チェンジ、メタリック千雨!   作:葛城

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長谷川千雨は急いでいた。
 朝から降りしきる雨は、ところどころ年季の入った遊歩道に、小さな水たまりを作っている。歩きなれた道であり、幾度となく通った道だが……履きなれた靴は、すっかり湿っていて、何とも言えない気持ち悪さを千雨に伝えていた。
 相も変わらず青空をどんよりとした雲が覆っていて、世界から照明を落としたみたいに、薄暗い。こんな日は、どうも気分が乗らない。千雨は、何度目かになる水たまりに足を踏み入れながら、そうため息を吐いた。
「やれやれ、天気予報も当てにならないもんだな。確立が10%だろうが、80%だろうが、降ったら100%じゃねえか」
 どうでもいい愚痴を零してしまうのは、雨に濡れた靴を思ってか、それともこんなときに外を出歩いている自分に対してか。
 あたりに人の気配は感じられない。
 絶えず鳴り響く雨粒の足音が、思いのほか大きかった愚痴を、掻き消してくれる。千雨が歩いている道が、普段は学生たちにしか使われていないせいなのか、顔をあげて周囲を見回しても、人影一つ見当たらない。
 途切れる様子が感じられないこの雨の中では、さすがに出歩くのを自重しているのだろう。千雨とて、できることなら、その利口な誰かと同じ選択をしたかった。
 あれだ。なんというか、無性に食べたくなった、というやつだ。別段、我慢すればそれでお終いなのが、どうにもこの手の欲求は性質が悪い。
 苛立ち……という程ではない。程ではないのだが、こと、人間の食に対する欲求は強い。ご年配の方々には理解し難いのかもしれないが、『食べたいものが食べられない』というのは、成長期まっただ中の千雨には些か辛い苦行なのである。
「……ん?」
 ふと、何気なく視線をやった先に現れた異変に、千雨は思考をそちらへ傾けた。そこは、歩道から外れた、並木の影。ともすれば見落としてしまいそうな、雑草の奥だった。
 なんだ?
 好奇心がうずきだすのを、千雨は止められなかった。このまま見なかったことにして帰る方がいい。片手に持った、アイスが入ったビニール袋に視線を落としながら、千雨は頭を悩ませる。
 ちょっと……ちょっとだけ。そう考えたとき、千雨の行動は決まっていた。前を向いていたつま先が、右斜めへと動き、千雨をそこへ運ぶ。
 何の気構えもなく、そこへ体を足を踏み入れる。
 その瞬間、一瞬の閃光が千雨の眼前を走った


プロローグ

 ちくしょう、今日は本当に厄日だ。

 地獄の底のような、なんとも言えない薄暗い曇り空が、千雨の視界に広がっていた。どんよりと広がる分厚い雲は、

朝から一定量の雨を降らし続けているが、一向に雲が晴れる気配は感じられない。

 

 ちくしょう、いったい何が起きた?

 

 手足にまるで力が入らない。それどころか、感覚すら希薄になっている。痺れにも似た悪寒が四肢の末端からじわじわと中心へ湧き上がっていく。

身体中の熱が、体外へ溶けだしていくような感覚を、長谷川千雨は知覚した。

 降りしきる雨が、千雨の全身を水浸しにしていく。

 視界に広がる雨空が寒々しい。眼球に直接当たる雨水の感触に、千雨は自分が仰向けに倒れていることを悟った。

 

 鬱陶しい。

 

 眼球に当たる雨水の感触に目を瞑ろうにも、瞼はピクリとも動いてくれない。そこにきてようやく、千雨は自分が身に付けていたメガネが無い事を知った。

 ボヤケテくる視界に、千雨は舌打ちをしたかった。

 

 何が起きたのだろう。

 

 思い出そうにも、千雨の頭脳は主の命令に背き、一向に働いてくれない。

 学生寮へ戻る途中であったことまでは分かるのだが、そこから先がどうしても浮かんでこない。

 前に、3日間徹夜したとき、こんな感じだったっけ……そんな、他愛もない思考が脳裏を流れ滑っていく。

 ぽかりと開かれた腹部は円形にむき出しにされ、どす黒い穴が開いていた。そこから間欠泉のようにおびただしい量の血液が噴き出していく。

 元々赤系統の色である制服は、傍目にも分かるぐらい、見る間に赤く染まっていく。

 千雨の手足は例外なくあらぬ方向へ向けられており、皮膚を突き破った骨が、カッターシャツを切り裂いていた。

 右手は完全に千切れて頭上に転がっている。右足に至っては根元から消失していて、

布切れでしかなくなったパンツが肌に張り付き、本来は隠されている陰部が外気へと晒されていた。

 薄く生え揃った恥毛と、わずかに盛り上がった陰唇が、彼女の年齢が年若い少女であることを教えてくれる。

 本来なら泣き叫んで隠すはずであったが、不幸にも……いや、幸いにも、千雨は隠すことが出来なかった。

 もし隠す程度に意識がしっかりしていたなら、激痛のあまり瞬時に失神してもおかしくなかったからだ。

 ごぽりと、千雨の口から鮮血が噴き出す。頬を伝っていく血液の温かさに、千雨は何とも言えない安らぎを感じた。

 

 ……ああ、ちくしょう……なんでか知らねえけど、すげえ眠てえ。

 

 ヘドロのようにドロドロとした眠気が意識を混濁させていく。引きずり込まれていく意識を前に、千雨は思った。

 

 ……あ、ちくしょう、買ったばかりのアイス、絶対水浸しだろうな……ああ、ちくしょう……ついてねえや……。

 

 その思考を最後に、千雨は完全に沈黙した。

 

 

 千雨が沈黙してから、わずか2秒後。千雨の腹部から、光球が浮かび上がった。 豆電球の明かりをそのまま取り出したかのような淡い光が、蛍のように千雨の周囲を飛び回った。

 

『おやおや、ちょっと待ちなさい。すぐに治してあげるから、もう少し頑張りなさい』

 

 それは異様な光景であった。その淡い光はぐにゃりと形を変え、千雨の身体ごと、地面に広がった血液を包み込む。

 同時に光はアメーバのように自身を切り離し、千切れた右手足に群がり、地面に広がった血液まで内部へ取りこんだ。

 そのまましばらく光はその場に停滞すると、今度は空気に溶けていくように光が消え始める。

 光が完全に消えると、そこには千雨の亡き骸は無かった。血の一滴すら、髪の毛の一本すら残さず、完全に痕跡が消されていた。

 千雨が謎の光球によって致命傷を負ってから、その光球によって姿を消すまで、時間にして、わずか12秒足らずの出来事であった。

 

