非常階段を使うんだ」
「え、どうしたの急に……レイジさん?」切迫したレイジの雰囲気を感じ取り、椅子から立ち上がりつつ宇佐美は訊く。
「早く行け、そして支部長に伝えろ。『母親』が来たと——」
「こんにちはー」
オペレーター室に、酒場の母親が顔を出した。
彼女はバイクでやって来たのか、黒のライダースーツを身に纏っていた。フルフェイスのヘルメットを小脇に抱えているのが様になる、スタイルの良い女性だ。顔つきは娘とは違い、優しげな印象を見るものに与える。慈愛に満ちた微笑みがよく似合っていた。
聞かれたか?
レイジは口をつぐんで彼女を観察する。
「初めまして。私、佳子の母です——ちょっと勝手にお邪魔しちゃってすみませんね? 佳子のやつに渡しておきたいものがあるんですけど、どこにいます?」
それに答えようとした宇佐美だったが、レイジが宇佐美の前に立って先に答える。「佳子さんは今、防衛任務中でこちらにおりません。よろしければ我々が渡しておきましょうか」
酒場の母親は微笑みを崩さず、しかし一瞬だけ温度の乗っていない視線でレイジを射抜き——また元の優しい表情に戻る。
「あらそう。じゃ、お願いしちゃおうかな」
「……彼女は、何を忘れたんですか?」
「家の鍵ですよ家の鍵。私今夜仕事だからいないって言っておいたのに、まったくあの子は……」と言いながら酒場の母親がポケットから何かを取り出そうとした時——
本部から通信が入った。
『——本部から玉狛へ。本部から玉狛へ。予定通り、一〇分後に酒場隊員を処分する。彼女が緊急脱出した際の身柄の拘束はそちらに任せた』
「……」
レイジは沈黙する。
「……」
酒場の母親も沈黙を保つ。
ただ一人、宇佐美だけが「……え? 何?」と、わけがわからないといった表情で呟いた。
母親は呆れ返ったような表情をつくると深いため息をつく。肩をすくめ、「なぁんだ」と投げやりに言った。
「わざわざ馬鹿のフォローをしに来てあげたのに……意味ないじゃん。まさか、とっくの昔にバレていたなんてさ——!」
ポケットをまさぐっていた左手——ではなく、右手のヘルメットの中に隠していた拳銃を取り出し、発砲する。
複数回に渡る銃声。整然と並べられていた精密機械が派手な音を立てて破壊される。
「キャアッ!」頭を抱えて伏せる宇佐美。「陽太郎を連れて逃げろ!」と宇佐美に叫び、レイジは前に出て宇佐美の盾になろうとするが、女に銃口を突きつけられて立ち止まり、両手を上にあげる。「動くな」と一言だけ呟いた女は、レイジに銃口を向けたままゆっくりと入り口の方へ移動していった。
「いつからだ? いつからわかっていた。どうやって私たちを暴いた」
女はレイジに問う。レイジは何も答えない。その問いに答えるのならば、迅のサイドエフェクトにも言及しなければいけなくなるからだ。敵対勢力に予知能力者の存在を教えることはできなかった。
「
「……!」レイジからの回答を得るより先に女は何かを察知して、今度は天井に向けて発砲する。レイジたちが怯んだ隙に素早く逃げ出した。
「おわっ!?」
女は廊下側からこっそりと様子を見に来ていた林藤に向けても威嚇射撃を見せて突破する。すぐさまレイジが護身用トリガーを起動して追いかけたが、階段の踊り場で牽制の発砲。距離を取られる。レイジが警戒しつつ支部の入り口まで進んだ時には、彼女はバイクに乗って走り去ったところだった。もはや追いかけるのは不可能だが、彼女が玉狛支部から離れていったことは確認できた。
オペレーター室に戻ると、そこには宇佐美の他に陽太郎と支部長の林藤がいる。林藤は壊れた計器類を隅に追いやり、宇佐美を椅子に座らせていた。
「うそだ!」
宇佐美の横で陽太郎が怒っていた。地団駄を踏み鳴らし、時折大きくジャンプする。「ありえん! そんなのうそだ!
