戦火の巫女   作:溜め無しサマソ

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四章

 

 

 昭和18年も暮れに入ると、日本陸海軍は戦況と大きくかけ離れた作戦を立案するようになる。正確な情報を入手できなかったことは大きな原因だったが、それにも増して問題だったのは現実を直視せず、あまりにも的外れな希望的観測だけに基づいて戦局を判断していた将官クラスの軍人が多くいたということにあるだろう。そうした夢想家たちにより、日本は破滅への道を確実に進んでいくことになる。

 

 鷹司京は立ち上がり、窓の外で降り続く雨を見ながらその暗い天気とは対照的に、終始笑顔を浮かべている目の前の女を見て短く溜息をつく。

「落ち着いて下さい、鷹司様」

そう、声をかけられて苛立ちを隠せなくなる。この自分が、落ち着いていないように見えるとでもいうのだろうか?

「言葉を慎めよ、香織。折神家の分家の、しかも刀使ですらない貴様ごときが、一体何のつもりでこの私に意見をする」

「は、これは過ぎたことを申し上げました。ご容赦下さい」

困ったような顔をしながらも常に絶やさないその笑顔からは、真意が読み取れない。こうして行動を共にしているとはいえ、気味の悪い女だ。何も言う気になれず、再び窓の外を見ると、部屋のドアがノックされた。

「折神碧です。よろしいでしょうか」

「どうぞ、お入りになって下さい」

「失礼します…」

そういって、開かれたドアからは3人の女が現れた。一人は名乗りを上げた折神碧、そして知っている刀使が一人と、知らない刀使が一人。

「お久しぶりです、鷹司様」

知っている刀使ー四条吉乃がそう、挨拶してきた。

「四条吉乃か…そう久しいということもないだろう。精々一年振りといったところか。妹御は息災か?」

「ええ、元気にやっています。お気遣いいただきありがとうございます」

「ふん…まあ、座れ」

「はい、失礼します」

「香織姉さん、失礼しますね」

「どうぞ、碧さん。どう、新婚生活は?」

「はい、何かと忙しいので一緒に過ごせる時間はあまりないのですが…その、こんなご時世に不謹慎かもしれませんが、幸せに過ごしております」

「あら、それは何よりね。綾小路折神家は安泰、というところかしら?」

「もう、香織姉様…!」

隣では両折神家のそんな遣り取りがあってから碧がテーブルについた。だが、一人だけ、知らない刀使が突っ立ったままだ。

「そこの刀使、どうかしたか?まさか耳が聴こえぬのか?」

「い、いえ、その、五摂家の方と同席などと、畏れ多く…」

「ん?妙なことをいうな。護国刀使にも華族はおろう。ああ…そなた、名は?」

「は、はい。霧島由良と申します」

「そうか。霧島、一応そなたらは客人でもある。遠慮はいらん。話ができんから早くかけよ」

「きょ、恐縮です。では、失礼いたします…」

今時そんなことを気に掛けるとはおかしなやつだ、と思いつつも、おそらく年上であろうこの刀使に京はなんとなく好感を持った。いや、霧島だけではない、相変わらず美しい折神碧と、四条吉乃も好ましい。この二人には気高さが感じられるのもまたいい。少し、機嫌を直してから京もテーブルについた。

「して、わざわざこの神祇院まで何の御用かな、護国刀使の方々?」

内務省外局神祇院は霞が関の官庁街にある。護国刀使の隊舎からほど近く、折神碧は執務の都合上、毎月顔を出しているが、護国刀使の隊員がここを訪れることはほとんど無い。一応隊長格の由良でさえ、護国刀使が結成された際に一度、挨拶に来たことがあったくらいだ。故に、この石造りの堅牢な庁舎の中では気後れしてしまうのも無理からぬ話だった。

「では、よろしいでしょうか?」

吉乃がそういって座の一同を見渡す。全員が頷き、吉乃もまた頷いた。

「単刀直入に伺います。神祇院は私たち、護国刀使とは別に刀使たちを抱えた組織を持っているのですか?」

「ほう、刀使だけに単刀直入と申すか。ほっほっほ」

京の発言に香織だけが笑顔のまま口元を押さえるような動きを見せたが、残る3人は絶句している。

「そ、そういう所は本当にお変わりありませんね…あの、お答えをいただいてもよろしいでしょうか?」

「つれないな、吉乃。まあいい、香織、答えてやれ」

「はい…しかし、よろしいのですか?」

「構わん。別に後ろめたいことなど何もない。ありのままを答えてやるがよい」

「それでは…」

折神香織は、そういって護国刀使の面々を見回しながら、改めて口を開いた。

「神祇院は、あなたがた護国刀使とは別に、刀使を有しています。全国の神社と共に刀使の管理も行っていますので、それは当然のことと思いますが…?」

「そうですね…質問の仕方を変えましょうか。刀使の持つ御刀に近い軍刀が美濃関で生産されているようなのですが、これについて神祇院の関与はあるのでしょうか?」

「うーん、それは、ですねえ…」

香織は口ごもりながら、京の方を見て来た。

「ふん、ありのままを話せばよい、といっただろうに…いや、さすがだな、吉乃。察しの通りだ。我々は今、軍からの資金提供を受けて美濃関の刀工たちに『御刀』を打たせている」

碧と吉乃はわずかに顔を歪めただけであったが、由良は明らかに取り乱している。可笑しいやつだと京は思う。

「その『御刀』というのは…本当に刀使の力を引き出すもの、我々が持っているものと同じものなのですか?それから軍の資金提供というのは…」

「おいおい、今は戦時下、非常時なのだぞ?軍に協力をしなくてどうする。軍が刀使を欲している、この戦いに勝つためには刀使の力が必要だ、というのなら、それに出来得る限り応じるというのが我々の役目ではないのか?」

「…そのためならば、ノロを注入した紛い物の『御刀』を量産しても問題は無い、と?」

吉乃の言葉に京はすっかり嬉しくなった。全くこの刀使たちはよく調べている。自分にカマを掛けて来たのだ。

「そうだ、吉乃。ノロはそもそも御刀を打つ際に珠鋼から弾かれた「不純物」だ。だが打った後の御刀に、この「不純物」を再度戻すとどうなるか?考えたことはあるか?」

吉乃は碧に目を遣ると、碧が口を開く。

「珠鋼から生まれた御刀の神性はいわば正、対してノロの神性は負です。この二つの神性が再び合一することはないでしょう」

碧の答えに、京が頷く。

「その通りだ。刀使の使う御刀に、ノロが再び宿ることはあり得ない。だが、そも神性を帯びぬ単なる鋼から生まれた刀であれば、どうか?」

今度はさすがに3人共色を失った。

「可能だったのだ、それがな。美濃関の刀工は実に優秀でな、ごくわずかだが、一般の日本刀にノロを含ませることが出来たのだ。しかもその刀は刀使の力に反応し、御刀ほどではないにしろその力を引き出すことができた。いわば御刀の量産化に成功したのだ」