 

 

「……あれ?」

 

 ハッと我に返る。見開かれた眼は、正確に眼の前の情報を網膜にて電気信号に変換し、視神経を通り、外側膝状体を中継して後頭葉に届ける。

 夢から覚めた気分……というより、現実から覚めた気分というやつか。何とも言えない奇妙な清々しさに、千雨は違和感を覚えた。

 思考が現実に気付いた時、千雨は不思議な空間に居た。白い、白い絵の具で塗り固められたかのような部屋に、千雨は居た。

右も、左も、上も、下も、全てが白い。どこに照明が付いているのか分からないが、室内は昼間のように明るい。

 白い部屋の中でも、ひときわ異彩を放っていたのが、千雨の目の前に広がっていた、連なるように積み重ねられたテレビであった。

 そのテレビには、音が無かった。壊れているのか、テレビには鮮やかに映し出すのがあれば、白黒になっているのもあり、中にはノイズが酷いものもあった。

 テレビには少女らしき人間が映っていた。少女らしき、というのも、遠目からなのではっきりとは分からないからだ。

 鮮やかに映像を映しているテレビは、女の子や何か建物も映しているのは分かる。それでも顔までは分からなかったが、女の子ということだけは分かった。

 白黒テレビになると、女の子かどうかも分からない。辛うじて、子供が映っているということだけは分かるが、それだけだ。

 どういう建物なのかも分からないし、そもそも建物なのかどうかも、遠目過ぎて判別が難しい。

 ノイズがあるテレビに至っては、もはや判別すら出来ない。時折、瞬間に映し出される画像は、薄暗く、何が何だか理解出来ない。

 

 ……何が起きているのか、全く分からない。

 ここはどこだ?

 

 まず、千雨が明確な意思を持って考えた言葉は、それだった。

 眼前にあるのは、テレビ達と、テーブルと、椅子。テーブルも椅子も、室内にあつらえたかのように、白色で統一されていた。

 木製の、洋画に出てきそうな、シンプルなテーブルと椅子だ。

 ついで、千雨は身だしなみに気をやった。視線を下ろせば、見慣れた学生服が視界に入る。埃で少し皺が寄った、いつも着ている着慣れた学生服だ。

 マジマジと両手足を確認するも、結果は同じ。見慣れた部位は、縛られた痕もなければ、後遺症らしきものもない。

 顔に手をやって、メガネの有無を確かめると、しっかり指に固い感触が伝わってきた。思わず、ため息が零れた。

 べつに、視力が悪いから、メガネが有ったことに安心したわけではない。ただ、色々な意味で人見知りする千雨にとって、伊達メガネという形で、他者と自分の間に防壁を作らないと、上手く会話することができない性分なのである。

伊達メガネという形で、他者と自分の間に防壁を作らないと、上手く会話することができない性分なのである。

 一つ、深呼吸してから、そうして初めて、千雨は自分が椅子に座っていることに気付いた。

 顔を上げて……千雨は違和感を覚えた。一瞬、気のせいかと疑問を振り払おうと考えた瞬間、違和感の正体に気付き、背筋に悪寒が走った。

 

 ……?

 

 千雨は首を傾げた。別に、テーブルが変な形だったわけでも、椅子が壊れていたからでもない。

 

「テーブルなんてあったか?」

 

 ついでに言えば、椅子も。先ほどまでの光景を思い出す。テレビに視線をやっていたし、

いくら室内が白色で統一されていたとはいえ、人一人座れる椅子に気付かぬほど、千雨の視力は悪くも無いし、注意力が散漫でもない。

 記憶を探れば探る程、目の前にテーブル等が無かったことを、脳が証明してくれた。

 確かに、最初に前方を見たときにはテーブルは無くて、次に前方を見たときには、テーブルがあった。

 理解出来ない出来ごとに直面したとき、人間は思考を停止してしまう。

 それはどれだけ経験を積み重ねても変わることは無く、変わるとすれば、復帰するまでの速さぐらいか。

 千雨はまだ初潮も迎えていない少女である。すなわち経験があまりにも少ないということであり、それは目の前の奇妙に呑まれてしまうことに他ならない。

 なのだが、千雨の意識は、眼の前の情報を拒絶した。

 千雨にとって、それは既に慣れた行為だった。普段から、平常心をやすりのように削り取っていく、苛々する光景から逃れるために行っていることだ。

 すっかり慣れてしまったその行為に、千雨は皮肉にもある程度の冷静さを取り戻すことが出来た。あくまでもある程度だが。

 われ知らず肩が震えるのを、千雨は自覚する。いくら慣れたとはいえ、今回は自らが当事者だ。

 第三者的な位置から高みの見物をしていた時よりもはるか近くに非常識が存在する。その事実に、千雨は引きつりそうな頬に力を込めた。

 何か変化がないかと周囲の様子を頻りに探る千雨の耳に、物音が届いた。聞き慣れた音は、千雨の脳裏に、椅子を引いたときの音を思い出させた。

 視線を再び前方へ戻し……今度こそ千雨は息を呑んだ。

 

『………………』

 

 黒い、黒い人影……。人のような形をした何か、人影が、椅子に座っていた。

 冷汗が噴き出る。思わず浮かしかけた腰が、今度は逆に力が抜ける。下腹部へ込み上げてくる感覚に、千雨は太股を擦り合わせて耐えた。

 今回も、千雨は何時現れたのか分からなかった。視線を外しながらも、決して意識だけは離さないでいたのに。

 何の予告も予兆も無く、気付いたら何かはそこに居た。そこに座っていた。

 脳が目の前の事象を拒否する。激しく高鳴る心臓の鼓動があまりに煩く、底の片隅に残っていた余裕が蒸発していく。

 

「だ、誰だお前!?」

 

 叫んだのは、ただの虚勢。理解の追いつかない不可解な目の前の現実に、千雨は涙を流さない自分を称賛したくなった。

 人影は、何の反応も示さない。ただ、テーブルに両腕を置いてジッとしているようにも見える。というより、そうとしか見えない。

 だが、人影の意識……視線のようなものを感じる。それが自分に向けられていることだけは、千雨は察することが出来た。

 

 なんだ、こいつは?