「悪かった。本当に申し訳ない」
林藤は宇佐美と陽太郎に何度も謝っている。宇佐美はずっと俯いていたが、レイジが戻って来たのに気づくと顔を上げ、椅子から立ち上がってレイジの方に駆け寄る。
「酒ちゃんがスパイって、本当……?」
レイジは黙ったまま、宇佐美の眼を見続ける。
「レイジさんも知ってたの……? ずっと、ずっと酒ちゃんを利用してたって……!」
宇佐美の眼には涙が溜まっていた。
2
黒トリガーの人型近界民を撃破した後、京介は皆と一緒に本部基地へ向かった。
移動中、黒かった空が青空に戻る。晴れ渡った空を見上げた酒場が「おい、空が青くなったぞ!」と、はしゃぐように叫んだ。
「とりあえずは戦闘終了か?」
足をやられたため、京介に背負われた状態の出水が周囲を見渡しながら言う。とりあえず目視できる範囲には、人型もトリオン兵も見当たらない。「そうでしょう。残党狩りはあるかもしれませんが」と京介は言った。
基地の入り口に着くと、そこには修と千佳、そして出穂が待っていた。
「ようお前ら! ヒーローの凱旋だぞ」
「酒場先輩!」
千佳が酒場の名を呼ぶ。「おお千佳! よかったなー無事で!」と言うと、酒場は千佳を抱き上げぐるぐる空中で回した。千佳の無茶な扱いに「せ、先輩!?」と修が慌てるが、「なんだ、お前もやってほしいのか? 仕方ないなあ」と酒場は勘違いし、千佳をおろすと修も同じようにグルグル回した。
「先輩!? ちょ、降ろしてください!」
「うわっはっはっは! おろして欲しければ感謝しろ! 私こそがお前の救世主なのだ!」
「してます、感謝してますから!」
相変わらずの様子を見ていると、京介にも戦いが終わったのだなという実感が湧いてくる。
その時、ピリリリと着信音が響く。
「……お? 私か」と気づいた酒場は修を降ろし、ポケットから小型端末を取り出して通話ボタンを押す。「もしもし、私だ——ああ、お母さん。珍しいな、なんだ突然……え? なに? なんだって? 聞こえづらいぞ……」
通話の相手は母親らしい。そのままなんとなく通話中の酒場を眺めていた京介だが、背後に誰かが着地した音を聞いて振り向く。
「三輪先輩、お疲れ様です」
人型近界民撃破における最後の功労者、三輪だった。
「……ああ」
三輪は京介を見ると小さくうなずく。「ナイス斬撃だったぜ」出水がハイタッチを求めると、三輪は心底嫌そうな目で出水を睨むが、結局はそれに応じる。京介は意外だと思った。ああいうのは絶対やらない人間だと思っていたのだが。
「三輪先輩、ありがとうございました。おかげさまで千佳も無事です」
修が三輪に礼を言う。三輪はしばし立ち止まり、じっと修を見た。
「……お前も、だったな」
そう呟く三輪。なんのことだろう。修も最初きょとんとしていたが、三輪が何を指し示したのか理解できたらしく、険しい顔になって「……はい」とうなずく。
うなずく直前、修は一瞬だけ酒場の方を見た。
「じゃあ手伝え」
三輪と修以外、二人が何の話をしているのかまるでわからなかった。出穂が「どうしたんすか?」とストレートに訊く。三輪は顔を背け、修は「ええと……」と困った顔をして言い淀んだ。
酒場はまだ端末を耳に当てている。
「うん——はあ!? バレてた!? 本当かそれは!」
その時だ。
三輪が酒場に向かって銃撃を仕掛けたのは。
3
響く銃声。
その場の誰もが仰天する。
酒場は間一髪、その場から飛び退いて三輪の銃撃を躱す。だがいまの今まで使っていた小型端末からは、極太の朱い角柱が生えて地面に落ちた。
「おいどうした三輪!?」
出水が三輪に呼びかける——が、三輪は構わず酒場に向けて赤い弾を連射する。弾の名は「
酒場は三輪から距離をとる。距離をとりつつ、腰から銃型トリガーを抜いて反撃した。
「チッ——」
手元を撃ち抜かれて怯む三輪。完全に不意を突いたと思ったのだが、どうやら違ったらしい。今の電話で誰かが酒場に教えたのか?