大きく見開かれた六つの眼が、京を見ていた。

「そういう…ことだったのですか。しかしノロを利用するなんて…そんなことをして、もしものことがあったら…」

「ノロの量は微々たるものだ。しかも刀に憑いている限り、寄せ集まることもできない。ある意味安全な処し方といえる。それにいったであろう。これは軍からの要請なのだ」

そこで、今まで黙っていた霧島由良がおずおずと口を開く。

「あ、あのよろしいでしょうか…?」

「何だ、言いたいことがあれば何でも申すがよい」

「は、はい、では僭越ながら…その、鷹司様はこの戦争に、刀使の力を使っても構わないと、そうお考えなのでしょうか…?」

「さっきも言ったであろう?勝つために刀使の力が必要ならば、そこに疑問を挟む余地はない。大方お前たちは荒魂を斬るのが刀使の役目であるから、この力を人に向けるべきではない、とでもいうのであろうが、そんな悠長なことをいっていられる状況ではない」

「しかし、刀使の大半が十代の少女たちです。それを人殺しのために使うというのは…」

「何をいっているのだ?では成人した男ならばいくら人を殺してもよいのか?」

「いえ、そういうことでは…しかし、まだ心身の未熟な子供のうちにそんな体験をさせてしまうと、その後の人格形成に悪影響を及ぼすのではないでしょうか?」

「それは成人でも同じことだ。戦地から帰ってきたら別人のようになってしまった、という話は珍しくもない。無論、子供の方が影響が大きい、ということは否定せんがな。しかし、そのような心配はもっと余裕のある連中のすることだ」

「余裕…ですか」

京は席を立ち、窓際まで歩く。窓の外は雨が続いている。冷たい、雨だ。

「世間から隔絶された宮城での生活ではそういうことはわからぬか?」

「鷹司様、護国刀使はそこまで世間知らずの集まりではありませんよ。それなりに辛苦を舐めているということは、報告書を御覧になればわかるはずです」

先程までとは様子の違う霧島の言葉に京はちらりと振り返り、それからまた窓の外を見てからふっと溜息をついた。

「確かに、民の生活はわかっていよう。だが、この日ノ本の外…世界のことをわかっているか?大陸、東南アジアの島々、そして欧州の情勢をわかっているか?」

おそらく、そんなことをよくわかっている日本人は、この当時ほんの一握りであったろう。もちろん訪れた3人にも、そこまでの考えはない。

「まあ、無理からぬことだ。そういうことは一切明かさぬのだからな、今のこの国は。だがな、知っている連中も少なからずいるのだ。ここの、霞が関の連中をはじめとしてな」

そういって京は、革の長靴のつま先で床をコツコツと叩いた。それからその場の者たちに向き直り、テーブルに寄って顔を突き出す。

「この国はな、このまま戦争が続けば遠からず毛唐共に蹂躙されるぞ」

護国刀使の3人が声にならない声を上げると、京はさも愉快そうに笑った。

「もう少し大きな視点から物事を見よ。この国が無くなってしまえばそれで終わりなのだ。子供を戦場に出すかどうかなど、それに比べれば些末なことだと思うがな」

「そ、それは、しかし…」

口ごもる由良を、京は笑って受け流す。

「力を向ける相手は本来荒魂であり、人であってはならんだろう。そして、強き心を保ち続けるというのも難しい。だがな、力を持つ者は、その力を弱き者のために使わねばならん。少なくとも我々刀使は、市井の民よりも力を持つ者だ。この力に誇りと責任を持って、この国を、弱き民を護らねばならんのだ」

 

 雨の中、庁舎を去って行く折神碧と護国刀使たちの姿を見下ろしながら、

「お前たちとやり方は違えども、我らも我らのやり方で国を護ろうとしていのだ。それは、わかってほしいものだが、な」

京は誰に云うとでもなく、呟いた。

「お察しいたします。鷹司様…しかし、あのことには触れなかったのですね」

「ふん、聞かれてはおらぬし、そう愉快な話でもない故な」

京はふと顔を歪めたが、先程までのやり取りを思い出して笑顔になる。

「しかし面白い連中であったな。うん、一度あやつらのところへあそびにいくのも面白いやもしれん」

そういってさらにくすくすと笑った。

 

「あれが鷹司京様に折神香織様…さすがにお二人共迫力がありましたね」

由良は、全身の緊張がようやく解けていくのを感じて大きく息をつく。傘の下で、それは白い固まりとなった。

「吉乃さんと八重さんはあの鷹司様とは同門、なのよね?」

「はい、京都で同じ京八流の道場に通っていました。まあ、あの道場自体が鷹司様の家人のものでしたけどね」

吉乃はそう、懐かしそうにいいながら笑った。

「あの、一度聞いてみたかったんですけど、そんなところに通えるなんて四条家ってやっぱり公家か何かなの?」

「いえいえ、うちは単に四条通に面した商家で、それで四条と名乗っただけだそうですよ。ただ、お公家様とは取引がありまして、そのご縁で道場を紹介されたんです」

「はあ…まあどっちにしても良家なのね。それで、あの鷹司様は昔から、そのなんといっていいか、あのような方、なの?」

また、吉乃は可笑しそうに笑う。

「ええ、あのような方なんです。面白い方でしょう?誇り高くて公明正大、押しが強い所もあるんですけど、ユーモアもわかる方で…それにかなり腕も立つので道場では人気者でした。ほとんど信者のような子もいましたね」

「へえ…」

由良にとっては別世界のような話だった。由良の家もかつては東京で商売をしていたらしいが、関東大震災で家財を全て失ってしまい、その後は土地も売って今では千葉県の船橋で細々と暮らしている。

「碧様と香織様は遠戚、なんですよね?」

吉乃が隣の碧に尋ねた。

「ええ、由良さんも吉乃さんも知っているとは思うけど、折神家は明治初期の廃仏毀釈運動の頃に意見の違いから家が分かれてね。香織姉様たち鎌倉の鎌府折神家と私たち京都の綾小路折神家…一時は対立していたこともあったのだけど、今では協力して刀使の管理育成にあたっているわ。香織姉様にも昔はよく遊んでもらったものだけど…」