 

 もう、何度目か分からない自問を繰り返す。

 いくら自問を繰り返したとて、答えが出るはずもない。出るはずも無いのに、千雨はそうせざるを得なかった。

 とにかく考え続けないと、千雨は喉まで出かかっている恐怖に意識を向けざるをえないから。

 ……不意に、人影の右腕……らしき部分が動いた。

 反射的に腰を浮かしかけるも、まるで神経を抜いたみたいに力が入らない。生まれて初めての“腰が抜ける”感覚に、千雨は身体を引いた。

 

『………………』

 

 千雨の視線が右腕に向けられる。ほんの少し、右腕が動いた……だけで、それ以外に変わったところは無い。

 食い入るように見つめても、人影は反応を見せない。顔らしき部分と右腕に視線が行ったり来たりするが、なおも人影は動かない。

 これがもし、人影が普通の人間であったならば、かなり不快感を与える行動だろうが、そんな千雨の行動にも、ただ、黙って千雨を見つめ続けるだけだ。

 せめてもの抵抗に、千雨は目の前の人影を観察する。目を離せばまた何か起こるかもしれない。そう思えば、頬の強張りを誤魔化すことが出来た。

 見れば見るほど、わけがわからない。

 手、足、頭……らしきものはある。人のような輪郭だから人影だと千雨は判断したが、

白と黒のコントラストに、オセロのようなイメージと、喪服のようなイメージを彼女は夢想した。

 あるいは生と死か。人影だと千雨が判断したそれは、耳や髪の毛などの輪郭はおろか、目、鼻、口、おおよそ何かしらの器官は見当たらない。

 影をそのまま切り取って椅子に座らせた姿というのが、一番しっくりくるだろう。

 

 

 変化の無い単調な時間に終わりを告げたのは、目の前の人影であった。

 そいつは現れた時と同じように、何の予告もなく、何の遠慮もない。

 ようやく落ち着きを取り戻そうとしていた千雨の様子を見計らったかのように、ポツリと音を出した。

 

『落ち着いたか?』

 

 人影がポツリと言葉を零した。発した、と言っても、人影から声が聞こえただけなので、本当に人影が話したのか、千雨にはわからない。

 わからないが、他に目星があるわけでもなかったので、千雨は人影が声を発したと判断した。

 見た目のイメージとはかけ離れた、渋い男性の声だった。それが、千雨には例えようもない強烈な違和感となって、首筋に鳥肌が立つのが分かった。

 短くも狭いうえに幼い人生経験と、あるのは女子中学生として過ごした日々。得体の知れない相手の感情を、一言の音域だけで判断するには明らかに足りない。

 けれども、千雨は理解出来た。理解できたのは、他人よりも優れた洞察力があったわけではない。相手の思考を読める超能力があったわけではない。

 ただ、千雨がクラスメイトの女子よりも不器用で、繊細な心を持っていたに過ぎないだけで……なんとなく、千雨はこうじゃないかな、と判断した。

 人影の言葉には、優しさは無い。あるのは、はい、いいえ、の二択を知りたいという確認だけだ、ということを。

 

『落ち着いたか? 落ち着いたのなら、話がしたいのだが……』

「――っあ、ああ、ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

 口ごもりながらも、なんとか返事をすることができた自分に、千雨は拍手を送りたかった。

 欲を言うならば、交渉人のように、何かしらの情報を引き出せるような返答をしたかったのだが、それは欲張りすぎだろう。

 緊張のせいか、脂ぎった嫌な汗が噴き出る。幸いにも目に見える範囲は拭う必要がなかったが、目に見えない範囲は冷や汗でびちゃびちゃだ。

 感触だけで、シャツが水浸しになっているのが分かる。この分では、ブラジャーはおろか、パンツも色が変わっているであろうことは、想像するまでもない。

 掌に滲んだ汗を拭う。拭いすぎて、湿り気すら感じるようになった学生服が、千雨の緊張を物語っていた。

 テーブルが死角になっていて、そんな千雨の動作は気づかれないはずなのだが、どうしてか千雨には、見られているという感覚があった。

 

『ちょっとというのはどれくらいだ?』

 

 とりあえず、一つわかったことは、人影は千雨が思うよりせっかちなのかもしれない、ということ。

 焦れているというより、純粋に疑問に思った。千雨はそう、人影の思考を推測した。

 

「どれくらい……って、言われても、ちょっとは、ちょっとだよ」

『ふむ、私には、君たちが基準にしている“時間”の概念が違うので、なんとも判断がつかないのだ。できることなら、明確な期限を教えてもらいたい』

 

 何を言っているのか、千雨はわからなかった。いや、日本語はわかる。方言もないし、妙な発音の癖もない。

 いわゆる、標準語と呼ばれる日本語だが、いくつかの単語の意味が、よくわからない。

 

「わ、分かった。分かったけど、とりあえず私の質問に答えてから、あんたの言う話をしてくれないか?

 正直言って、頭がこんがらがって、もう自分でもわけがわからないから」

『それで構わない』

 

 そう返事をした後、人影は黙り込んだ。

 しばらく無言の空白が流れた後、千雨は、人影が自分の質問を待っていることに気づいたのは、千雨が2回ほど掌の汗を拭ってからであった。

 

 

 静かな時間が流れた。相変わらず、テレビは少女の映像を流し続けているし、部屋の景色は白いまま。

 ただそこにいるだけで、気がおかしくなってしまいそうだ。なんとか平静を装う……装う素振りだけでもするが、

 ジワリと滲んでくる汗が、そうさせてくれない。

 喉が渇く。干からびた砂漠のように乾燥した喉が、ひりひりと張り付く。何度か唾を飲み込むが、逆に違和感を覚える。

 痛みこそ感じないものの、身体に悪い状態であることには変わりない。

 人影に用意された紅茶を、一口啜る。

 つい先ほど『飲みなさい。喉が渇いただろう、無くなることはそうそうないから、好きなだけ飲みなさい』という言葉と共に用意されたモノだ。

 突然テーブル上に現れたカップに、千雨は戦々恐々とするも、自身の身体が訴える強い欲求に逆らえる術は無い。

 現に、紅茶を見た瞬間、千雨の身体は一刻も早く水分を摂取しろと激しく主を叱咤し、渇きという形で訴えてきたのである。

 こうなったら、背に腹は代えられない。唇を尖らして、恐る恐る啜ってみると、思いのほか美味い。騙された気分だ。

 装飾が施されたカップは、知識の無い千雨から見ても、値が張りそうに思えた。

「あとで料金払えって言われたって、払わないからな」と人影に伝えてから、一息つける程度まで一気に紅茶を飲む。飲んでから、千雨は眉根をしかめた。

 唇に伝わってくる感触から、ある程度分かってはいたが、やはり相手は宇宙人だ。

 優に500ミリのペットボトル一本分は飲んでから、零さないようにカップをテーブルに置いた。

 なみなみに注がれているカップの水面に、人影が写りこんでいた。

 