「三輪先輩!? どうしたんすか——」
「三雲!」
三輪は京介を無視して修の名を叫ぶ。
酒場を拘束しなければならない。
酒場を撃たなければならない。
酒場は密偵で、修たちに嘘を吐いていて、ボーダーの情報を狙っている。ボーターにとっても社会一般にとっても悪だ。ボーダーは確かに彼女を利用したが、ボーダーの方から彼女を誘ったわけではない。これから行う記憶封印処置にしたって、隊務規定違反に則った処罰だ。違反行為を犯した場合は規定に従って処分されることには、入隊時に酒場だって同意したはず。
いくつもの理屈を自分に言い聞かせ、修はトリオンキューブを手元に生成する。そして標的たる酒場を見た。必然的に眼が合う。驚きと怯えの感情が入り混じった視線に射抜かれた。修の体がさらに重く、固くなる。それでもなけなしの義務感で、無理やりに動いて弾を撃ち出そうとする。
「修くんっ!」
千佳が修の腰に抱きついて止める。「千佳——!?」分割した弾が暴発し、地面を傷つけた。
「どうしたの修くん!?」「千佳、頼む! 離してくれ!」「どうしたんすかメガネ先輩! 近界民に操られてるんですか!?」出穂までもが修に取り付く。
「違う!」
もしそうだったらどれだけ良かったか。
「やめてください三輪先輩!」と、京介がエスクードで酒場を三輪から守る。通常のシールドは無効化する鉛弾だが、物質化された壁であるエスクードには遮断された。「邪魔をするな烏丸!」三輪は酒場から目を離さないまま京介に怒鳴る。
「あの女は密偵だ! 拘束して連行する!」
一瞬、時間が止まったかと思った。
「——密偵?」京介はその言葉の意味を確かめるように反芻する。「嘘だろ……?」出水は改めて酒場の顔を見ながら呟いた。千佳も出穂も酒場を凝視する。修もまた彼女を見た。
彼女の瞳は先ほどとは違い、諦めと悲しみの色に染まっていた。
「修、本当なのか?」
京介が修に尋ねる。修は重い頭を上下に振った。「メガネ先輩……」出穂は修を呼ぶが、その後にどんな言葉を続ければ良いのかわからなかった。
「……修くん」
千佳も修の名を呼ぶ。修は千佳の顔を見た。千佳は困惑し、怯え、頼るような——祈るような表情で修を見つめていた。修は千佳から目を背ける。目を合わせることができない。
酒場を睨む。
トリオンキューブを出して分割する。八分割——弾を浮遊させ、いざ、悪しき密偵に射出する——
——ぎゅ、と、千佳が修の服の裾を掴んだ。
そんなに強くない、少し動けば簡単に引きちぎられてしまうくらいの弱々しい力で千佳は修を引き止める。それは自分が正しくないことをしていると知っている者の引き止め方だ。自分が正しくないと知っていながら、それでも修を止めなければならないと思った、千佳の最後の抵抗だった。
彼女に引き止められた瞬間、修の中にあった攻撃の意志が遂に消えてしまう。
——駄目だ。
できない。
僕には撃てない。だって——
千佳だけじゃない、先輩のおかげで多くの人が救われた! 犠牲が減ったんだ! たとえ先輩がどんな悪者でも、それだけは事実だろう!?
僕は先輩に報いなきゃ駄目なんだ。後でどう叱責されようとも構わない。彼女が救った命の中には、
「アステロイドッ!」
トリオンキューブを分割する。狙いは酒場先輩じゃない、三輪先輩だ。三輪先輩を妨害してまずこの場を鎮める。そしてその後で酒場先輩と話し合おう。彼女の事情も聞いて、解決策を見つけるんだ。大丈夫、先輩は今回の大規模侵攻で多大な貢献をしている。酒場先輩の戦術的価値は大きい。城戸さんたちだって、できることなら先輩には今後もボーダーにいてほしいと思っているはずだ。大丈夫、やりようはある——っ!?