そこで少し、碧の表情が曇ったのを由良は、はっきりと見た。

「鷹司様に比べれば少しわかりづらい人、といった感じでしたね。あの方は、刀使ではないのですか?」

「ええ、香織姉様は刀使ではありません。昔から剣術はたしなんでおられて、かなりの腕前ではあるんですけど御刀には選ばれませんでした。折神家に生まれた女子で刀使になれなかったというのは、決して口にはされませんでしたが悔しかっただろうと思います。それでも、あの笑顔が崩れたのを見たことがありませんけどね」

「そう、だったんですか…でも今は香織様も神祇院で働いてらっしゃるんですよね?」

「働いている、というよりは折神両家は顧問ですから、都度助言をさせていただいているという立場ですね。香織姉様は鎌府折神家の用意した東京の屋敷で暮らしていると聞いています」

「なるほど、そういうお役目なんですね」

「それはそうと…由良先輩、今日の事、皆にはどう話をします?」

「うーんそうですね、もう皆帰省してしまっていますし…」

由良の様子を見て、碧が微笑んだ。

「この話はひとまず私が預かりましょう。折を見て、皆さんにお話しします」

それを聞き、由良の傘の下に、また白い固まりができる。今度は安堵の溜息だ。

「あ、ありがとうございます。そうしていただけると助かります。さすがに私には話が大き過ぎます」

「はい、助かります」

吉乃も横からそういい、由良と顔を合わせて笑った。

 

 

「それじゃ悪いけど、よろしくね」

由良がそういって鞄を肩にかけた。

「ええ、こちらのことは気になさらず、よいお年を」

凪子がそう答えると、由良も笑って「よいお年を」と答え、手を振って行った。

 昭和18年12月31日、年の瀬を迎えた近衛祭祀隊舎はひっそりと静まり返っていた。ほとんどの刀使たちが正月休みで帰省し、残っているのはいざという時のための留守番と、特に帰る必要のない者たちだけだった。

「さて、これで隊舎に残ったのは私たちだけってことね。直、あなたは本当に帰らなくてもいいの?」

千鶴がそういうと、

「私は近所ですからねぇ。しょっちゅう帰ってますし…年が明けてから少し顔を出せば十分です。こんな時くらい、皆の都合を優先しないとバチが当たりますよ」

直はお下げ髪の下で両手を組んで、そう答えた。

「あら、それなら心置きなく大掃除の仕上げをお願いできるわね?」

「ええ!?いや、それはちょっと…ああ、そうだ凪子先輩、稽古納め、稽古納めやりましょう!」

「稽古納め?それなら昨日…」

凪子はいいながらチラ、と千鶴を見る。稽古納めはすでに昨日の朝に全体で終えている。さらにいえば大掃除は一昨日に終わっている。だが、千鶴の表情を見るに冗談では無さそうだ。このままでは自分までとばっちりを食いかねない。いや、そもそも千鶴の中では最初から自分も大掃除の頭数に入っているのかもしれない。だとすれば確かに、ここは直の提案に乗るのが正しい戦術的判断だろう。それに、直と立ち合いをするにも絶好の機会だ。

「うん、しょうがないな。よし、なら今年最後の立ち合いといくか!道場に行くぞ、直!」「そうこなくっちゃ!」

凪子と直が駆けだす。

「あ、ちょっと待ちなさいよ、この剣術バカ共!」

千鶴の声が背中にかかるがここは逃げるに如かず、だ。二人の刀使は迅移かと見紛うばかりの速さで隊舎の中に消えて行った。

「あいつら…」

千鶴は去って行く二人の背中をしばらく睨みつけていたが、やがて諦めたかのように大きく溜息をつき、

「ああ寒い。何か温かいものでも作ろうっと」

そういって隊舎の中に入っていった。

 

 護国刀使たちにあって、正月休みは一年のうちで最も長い休暇を与えられている。これは未成年の多い刀使たちが年末年始くらいはゆっくり故郷に帰れるように、という配慮でもあるのだが、それでも留守番は必要であり、例年数人の刀使が隊舎で年明けを迎える。直が帰らないのは実家が近いからで、凪子が帰らないのは実家が福岡と、遠いからであった。そして千鶴が帰らないのには、また別に理由がある。彼女の家は東京にあり、直と同様にいつでも帰れるのだが、帰れば大量の見合い話が待っているのだ。それがあまりにもうっとおしいため、敢えて帰らない、というわけだ。

「さーて、つゆの仕込みでもするとして、あとは…どうしようかな」

千鶴はカツオ、昆布、しょうゆの在庫を確認する。決して潤沢な量があるわけではないが、今夜の年越しそばには十分だろう。

「それにしても、かけそばっていうのはさみしいかな…」

天ぷらのようなぜいたく品はとても無理だとしても、何か代わりになるようなものはないかと考えていたら、

「もし!」

という若い女の声が玄関の方から聞こえて来た。大きい声ではなかったが、はっきりとした発音だったのでなんとか千鶴の耳に届いた。こんな日に誰だろうかと思い、念のため御刀を携える。板張りの廊下をきしませながら玄関に出てみると、いかにも品の良さそうなコート姿の少女が立っていた。腰に一振り刀を帯びているから刀使だろうということはわかるが、よくみるとコートの下は和装で足元は軍靴、そして左手にしめ縄で吊った干し魚をぶら下げているというのが奇妙といえば奇妙だった…が、その顔には見覚えがある。

「ここは近衛祭祀隊の隊舎で間違いないか?」

「はい、間違いありません」

と、答え、相手の腰の御刀がはっきりと見えたところで、その刀使の名を確信する。

「あの、鷹司京、様ですよね?」

「うん、やはり、そなた武田千鶴だな?近衛祭祀隊に入ったとは聞いていたが…」

「はい、ご記憶いただき光栄です。女子学習院以来ですか…本当にきれいになられて…そのコートも小袖もいいものですね。腰の御刀はあの三日月宗近ですよね?いやあ、本当にお懐かしい」

華族生まれの女子はほぼ例外なく、女子学習院へ入学する。現在は私立学校となっている学習院だが、当時は宮内省管轄の国立学校であり、華族であれば入学のための試験も学費も不要という特殊な学校であった。彼女らはそこで現在の小・中・高にあたる11年を一貫して過ごした。千鶴は京の2歳上であるため、二人は同じ時期を同じ学び舎で過ごしていた時期があったが、京は京都住まいが長く途中編入であった上、二人共刀使に選ばれて学校を離れたため、共に過ごした期間は短く、相手のその後についても噂程度にしか知らなかった。

「ふふ、全くだ。もう皆里帰りをしたかと思っていたが、思わぬ御仁に会えたものだ。来てみるものだな」

「はは、光栄です。今は私を含め3人だけ、この隊舎に残っているんですよ…あ、まだご用件を伺っておりませんでしたね。本日はどういった?」

「ああ、別に気にするほどのことは無い。年の瀬で誰もいなくなり、何もやることが無くなった故ふらりと遊びに来たまでよ。ああ、手ぶらでは何だからな、身欠きニシンだ。納めておけ」

