昭和18年7月1日、明治以来続いていた東京府と、東京府の中心部が独立した形となって形成されていた東京市が改めて一つとなり、東京都が誕生した。これは戦時下における行政単位の統合が目的であったようだが、現代の視点からすればさしたる効果があったとも思えず、むしろ「東京都」という名がこの時に誕生した、ということの方が、大きな意義を持っていたといっていいだろう。
8月下旬、その生まれたばかりの東京都の中心にいる少女たちに、また新たな任務が課されようとしていた。
熱く、湿気を帯びた空気が息苦しい。だが、それ以上に道場全体を包む緊張感に息が詰まりそうになる。来栖直と沢泉美、御刀を構えて対峙する二人から発せられる裂帛の気合が、その場に居並ぶ刀使たちの呼吸をも奪ってしまったかのようだった。
しばらく様子見をしていた両者だったが、「ふっ!」という泉美の短い声とともに立ち合いが動き始めた。
泉美が一気に二段階まで上げた迅移で下段から斬りかかる。正眼に構え、北辰一刀流独特の動きで切っ先を揺らしていた直は、右足からやって来る刃に自分の御刀を合わせて切っ先を流し、ス、と泉美の懐へ滑るように入りながら返す刀で胴を一文字に切り払った。が、既にそこに泉美の姿は無い。一足下がって間合いをとっていた泉美は、大振りをして体勢を崩している直の右腕へ向けて真っ直ぐに刃を振り下ろす。これは一本か、と思われたその瞬間、直の右足首が力強く返って蛍丸が真上に弾かれていた。凄まじい強打に泉美は身体を伸ばされた格好になったが、御刀を握り直して振り下ろす。合わせる直。互いに迅移で間合いを測りながらそのまま二合、三合と切り結び、鍔迫り合いになる。
「やりますね、泉美さん。まさかあの胴切りをかわすとは思いませんでした」
「わざと浅く斬り込んだんですよ。それよりさっきの弾き返し、相変わらずの力技ですね」
「以前までの泉美さんならねじ伏せられたんですけどねえ。本当に、何もかも良くなってますね」
「お陰様で、迷いがなくなりましたので」
二人はそこでふっと笑い、同時に退いて間合いを空けた。
「いやー、すごいわね、あの二人。もう私じゃ歯が立ちそうにないわ」
千鶴がそういって溜息をついた。
「ええ、確かに強い…。特に泉美は力も技も、それに刹那の判断も少し前とは比べ物にならないくらいだ…」
護国刀使最強といわれている凪子も、以前から直の剣には一目置いていた。いずれ、自分を超えるだろうとも思っていたが、この泉美の剣の冴えには目を見張るものがある。
「あら、そろそろ最強剣士の座も危うくなってきたかしら?」
「ふふ、まだまだ負けられないですけど…頼もしい、本当に頼もしい限りですよ」
「何言ってるの、嬉しいだけでしょ?強い相手がいるのが。そんな血走った目をして」
そういわれて自分の身体にかなり力が入っているのに気が付き、凪子は頭をかいた。
「あら、泉美さんの構え…」
千鶴の声に視線を戻すと、泉美が御刀をゆっくりと振り上げていた。
「ほう…諸手上段か…」
「泉美さんの上段、初めて見たわ。ふうん…なかなかきれいな構えね」
「かつて『位の桃井』といわれた鏡心明智流ですからね。しかしあれは有効かもしれません。直の籠手は鋭くてうるさいですからね」
「なるほど、面白くなってきたじゃない」
道場には、先程までの緊張感を押し流すほどの熱が満ちてきた。見ている刀使たちが明らかに興奮してきているのがわかる。ただ、そんな中でただ一人、渦中にいる直だけが変わらぬ様子で義元左文字を正眼に構えていることに、凪子は気付いていた。あの子はどんな時でも周囲の空気に流されず、自分の精神状態を保っている。冷静というか肝が据わっているというか、あるいはただの馬鹿なのか…いずれにしても刹那の間に命のやり取りをすることになる剣士にとって、それは最も必要とされる素養だ。つまり、頬を赤くして少し上気しているように見える泉美との差は、まだ大きい。
仕掛けたのは直だった。「てえっ!」という掛け声で左膝を上げるのと同時に、御刀を振り上げた。上段対上段、だが元から構えていた泉美の方が、予備動作が無い分打ち下ろすのは速い。同じ面打ちでも泉美の方が先に入る。泉美の方でもそういうつもりで打ち合いに応じ、踏み込んでいた…のだろうが振り下ろした御刀が、届かない。
周りの刀使たちから見れば、それは不思議な決着であった。構えを上げただけの直に向かって泉美が突っ込んで空振りをし、その泉美の頭の上で直の御刀が止まる…直の一本だった。
「そこまで!」
審判をしていた由良の声で、二人は御刀を引き、写シを解く。
「え?あれは…どういうことなの?」
「虚の剣…とでもいえばいいですかね。泉美には直が打ち込んでくるように見えていたはずです。しかし、実際には直はその場で構えを上げて、膝を上げただけ…」
「そんなこと、あり得るの?」
「ええ、直が泉美を呑んでいた、そういうことになりますがね。全く、いつの間にあんな芸当が出来るようになったのか…」
さっきまでの血の騒ぎが一転して、冷や汗に変わる。虚実入り交ぜた剣など、十代の少女がそうそう行えるものではない。
「ふうん…あの河井タツさんの孫娘、というだけのことはあるってことね」
「河井タツさんってあの教本の?直が?」
「あら、知らなかったの?」
「ええ…しかし、そうですか、なるほど…」
御刀を収めて、由良を交えて笑いながら話をしている直と泉美…二人の成長を目の当たりにして、凪子は剣術というものの奥深さを改めて知ったような気がした。いずれ刀使としての力は無くなっても、剣術は続けられる。成長し続けることはできる…そんなことを思った。それから、そんな妙なことを考えている自分に苦笑する。
「何、どうしたの?」
「いえ、あの二人はいい盆休みを取ったのだな、と思いまして」
「そうね、きっとそうなんでしょう…あら、そのお二人さんがお見えよ」
千鶴の言葉通り、直と泉美がこちらへやって来た。
「凪子先輩、どうでしたか、今の立ち合い」
直が笑顔でそう問い掛けて来る。
「ああ、二人共強くなった。特に泉美は一皮むけたな」
「ありがとうございます。それでも…直さんには敵いませんでしたけど」
「へへー、お盆休みの間におばあちゃんから色々と教わってきましたからね」
「河井タツさんか、今度お招きして講義でもしてもらおうかな」
「え、本当ですか!それならすぐにでもお願いしてきますけど!」
「直さん、いかにかつて刀使であった方とはいえ、このご時世に宮城の中へ入るにはそれなりに手続きがいるのよ。おばあ様にだってお考えがあるでしょうし」
興奮する直を、千鶴が笑顔でたしなめた。残念ながら確かに、そう簡単な話ではない。