「よ、よし、それじゃあ、これから質問をするぞ。嘘とか、煙に巻こうとかはしないでくれよ。それぐらいの判断は出来るからな」

 

 もちろん、ハッタリだ。千雨に相手が嘘をついているかどうかの判断など、できるわけがない。思春期真っ只中の女子中学生にできる、精一杯の交渉術だ。

 

『了解した。君の理解できる範囲で、嘘偽りなく返答しよう』

 

 声に、千雨を嘲笑うような感じは見受けられない。

 もしくは、そう見せているだけなのかもわからないが、千雨はとりあえず人影の言葉を信用することにした。

 二回ほど深呼吸してから、千雨はジッと人影を見据えた。

 肝心の人影には何も堪えた様子がない当たりに、千雨は何とも言えない不公平感を覚えた。

 

「まず、ここはどこだ?」

『君たち地球人の言葉に直すならば、ここは“宇宙船”の中だ』

 

 『宇宙船』、の単語に、千雨はごくりと唾を飲み込んだ。

 なんとなく、予感はしていた。少なくとも、目の前で座っている相手が、普通の人間ではないことぐらい、千雨は察しがついていた。

 ロボットか、あるいはホログラムか。千雨はそのあたりではないかと見当を付けていたし、

 なにより目の前の光景を「あら、驚きましたか?」の一言で作り出してしまうクラスメイトを知っているのである。

 

 だが、よりにもよって宇宙人とは!

 

 「少しは常識というやつを知りやがれ!」と、口にこそしないまでも、騒がしいクラスメイトに、

 内心苦々しい思いを抱えていた千雨だったが、想定の斜め上の答えに気が遠くなるような思いだった。

 クラスメイトから頭が固いと言われることがある千雨だったが、なるほど。確かに、頭が固かったな、と彼女は思った。

 カラカラに乾いていた口内に唾が湧いたのは興奮からか、それとも自分が今いる場所が分かったことによる安心からなのか。

 

「……て、いうことは、もしかすると、あれか?」

『あれ、とは?』

「ほら、あれだよ……宇宙人って、やつ」

『厳密に言うならば、君たちの認識する“宇宙人”というのとは、全くの別物だが、そう考えてもらっても構わない』

「厳密に言うと、どういうのだ?」

『それを説明するには、あまりに君は知識が足りない』

 

 一瞬、馬鹿にされたのかと思ったが、文句は言わなかった。

 人影の言葉に、侮蔑の感情が無かったし、ただ事実を口にしているだけだと分かったからだ。

 事実、千雨には知識が足りない。インターネットで日夜情報を集め、不特定多数の誰かさんと文字で交流しているとはいえ、

 その知識のほとんどは、こういった事態には役に立たない。その知識ですら、彼女が社会的地位をある程度築けるまでは、あまり意味がない。

 こういった、哲学チックな言い回しをするクラスメイトを千雨は知っているが、無い物ねだりだ。

 彼女がいたら、もう少し会話が円滑に進むのだろうな、と、考えたくもなるが、今は千雨しかいない。千雨が考えるしかない。

 

「悪かったな、知識が足りなくて」

 

 文句を言うつもりはないが、不快感を覚えたことだけは伝えたい。未熟なプライドが、千雨をそうさせた。

 

「あ、いや、そうじゃない。私が聞きたいのはそうじゃなくて、知りたいのは、どうして私がここにいるのか、ということだ。

 どっかの国の大統領とか、要人とか、そういうのじゃなくて、どうして私なんだ?」

『その質問に答える前に、ひとつ聞きたいことがある』

「なに?」

『なぜ、大統領、要人、という単語を口にしたのかを知りたい』

 

 人影の質問に、千雨は首を傾げた。

 

「……なんだ、大統領と要人の意味が分からないのか?」

『いや、その二つの単語の意味は理解している。重要なのは、人物を示す数ある単語の中、どうしてそれを選択したかということだ』

「それって、そんなに重要か?」

『私にとっては。君たちの言葉に表すなら、“好奇心”が該当するだろう』

 

 好奇心、ねえ。警戒の念が浮かんだが、千雨はすぐに解いた。

 よく、インベーダーをテーマにした映画では、宇宙人というやつは、例外こそあれど、たいていは各国の首脳陣であったり、

 何かしら地位があるやつ、彼らを調べるやつを狙ったりするのだが、実際は違うのかもしれない。

 よくよく考えれば、相手は地球人よりもはるかに高度な科学技術を持っていてもおかしくない連中……というより、持っていないとおかしい相手だ。

 どういった事柄が興味を引いたのかはわからないが、宇宙人にとって、地球人というのは興味を引くに足る存在だということは分かった。

 

「別に、深い意味はないよ。ただ、映画とか本とかだったら、一般市民よりも、大統領とか、そういった要人が狙われる話が多いから……それだけ」

『映画?』

「知っているか?」

『意味は把握している。参考までに、どういった映画か教えてほしい』

 

 人影の言葉に、千雨は頭を捻った。何分、その映画を見たのはかれこれ千雨が小学生の時の話である。

 虫食い跡のような穴だらけな映画の記憶を探るも、肝心の答えが見えない。

 

「ごめん、内容を覚えてはいるんだが、タイトルを思い出せないんだ」

『了解した。では、一言でいいので、簡潔に内容を教えてほしい』

「……あ~、んん、内容、か。えっと、確か、宇宙から地球を侵略しに来た宇宙人を、地球の軍人が力を合わせて撃退するって話だったかな。

 うろ覚えだから、どこまで正確だったか分からないけど、たしか大統領も戦闘機に乗って戦っていたかのような気がする」

『そうか。聞きたいのだが、大統領という役職に就く人間は、戦闘機を操縦する技能を身に着けているのかを知りたい』

「身に着けているわけないだろ、映画の話だよ。あ、でも、操縦できる大統領がいるかもわからないけど、それでも限りなくゼロに近いと思うよ」

『ならば、なぜそのような嘘をつくのかを知りたい』

「映画を盛り上げる為であって、嘘をついたわけじゃないさ。あくまで、空想上の話に出てくる大統領は、戦闘機を自転車のように扱えるってわけだ」

『ふむ、そうなのか』

「興味深い?」

『ここ17万年の中で、最も興味深い事柄だ』

 

 おお、17万年ぶりか。人間も捨てたもんじゃないわね。

 