そういってずい、と差し出されたその魚がニシンであると何故そうされるまで気付かなかったのか、千鶴は己の不明を恥じると同時に、目の前がぱっと明るくなるのを確かに、感じた。

「ニシンそば!」

そういうなり、千鶴は京を抱きすくめていた。

「な、何をす…むぐ…!」

長身の千鶴に抱かれて京はその顔を、圧倒的な二つの弾力に埋めることになった。

「ありがとうございます鷹司様、最高のお土産です!」

「ええい、わかった、わかった故、離さぬか!」

京は千鶴の胸を鷲掴みにして、その身体を押し出した。

「ああん、もう、痛いです」

「何が『ああん』だ!全く、相変わらずふしだらな身体をしおって!このご時世、何をどれだけ食べればそうなるというのか…全くけしからん!」

「あらまあ、酷い言われよう。でもそうですね、私は食べるものにはうるさいんですよ。ご紹介しましようか?こう、なるかもしれませんよ」

千鶴が京の前に、胸を突き出した。

「な…!私をからかっているのか!」

「いえいえ、からかうなどと畏れ多い。是非鷹司様にも私と同じものを食していただき、このような体型になっていただければ、と」

「こ、このような…体型…だと…」

赤面しつつこちらを見る貴族様の顔が、実にかわいらしい。また、抱きしめたくなる衝動をこらえて、そういえばこの刀使が、かなりの腕前であるという話を思い出した。

「そうだ、鷹司様、今うちの剣術バカ二人が道場で稽古納めをしているんです。よろしかったら一つご指導していただけないでしょうか?」

「ん?稽古…か、そうか、いいだろう。よし、案内いたせ」

「はい、ではどうぞこちらへ」

少しからかい過ぎたかと思ったのだが、さすがは日本有数の血統、胸は小さいが懐は大きいらしく、大して気にした素振りが無い。そういえば少し変わった子だという噂を聞いたことがあったな、と思いつつ千鶴は軽やかな足取りで道場への廊下を先に進んだ。

 

 京が千鶴の先導で道場へ入ると、二人の剣士が対峙していた。年長と思われる刀使の方が体格が良かったが、年下と思われる方も少し背が低いくらいで、御刀の長さもほぼ同じ、よって間合いは似たようなものだろう。その二人が行っているのは、立ち合いではない。

「剣道形か、なるほど稽古納めには相応しいな」

剣道形、こと「大日本帝国剣道形」は、大正期に各流派の代表が集まって考案し、流派を越えた剣道の「形」として生まれた。現在も「日本剣道形」と名を変えて受け継がれている。全国から集められる刀使たちの流派はそれぞれであったが、この形に関してはほぼすべての刀使が共通して身に付けているため、納会などには持って来いなのだ。

二人が道場に入って来たことには、打太刀の年長と思われる刀使も、仕太刀の年下と思われる刀使も既に気付いている。それでも集中を切らすことなく繰り広げられる演武にはかなりの迫力があり、これだけ見てもこの二人の実力が生半ではないことがよくわかる。

「あの、鷹司様?」

「うん?何だ?」

剣道形は小太刀の形の三本目を迎えていた。太刀七本、小太刀三本で構成される剣道形はこれで終わりになる。いつの間にか見入ってしまったらしい。隣にいた千鶴に声をかけられて京は我に返る。

「これが終ったら紹介しますので」

「そうだな。わかった」

そういっている間に、仕太刀が軽やかな動きから打太刀の懐に入り、技が終る。互いが離れて蹲踞の姿勢をとり、形が終った。すぐに、京は拍手と共に歩み出た。

「いや、見事なお点前だ。良いものを見せてもらった」

「あ、鷹司様!」

紹介する、といったのにさっさと前に出て行く京を追う千鶴の声に、二人の刀使の眼光が煌めいた。

「鷹司様…?」

「あの、鷹司様…!」

その視線を受けて、京はゆったりと立ち止まった。

「そう、こちらはあの五摂家刀使の鷹司京様よ。鷹司様、こちら、打太刀をしていたのが直新陰流の早乙女凪子、それから仕太刀の方が北辰一刀流の来栖直です」

「お初にお目にかかります。早乙女凪子です」

「来栖直です。よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく頼む。二人共見事。特に仕太刀、小太刀の扱いが上手いな」

直は自分が褒められていると一瞬気付かなかったらしく、少し間を空けてから、

「あ、ありがとうございます!」

そう答えた。京がうんうんと頷く。

「この二人は今、護国刀使で一、二を争う実力者なんですよ」

「ほう、なるほど。道理でよい太刀筋をしていたわけだ。では早速だが、稽古をつけていただこうかな。早乙女、一つ相手を頼めるか?」

「は、私、ですか…?」

「そなたはにはとても敵わぬであろうが、胸をかしてもらいたい。どうだ?」

「はい…私でよろしければ…」

京は頷き、三日月宗近を抜刀する。直が慌てて千鶴と一緒に下がる。それから凪子が愛刀の髭切を抜刀するのに合わせて、二人は写シを張った。

「直、立会人を頼めるか?」

凪子の言葉に「あ、はい」と直が応じ、再び駆けてきて二人の間に入った。二人は蹲踞の姿勢から、共に正眼に構える。そして、

「はじめ!」

直の掛け声に応じて、双方共に一歩、間合いを離した。京は切っ先の向こうにいる刀使❘早乙女凪子を見て、口元をほころばせた。

京が凪子を相手に選んだのには理由がある。早乙女凪子といえばかつて九州最強の刀使として名を知られた剣豪だ。実力者も曲者も多い九州で早くからその名を知られていたこの、確か一つ年上の刀使は、京にとって密かに目標としていた存在だった。その相手が確かに強者であることが、こうして対峙しているとはっきりとわかる。心地よい緊張感と共に、京は、自分の見立ての正しさにまた口元が緩んでくるのを押さえられなかった。

そんな京の胸中など知るはずもない凪子が、迅移で迫って来た。それは、あまりにもきれいな正面からの打ち込み。合わせた御刀に、重い手応えが走る。

「随分、楽しそうでいらっしゃいますね」

剣撃の余韻が響く中、思いがけず話しかけられて京はますます面白くなってきた。

「それはそうだ。これほどの剣士と立ち合いが出来るのだから…な!」

京は巻き返しで籠手を打つが、凪子は迅移で退いてかわす。京はそれを追いかける。二人の迅移が少しずつ速度を上げていく。少し間合いを空けようとする凪子を、京がどこまでも追っていく。心が躍る。待て、待て、待て、待て…!