「そうですね、でも事前に話をしておくくらいならいいですよね。もしかしたら、そういう依頼が来るかもしれないって」
「はは、そうね…ああそうだ、講義といえば吉乃と八重は上手くやってるかな?」
「え、二人共遠征に出ていたんじゃなかったんですか?」
「直さんと泉美さんはお休みから戻って来たばかりだから知らせていませんでしたね。実は今、あの二人には小学校の、国民学校の先生をお願いしているんです」
「学校の…?」
「先生、ですか…?」
そういって不思議そうな顔をする直と泉美を見て、千鶴と凪子は顔を見合わせる。
「実はいくつか新たなお役目を仰せつかっていてね」
そういいながら、審判の役目を終えた由良がやって来た。
「さあ皆さん、準備はできましたか?」
「はい!」
子供たちの元気な声に、吉乃は大きく頷く。
「それではいきますよ。『秋の田のぉかりほのいほの苫をあらみぃ』」
上の句を読み終えてから、吉乃は片目で子供たちの様子を伺う。「はい!」という元気な声と共に札を取る子もいたが、まだ半数の組では動きが無い。
「『わが衣手は露に濡れつつぅ』」
下の句が読み終わるとようやく、はい、はい、という声が響き渡る。その様子を見て、吉乃は満足気に頷いた。
「うんうん、いいわねえ。少国民カルタなんて無粋の極みよ。かるた、といえばやっぱり百人一首よ。ねえ、八重?」
「…いいんですか、姉様。そりゃあ得意なことを教えていいとはいわれてきましたけど、本来であれば剣術の基礎でも教えておくべきじゃないんですか?」
「はい、では皆さん、次の札を読み上げますよ」
子供たちの「はーい」という声に、吉乃は嬉しそうに次の札を読み上げ始めた。
「『あしびきのぉ山鳥の尾のしだり尾のぉ』」
「…私はともかく持統天皇も無視ですか」
八重はそうボソリと呟いてから子供たちの様子を見に歩き出す。
子供たちの夏休みにも、戦争という現実は容赦が無い。「国民学校初等科」と言われていた当時の小学校では、課外活動と称して夏休み中の子供たちといえども国のために働こう、という風潮があった。とはいえまだこの頃は休みの期間も課外活動の内容もある程度学校の裁量に任されており、畑作りという体を取った林間学校など、イベント行事と合わせたような企画を設ける学校も多かったという。そんな中にあって、少国民からの人気が高い護国刀使を招いて課外授業を任せたいという学校がいくつか出て来た。文部省を通じて要請を受けた内務省がこれを認可し、護国刀使たちに出動命令が下ったわけだが、教育内容については剣術に限定されることは無く、「戦時下ニオケル適切ナ指導ヲ施スベシ」という大まかな方針をとっていた。もっとも、子供たちの方からすれば、まさか刀使に百人一首を教わるとは思っていなかっただろうが。
「あのー、お姉さんたち刀使なんでしょう?剣術を教えて下さい」
故に、そういう声が上がって来るのはまあ当然だろうと、八重は思った。その発言で、かるた大会の進行が止まる。八重は頷きながら、手を挙げている男の子の方へ行く。
「えっと、君は?」
「はい、4年2組の川崎鉄也です」
「川崎くん、君のいうことは至極最もなことだとお姉さんも思う。しかしそれはまた今度にしよう。今日のところは一つ、百人一首ということでわかってくれないかなあ」
「はい…でも何で百人一首なんですか?」
あ、と思った時には遅かった。
「川崎くん、それはね、百人一首からは素晴らしい我が国の文化を学ぶことができるからなのよ!」
吉乃のよく通る大きな声が教室中に響いていた。
「わが国の、文化…?」
「いい?そもそも私たちが一般にいうところの百人一首は小倉百人一首といって、これは選者である藤原定家が住んでいた…」
「ああ、姉様姉様、そういうのはまだお子様たちには早いですから。ええっとですね、つまり、今みんなの中でかるたといえば『少国民カルタ』ですよね?でも本来かるたといえば百人一首のことを指すもので、これは昔の言葉を使っていたりするから少し難しいんですけど、でもみんなくらいになれば十分わかるはずなので、これからはこちらのかるたを学んでいけば我が国の伝統文化にも理解が深まり、よりよい帝国臣民になっていける、そういうことなんです」
わかってもらえたのか、もらえなかったのか、ともかく場は静かになった。因みに「少国民カルタ」というのは「愛国イロハカルタ」とも呼ばれる、当時の子供たちに推奨されていたカルタで、とかく軍事国家の色が強く出た内容になっている。現在の目で見ればよくもこんな内容を子供たちに詠ませていたものだと思うような文面が並んでいるが、当時の模範的な考え方や生活というものが知れるという意味では、興味深いものだ。
「…わかりました。でも、『こうとうか』はこの間の課外授業、剣術だったんですけど…」
何とかわかってもらえたらしいが、また妙な情報が入って来た。
「高等科で剣術の授業…?八重、聞いていますか?」
「いえ…まあともかく、来年、みんなが高等科になったらその時は剣術の授業を行いましょう。それでいいですね?」
やや歯切れの悪い「はーい」という返事が返ってきて、八重は安堵の息をもらす。
「ほら、姉様続き続き」
「ええ、でもおかしいわね。少なくとも護国刀使にそんな指令はなかったと思いますけど…」
全く、誰のためにこの場をとりなしたと思っているのだこの人は、と思いつつ、
「姉様、今日は存分に歌を詠むんじゃなかったんですか?」
そういうと、ようやく吉乃は笑顔を取り戻した。
「そうね、とりあえず今はそうしましょうか」
突然わけのわからないことで悩みだすから天才と呼ばれる型の人間は困る、と思いながらも「ながながし夜をひとりかもねむ」という下の句が詠まれたのを聞いて八重は一安心し、また子供たちの間を歩き始めた。
だが、
「『吹くからにぃ秋の草木のしおるればぁ』」
と、吉乃がお気に入りの歌の上の句を詠んだところで、
「お姉さんたちは、本当に刀使なんですかぁ?」
再びそんな声が子供たちのなかから聞こえて来た。さっきの中断から数歌分の時間しか経っていない。八重は子供の集中力の持続時間を侮っていた。そう、そんなものはあってないようなものなのだ。
「はーいそうですよ、刀使ですよ。後で御刀も見せてあげますから、今はかるたをしましょうねえ」
ふと見えた吉乃の笑顔が凍っているのを確認しつつ、八重はそういって子供たちをなだめにかかる。あの人の機嫌が悪くなるとあとが面倒だからね…という思いを言外に滲ませたが、当然子供には忖度の心などはない。だから、子供なのだ。
「えー!?今見せてよ」
「だから、後でって…」
「いえ、今すぐに見せてあげましょう。八重!」
そういって、吉乃は教室の前に安置していた童子切を手に取った。姉のその、尋常ならざる様子に、八重は慌てた。まさか、初等科の子供に脅しをかけるつもりなのか。