 聞く人が聞けば、涙を流して喜びそうな評価に、千雨は苦笑した。何度か応答しただけだが、それでもする前よりも緊張がほぐれていくのを、実感した。

 最初はなめられないように意識して地を全面に出していたが、今はむしろ地を引っ込めるのに神経を使いそうだ。

 こいつらの寿命って、どれくらいなんだろうと疑問が湧いたが、そんなこと聞いても何の意味もないので、それは胸中に留めておくことにした。

 コップを手に取り、炭酸が弾けるコーラを一口飲む。ほんの一瞬、コーラが飲みたいな、と考えただけで、眼前に置かれたカップがコップになる。

 おまけに気の利いたことに、黒い水面にはいくつも氷が浮かんでおり、コップの外面にも水滴がいくつも浮かんでいた。

 先ほどから何度か口にしているのに、一ミリも水位が下がっていないことに、千雨は便利だな、と思った。

 

 

 人影の話は、要点を纏めると、『事故』であった。

 元々、地球から近い地点に存在する、別次元の宇宙

(多元宇宙とか多次元宇宙などの説明をされたが、千雨には1割も理解出来なかった)が構築されるのを監視するのが、“人影”の仕事であったらしい。

 らしいのだが、人影は宇宙が構築されるまでの間、暇つぶし程度に今の地球の科学技術がどこまで発達したのかを調べるつもりで、

 人影の分身である、スパイロボット(これも厳密には違うらしいのだが、千雨には同じにしか思えない)で地球人を観察していたらしい。

 ロボットは人影達の技術力から作られただけあって、地球上のどんな観測機器でも発見することは出来ず、肉眼でも見えない。

(それでも彼らからすれば、そのロボットは千雨たちでいう、骨董品クラスのオンボロだったらしいのだが、

 万が一壊れても数十万年先の科学技術でないと識別することすら出来ない代物だ)

 そこで運悪く、学生寮へ帰る途中であった千雨に、ロボットが接触してしまい、千雨の半身を原子分解してしまったらしく、

 治療のために千雨を自分の宇宙船に連れてきたというのが、一連の流れであった。

 

「ふ~ん、それで、見たところなんら変わりない姿だけど、もう完治しているってことでいいのか、これ?」

『ほとんど元の状態にしてある』

「へえ……え、ほとんど?」

 

 学生服に視線を下しつつ、千雨は人影に尋ねた。なんとなくではあるが、スカートの皺までそっくり以前のままな気さえする。

 人影に背を向けて、こっそり下着を確認したが、そこも変わりない。

 特に気にせず、胸とか揉んでみるも、揉み慣れた……というのは人聞きが悪いが、とにかく感触的には同じような感じだ。

 どういった技術なのかは分からないが、どうやら宇宙人は医療の面からみても、地球人のはるか彼方を進んでいることは確かだろう。

 

『厳密に言うならば君は“人間”というカテゴリーでは無くなっている』

「……は?」

 

 千雨の思考が止まった。

 

『大まかな意味でいうならば、君は十分に“人間”の範疇だ』

「……はあ!?」

 

 音を立てて立ち上がる。抜けていた腰が息を吹き返し、背後で椅子が倒れた音が聞こえたが、千雨に構っている余裕は、たった今無くなった。

 背中の襟から爆竹を突っ込まれた気分だ。しかし、だからといって目の前の人影を口汚く罵ろうとも、掴み掛ろうとはしなかった。

 話を聞く限り、人影が千雨を治療したのは、本当に“好意”からであり、“善意”だったからだ。

 千雨の常識からすれば、怪我を負わせた加害者が、被害者への責任を果たすのが当然だが、それはあくまでも“人間”としての常識だ。

宇宙の端っこにあるらしい小さな惑星の、まだ宇宙に出ることすらままならない未熟な現地生物

(彼らから見れば、地球人など未熟すぎて知的生命体であるとは判断されていない)など、彼ら宇宙人からしたら、

 アリか何か程度にしか考えていないということは、事故の説明で十二分に理解できた。なにせ、一部分ではあるものの、

 人影は何度も“人間”と“物”を同じ目線で捉えていたからだ。

 おそらく、最後に壊したのが人間でも、物でも、人影は直しただろう。彼が千雨を治療したのも、深い意味はない。

 たまたま彼女を治療できる道具を持っていて、たまたま治療するだけの暇があったからにほかならない。

 もし、両方、あるいは片方が無かったならば、千雨は今頃誰にも知られることがないまま、あの場所で息を引き取っていただろう。

 他でもない、人影がそう教えてくれたのだから、間違いない。

 

 

 色々言いたいことがある。千雨の顔にはそう書いてあったが、口には出さない。「ごめん、取り乱した」と人影に一言詫びを入れる。

 転がった椅子を戻そうと振り返ると、飲み物の時と同じように、気づいたら元の位置に置かれていて、後は腰を下ろすだけでよくなっていた。

『気にはしていない。君の動揺はもっともで、私を罵倒するのは当然の帰結だ』と、口にする人影にもう一度謝ってから、千雨は腰を下ろした。

 激しく高鳴る心臓をなだめる為に、コーラで唇を湿らせる。飲みなれた刺激的な甘い味わいに、少し気がまぎれた。

 

『落ち着いたか?』

 

 最初の時と同じ言葉に、千雨は何とも言えない可笑しさを感じた。そんなところに、人影の宇宙人らしさを見た。

 

「落ち着いた、すごく落ち着いた」

『それは何よりだ』

「いちおう、皮肉のつもりなんだけど」

『それは、ブラックジョークというやつとみて、間違いないか?』

「……まあ、そう思って構わない、かな。どうだ、興味深い?」

『それなりに興味を覚える』

 

 これは勝てないな。千雨は内心、白旗を上げた。

 

「それで、話を戻すけど、あんたの言う、厳密的に“人間”と違う部分ってやつは、どこ?」

『肉体的な部分、全てだ』

 

 もはや、人影の言葉に驚きを感じなくなってきていることに、千雨は体が重くなったような気がした。

 

「……それって、ほとんど元に戻っていないんじゃないかな、と思うんだけど?」

『いや、元通りだ。たかが肉体を構成する物質が変わっただけで、あまり心配することはない。

 異性とセックスも出来るし“人間”の子供も産めるし、変更さえしなければ、自然と歳を取るようになっている』

 

「セッ……」言葉が出なかった。こんな場所ではあったが、さらりと口にした性を意味する言葉に、ドキリと心臓が高鳴ったのを、千雨は隠せなかった。

 