 

「いやー、ほんと、すごい速さでしたね。鷹司様の迅移、三段階を越えているんじゃないですか?」

直がそういうと、

「いや、速さだけではどうにもならん。現に見事に打ち負かされたしな」

京はそういって、いかにも嬉しそうに微笑んだ。

「いえいえ、速さもさることながら、底無しの気力、体力をお持ちだ。全く生きた心地がしませんでしたよ」

凪子はそういってふっと溜息をつく。

「ははは、しかしあの早乙女凪子と立ち合いができるとは思わなかった。よい記念になった…上に、本当によいのか?夕餉まで馳走になって?」

「それはどうかお気になさらず。あの千鶴先輩が是非に、といっているのですから」

冬の夕暮れは短い。昭和18年最後の日も、宵の口を迎えていた。

3人は食堂でただ、待っている。厨房からは既に出汁の香りが漂ってきており、少女たちの食欲は否が応でも高まっている。

「そういえば武田千鶴の料理好きは評判だったな。あのニシンにあそこまで反応した理由がわかった」

「すごいんですよ、千鶴先輩は。ここの厨房を完全に仕切っていますからね。ある意味護国刀使最強です。誰も逆らえません」

直の言葉に凪子が少し顔をしかめて、無言で頷いた。

「さあ出来たわよ、取りにいらっしゃい!」

すかさずそんな声が厨房から届いたため、京を含めた3人はピクリと背筋を震わせた。

「なるほど…この間合い、最強というのはあながち間違っておらんようだな」

そう、京が小声でささやくと、直と凪子は吹き出した。しかし、そんな厨房の最強刀使を待たせるわけにはいかない。京はいち早く腰を上げてカウンターへ向かった。遅れて立とうとする二人を制する。

「このご時世に馳走になるのだ。これくらいはさせてくれんか」

凪子と直は顔を見合わせ、

「それでは…」

「お願いします」

そういって大人しく座った。京は大きく頷く。

4つ並んだ大き目のどんぶり鉢にはたっぷりのそばと、渋い金色をしたぶつ切りのニシンがそれぞれ3片ずつ、入っている。

「ほう、見事な甘露煮だ。これは美味そうだな」

京はそれらと箸を、置いてあった大きめの盆に並べてテーブルまで運ぶ。それを見てすぐに、直が歓声を上げた。

「うわあ、ほんとにニシンそばだ!」

「鷹司様、ありがとうございました。この甘露煮は自信作ですよ。でも、このそばは凪子に打ってもらいましたので、お口に合うかどうかわかりませんが…」

厨房で若草色の、しゃれたエプロンを外しながら千鶴がそういった。

「はいはい、そばが不味かったら私のせいにして下さい」

「あんたのそういうところが可愛くないのよね」

「かわいげのない後輩ですいません」

「先輩方、せっかくの年越しそばが冷めますよ」

「そうだ、料理は出来立てが最上だ」

それを聞いた千鶴が、笑いながら脇の暖簾をくぐって3人の方へ回って来た。

「そうね、それじゃ早速いただきましょうか」

テーブルの一角を使って4人が座り、そばを前に手を合わせた。

「いただきます」

 立ち上る湯気と、ずるずるという音が広がる。京はいったんつゆだけを少し口に含み、それから少しそばをすすって、感嘆した。

「うまい…甘露煮の甘味とつゆがよく合って、味に奥行きが出ている。そばも、決してそば粉が多くは無いが、程よくコシがある。ボロボロにならないそばを食べたのは久し振りだな」

「良かった!この味の組み合わせがわかっていただけるとはさすがです。そばの方はですね、なかなかそば粉が手に入らないもので、つなぎが多目ではあるんですけどいろいろと配合を工夫していまして、それに凪子はそば打ちだけは上手いんですよ」

千鶴がやや興奮気味にそういう。

「そうか、うん、このような食事が毎日食べられるとは護国刀使の皆は幸せよの」

「ちょっと二人共、聞いた?今の聞いた!?」

千鶴に呼び掛けられた護国刀使の二人が、面倒臭そうにそばをすするのを中断する。

「聞いてますよ。私だって日頃から感謝していますよ?」

「ええ、私も感謝しています。さらにそば打ちに励みたいと思います」

「奥行きよ?奥行きのある味なのよ?本当に頼むわよ、あなたたち」

そういって千鶴はどんぶりを持ち上げてつゆをすする。一連のやりとりを見て京は堪え切れなくなり、高笑いを上げた。

「いや、すまぬ。そなたらを見ておったらつい、な。歳の近い仲間というのはいいものだな。余計に食事も美味くなるというものだ」

それを聞いた直が、

「たかつかささ…あれ、すいません、えーっと鷹司、様は同年代の方と一緒に暮らしていないんですか?」

早口でそういった。早くしゃべりたいのに口が追い付いていない、という様子だ。京はまた、微笑んだ。

「よいよい、鷹司がいいにくければ京と呼べ」

「え、いえ、それはその、畏れ多いといいますか…」

「もうそんな時代ではないよ、なあ、武田よ?」

「はい、全くです。華族だの何だの、もう付き合いが面倒なだけの古臭い存在よ」

「はは…あの、では、京様…で、よろしいでしょうか?」

「様付けもどうかとは思うが…まあ、よかろう。それと、同年代と暮らしていないのか、であったな?」

直が頷く。

「うむ、今は神祇院勤めである故、同世代の者と話すことはあまり無いな。以前はそこな武田千鶴と同じ女学校に通っていたのだが刀使に選ばれてからすぐに神祇院付けになってな。それ以来、煙たい部屋でお勤めの日々よ」

「そうだったんですか…刀使で貴族っていうのはやっぱり目立つから…使われてしまうんですね」

どうやら、この刀使もバカではないらしい。

「そういうことだ。こう見えて、私も刀使の印象を良くしようと日々懸命に働いている、というわけだ」

直がひとしきり頷き、箸を置く。いち早く、そばを平げていた。次に凪子が口を開く。

「剣術の鍛錬は、どこでされているんですか?」

「ほう、私の鍛錬に興味があるのか、早乙女」

「ええ…そうですね、あれだけの力を継続させるには日頃からかなりの時間を鍛錬にあてているとお見受けしましたが、同世代がいないということは刀使を相手にしていない、ということになるのではないか、と思いまして」