「姉様、大人げないですよ、ちょっと落ち着いて下さい!」
「荒魂よ。川崎くん、だったわね。すぐに職員室にいって先生を呼んで来て。皆は下がって、絶対に窓側に立ってはダメよ!」
「え!?」
と、返事をするのと同時に、八重も懐のノロ磁針から小さな音が出ているのがわかった。川崎くんは大きく「はい!」と返事をして教室を出て行く。八重は大包平を手に取り、窓を開けて外を見た。今、二人がいる教室は2階だ。白昼堂々、2体の荒魂の姿が、校庭の端に現れていた。妙に落ち着きが無く、首を前後左右にさかんに動かしている。
「ええー…、何だって学校に…」
「八重、大きさは?」
「頭が二階に届くくらいありますね。大型、といってもいいかもしれません。それが、2体」
「そう…取りあえず抜刀して、写シを張っておきましょう」
「心得ました」
二人が御刀を抜き放ち、目を瞑って小さく「写シ」と口にすると、薄い光に身体が包まれる。子供たちからは「おおっ」という声が上がった。そこへ、
「先生呼んで来たよ!」
川崎くんが中年の男性教諭を伴って戻って来た。
「先生、荒魂が現れました。子供たちを避難させて下さい」
吉乃がそういい、八重が窓の外を指すと、教諭はそちらへ少し歩いて行き、すぐに血相を変えて戻って来た。
「あれが、荒魂ですか…よりによって私が当番の日に…ああ、ともかく、子供たちは避難させましょう。裏口からなら問題無いでしょうか?」
「いえ、足の速いモノだと危険です。そうですね、すぐに外に出られるように一階の、できるだけ広い場所にいて下さい」
「わかりました。それでお二人は…?」
吉乃と八重は目を合わせて頷き合う。
「ここで一旦失礼します」
「失礼します」
二人はそういって教諭と生徒たちに一礼してから窓の方へ駆け出そうとして、吉乃が一度振り返る。
「あ、かるたはそのままでいいですからね。また後で続きをしますから」
「あ、はあ…」
吉乃はそのはっきりしない教諭の返事ににっこりと笑い、それから二人は既に開け放たれていた窓枠を蹴って、跳んだ。
後ろから子供たちの甲高い声が聴こえる。二人の身体は八幡力の力で空高く舞っていた。
「八重、着地と同時に金剛身、手前の方の足を斬りますよ」
「了解ですよ」
八重は前方2体の荒魂を見据える。どちらもさすがにこちらに気付いたようだが、まだキョロキョロと周囲を伺っている。
「私たちを相手によそ見とはね…!」
二人はほぼ狙い通り、手前の荒魂の足元に着地する。衝撃は金剛身を使えばどうということはない。そこへすぐに、まるで虫でも払うかのような素振りで荒魂が足元の二人にかぎ爪を振り回して来た。吉乃は右に、八重は左に軽く跳んでそれをかわし、着地と同時に今度は荒魂の左脚に向けて跳び、吉乃、八重の順に寸分違わぬ箇所を斬り付ける。再び降って来たかぎ爪を吉乃が金剛身で受け止めると、その荒魂の腕に八重が飛び乗って、そのままぴょんぴょんと荒魂の身体の突起から突起へと飛び移っていく。京都出身の四条姉妹が使う京八流は、かの英雄、源義経と関わりがあるといわれている。その様はさながら八艘跳びであった。肩口まで飛び上がった八重は、そこから一段と高く飛び、
「はあっ!」
という短い気合いと共に、大包平を閃かせた。荒魂は斜めに首を切り裂かれ、不気味な声を上げながらよろめく。
「浅いか…?」
そういいながら八重が荒魂の右肩に着地すると、奥にいたもう一体が猛然と突進してきた。彼らにも仲間意識があるのかどうかは定かではないが、刀使たちのことを厄介な害虫だ、くらいには思っているのかもしれない。そんな害虫であるところの八重を目掛けて、荒魂が鋭い爪を振り上げた…その時、文字通りの激震が走った。校庭が、そして校舎が揺れた。
「何だ、地震か!?」
先生の言葉に川崎くんは、それが校庭の荒魂によるものかと思い、さっきの刀使のお姉さんにダメだといわれた窓際に向かった。
「こら、そっちはダメだ!」
という先生の声など子供たちの耳には届かない。その場の全員が窓際に駆け寄り、そこで悪の巨大怪獣と正義の剣士たちの戦いを目にした。そして、地震を起こしたのがさっきまで歌を詠んでいたあのお姉さんだとわかった。金色に輝くその雄姿に、子供たちは息を呑み、次に吐き出されたのは、声援だった。
吉乃は渾身の八幡力で右脚を大きく振り上げて、地面へ接地の瞬間、全身を金剛身に変えた。それが激震の正体だった。中国拳法にある「震脚」のような技だが、三段階を超えると言われる吉乃の八幡力と金剛身が生み出すそれは、まさに震源と成り得る。手前の荒魂も、仲間思いの奥の荒魂も揃ってたたらを踏み、奥の荒魂が振り上げていた爪は大きく反れて手前の荒魂の後頭部を力無くはたいていた。
「そこっ!」
吉乃は金剛身を解き、体勢を崩している奥の荒魂の胴を真一文字に切り払った。それとほぼ同時に、
「これは僥倖…!」
手前の荒魂の肩にいた八重はそう呟いて大包平を横に構え、小さく跳んで今度は荒魂の背中側の首筋を切り裂いた。断面積の大きくなった荒魂の首は、先程奥の荒魂にはたかれた勢いも合わさって、自重で千切れながら落ちていく。耳を覆いたくなるような苦悶の叫び声が上がったが、幸いにも刀使の二人の耳に届いたのはそれだけではなかった。
「姉様、子供たちが!」
宙を舞ったままの八重がそういうと、
「ええ、いいつけを守らない、いけない子たちですね!」
吉乃は口調とは裏腹に、笑いながらそう答えた。子供たちの声援がはっきりと聞こえる。二人共、腹の底から力が湧いてくるのを感じていた。吉乃の目の前では、胴を払われた荒魂がそこを折り目にして身体を「く」の字に折る。荒魂の顔が、振って来るようだった。
「行きますよぉ、八重!」
吉乃は御刀を左腕に持ち替えて、落ちて来た顔の、顎に向けて正確に狙いを定め、
「『むべ山風を』!」
渾身の八幡力を発動して右の掌底を打ち込んだ。烈風のような衝撃と共に、荒魂の巨体が、わずかに浮いた。それがちょうど、空中にいる八重の正面に来る。
「『嵐といふらん』!」
くるりと身体を一回転させて大きく振りかぶった八重が、落下の勢いも借りて荒魂の正中線を真っ直ぐに切り裂いた。吉乃の横に着地して、一つ短く息を吐く。
「よーし、さすが我が妹、素晴らしい一撃だったわ」
吉乃が後ろから肩に手を回して来た。
「いえ、姉様の馬鹿力あってこそです。本当に…」
本当に、凄まじい技と機転だ。とんでもない姉をもったものだと八重は思う。
「まあ、乙女に向かって馬鹿力はないんじゃないかしらぁ?」
「それよりあれ、まだ動きますかね」
「うーん、大丈夫でしょう」