銃撃。
修が弾を撃つより早く、酒場の弾丸が修を木っ端微塵にする。「——っ!?」なぜだ。修が誰を狙おうとしたのかくらいわからない人じゃないはずだ。逃走するにせよ修の妨害は酒場にとって好都合だったはず。なぜ酒場は修を撃った——?
緊急脱出までの刹那、修は酒場を見る。
彼女は悲しげに笑い、唇だけを動かした。ありがとうと言った風に見えたのは修の気のせいだろうか。
青空に描かれる緊急脱出の軌道線。修は戦場から離脱する。
「嬉しかったぞ、三雲」
酒場は誰にも聞こえない声で呟いた。
「でもごめんな……きっとそれは無理だ」
世界はそれほど甘くない。
引き鉄を引いた罪は、そう簡単に消せないんだ。
4
『全隊員に告ぐ! 直ちに酒場佳子隊員を捕縛ないし緊急脱出させよ! 彼女には密偵行為を働いた容疑がかけられている! 繰り返す、直ちに酒場佳子を捕縛ないし緊急脱出させよ! 彼女には密偵行為を働いた容疑がかけられている——』
内部通話に響く忍田本部長の指令。だが、京介はそれでもまだ信じることができずにいた——というよりは、酒場を疑うことができなかった。酒場先輩が密偵? まさか、あの人がそんなわけ、そんなの……。
「まだまだだな三輪君」
三輪が右手で孤月を抜こうとした瞬間、酒場の銃が火を噴く。狙われたのは孤月を腰に結びつける小さなベルト。武器を弾き飛ばされた三輪は、ギリリと奥歯を噛み締めて酒場を睨む。
「酒場……!」
「山下先生には……そうだな、酒場は夜逃げしたとでも言っておいてくれ。机の中にあるものは別にいらないから、全部捨てておいてくれると助かる」
そして発砲。
三輪は咄嗟にシールドを張るが、そんなもの酒場の前では障子紙も同然。三発連続で全く同じ箇所に弾丸を当てて破壊され、致命傷を食らう。
緊急脱出。本部基地の方へ軌道が描かれた。
「にゃろう——」京介の背中から腕を使って飛び降りた出水がトリオンキューブを手元に出す。「ハウンド」と言った瞬間、射出する寸前のトリオンキューブを撃ち抜かれて手元で暴発した。
咄嗟に固定シールドを広げて自身の身を守る出水。
「遅すぎる」
酒場はそう言うなり、シールド目掛けて弾丸を撃ち込んで撃ち砕こうとしたが、出水との直線上にエスクードが張られたのを見て寸前で撃つのをやめる。
「酒場先輩……」
京介は剣を抜いていた。
「なんだとりまる」
「密偵って……本当なんですか?」
もはや確認する意味はない。京介自身、思い当たる節はある。だがそれでも訊かずにはいられない。本人から直接聞かないと動けなかった。
酒場は露骨に悪く笑う。
「本当だよ」
「……!」
京介にも狙いを定める酒場だったが、寸前で射撃を止めてその場から飛び退く。直後、酒場のいた場所に上空からの狙撃が集中した。
「気づかれた……!? なんで……?」
狼狽する古寺。当真や奈良坂も内心驚いていた。位置が割れてるとはいえ、完全に不意を突いたはずだ。影浦のようなサイドエフェクトでも持っているのか?