「はっはっは、護国刀使の皆は賢いな。そうだ。私は別に刀使を相手に稽古をしているわけではない。軍人や警察の道場で世話になっている」

護国刀使3人が絶句した。刀使相手ではないとしても、それはおそらく日本最強の剣士たちだ。

「なるほど…合点がいきました。道理で剣筋が鋭いわけだ…」

「まあ、連中相手に刀使の力を使うわけにもいかぬでな、防具と竹刀で普通に稽古をしている」

当然のようにそういう京に、またしても護国刀使たちは呆けたようにしばらく口がきけなくなったが、何かに気付いたように千鶴が口を開く。

「でも、それでは京様の可憐なお姿が汗にまみれてしまうではありませんか!もったいない!」

「いや…それは特に問題ではあるまい」

「そうだ、それでしたら是非ここにいらして下さいな。ここでしたら刀使の力を思う存分発揮できますし、剣術バカが佃煮にするほどおりますので飽きることもないかと」

「剣術バカ…」

「いえいえそれより佃煮って…」

千鶴の提案と罵詈雑言に、凪子と直がさすがに反応せざるを得ない。

「はっはっは、そうだな。そうできれば…そうさせてもらいたいが…」

京はそういってチラリと壁かけ時計を見ると、19時を回っている。少々長居し過ぎたようだ。

「さて、そろそろいい時刻になってきたな。お暇するとしようか」

「京様、帰っちゃうんですか?泊まって行けばいいじゃないですか。今日は部屋もたくさん余っています…し…ん…ふあ…」

直は、そこで小さく欠伸をした。

「あ、すいません。お腹も一杯になったからかな。少し眠くなってきちゃいました」

「もう、直、一応今夜は見張りの御役目があるんだからね。鷹司様にも無理をいうもんじゃないわよ。ああでも…もし、よろしければ、こちらは一向に構わないんですよ」

「ええ、むしろ歓迎いたします」

直の言葉に千鶴、凪子も同意を示したが、京は首を横に振った。

「いや、そうまでいってくれるのは本当に嬉しいのだがな、そうも…いかぬのだ」

「こんな日にもお役目が?」

「ああ、厄介なのがあってな…」

そういって京が立ち上がって進むと、3人も続こうとする。

「いやいや、見送りはここで結構、それより早く食べてしまえ」

「あ…ふぁい、また来て下さいね!」

「またいい食材お待ちしていますね!」

「すいません、ではここで」

直は既に目をこすっている。京は笑って頷いた。

「ああ、また馳走になりに来るとしよう。ではな、よい年の瀬を」

頭を下げる3人へ手を振り、食堂を真っ直ぐ進んで玄関に置いていたコートを羽織り、外に出る。そして少し歩いてから、周囲の様子を窺った。

大晦日の夜、宮城内は静まり返っている。空気は冷たく澄んでおり、見上げれば多くの星が瞬いていた。人の気配は、無い。京は振り返り、近衛祭祀隊舎を見上げた。木とコンクリートで構成され、社殿をモチーフとしながらも西洋の神殿のような趣もあるなかなかしゃれた意匠のその建物は、うら若き少女たちの住まいとしてもしっくりくる。この宵闇の中にあっても独特の壮麗な存在感を放っていた。

「ふむ、護国刀使か…面白い奴らではあるが……もう少し人を疑うことを知るべきだな。あの様子なら、もう十分効いている頃合いか」

京はそういってから一つ溜息をついて、三日月宗近を抜刀して迅移を発動し、またその少女たちの住処へと駆け入った。

 

 テーブルに突っ伏して寝入ってしまった直のどんぶりも持って、二人は厨房へ入った。

「あの子、随分疲れていたようね」

「そうですね、しかしこんなところで寝てしまうなんて子供でもあるまいし…」

「あら、子供じゃない」

「それはまあ、そうなのですが…千鶴先輩、直の事はお願いしてもよろしいでしょうか?これから戸締りと警邏に出ようと思うのですが」

千鶴は腕をまくりながら頷いた。

「そうね、悪いけれどお願いするわ。ここのことは任せておきなさい。ふぁあ…直を見ていたら何だか私も眠くなってきちゃった」

千鶴が一つ、欠伸をした。

「それなら先に休んで下さい。夜中に交代しましょう」

「ええ、そうさせてもらおうかしら」

「はい、失礼します」

凪子は千鶴に一礼して食堂に戻り、御刀を手にする。寝息をたてている直に苦笑して、玄関へ向かった。居残り組にとって隊舎とその周辺の警邏は大事な仕事だ。いつ荒魂が現れるかもしれないことに加え、この建物の中に保管されている品々のことを考えればそれは当然のことといえた。だが、そんな大事な任務を前にして、

「ん…何だ、私まで…」

じわ、と睡魔が襲ってくるのがわかる。頭を振ってみたが、どうにも感覚が鈍って来ている。おかしい、何かがおかしい…。このままでは、あっという間に眠りに落ちてしまいそうだ。凪子は、思考を口に出すことにする。

「何だ、何がおかしい…おかしいのは…3人同時に眠くなること…ん、まさか…!」

思いついた答えに、感覚が少し覚めてくる。

「ここにあるもので、狙うとすれば…」

凪子は何とか意識を繋ぎとめて、地下階へと続く階段へ進む。ただの取り越し苦労であってくれることを、祈った。

 

 予め手に入れて確認していた図面と実物に寸分の狂いも無い。京は、地下二階の入り口である頑丈そうな扉の前へとたどりついていた。

京の目的は最初からノロの強奪にあった。そのためには、最も刀使が少なくなるというこの日を狙わない手は無い。いろいろと手は考えて来ていたが、そばを振る舞われたのは好都合だった。折神香織が陸軍経由で手に入れたという薬を使ったのだ。

御刀を収め、用意していた入り口の鍵を懐から取り出すと、ゆっくりと、その扉を開けた。

「ほう……さすがは全国からのノロを集めているだけのことはあるか…」

そこには、広大な地下空間が拡がっていた。天井が高く、扉から真っ直ぐ伸びた通路の先に大きな社がある。そしてそれを基準にして高い棚が列を成して並んでいた。京はゆっくりと進み、その社に一礼してから棚に目を遣る。そこには金属製の箱がびっしりと並んでいた。躊躇なく、その一つを手に取る。

「まとめて合祀するというのは確かに悪くはないかもしれんがな…いささか不用心だな」

コートの中からたたんでいた布袋を取り出し、その箱を無造作に投げ入れた。

「さて、では頂けるだけ頂いて行くとするか…」

京は適当に間隔を空けながら次々とノロの入った金属箱を奪っていき、空いた間隔がわからないように、左右の箱を寄せておく。袋がほとんど一杯になった所でまた社に戻って一礼した。