目の前に立つ十字の刀傷を負った荒魂は、何かを言おうとするように空を仰いで口を開く…が、そのまま固まって仰向けに倒れた。さっきよりは大分軽い、しかし十分に大きな地響きの後で、子供たちの声援が歓声に変わった。
二人の課外授業は一旦中止となって子供たちは家に帰され、代わりにノロの回収のために三名の護国刀使が応援にやって来た。作業が一段落したところで吉乃と八重が職員室へ赴くと、先程の男性教諭の案内で応接室に通された。
「これは護国刀使の方々、本日は誠にありがとうございました。子供たちにも校舎にも被害は無く、何とお礼をいっていいものか…」
待っていたのは年配の男性教諭だった。
「いえ、気になさらないで下さい。これもお役目ですから」
八重がそう答えると、
「恐れ入ります。私、この学校の教頭を務めております相模と申します。どうぞ、おかけになって下さい」
二人は軽く会釈をして、座る。
「それで、聴き取りというのはどういったことでしょうか?」
「…以前に、高等部を対象に剣術の授業があったらしいですね?」
吉乃がそういうと、先程の中年教諭が3人分の水を湯呑に入れて持って来た。お茶は、既に入手が困難になりつつあった。
「お菓子の一つも出せず申し訳ない。夏休みということもあって出勤しているのは私と彼だけなもので、今一つ勝手がわからないところもありまして…」
中年教諭が退室するとそういって、教頭先生は慇懃に頭を下げた。薄くなった頭頂部がよく見える。
「いえいえ、それこそお気になさらず…」
吉乃にそういわれて教頭はもう一度頭を下げてから、切り出した。
「剣術授業の件、ですか。高等部の女子生徒の中には刀使に憧れている者もおりますし、男子生徒は元々剣術には興味津々ですから、指導の一環にと申請をしていたところ、それが通りまして…確か1週間ほど前にそういった授業を行っております」
「そうですか…それで、派遣されて来たのは刀使、だったのですか?」
「ええ、それはもちろん…ああ、しかし護国刀使の方ではありませんでしたね。内務省神祇院から派遣されてきた、ということでしたが…」
そこで、吉乃と八重は顔を見合わせる。刀使自体は護国刀使に限らず全国にいる。だが、内務省神祇院付けとなっているのは近衛祭祀隊のみのはずだ。
「そうだったんですか。その時に才能がある、といわれた生徒はいましたか?」
また妙なことを聞くな、と八重は思ったが何かしら考えがあるのだろう。何食わぬ顔で黙っておく。
「はい、詳しい指導の内容は聞いておりませんが、鍛錬次第で刀使になれるかもしれない、といわれた生徒は何人かおりました。それで御刀を貸し出していただきましてね、今後それで訓練してみるようにといわれたということで、大変に名誉なことだと皆喜んでいるんですよ」
八重は口を挟みたくなるのぐっと堪えた。姉の笑顔が、今日二度目となる凍り方を見せていた。
「そうだったんですか、それは喜ばしいことです。ところでその御刀は今、どうされているんですか?」
「ああ、それでしたら普段は奉安殿に奉納させていただいております。あそこであれば鍵もかかりますし、失礼もないでしょうから」
奉安殿、というのは御真影、つまり天皇、皇后の写真や教育勅語などの「賜りもの」を納めていた祠のような施設だ。当時の国民学校であれば校舎の内外を問わず、必ずどこかに設置されていた。
「そうですか…あの、その御刀、見せていただいても?」
「え?ええ、それはもちろん…今すぐ、ですか?」
「はい、今すぐ、です」
長い髪をかき上げながらそういう吉乃の姿は、折神碧様程ではないかもしれないが、それでも十分に美しく、そしてそれが有無を言わせない圧力を備えている。私も髪を伸ばしてみようかな、などと八重は思ったが、戦闘の邪魔になるし手入れが面倒だな、とすぐに思い直した。教頭先生は頷きながらフラリと立ち上がる。
「では、こちらへ…」
姉妹も頷いて、立ち上がった。
和風なのか洋風なのかよくわからない、しかしひどく丈夫そうなのは間違いないコンクリート造りのその建造物…奉安殿は、校庭の一角にあった。さっきの男性教諭が鍵を持って来て、ノロの回収が終わった応援の刀使3人も合流する。
「香澄、あなたがいてよかったわ」
吉乃が、その応援の刀使の一人に話しかける。
「ええ、よくわかりませんけど御刀があるんでしたら是非拝見させていただきたいですね」
青砥香澄がそういってから欠伸をした。青砥家は代々砥師を出している家系で、多くの刀使がお世話になっている。
「あ、すいません。夜勤明けなもので…」
香澄はそういってさらに背伸びをした。緊張感は無いが、多くの御刀を幼い頃から見て来たこの娘の鑑識眼は確かなものがある。事実、近衛祭祀隊でも大抵の御刀は香澄の目を通した後で地下に奉納されている。そのため滅多に遠征に出ることは無く、隊舎の夜勤番や今回のような緊急の応援に出動することの多い、少し特殊な刀使だった。
そんな少女たちのやりとりを大人たちは特に気にする様子も無く、男性教諭によって奉安殿の鍵が開けられる。
「へえ、奉安殿の中って初めて見ましたね」
香澄がそういうのに、刀使たちは頷き、教頭が笑った。男性教諭が一礼して中に入り、安置されていた一振りの御刀を両手で捧げるようにして持ち上げ、また一礼をしてからこちらへ振り返った。
「これです。どうぞ」
香澄が目で仲間たちに確認を取ると、全員が頷いた。香澄も頷き、
「では、お預かりします」
そういって男性教諭から御刀を預かり、一礼してから静かに抜刀した。香澄には一瞬にして、これがどういう御刀かわかった。というよりこれは刀使たちがいうところの「御刀」ではなかった。だが、不思議なことに、刀使が御刀を握った時に感じる霊力が身体を巡る感覚が微かに、ある。
「ふうん…なるほど」
刀身をじっくり見据え、柄や拵えの様子も見てから、
「はい、結構なものでした。皆さんはどうします?」
そういうと、
「あなたがわかったのならそれでいいわ」
吉乃がそう答え、他の皆も頷く。香澄以上に御刀に造詣のある者はいない。
「そうですか…では、お返しいたします」
そういって、香澄は少し神妙な顔で「それ」を男性教諭へ返した。
「教頭先生、突然無理をいってすいませんでした」
「いえいえ、それで、疑問は晴れたのですか?」
「はい、ありがとうございました。今日はこんなことになってしまい残念でしたが、また、必ず続きをしようと子供たちにお伝え下さい」
「ええ、間違いなく伝えておきましょう。今日はこれで?」
「はい、色々と上に報告をしなければいけないことができてしまいましたから…」
そこで刀使の五人は改めて教員の二人に一礼し、返礼をされて、その場を辞した。
「とんだ課外授業でしたね」