『君の体の細胞は残してある。どうしても気になるならば、それを素にクローン体を作って、

 そちらに脳を移植してもらえばいい。そうすれば、君はオリジナルだ』

 

 動揺する千雨をしり目に、人影は次々に会話を進める。それを見て、千雨は脳裏に浮かんだ恐ろしい現実に、冷や汗が噴き出るのを抑えきれなかった。

 

「あ、あのさ、念のため聞くけど、そのクローン体って、あんたたちには作れないの?」

 

 一縷の望みを掛けて尋ねる。薄々答えが想像出来たが、聞かずにはいられなかった。

 

『クローン体は作れる。しかし、移植は出来ない。そうしたいのはやまやまだが、クローン移植は、私たちにとって、はるか過去の失われた技術。

 移植するにも、私たちのやり方では無理だ。君たちの肉体はあまりに未熟で、デリケートすぎる。やりようがない』

「……ああ、そう」

 

 終わった、と千雨は思った。

 

『大丈夫だ。クローン体ならば、厳密的な意味でも以前の君と全く同じ状態を用意できる。安心してほしい。

 ただ、少し時間を欲しい……君たちの時間で表すならば、だいたい14分17秒程あれば完全な生成が可能だ』

 

 気遣う様子を見せる人影の好意が痛い。色々な意味で。善意が必ずしも相手を喜ばせることがないことを、千雨は身を持って痛感した。

 

「あ、あの、その、色々してくれるのはありがたいんだけど……実は、まだ地球人はクローン移植技術を完成させていないんだ」

 

 その言葉に、人影はピタリと会話を止めた。しばらく、何とも言えない空気が流れた。

 

『しかし、私が調べた範囲では、移植が成功したという情報があったのだが』

「たぶん、それは豚から豚への、臓器の一部移植だろ。

 私は医療関係には全く知識がないけど、少なくとも人から人へと脳移植が成功したという話があったら、私の耳にも入ってくると思う」

『どうやら、私が想定した以上に未発達な文明のようだ』

「ほっとけ」

 

 重すぎるため息を吐いた後、千雨はまたコーラを口に含んだ。

 

 

 

「分かった。もうこの際、多少のことは目を瞑る。とりあえず、厳密的に人間と違う部分を教えてくれ」

 

 帰って寝たい。千雨は切実に思った。悪い夢を見ているような気分だが、さっきから飲んでいるコーラの甘さと、

 お尻に感じる椅子の感触が、ここが現実であることを明確に伝えてくる。

 熱いシャワーを浴びて、アイス食いながらホームページの更新をして、翌日眠い目を擦って学校行きたい。

 例え、向かったところでイライラすると分かっていても、見慣れた日常に帰りたい。

 

『さっきも話したが、君の肉体を構成する部分は、炭素やタンパク質などではなくなっている。ここまでは理解できているか?』

「ああ、理解出来ているよ。こんなことなら、授業をもっと寝ておけば良かったって思っているよ」

 

 理解出来てしまうのは、ある意味辛いことである。そんなことなど知りたくなかったと、千雨はポツリと零した。

 

『肉体を構成している成分を一から説明しても、君には理解出来ないだろう。だから、簡潔に述べよう。

 君は今、想像力で肉体の機能を変化させることが出来る肉体になっている』

 

 簡潔に述べられても、いまいち言っていることが分からない。

 

「よく分からん」

『それならば、理解するより、やってみた方がいい』

 

『見なさい』と人影が示した場所に視線をやると、そこには射撃なんかに使われる、赤色と白色の、交互に円形に描かれた的が用意されていた。

 「さっき見たときは、あんなもん無かったんだけどなあ」と呟く千雨をしり目に、人影は言葉を続けた。

 

『実は、君にいくつか言い忘れたことがある』

「なに?」

『君の右腕は、私の趣味によって、光線兵器が内蔵されている。いわゆる、レーザー兵器だ』

「――っ、ごめん、あんたの言っていることは分かるけど、凄く分かりたくない」

『“フォトン・レーザー”と言いなさい。口で説明するより、やってみたら分かる』

 

 『さあ』と促される。どうしよう、と千雨は思った。

 いきなりレーザー兵器と言われても、いまいち実感が湧かない。千雨は袖をまくって右腕を確認する。何の変哲もない、見慣れた腕だ。

 注意深く観察しても、青痣があるわけでも、継ぎ目があるわけでもない。何度か擦ってみても感覚は一緒だし、

 抓ったらしっかり痛みが伝わってくる。「あ、でも、処理しようと思っていた産毛が無くなっている」

 正直、人の腕に何を仕込んでいやがるんだ、と思わないまでもなかったが、気にしたところで状況が変わるまでもない。

 こうやって元通りとまではいかなくとも、9割元通りになっているのだから、この際良しとすべきなのだろうか。

 まあ、こいつらの技術力なら私の目を誤魔化せるぐらいの細工は、楽勝だろうな。そう思った千雨は、軽い気持ちで右腕を的へ向けた。

 

「フォトン・レーザー」

 

 瞬間、右肘から先端までが、未来チックな外見の銃口に変形した。全体的な輪郭は、マヨネーズの容器を相手に向けたような見た目のそれ。

 瞬きよりも早く変形した右腕に、千雨はギョッと目を見開いた。

 同時に、閃光が走った。空気を甲高く切り裂く音と共に、レーザーの光が的に直撃、小さな破裂音が千雨の耳に届いたときには、

 的はバーナーで熱したかのようにドロドロに溶けていた。真っ赤に溶解したそれは、はた目からでも熱を持っていることが伝わってくる。

 光が弱くなる。光線が的から千雨の右腕に戻ってくる……というより、正確には右腕の発射口らしき部分から放たれたレーザーが、

 出力不足のせいで、まるでレーザーが右腕に戻ってくるように見えた。

 呆気にとられた千雨が右腕と的を交互に見つめる。発射口内部に光が完全に収まると、

 今度は映像を巻き戻しするかのように発射口が変形し、あっという間に右腕は、見慣れた右腕に戻っていた。

 

「………………」

 

 言葉が出てこない、という状態に見舞われたのは、はたして何度目か。恐る恐る右腕に触れると、

 特に熱を持っているわけでもなく、違和感もない。しっかりいつも通りの感覚が、右腕から伝わってくる。

 ずっしりと肩にのしかかる精神的な疲れに、千雨はメガネを外して目を擦った。

 

『左腕には衝撃波を発生できる“バイブ・ノック”が内蔵されている』

「少し、黙っていてくれないか」

 