「つーかあいつ本当に密偵なのかよ? 人型近界民とあんだけ戦ってたんだぞ?」
当真はいまだに半信半疑のようだった。
「クロかどうかは俺たちの感知する問題じゃない。疑惑がかかっているのは事実なのだから、身柄を拘束する必要があるだろう」
「……ま、そりゃそうか」
当真はニヒルに笑うと再びスコープを覗く。
「銃型の最大射程は四〇メートル……」酒場は宇佐美の言っていたことを反芻する。いや、午前中に林藤支部長にトリガーをカスタマイズしてもらった時、射程を削って威力と弾速を高めてもらった。ここまで使った感じだと三〇メートル強が最大だろうか。いずれにせよ、あの狙撃手たちにこちらの弾はどうやっても届かない。
逃げよう。
酒場は南西方面へ走り出した。
「待て!」
出水が片手でハウンドを射つ。二七分割したそれらを上方と斜め上方からの二種類の軌道に分けて射出した。酒場はシールドを広く張りつつ逃走する。広がったシールドを狙撃手たちが狙った。
当真、奈良坂、古寺——放たれた三発の弾丸全てに、酒場は
「ヒュー」と当真が口笛を吹く。「拳銃王だな」
アイビスの弾やシューターの放つ弾じゃない。イーグレットの弾を——それも三発ほぼ同時に放たれた狙撃の弾を、彼女は走りながら全弾撃ち落としたのだ。尋常の腕前でないことは確かだった。
5
ただひたすらに先ほどまで通って来た戦場を逆走する。逃げなければいけないと思ってとりあえず駆け出した私だが、どこを目指しているのかは自分でもわからなかった。「お母さん」との合流地点も決めていない。
走りながら考える。私が密偵だと、いつから気づかれていたのだろう。三輪や三雲の様子を見た限りでは、昨日今日でバレたわけではなさそうだった。
「知らず知らず、ボロが出ていたのかな……」
これまでの日々を頭の中で思い起こす。玉狛に来た最初の日、三雲たちの入隊、小南との激闘、入隊式、本部での正隊員たちとの練習戦……。
くそう。
もっとここにいたかったなあ——
「——
右上空から飛来する空閑に気づき、咄嗟に体を捻って回避する。空閑の蹴りはアスファルトを抉り、ちょっとしたクレーターを空けた。話には聞いていたが、実際に空閑が黒トリガーを使っているところを見るのは初めてだった。その威力に頭で仰天しつつも、私の腕はいつものように反撃の手順をこなす。空閑は「
「
空閑の手から伸びる光の鎖。見るからに頑丈そうだが、その程度の速さの鎖分銅では私を拘束することなどできない。鎖の先端に弾丸を当て、そっぽを向かせる。
反撃したいが、またもや本部基地屋上から狙撃が飛んでくる。今度は二発。さっきより一発少ない。一人は移動中か? 弾に弾を当てて撃ち落としながらそんなことを考える。「
「やるね、さけちゃん先輩」
「そうか。勝てなそうだと思ったら退散してくれてもいいぞ……?」
空閑の盾に撃ち込みながら軽口を叩く。場違いなのだろうが、空閑がまだ自分のことを「さけちゃん先輩」と呼んでくれて嬉しかった。
横の路地から誰か来たのがちらりと一瞬見えたので銃撃。「うわっ!?」と声が聞こえるが、盾か何かに弾かれた音がしたので効果はなし。「大丈夫、オレが防ぎます」——聞いた覚えのある声だ。この戦いの最初、一緒にラービットを倒したあの剣士か? ということはB級の主力部隊も到着している——?
咄嗟に壁に貼りつく。直後、四方八方から射撃だの狙撃だのが見舞われた。たまらず横に建ってる民家に逃げ込む。スコーピオンで窓を斬って侵入。それでも空閑はぴったり追ってきた。しつこいやつだ。「
「ガイスト起動——『
空中に跳んだ瞬間、悪い予感がして身を捻る。だが避けきれなかった。大きな弾に掠り、左手の指四本を吹っ飛ばされた。まずい、これでは超速での連射ができない。
「酒場先輩——」
とりまるだ。とりまるの射撃だった。
「——すみません、けど……。捕えます」
すかさず他の銃手や狙撃手の弾丸が飛んでくる。彼らは遠巻きにシールドを張りながら、あるいは建造物を盾にしながら私を狙ってくるが、銃口と眼は見えている。進路を塞ぐ銃手の銃口に弾丸をぶち込んで銃を暴発させて包囲網を突破。落ち着け、可能な限り反撃しながら警戒区域外まで逃げるんだ。