校庭を歩きながら八重が溜息と共にそういった。が、
「そうね…ところで香澄、あれは、何だったの?」
吉乃は大分さっきの「御刀」にご執心らしい。
「ああ、あれは紛い物…というか軍刀だったわ」
「軍刀…ですか?」
応援の刀使の一人、甲斐百合子がそういった。
「ええ、でも大量生産品の軍刀にしては随分といい出来だった。あれは美濃関の刀工の技ね。大したものよ」
「そう…それで、あれで鍛錬すれば刀使になれると思う?」
「うーん、皆には微かすぎてわからなかったかもしれないけど、一応、刀使に反応するあの感覚はあったのよねえ…不思議なことに」
吉乃はますます難しい顔をして「軍刀なのに反応した…」ぶつぶつと独り言を言い始めた。またこれは面倒なことになったなと思いながら、校庭を眺めていた八重はふと閃いた。そういえば、あの荒魂どもは何かを探していたように見えた。
「あ、だとしたらあの御刀に反応して荒魂が現れたんですかね」
吉乃の真顔が、こちらに向けられる。
「それよ!さすが我が妹!え、待って、だとしたらあの軍刀には…まさか…!」
「ちょっと、姉様?」
また考え込んでしまった姉はもう放っておくことにして、4人は歩き始める。すると校舎を出たところで、さっきの子供たちが数人立っているのがわかった。どうやら刀使のお姉さんたちを待っていたらしい。
「おや君たち、帰ったんじゃなかったのかな?」
八重がそういうと、子供たちはまず、一礼した。
「お姉さんたち!」
「今日はありがとうございました!」
八重は少し面喰いながら「はい、どういたしまして」などと返事をする。そこへ吉乃が追いつき「あらまあ」などという。
「それからすいませんでした!お姉さんたちはあんなに強い刀使だったのに、おれたちあんな無礼なことをいって…」
そういったのは、見覚えのあるいがぐり坊主だった。
「ああ、川崎くん、だったね。別に気にすることは無いよ。みんなもそんなことは気にしなくていいから、もう帰りなさい。あんなことがあったんだ。ご両親も心配しているでしょう」
「はい、それで、あの…」
そういって口ごもる川崎くんに代わって、
「やっぱりおれたちは刀使にはなれないんですか?」
そういったのは、御刀を見せてくれといってきた少年だった。どう答えたものかと八重が迷っていると、吉乃がニッコリ笑って進み出て来た。
「そうね、今のところ刀使になっているのは女性だけだから、ちょっと難しいかもしれないわね。でもどうしてそう思うの?私たちが強かったから?」
男の子たちは頷いた。
「あんなバケモノをあんな風に倒してしまうなんてすごいです。おれたちも強くなって、お国の役に立ちたいんです」
男の子たちの眼は、真剣だ。それは強い意志の光を秘めた立派な眼ではあったが、見ていると何だか悲しみがこみ上げてくるのを八重は感じていた。
「そう…そうね。うーん、皆は私たち刀使があんな風に戦えるのはどうしてだと思う?」
吉乃は少ししゃがんで少年たちの目線になる。少年たちは揃ってふっと顔を赤くした。
「それは…刀使の力は神懸かりだから…」
さっきとはまた違った緊張した面持ちで、川崎くんが答えた。
「なるほど、神懸かりね。確かにそう見えるかもしれない。でもね、刀使が戦えるのは、刀使がそんな神懸かりの力を使えるのは、多くの人たちの協力があるからなの。たとえばこの御刀」
吉乃はそういって腰を上げて抜刀する。童子切の美しい刀身に少年たちの顔が写り込んだ。
「御刀の手入れは私たちだけではできないの。簡単に磨いたりすることはできるけど、強い衝撃がかかって柄がずれてしまったり、少しでも刃こぼれが出てしまうと、もう私たちの手には負えない」
香澄が笑顔を見せて後を継ぐ。
「そうですね、そんな時は砥ぎ師を始めとした人たちが元の状態に戻すために仕事をします。その刀使のクセに合わせて調整もしたりするんですよ」
少年たちがしっかりと話を聴いて頷いている。
「そう、他にも私たちが市中で御刀を振るってもいいように法律を定めたくれた人たちもいるし、訓練のための場所を整えてくれた人たちもいます。もちろん、そういう人たちは刀使の力を使えません。でも、そういう人たちの力がなければ、私たちは刀使の力を使うことが出来ないんです。わかりますか?」
吉乃はいいながら童子切を鞘に収めた。少年たちはその動きを目で追いながら「はい」と答える。
「これは、戦地で戦う兵隊さんたちも同じことです。兵隊さんたちは、銃後を預かる私たちや皆が、それぞれに出来ることをしているから安心して戦うことができるんです」
少年たちは少し考える風を見せた。少しの間の後、
「おれたちは別に…何もしていません」
川崎くんの隣の少年がそういった。何となく、いつも姉の背中を追っていた小さい頃の自分を思い出し、八重はその少年の肩に手を置いた。
「何もしていない、ということは無いよ。勉強をして、身体を動かして、そうやって立派な大人になるために頑張るのが今の皆がやるべきことなんだよ」
「そのお姉さんのいう通り、今はたくさんのことを学ぶこと!それが皆のお仕事なんです。だから百人一首もしっかり覚えましょうね!」
少年たちに顔を近づけて吉乃がそういうと、
「は、はい…」
完全に気圧されつつも、彼らは何とかそう答えた。垂れた黒髪を耳にかけながら「よろしい!」といって吉乃が頷く。
「まあ…約束通り高等部になったら剣術の稽古もするから、それまではそのお姉さんのいうことも聞いて上げてね」
八重の言葉に今度はまともな「はい」という返事があった。
「じゃあ少国民の皆さん、お姉さんたちはこれで帰るから、皆さんも真っ直ぐに帰るように、ね」
香澄がそういうと、少年たちはまた礼をしてから散っていった。
「…こういうのってやっぱり、おかしいんじゃないでしょうか?」
少年たちの背中を見ながら、八重はぽつりとそうつぶやいた。
「こういうのって、どういうこと?」
「何ていいますか、あんな子供たちが、夏休みを遊んで過ごせない…遊んで過ごすのが悪いことのように思えてしまうっていうのは…どうなのかなと思うんですよね」
5人の刀使は、歩き始めた。
「そうね、それをいうなら私たちだってまだ法律上は子供ですけど…確かに八重のいう通り、今は子供が子供でいることが許されない時代なのかもしれませんね」
「それはやっぱり…悲しいことだと思うんですよね」
八重は、校舎を振り返る。最近はこんなおかしなことばかりが積み重なっていっているような気がする。これで本当に、この国は良い方向に向かっていくのだろうか?などという妙な疑問がよぎったが、頭を振ってそれを打ち消す。そんなことを考えてはいけない、それは、非国民の考えることだ。