 まだあるのかよ、と千雨は毒づいた。

 

 

 

『落ち着いたか?』

「落ち着いているよ。落ち着いているから、これ以上私の平静を奪わないで欲しい」

 

 人影には、人間の常識が通用しない。

 それが分かっているつもりであった千雨だったが、改めて、それはつもりでしかなかったことを思い知った。

 

『それならば、話を続けよう』

 

「まだあるのかよ」今度は口に出た。

 

『君がどうもお気に召していないようなので、右腕と左腕の機能を制限した。これで、両腕に搭載された機能は使用できない』

「え、まじで?」

『気になるのなら、試せばいい』

 

 用意された的へ、右腕を向ける。

 

「フォトン・レーザー」

 

 ……何の変化も起こらない。もし制限されていなかったら、今頃的は融解していただろうが、それがない。

 

「おお、本当に何も起こらない!」

 当たり前のことなのに、千雨は思わず笑みを浮かべた。

 当たり前なことは、当たり前に出来なくなって初めて、当たり前に出来ることの素晴らしさを知ることが出来ると、

 ネットにさまよう誰かの言葉があったが、今、千雨はそれを痛感した。

 

『ふむ。たった今、制限機能を解除した。もう一度、レーザーを使用してほしい』

「え、なんでそんな余計なことを?」

 

 心底意味が分からない。そう顔に書いてある千雨の言葉にも、

 人影は黙って反応を示さなかった。「ああ、もう、分かったよ。やればいいんでしょ、やれば!」

 

「フォトン・レーザー!」

 

 少し、やけくそ気味に叫んだ言葉と共に、閃光が的を貫いた。二度目になる光景を前に、千雨は右腕が元に戻ったのを確認すると、人影へ振り返った。

 

「これで気が済んだ?」

 

 人影が、頷いた。

 

『君に、言っておくべきことがある』

「今度はなに?」

『私は最初から、両腕の機能を制限していない』

「……はい?」

『君は、自分の意志で両腕の機能を制限したということだ』

『全ては想像だ。君の持つイメージが、右腕を光線兵器に変え、左腕を衝撃兵器へ作り変えた』

「……は、あ、え、い、いや、だって、さっき」

 

 舌が上手く回らない。言葉が頭の中を空回りしていく。

 いったい、人影は何を言おうとしている? 何を教えようとしている?

 

『君たち“地球人”は、どうも固定観念というものが非常に強い種族のようだ。

 物理法則という、数ある法則の中の一つでしかない決まり事を、唯一絶対だと思い込んでいる』

『それは、君が持つ想像力を妨げる要因。先ほど私が右腕に内蔵したと言ったのも、私がそうしたと君が知ったなら、

 どんな常識も覆ると認識するだろうと思ったからだ。君たち“地球人”の想像出来ない事象を起こせる我々の技術力を前に、君は否定することをやめた』

『だから、君は右腕がレーザーに変形すると思い込むことが出来た。そこに君が培った固定観念は存在しない。

 枝から外れたリンゴが木から落ちるのが当たり前と思うように、あの瞬間、君は非常識を当たり前だと認識した』

『左腕も同じだ。私が、そうであると言ったから、君は、君の常識ではありえないことを、

 ありえることだと認識し、そうならない可能性を微塵も考えなかった』

『イメージだ。全ては君の想像力だ。君が、そうなると強く、疑いの念を抱かず、そうなると願えば、全てはそうなる。

 両腕の武器だって自由に変えられるし、造形も変えられる。もちろん、肉体全部も自由に変えられるし、性別とて例外ではない。

 リンゴが木から落ちるのが当たり前のように、君の体はイメージの力であらゆることが当たり前になるのだ』

 

 口をはさむ隙間すらない、人影の言葉。「強く願ったことが、現実になる」。ポツリと呟いた言葉に、人影は続けた。

 

『しかし、限界はある。君たち“地球人”の魂に適合できるのが、私たちが今作れる最新の素体の、

 おおよそ285世代前の旧型のものしかなかった。それは、我慢してほしい』

「い、いや、十分だ、というより、過剰なぐらいだよ……」

 

 頭が痛い。あんまりと言えば、あんまりな真相に、千雨は首を振った。地球人からすれば、千雨の両腕の兵器ですら、

 技術者から見れば目を見開いて呆気にとられるぐらいのレベルなのである。それを本人の意思のみで、

 あらゆる形態に姿を変えることが出来ると言ったら、物理学者が泣いてしまってもおかしくない。

 しかも人影は何と言った? 魂が適合できない? ならば、もし仮に適合出来た場合、千雨の体はどんなことになっていたのだろうか。

 何度想像しても、いつぞやの映画で見たSF風味のグロテスクな姿しか思いつかないことに、顔を青ざめた。

 

「ああ、うん、ありがとう。いい感じな体を用意してくれて」

『そう言ってもらえるとありがたい。我々にとって、400万年以上前の技術なので、少し不安だったのだ』

 

 ということは、私たちにとって、こん棒持ってウホウホ言っているような時代の道具を使われたみたいなものか。

 (これで285世代前って、あんたらの技術力って、どのレベルなんだよ)

 なんといえばいいのか、千雨には思いつかなかったが、少なくとも日夜新技術の研究に励んでいる科学者が知れば、

 やる気を失いかねないかもしれないということは思いつけた。

 

「ははは、そうですか……」

『さて、これで説明は終わりだ。細かい部分は、日常生活を営んでいく中で、自然と理解できるようになっていくだろう』

 

 ゆらりと、人影は陽炎のように輪郭を波立たせながら、音もなく立ち上がった。立ち上がったと思ったのは千雨の主観であり、

 客観的に見れば、影が細長くなったようにしか見えない。

 

『君の体を用意するついでに、君の歩んできた人生を見させてもらった。私たちから見れば、あまりに感情の浮き沈みが激しいのだな』

 

 人影の言葉に、いくつも並べられた少女の映像の正体が分かった。

 あれは、幼いころの千雨だ。まだ初潮も迎えていない、世界はテレビの向こうの世界と、母と父と自分の世界と、

 連れられて買い物に行くスーパーマーケットと、友達や祖父母との世界しかないと考えていた、まだメガネが必要でなかった時の長谷川千雨だ。

 瞬間、千雨は首筋から熱が湧き上がってくるのを実感した。鼻の奥がツンと痛む。熱っぽくなっていく頬に手を当てながら、千雨は人影を睨んだ。

 