どこかから投げられて来た瓦礫から、空閑の鎖が生えてくる。ギリギリで回避するが倒れた方向がまずかった。そこは八方から射線が通っている。銃手の集中攻撃。シールドを張りつつ逃げるがまたダメージをもらう。背中と腿裏に数発——大丈夫、まだ走れる。そう思ったところに襲い来る鋭い剣閃。攻撃手が次々と私に斬りかかってきた。頭の後ろに寝癖をつけた少年剣士は手元に弾を当てて吹っ飛ばし、村上君の攻撃はギリギリどうにかスコーピオンで凌いだが、
「佳子——」
……小南。
お前はやっぱりずるい奴だ。
戦闘中にそんな顔しやがって。
ずるいだろう、そんなの撃てるわけないじゃないか。
「——ねえ、嘘なんでしょ……? とりまるみたいに、私を騙してるんでしょう……?」
何も答えない。
何も答えられなかった。
答えられるわけがないだろう。
こんな不誠実な奴は、何も語ることなんてできない。
駄目だよ小南、私とお前じゃ最初から好敵手になんてなれなかったんだ。
ごめんな小南、頼むから泣かないでくれ。私はすぐに消えるから。
片脚で立ち上がろうとする私めがけて、空閑が超速で突っ込んでくる。「
ずるずると、前へ。
隙だらけのはずだが、空閑や小南が追撃してくることはなかった。いつのまにか銃撃も止んでいる。なぜだ? 無様な私に情けでもかけているのか——?
「酒場さん」
道の先に、迅さんがいた。
迅さんはまるで普段と変わらない風体だったが、いつもデフォルトで顔に貼り付けている軽い微笑をつけていなかった。迅さんの顔を見上げて私は察する。ああ、私はこの人の掌の上で踊っていたんだなと。きっと最初から私の正体は見破られていたんだ。
口を開こうとする迅さんを制して私は言う。彼は謝罪の言葉を述べるつもりだろうけど、やめてくれ。それは違うだろう。これが善悪を問うような問題じゃないのはわかってるはずだ。「いいんだ迅さん。重荷に感じる必要なんかない。私の世界じゃよくあることだ。戦士は有効活用しないとな」
迅さんは黙っている。「早く殺してくれ」と私は言った。
「……殺しはしない。あなたの身柄は本部に護送され、ボーダーに関する記憶を全て封印した後ボーダーから除名される。それだけだ……命は奪わない」
「そうか」と私は言った。つまり此度の任務は失敗か。なるほど。「それは困るな」私は独り言のように呟く。去年の大失態によって後がない私だったが、起死回生のチャンスもとうとう活かせなかったか。
「
その時、迅さんの動きがわずかに鈍った。
私の最後の足掻きが読めなかったわけではないと思う。最初に手合わせした時も感じたのだが、迅さんはまるで未来でも見えているかのように攻撃を避ける。だからこの時の私の銃撃だって読めたはずだ——いや、未来が視えたからこそ鈍ったのか?
なあ迅さん、教えてくれよ。私がボーダーに残る未来はなかったのか?
そんな未来はありえないのか?
まあきっとそうなんだろう。私は本来いないはずの人間だ。これまでの方が奇跡だったんだよ。泡沫の夢が弾けて消えただけのこと。仕方ないんだ。
嗚呼——それにしても、
ここに来てから、毎日ずっと楽しかったなあ——
迅さんの動きが鈍る——とは言っても、わずかに鈍った程度で実力派エリートを名乗る男が瀕死の私の攻撃に対応できない道理はない。迅さんは私の弾丸を避け、これ以上ないほど鮮やかに私の首を落とした。トリオン体を維持できなくなった私は、ボンと派手な音をたてて緊急脱出。玉狛支部で待ち構えていたレイジさんに取り押さえられ、必死に暴れた甲斐もなく身柄を拘束される。まあ銃も剣もない私の力はそんな程度のものだ。そしてそこから先の記憶は私には——ああ、いやいや違う。
そこから後の記憶だけでなく、そこから前の記憶も全部、私には無い。
民間人 死者 0名
重傷 7名
軽傷 44名
ボーダー 死者 6名(すべて通信室オペレーター)
重傷 3名
行方不明者 16名(すべてC級隊員)
近界民 死者 1名(近界民の手による)
捕虜 1名
第三勢力 捕虜 1名(記憶封印措置適用対象)
対