その日、四条姉妹をはじめとした5人の刀使が隊舎に戻る少し前に、霧島由良、早乙女凪子、来栖直、沢泉美の四人は出動していた。目的は荒魂討伐でも御刀の回収でも無い。
「久し振りに来ました。上野動物園…」
上野動物園は日本最初の動物園として明治15年に上野恩賜公園にその原型ができた。以来、多くの動物たちが集められて広く国民から愛される施設となっている。
「私は初めてですが…直さんは何度か来たことがあるんですか?」
「はい、おばあちゃんに連れられて…刀使になる少し前にも来たことがあります」
「そうか…今回の件、直と泉美は無理をしなくてもいい。私と由良先輩に任せて今からでも帰っていい。いや、そうしてくれないか?」
凪子の言葉に、由良も頷く。
「ええ、今回の要請はちょっとね…あなたたちに経験させるべき内容でもないと思う」
「いえ、大丈夫です」
直はきっぱりとそういって、二人の先輩をしっかりと見据えた。由良と凪子は顔を見合わせて少しの間目でやり取りをしてから、
「わかった…行こう。園内の管理室で詳しい話が聞けるはずだ。それからでも遅くはない」
「そうね…取りあえず、入りましょうか」
普段ならまだ閉園時間には早い時刻であったが、今日はもう「臨時閉園」の横断幕が入り口に張られている。4人の刀使は係員に挨拶をして、園内へ入った。
この年の8月17日、現在でいえば都知事にあたる東京都長官より、上野動物園に対し「戦時猛獣殺処分」の命令が下った。今後の空襲などで動物園が被害を受けた際、飼育している猛獣が街中へ逃げ出し、人的、または物的な被害が出ないようにするために予め殺処分をしろ、という命令だが、同時に動物たちが消費する飼料の量がばかにならなかったということや、戦時下にあっては動物園のような娯楽施設そのものが不謹慎であるという指摘もまた、この命令が下された背景にはあったらしい。いずれにしても人の都合で生まれ故郷から離されて人工施設での生活を余儀なくされていた動物たちを、また人の都合で殺してしまおうという命令が何の臆面も無く下されたということだ。
「園内の動物たちは、危険度に応じて第一種から第四種に分類されています。そしてこの最も危険度の高い第一種に該当する動物たちを本日中に……殺処分、する予定です」
管理室内には動物園の職員たちが集められており、刀使の四人はその中に入る。動物園の園長代理だという男からの今の説明に加え、渡された手元の資料を見ると、第一種に指定された動物にはヒグマ、トラ、ヒョウ、ライオン、ニシキヘビなどの名前があった。そして次に、制服姿の女性の飼育員が立った。
「殺処分…には、毒を使います。硝酸ストリキニーネという猛毒を餌に混ぜます。大抵の動物はこれで即死するかと思いますが…致死量は動物によって異なるので、実際のところはどうなるかわかりません。加えて、都からは今回の殺処分に銃を使うな、という命令が来ていますので…」
その女性は感情のこもらない声で淡々としゃべっていたのだが、最後のところで刀使の少女たちを見ながら言葉を詰まらせてしまった。そこで再び園長代理が立つ。
「今、沢田のいった通り、銃は禁じられています。発砲した際の音が周辺に漏れると住民に不安を感じさせる、とのことでして…つまり、護国刀使の皆さんをお呼びしたのは…」
「毒で死にきれなかった動物たちの介錯をしてくれ…そういうことですね」
由良がそう答えると、園長代理や飼育員たちは様々な反応をとった。彼女たちから目を反らす者、黙って頭を下げる者…。いずれにしても、それこそが今回の任務であった。愛玩動物を斬れ、という任務が刀使に与えられたのは史上、初めてのことだろう。
「どうかお気になさらず。我々であれば噛みつかれても問題ありませんし、音を出さずに動物たちを処理できるでしょう。確かに、適任です。しかし、この数を今日中となると…何組か作って対応する、ということでしょうか」
極めて事務的に凪子そういうと、園長代理が頷いた。
「はい、2組に分けて行動します。刀使の方々はお二人ずつ、ということでいかがでしょうか?」
「直、泉美、本当にいいんだな?」
二人の「はい」という声に由良と凪子も頷いた。最早異存などない。四人は頷き、それぞれの組のメンバーを紹介されて席を立った。
「処分」は順調だった。直は泉美と、それから飼育員四人の合計六人で園内を回った。順調、というのはよく毒が効いた、ということだ。クロヒョウを処分し、チーターが痙攣しながら、やがてピクリとも動かなくなるのを飼育員の後ろから見届けて、直は冷ややかなおかしさを堪え切れなくなった。
「見て下さいよ、泉美さん。動物たち、何の疑いも無く餌を食べてますよ」
「ええ、そうね…」
「遠い異国に連れて来られて、でも信頼できる飼育員さんたちに毎日餌をもらってそれなりに暮らしていたのに…その飼育員さんたちからまさか毒を盛られるなんて夢にも思っていなかったんでしょうね」
「ちょっと直さん…?どうしたんですか?」
「別に…本当に人間は勝手だな、と思いまして」
「直さん…一番つらいのはあの方たち、なんですよ…」
「わかってますよ…そのくらい…」
直は、心がかき乱されているのを自覚している。荒魂と対峙している時でさえこんな風に心がけば立つことはない。今まで自分はちょっとしたことでは動じない人間だと思っていた。だがそうではなかったらしい。どうしようもないくらいに気分が悪い。
「あなたのいう通りよ。今まで私たちを信じてくれた動物たちにこんな非道な仕打ちをするなんてね…私たちは間違い無く地獄行きね」
管理室で話をした、あの沢田という女性飼育員だった、さっきまで毒餌を与えていたが、今はもう二人の横に立っていた。泉美が慌てる。
「あ、すいません。決して、皆さんのことをいっているわけではなくて…その、普段はあんなことをいう子ではないんですが…」
「気にしないで下さい。こんなことに巻き込まれてしまえばナーバスになるのも無理はないでしょう…本当に、あなたたちには申し訳ないと思っています」
直も泉美も、返す言葉が見つからず、ただ、黙った。
「さあ、行きましょうか…」
動物たちの遺骸をまとめて、手を合わせていた飼育員たちが戻って来た。一行は、無言のまま次の檻に向かう。
「次は…虎、ですか」
直の言葉に沢田が頷きながら尋ねる。
「虎、お好きなんですか?」
「別に…」
そっけなく返事をする直を、泉美が睨んだ。それを見て、直は鋭い溜息をついた。
「私の祖母が辰年で、名前もタツっていうんです。祖母は昔からここに来ると必ず虎と並んで立って、『龍虎図』よ、なんていって…」
その後の言葉が続かない。その場の全員の耳には入っているはずだが、誰も何も言うことが出来ない。ただ、蝉の声だけがやかましく響いている。