「――っ!! て、てめえ、プライバシーの侵害だぞ!」

『……? なぜ、羞恥心を感じているのだ? 君たち“地球人”の女性が羞恥心を覚えるような、性的部分の記憶は見ていない』

「小さい頃の私を覗いただろう!」

『覗いた、のではない。見た、だ。君がなぜ怒っているのか、私には理解できない。

 生殖器を見られることが、そこまで恥ずかしい、と思えるのか、逆に興味を覚える』

「せ、生、殖器」

 

 真っ赤に燃える頬が、引き攣る。握りしめたこぶし汗ばみ、震えると同時に、マグマのように煮え滾る怒りが湧いていくる。

 相手は宇宙人。人間の常識など通用しない。

 それは分かっている。それは分かっているのだが、分かっていても、納得出来ないのが、思春期の女子中学生であり、女の子なのである。

 特に、千雨はインターネットでそういった知識を耳には入れているが、面と向かって話題にされるのは嫌という、面倒くさい性質なのだ。

 本当なら相手に張り手の一つや二つ、くれてやりたいが、相手は宇宙人。言うなれば、彼にとって、千雨を辱めるつもりはない。

 ただ、純粋な事実を述べているに過ぎない。

 

『恥ずかしがる必要はない。君の生殖器は、年齢から考えればまだまだ未発達な状態だが、それも個人差の範囲内だ。

 気に病む必要もないし、潤滑油などを使えば、性行為を行うには十分に発達している。

 ただ、子供を産むには、まだ骨盤の広がりが足りないので、産む場合は難産になる可能性が極めて高い。注意しておいた方がいい』

「――っ、余計なお世話だ!!」

 

 しかし、初心な女子中学生には刺激が強すぎる。

 

 

 

『さあ、私はもう行かなければならない』

 

 ようやく怒りが収まったころ、人影はポツリと呟いた。

 

「行っちゃうのかよ?」

『久しぶりに、いい暇つぶしが出来た』

「……そうですか」

『目を瞑りなさい。次に目を開けたとき、君は自室のベッドで起き上がるだろう』

 

 テレビが、部屋の壁に溶け合うように、形を変えていく。水に水が混ざっていくかのように、僅かな波紋を残して、テレビや椅子は姿を消した。

 部屋に残ったのは、千雨と人影だけ。

 

「もしかして、この宇宙船のこととか忘れさせられたりする?」

『そうしてほしいなら、そうするが、それでは非効率だ。何らかの拍子に肉体を変形させてしまったとき、君は混乱するだろう』

「いや、しなくていいよ。聞いただけ」

『それも、映画や小説の話なのか?』

「いや、マンガだよ」

『マンガ?』

「知ってるの?」

『知っている』

「興味深い?」

『とても』

「そうか。また機会があったら、いくつか紹介するよ」

『それはありがたい。次に会えるとしたら、およそ57億年後だ』

「やっぱ今の取り消し」

『そうか』

「……まあ、色々ありがとう」

『“どういたしまして”』

「……さようなら」

『“さようなら”』

 

 影が伸びる。それがゆっくり向かってきているのを、千雨は目を瞑って待ち続けた。

 

 

 

 目が覚めた。アナログ時計の秒針が、規則正しく針を進めている。体に馴染んだ二段ベッドの感触に、千雨はほう、と息を吐いた。

 室内は薄暗い。耳に届く、ハードディスクの動作音に目を向ければ、ディスプレイに表示されたスクリーンセイバーが、淡い光を放っていた。

「そういえば、寝坊して電源切るの、忘れたんだった」。見れば、閉められたカーテンの隙間からは、日の光が漏れ出る様子はない。

 少なくとも、朝ではないことは確かだ。

 体を起こして、下段のベッドを覗きこむ。人影がどういう手段でここに寝かせたのかは分からないが、同室のクラスメイトに見られていたら面倒だ。

あんまり自室に帰ってこないので、実質一人部屋みたいになっているが、時折思い出したように部屋に帰ってくるので、確認しないわけにはいかない。

 視線の先には、昨日と同じように、綺麗に整理整頓された布団と枕が置かれていた。「……よし、今日もいないな」。

 一度寝てから外出している可能性もあったが、彼女が使用していたなら、もっと乱雑になっていただろう。

 なにせ、同室のクラスメイトはお世辞にも、片付けというのが得意ではないからだ。

 安心した千雨は、脱力して布団の中に倒れた。はあ、とため息を吐いてから、手を挙げて、頭上に置かれた電子時計を手に取った。

 時刻は3時41分。いつも起きる時間まで、まだ4時間もある。

 布団の中の空気を入れ替える。入れ替わらない気持ちの変わりだが、心地よい程度に冷えた夜の空気が、

 体温によって少しずつ温まっていくのは、何とも言えない快感だ。

 

「……やっぱ、夢、じゃないよな」

 

 心の平穏から考えれば、夢であってほしい。

 心からそう思うのだが、頭の中の冷静な部分が、いましがたの体験は、決して夢なんかではないということを、強く認識させた。

 

「ああ、今日は本当に厄……ん?」

 

 ふと、耳に届いたのは、不快な羽音。一度耳にこびりついたら最後、気になって眠れなくなってしまう、あれ。

 季節はまだ春。数が少ないとはいえ、いないわけではなかったようだ。

 窓を開けるか悩んだが、やめた。面倒だし、下手すれば二匹目、三匹目の蚊が入ってくるかも分からない。

 殺虫剤を使おうにも、どこに買い置きしていたか覚えていないし、布団から出て探すのは億劫だ。

 

「……フォトン・レーザー」

 

 布団から右腕を出して、イメージするのは、限りなく出力を抑えた、虫しか殺さない追尾レーザー。

 どこを飛んでいるかは分からないが、とりあえず飛んでいる虫に当たるよう、強くイメージする。

 千雨の意志に従い、瞬く間に変形した右腕が、光線銃へと姿を変える。

 瞬時に放たれたレーザーは、空気を貫き、4つの閃光となって、暗闇の中を泳ぐ蚊を塵へと変えた。

 

「……まあ、とりあえず、夏には便利だな、これ」

 

 あとは、ゴキブリが現れたときくらいかな。そう呟きつつ、千雨は布団の中へ潜り込んだ。

 

 

 

 

 

1分後、ベッドから降りて、寝間着へと着替える千雨の姿があった。

 

「ああ、もう。ついでにパジャマにでも着替えさせておいてくれよ」

 

 制服をハンガーに掛けつつ、千雨は、はるか宇宙のかなたへ行った宇宙人に文句を言った。

 

 

 

 

 

 

 


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