「何、決して悪いようには扱わぬ。これもお国のためと思ってくれ」

「何が、お国のため…ですって…」

扉の開く音と共に、聞き覚えのある声が響いた。

「早乙女か?」

京は振り返らずに、そういった。

「鷹司様…残念です、あなたがこのような…ことを…」

京は振り返ってその姿を確認する。閉めた扉にほとんど寄りかかるようにして、早乙女凪子が立っていた。やはり、自分の前にはこの女が現れるのだ。

「ふむ、出来れば穏便に奪って行きたかったのだがな…こうなれば最早是非も無し。抜け、早乙女」

京は抜刀し、写シを張る。遅れて凪子もまた抜刀し、大きく深呼吸をしてから、写シを張った。

「随分無理をしているようだな」

「あなたに…一服盛られたから…でしょう…」

「そうだ。全く、よくここまで堪えているものだ。その精神力は賞賛に値するな」

「それは…どうも」

凪子は渋面のまま、切っ先を京へ向けた。

「だが心配するな。ただの眠り薬だ。そなたをはじめ、護国刀使はこの国の宝、それを損なうような真似はせんよ」

「な、何を…言って」

凪子の言葉を待たず、京は迅移をかけて一気に斬りかかった。凪子はそれを辛うじて受け止め、弾き返す。

「はっはっは、その状態で全く大したものよ!そなた、私の元へ来ぬか?」

「戯れ、言を…!」

「戯言などではないよ。早乙女凪子。そなたはこの国のために、我ら刀使に何ができると思う?」

凪子はもう、相手の言葉を聞き取るだけで精一杯だった。構わず、京は続ける。

「この国は限界だ。持ってあと一年、といったところだろう。陸軍は南方の孤島に部隊を置き去りにし、海軍は船を動かすための重油が底を尽きている。米英の鬼畜共がこの神州に殺到するのも時間の問題であろう」

京は、写シを張ったまま、凪子に近づいていく。

「そうなればどうなると思う?男は殺され、女は慰み者になるのだ。そなたも、そなたの大事にしている者たちも皆、そのような目に遭うのだ。そして、この国は亡くなる…わかるか?」

京は、凪子と顔が接する程に近づく。

「だが我々ならば、刀使ならば、この戦況を打開することができるかもしれんのだ。戦争は勝って終わらなければ意味がない。最早この戦争に勝つことは出来んだろう。しかし、やつらをこの国におびき寄せれば、最後に一太刀、浴びせてやることができる。最後の最後でこの国を倒すことは容易ではないと、思わせる事が出来るのだ」

「…最後に…一太刀…」

「そうだ、その上で少しでもよい条件でこの戦争を終わらせるのだ。だがそのためには、刀使の数が足らぬ。いかに刀使といえど多勢に無勢ではどうしようもない」

「それとノロを奪うことと、どう関係が…」

「大ありなのだ、これがな。折神碧らから聞いてはおらぬか?我々は、軍刀にノロを含ませることに成功した。それがな、御刀に近い働きをしてくれるのだ。つまり、本来の力には及ばぬとはいえ、多くの刀使を生み出すことが可能になるのだ」

凪子の顔色が変わる。

「どうやら聞いていなかったようだな。後日確かめるがよい。いずれにしてもノロが、この国を救う一手と成り得るのだ。そして、刀使が増えれば今度はそれを使いこなす指揮官が必要になる。早乙女、お前こそ、その指揮官に相応しい」

京は、空いている手で凪子の手をとった。そして、

「今の護国刀使は、お国のために十全を尽くしているか?その能力は本当に活かされているのか?よく、考えてみることだ…」

最後にそれだけいって、凪子の鳩尾に三日月宗近の柄を入れる。「く…」という小さな声を残して、凪子はその場に崩れ落ちた。同時に写シが消える。

「本来ならばこのような手は使いたくは無かったのだがな…ふふふ、また会おう、早乙女凪子、そして護国刀使の皆よ」

京はそれだけ言い残すと再び迅移を発動し、隊舎の外へと躍り出た。そしてそのまま、灯火管制の敷かれた宵闇の中へと消えて行った。

 

 

 薄暗い照明の下で、折神香織は3人の少女たちを前に、おもむろに口を開いた。

「美佐さん、明日香さん、香苗さん、最後に聞きます。本当に、いいのですね?」

「はい、香織様。私たち3人、刀使としてもっとお国のために働きたいんです。どうか、よろしくお願いします」

江戸時代までなら下着にあたる一重の白装束に身を包んだ少女たちが、そういって頭を下げた。香織はそれを受けて頷く。

「わかりました。ありがとう…。大丈夫、心配することはありません。今までこの施術で失敗はありませんから…」

こんな時でも笑顔を崩さない香織のその言葉に、少女たちは安堵した様子を見せた。

「では、こちらに」

剥き出しのコンクリートの壁に沿うように立って、そのやりとりを聞いていた白衣姿の女が先導し、鉄の扉を開けて少女たちを部屋へと招き入れた。香織も、それに続く。部屋には多くの寝台が並んでおり、少女たちはそれぞれ指定された寝台で横になる。白衣の女はその間に三角巾で髪をしまい、マスクと手袋を身に着けていた。その様子を見ながら、香織は少女たちに声をかける。

「それでは最初に筋弛緩剤を投与します。身体の自由が効かなくなりますけど、これはノロを接種した時のショックで自傷行為を起こさないようにするためのものです。大丈夫、何も心配は要りませんよ」

少女たちは頷き、白衣の女が注射器を手にして3人の腕へ順に薬を打っていく。それは実際には筋弛緩剤などという生易しいものではない。俗に言う自白剤に近い代物だ。一口に自白剤といっても多くの種類があるが、いずれも脳機能に影響を与え、打たれれば意識は混濁し身体の自由も奪われるという点ではほぼ共通する。場合によって深刻な後遺症や中毒を引き起こすこともある危険な薬だ。今、少女たちに打たれたものもまた、多少効果が薄められてはいたがほぼ同様の薬効がある。間もなくして、横になった少女たちの目から、光が消えた。

「では、香織様…」

「ええ」

白衣の女は、一度手袋をとって、足元にある金属製の鞄を寝かせて左右の止め金具を同時に外す。中には、3本のアンプルが入っていた。その小さな筒の中で、何かの生き物が蠢いているかのように、橙色の鈍い光が不規則に煌めいている。女は再度手袋をしてからアルコールを含ませた脱脂綿で注射器の内外をよく拭った。それからパキン、という音を立ててアンプルの口を折り、注射器へ中身を移して押子を当てる。そして、一番近くで横たわっている少女の左腕をさすりながら血管を探し、針を当てた。注射器の中の橙色の光が、ゆっくりと少女の腕の中へと消えていく。注射を終えるとすぐにその少女が喘ぎ出すが、白衣の女はそれに構う素振りを見せることなく、残る二人にも全く同じ行動をそれぞれ繰り返した。部屋中が、苦悶の声に満ちていく。意識は無くしているはずで、身体も動かしようがないはずだが、少女たちは何かに取り憑かれたかのように寝台の上で蠢いた。やがて、その股間が濡れ始め、臭気が漂い出す。失禁しているのだ。全身の筋肉は、既に肉の塊に成り果てている。