そうして何の比喩でもなく、お通夜のような一行は虎の檻の前に辿り着く。その場の様子を目にすれば、やはり、直にとっては懐かしいと思える場所だった。そんな場所を、これから壊さなくてはならない。これまでと同じように、飼育員が毒を餌に混ぜ、檻に持って行く。だが…同じなのはそこまでだった。毒入りの肉を一口かじった虎は、すぐにそれを吐き出した。頭を振りながら低く唸り、威嚇の体勢をとる。
「まあ、気付く子もいるか…」
「どうします…」
飼育員たちの様子は困惑したようでもあり、できればこのままにしておきたいというためらいも感じられる。だが…このままというわけにはいかないのだ。
「よろしいですね」
泉美が抜刀しながら進み出た。
「ちょっと、泉美さん、待って下さい!」
「直さんにこの虎は殺せないでしょう?皆さん、少し退がって下さい」
4人の飼育員たちが檻から離れ、虎の姿が後方にいた刀使の二人にも見えた、その一瞬だった。泉美は写シも張らず、迅移を発動させて一気に、鉄格子越しに虎の喉を刺し貫いた。何が起こったのかもわからぬまま、虎は血の泡を口から吐きつつ、ドサリと倒れた。
泉美は無表情のままポケットから手ぬぐいを出して蛍丸の長い刀身をぬぐう。呆気に取られていた飼育員たちだったが、少女が血塗られた刃を手にしているという有様を見て、自分たちの仕事を思い出したようだった。
「あ…ごめんなさい、私たちがやらなければならなかったのに…」
「いえ、私たちの仕事でもありますから」
「すいません。私たちが躊躇してしまったばかりに…」
「お気になさらず……皆さんだけが地獄行きになるのは気が引けますので」
泉美は、そういってうっすらと笑った。その笑顔を見て、直の腹も決まった。
動物たちがどの程度の毒を服用すれば死に至るか、それは個々の動物の体重から算出されていたようだが、随分曖昧な数字であったらしい。その後は直、泉美共に何度も御刀を振るう羽目になった。そしてそれは由良と凪子も同様であったらしく、二組に分かれていた死神たちがゾウの檻の前で合流した時、お互いの憔悴した顔を見てそれを確認できた。
「二人共、随分ひどい顔をしているな…」
「そちらも…大変だったみたいね」
抜き身の御刀を携えたままの由良と凪子は、それでも後輩たちを気遣う様子を見せた。
「はい…そちらも…」
泉美がそう答えると、両方の組の飼育員たちが揃って頭を下げた。その横の大きな檻には、3頭のゾウの姿があった。
「あの…ゾウも、なんですか?」
直がそういうと、合流した園長代理が渋い顔をした。
「ゾウは、毒を嗅ぎ分ける上に刃物で殺すのが難しいので…」
「今日の所は対応しません。さあ、行きましょう」
煮え切らない園長代理の言葉に沢田が早々に結論を付け、一行を促した。刀使たちは顔を見合わせたが、飼育員たちが先に進むのでそれについて行くしかない。
「どうしたんでしょうか?」
「さあ…でもああ仰っている以上、私たちが無理に関わる事もない、と理解するしかありませんね。ゾウは大人しい動物だとも聞きます。私たちが手を下さなくてもいいのかもしれません」
直の言葉に由良が答える。
「それって…殺処分から除外されているということでしょうか?」
「それは、無いだろう。これだけ大きい動物だからな…。別に、直接手を下さなくとも殺す方法はある、そういうことじゃないかと思うが」
泉美の言葉に、凪子が答えた。そこで直は、今までの動物たちの様子を思い出す。どの動物たちも少し、痩せているように見えた。
「それってつまり…餌を与えない…とか?」
「…これ以上考えるのはよしましょう。あの方たちはきっと、私たちを気遣ってくれたんです。せめて、そう思いましょう」
由良がそういい、凪子と泉美は頷いた。だが、やはり直には納得がいかなかった。人間だって食べるのに苦労しているご時世だから、餌を減らされるのは仕方がない、というのは何とか理解できる。しかし、餓死させる、というのはあんまりだ。
「荒魂も動物も、人間は自分たちの都合で…勝手過ぎるよね…」
ゾウの檻を振り返り、直はぽつりと呟いた。
「ここで最後です」
ライオン、と書かれた札の前で、沢田がそういった。三頭のライオンは屋外展示のための放飼場とつながった狭い室内で身体を休めていた。処分のため、ここに移されたのだろう。
殺処分実行部隊は全部で12名の大所帯となったため、飼育員たちだけが一旦その室内へ向かう。彼らは既に刀使たちの鬼神の如き「奮戦」を目にしているため、できるだけ自分たちだけで何とかしたいと思っているのだろう。
「無事に…終わるといいですね」
「ええ…死に切れない動物にトドメを刺すなんて、もう御免だわ」
そんな彼女らの期待は、3分の2だけ叶えられていた。不意に飼育室の方で喧騒が起き、沢田が、落胆した様子でやって来る。そして、
「お願い、力を貸して」
それだけいった。4人の刀使は顔を見合わせて頷き、飼育室へ向かう。独特の臭いが漂うその飼育室の中では既に、雄と雌のライオンが一頭ずつ、横たわっていた。
「3頭のうち、2頭はこの通り…まあ、もう弱っていたんだけど…ただカテリーナが…雌の一頭が、隣の放飼場、広い方へ逃げてしまったの。鍵を掛け忘れていたみたいで…」
「毒餌に気付いた、ということなのでしょうか?」
「多分、そう…。あの子はこの雄、アリと夫婦だったの。アリが最後に…伝えたのかもしれない…」
由良の問いに、沢田は途切れ途切れに答えた。大分感傷的になっているようだ。
「わかりました…それでは園長代理、私たちが隣の放飼場に入ります。いいですね?」
「ええ…申し訳ない」
それを聞いて由良と凪子が先に行こうとするのを、直が止めた。
「待って下さい由良先輩、凪子先輩、ここは私に任せてくれませんか?」
由良と凪子が、しかめ面を見合わせる。
「いや、いい。ここは私と由良先輩で対応する」
「ここまで、私は全て一太刀で動物を殺しています」
直の言葉に由良も凪子も泉美も、動きを止めた。
「なに…?」
「私がやります。私が一番、苦しませずに殺せます」
直は自分でも何故ここまでこだわっているのか、はっきりとはわからない。しかしおそらくはこれが、勝手過ぎる人間のやり方に対する自分なりのけじめのつけ方だと思っている。この殺処分を人間の勝手だと理解している者が、せめて苦しませずに殺す…これは小さな、しかも独りよがりの反抗のようなものだった。自己満足、と言い換えてもいいかもしれない。だが、身勝手な決定を下した人たちに代わって、せめて自分が動物たちの命を背負ってやりたい…そういう、直の覚悟でもあった。
「本気、なのね…?」
由良の問いに直が頷く。その眼に揺るぎない光があるのを察し、凪子が折れた。
「…わかった。まかせよう…。但し…私と泉美が援護につく。それでいいな?」
直と泉美は頷いた。
「あれ、私は…?」
「由良先輩はここでもしもの時に備えていて下さい。いいですね?」
「はい…」
消え入りそうな由良の返事を持って、話は決まった。直を先頭に、凪子、泉美が放飼場に入る。
放飼場は広く、ある程度自然環境が再現されている。草が茂り、小さな起伏もあるが、ライオンのような動物が全身を隠せる場所は無い。剣を持った三人の侵入者は、すぐにこの場の主と相対した。
義元左文字を正眼に構えた直、その後ろに少し離れて泉美と凪子が立つ。雌のライオンは低い姿勢をとって、低い唸り声を上げた。揺れる切っ先越しに見る獅子の眼は、夕闇迫る周囲の様子とは対照的に光を湛えている。まるで明眼のようだ、と直は思う。その眼をじっと見ながら、鳴り止むことの無い蝉の声に打たれ続けながら、自分の中の感情が完全に空になるのを待った。北辰一刀流の「北辰」とは北極星を指す。中天にあって決して動くことのない北辰、暗い夜の道を、海を、進む人々の標となった星…今自分が進んでいる道は、この星の光が届かない道なき道なのかもしれない。しかしその暗闇に道を見出したのなら、自分の目でしっかりと見なくてはいけない。どんな暗がりの中でも、足を踏み外すことがなければ進んでいける。
自分の定めた北辰が見えたその時、直の迅移は発動と同時に三段階に達した。ライオンの身体とすれ違いざまに接触し、その横首から喉を、正確に斬り下ろした。一瞬のうちに呼吸と声を奪われたライオンは、目を見開いたまま致命傷となった切り口を大きく広げるように背筋を伸ばしてから、倒れた。
冷たい汗を感じながら、直はゆっくりと振り返る。やり遂げた…そう思った瞬間、目の前に飛び込んできた光景に息を呑み…再度御刀を構え直す。雌のライオンの遺骸に、子供のライオンが3頭、しがみついていたのだ。
「直、よくやった…どうしたんだ…ん…!」
「直さん…?あっ…!」
後ろからやってきた凪子と泉美も同時に言葉を失って立ち止まる。
「このライオン、お母さんだったんですね。この子たちを護りにここに来たんでしょう…二人共、退がっていて下さい」
小さな、ぬいぐるみのような子供のライオンたち。もう動かない、自分が殺した母の身体にすがって鳴いている。だが、その声は直には届かない。泉美と凪子の声も、今の直には届かなかった。
今更何を迷う必要があるというのだろう。どうせこの子たちもすぐに大人になる。その時にまたこんな思いをする人たちが出るのなら…それなら今ここで、殺さなくてはならない。
一頭目を定め、義元左文字を振り上げた。その時、
「直さん、やめて!」
「もういい!その子たちは、いいの!」
由良と沢田が駆けて来た。沢田は身の危険も顧みずに、刃を振り上げた直の身体に飛びついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。もういいの、ありがとう…」
そういって、直を強く抱きしめる。
「どういうことです?由良先輩…」
凪子が尋ねた。
「さっき、園長ご本人が電報を持って駆けて来てね、名古屋の動物園から『コガタジュウ アズカル』っていう返信が来たと知らせてくれたの」
それを聞いて泉美は疑問に思う。
「でもライオンの子供ですよ?本当に大丈夫なんでしょうか…」
「ええ、コガタジュウっていうのはあの子たちのことを指す隠語みたい。本来は命令違反なのでしょうけど…そこは意地、なんでしょうね。だからライオンの殺処分を最後に回して、こんなギリギリまで交渉を続けて…」
直には、何も考えられず、何の言葉も口から出てこなかった。ただ、自分の眼から滴った涙が沢田の肩を濡らしているのを見て、それから、堰を切ったように溢れる涙を止められなくなった。
その後、直たちは9月4日に動物たちの慰霊祭が開かれたことを新聞と、沢田からの手紙で知った。犠牲になった動物たちにはせめて安らかに眠ってくれと思うのは皆同じであったろうが、新聞に紹介されていた慰霊祭に寄せられた子供たちからの手紙を食堂で読みながら、直と八重は強い違和感を覚えていた。
「『ぼくが大きくなったらね、アメリカ、イギリスをぶつつぶす、ライオンたちのかたきを、きつととつて上げませう』仇討ちに燃える少国民…か。どう思う、直?」
「動物たちを殺したのはアメリカやイギリスの人たちじゃない…」
「だな…由良先輩やお前たちがどんなにつらい思いをしてきたか察するに余りあるけど、まさか、こんな風に戦意高揚にすり替えられるとは…」
「ええ、本当に、何かとても嫌な気分です」
直はそういって、大きく溜息をついた。あの、心のけば立った感覚は今でも正確に自分の中に蘇らせることが出来る。
「動物園の人からの手紙には、何て書いてあった?」
「自分たちで手を下しておきながら慰霊祭だなんてよくいえたものだと思うけど、でも、こうでもしないと私たちもやり切れないって…」
「それはまあ、そうか…本当に、どうなってるんだろうな、この国は…」
「この国か、八重さんはすごいですね。私はそんな大きなことは考えもしませんでした。ただ…」
「ただ?」
「人間って、いざとなったらどんな酷いことでもできちゃうんだなって、そう思いました」
直が少し笑いながらそういう。八重は、そんな直の様子に不安と危うさを感じる。
「直、あんまり自分を追い詰めるなよ。こんなの、命令するやつの頭がおかしいんだ。みんな、由良先輩やお前たちにだけつらい思いをさせてしまったって思ってる。だから、いいたいことがあればいくらでもいってくれ。いくらでも聴く。それくらいのことしか…できないから」
「うん、ありがとう。でも大丈夫ですよ。私、そんなに弱っているように見えますか?」
確かに、直のその強さには微塵の翳りもない。だが…。
「刀って…斬れ味だけを求めていくと刀身が脆くなる、そんな話を聴いたことが無い?」
「何ですか突然、まあ、聴く話ですけど…」
「上手くいえないけど、今の直は感覚が鋭くなり過ぎていて、何かの拍子に折れてしまうんじゃないかって…私がいいたいのはそういうことなんだけど」
「私、そんなにやわじゃないつもりですけどね…」
「…私たちは一人じゃない。そりゃあ任務の内容が偏ることはあるかもしれないけど、誰かが苦しんでいるのを見過ごすような子はいないでしょう?それは、忘れないでほしい」
八重は、直のきょとんとした様子を見て柄にもないことをいったかな、思った。が、
「ふふ、そうですね、全くありがたいお仲間たちです」
その言葉を聞いて少し安心した。
「はは…ほんと、私たちも因果な縁よねえ」
八重はそういって、すっかり紙面の薄くなった新聞をたたんだ。