「さて…どんな具合かしら?」

初めてではないにしろ、決して見慣れたとはいえないその光景を目にしながら、香織が白衣の女に尋ねる。

「問題ありません。直におさまるでしょう。これは決して拒絶反応ではありません。体内の組織がノロを受け入れて新しく生まれ変わっているのです」

「ほう…そういうこと…前の3人からわかったのかしら?」

「はい。次々と興味深い結果が出ています。前の3名は病弱な者ばかりで、特に一名は結核を患っていたのですが、症状が改善しています」

「病気が治った、というの?」

「はい、病気だけではありません。たとえば…視力なども回復しています。ノロを受け入れることにより細胞が活性化し、身体の劣った部分が補われ、失われた部分が復旧しているようなのです。実に、興味深い結果です」

香織は素直に驚いたが…異物を取り入れているのだ。そんなにうまい話だけではないだろう、とも思う。

「そう…しかし副作用も出ているのでしょう?」

「現在の所、問題となるような症状は出ていません。もちろん、前例の無い事ですから、長期間の後追い調査が必要となるでしょうが…それよりも、一つご報告があります」

「報告?何かしら」

「アンプルを取る際に確認したのですが、保管していたノロの総量が計算よりも減っていました。おかしなこともあるものです。これからは定期的にノロの数量を記録しておく必要があるかもしれません」

女は、実に淡々と事実と対策を口にした。

「そう…ノロは結合するともいうけど、それが原因ではないの?」

「はい、確かにノロ同士の結合については確認されています。が、ノロにおいても質量保存の法則は確認されています。一体何が起きたのか…」

「隠世に逃げた、という線はないの?」

「荒魂化した場合であれば、あるいはそういったことがあるかもしれませんが、ノロの段階ではどこかを目指して行動を起こす、といった明確な意思は存在しません。そのようなことは考えにくい、といえます」

「そう…わかりました。この件は私が預かります。もしかするとノロや荒魂の新たな性質が発露しているのかもしれません。くれぐれも内密にしておいて下さい」

「わかりました。では、私はここでしばらく『被験者』の様子を見届けます。香織様はどうぞ、お休み下さい」

「ええ…そうね、悪いけど、御言葉に甘えさせてもらいます」

香織はそういって部屋を出て、頭を下げている白衣の女に頷いて見せてから、退室する。ドアノブを閉めると先程までの喧騒と臭気が一気に遠いものになり、ふっと短く溜息をついた。

「面倒なことに気付いたものね…」

いいながら、やはり口元に笑いを残して廊下を進んでいくと、向こうからコツコツと硬質な足音を響かせて見慣れた人影が現れた。

「これは鷹司様…首尾は、いかがでしたか?」

「ふん、造作もないことだ。当分ノロに困ることもなかろう。あまり、気分のいい仕事ではなかったがな」

「申し訳ない次第です。深謝いたします」

「ああ…それで、やったのか?」

京が薄暗い廊下の先を、顎でさした。

「はい、予定通り3名…投与の段階では特に問題はありませんでした」

「そうか…今回も担当はあの浜塚とかいう女か?」

「はい…研究熱心なのはよいのですが、少々問題行動が見られるようです」

「うん?そうか?ああいう人種はそもそも企みなどはできぬと思うがな」

「そうかもしれません。しかし、くれぐれも用心は怠りませんよう。軍のお墨付きを得ているとはいえ、我々の行っていることは…」

「いわれるまでもない。私は様子を見に行ってくる。ではな」

「はい、あまり遅くなりませんよう…」

京はそれには答えず、廊下の奥へと進んでいく。あの五摂家刀使は、ノロを取り込んだ少女たちが落ち着くまで、ずっと付き合うのだ。曰く、自分の手足となって働く人間の苦しみは自分の苦しみと同じ、なのだそうだ。香織にはわかりかねる思考であった。鷹司京という貴族様は、民を護るためであれば自らが率先して戦場に立つ、という勇ましい考え方を持っている。血の穢れを忌み、結果として武士の台頭を許した日本古来の貴族観からはかなり異なった赴きを持つお方なのだ。それ故に、多くの人たちから支持されているのだが…香織にはそれがひどく白けたものに見えている。そして京の方でもそんな香織の様子を察しているのだろう。二人の間柄はとても良好とはいえないものだった。

詰まる所、究極的な目的が同じことと、その目的に至るためには手段を選ばない、という二点でのみ、二人は繋がっている。言い換えれば互いを利用し合っている、ということになるが、むしろそれこそが正常な人と人との関係であろうと香織は考えている。

廊下を進んで建物の出入口まで来ると、壁掛けの時計が目に入った。時刻はもう23時を回っていた。戦争が始まって丸2年、昭和18年が暮れようとしている。

「まだまだ…こんな中途半端では終われないわね…」

戦乱は、望むところだった。香織は一度立ち止まって廊下の奥を振り返ったが、すぐにまた、歩き始めた。

 

 

 護国刀使の3人、特に早乙女凪子にとっては最悪の年明けであった。三が日明けに戻って来た霧島由良、そして折神碧には凪子から全てを報告した。凪子が京と対峙していた頃、直と千鶴は既に意識を失っていたからそれは当然のことであった。

事の次第を聞いた由良と折神碧はこの事実を重く受け止め、正式に神祇院へ抗議を申し立てたが、当の鷹司京、そして折神香織までもがその姿をくらましており、神祇院からは護国刀使の警備体制を不問に付す代わりに抗議を取り下げるよう、お達しがあった。さらにこの一件は護国刀使の間でも一切口外しないよう指示があったため隊員の間で秘密を知る者、知らない者が生まれてしまう。結果として留守番の3人は責められることはなかったものの、秘密を知る隊員たちにとっては非常に後味の悪い事件となった。

さらに凪子は心にしこりを残していた。地下二階で京にいわれた言葉がいつまでも頭の中から消えないのだ。報告をする際にも、自分が黙っておけば誰にもわからないのではないか?という思いすらわずかに生じたのだ。

『今の護国刀使は、お国のために十全を尽くしているか?その能力は本当に活かされているのか?よく、考えてみることだ…』

あの時その言葉を受けて、朦朧とする意識の中で自分は何らかの結論に思い至っていたのではなかったのか…。そんな思いに捕らわれることが多くなっていた。

そして新たに迎える昭和19年、時代はそんな少女たちの心身ををさらに追い詰めていく。

 

 

 

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