チェンジ、メタリック千雨!   作:葛城

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長くなってしまった


修学旅行は波乱万丈!? 前篇

「みなさん、これはいったい!?」

 

 ネギの悲鳴が室内に響き渡る。耳を塞いでいても聞こえるぐらいに大きいにも関わらず、返事は一言も無かった。それが、今を異常な事態であるということを、明確に物語っていた。

 畳が敷き詰められた和式の部屋には、幾人もの人影があった。立ち込めた白煙によって、実体は見えない。ゆらり、ゆらり、ときおり思い出したようにわずかに輪郭が浮かんでいる。

 ある種幻想的で、ある種恐怖心を誘うその光景。外国育ちのネギにとって、本来は手を叩いて拍手をしていたぐらい、素晴らしいものであっただろう。

 だが、今のネギにはそれを行う余裕は無かった。それどころか、立ち込めた白煙を憎々しげに見つめると、右手に握りしめていた杖をまっすぐ前に構える。

 一見して、白煙はただの煙のように見える。だが、その実、煙は自然発生的に生み出されたモノでもなければ、発煙筒などの人工的なモノによる煙でもない。

 ネギのような魔法使いにしか使えない、魔力を帯びた煙。それが、この煙の正体。そのことを一目で見破ったネギは、すぐさま行動に移った。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル……」

 

 小さなネギの唇から、静かな詠唱が紡がれる。唱えるは、魔法を行使するためのアクセスキー。その身の内に湧き出る魔力を、力として行使するための呪文。

 

「吹け、『風花・風塵乱舞』!」

 

 ネギの意思に従い、ネギの力となって、ネギの魔法は発動した。突き出されたネギの掌から、暴風とも言うべき風が、濁流となって室内に吹き荒れる。

 その威力は凄まじい。広いと言っていい室内に立ち込めていた煙を、すべて室外に押し流すにとどまらない。残っていた魔力の残照すら吹き飛ばしたが、不幸にも、その風は、ネギの目に室内の惨状をしっかり伝えてしまった。

 

「――っ!?」

 

 言葉が出なかった。ネギの目の前にあったのは、先ほどまで自分たちに給仕してくれた人たちの、なれの果てであった。表情を恐怖に塗り固め、生きたまま石像になった姿。一言で言えば、まさにそれ。

 誰もが恐怖に慄き、我先に逃げ出そうと身を翻した瞬間の姿で、彼ら彼女らは石像となっていた。中には歳若い子供を抱いている女の石像もいる。精一杯子供を守ろうとしたのだろう。頬に涙の痕を浮かべた少女の石像を抱きしめた女の像には、悲壮感と共に固い決意が刻まれていた。ただただ襲い掛かる脅威から子供を守ろうとする、大人の意思が、そこにはあった。

 そっと震える指先を、恐怖に腰を抜かしている石像の口元に当てる。想像していた通り、息をしていない。一瞬、死んでいる可能性を疑ったが、ネギはすぐに考えを改めた。ネギにとって、これを見るのは初めてではないからだ。

 その初めてではない事実に、ネギの心は細切れになる。あのとき、ネギは何もできなかった。ただ、怯えて、逃げることしか出来なかった……いや、実際は、それすらも。

 強くなったはずだった。多少なりとも、あのときよりは強くなったつもりであった。あのときよりも体が大きくなった。頭だって良くなったし、あの頃よりも多くの魔法が使えるようになった……なったのに。

 我知らず握りしめた掌に、ぐぐぐと爪が食い込む。鈍痛が伝わって来るのも構わず、ネギは無力感にも似た怒りに、歯を食いしばった。

 守ると決めたのだ。強くなると、あの日誓ったのだ。あらゆる災厄に負けないために、あらゆる怨敵に打ち勝つために、そして、目指すべきあの人に追いつく為、自分はここまで来たのだ。

 やつらが襲ってきた、あの惨劇の日に、ネギは決意したのだ。襲いかかって来るやつらから逃げて、助けられ、そして今もなお、苦しんでいる大切な人たちを助ける為に……!

 フワッと、部屋の隅に溜まっていた白煙が揺らぐ。何気なくそこに目をやったネギの口から、「ぁぁ……」、と絶望に満ちたため息が零れた。

 静かに、ネギの身体が、そこへ向かう。その姿はあまりに頼りなく、右に左にぶれている様は、まるで夢遊病のように心が見当たらない。

 とす、とす、とす。静かに、ゆっくりと、他者から見れば苛立ちすら覚えてしまうぐらいに、そこへ足を進める。

 

 ……音も無く、一体の少女の石像を前に、ネギの足が止まる。恐る恐る、ネギの指先が、石像の頬に触れる。

 冷たい。石像から伝わってくる無機質な感触と冷たさに、ネギの指は驚いたように距離を開けて……今度は掌で包み込むように頬を抱いた。掌から奪われていく体温に、ネギの心は、張り裂けそうにねじり曲がる。

 

「また、またこれが起こったというの?」

 

 誰に聞かせるわけでもない、独り言。そんなネギの呟きをかき消すように、ネギが障子を開けたままの廊下から、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。

 

「ネギ! あんた大丈夫!?」

「ネギ先生、木乃香ちゃん、大丈夫え!?」

 

 足音の正体は、明日菜と刹那であった。よほど急いできたのだろう。パンツが見えるのを構わず駆け足で室内に飛び込むと、室内の惨状に息を呑んだ。その背後で、「明日菜、は、早すぎ……」と、消え入るような呼び止めがあったが、明日菜は気づいていない。

 

「ネギ……これは?」

 

 乱れた呼吸をそのままに、額に浮かんだ汗を拭うと、石像の頬を撫でているネギに声を掛け……絶句した。それは刹那も同様で、明日菜の背後で、ようやく室内にたどり着いた和美も、同じく息を呑んだ。息も絶え絶えに呼吸を整えていたのにもかかわらず。

 

「……明日菜さん、僕、守れませんでした」

 

 何を、とは言えなかった。言うまでも無かった。ネギが撫でている石像の正体を知った明日菜に、それを改めて尋ねる程馬鹿ではなかったし、無神経ではなかった。

 なにより、ネギが言わんとしていることは、明日菜とて同じだった。否、ある意味、ネギよりも共に過ごした時間の長い彼女の方が、より鮮明に、より深くそれを感じていた。

 

「……千雨、ちゃん」

 

 目を見開き、驚愕に唇を震わせている明日菜の口から、石像の名前が零れたのは、和美が膝をついて座り込んだ直後であった。

 

 

 ――――――――――――――――――――――――

 

 

 あの、麻帆良大橋の騒動から、しばらくの時間が流れた。

 エヴァが去った後、とにかく、千雨は考えた。情報を整理した。そこで千雨が導き出した、平和な日常生活を営む上でも必要なこと……それは、彼女たちを監視することであった。

 もちろん、それを考えた千雨自身、その考えに心から賛同したわけではなかった。それどころか、そのようなことを考え、実行しようと考えてしまう己を心から恥じた。軽蔑した。思いつく限りの言葉で、己を責め立てた。

 自身の日常を守る為とか、命を守る為とか、どんな理由を並び立てようとも、やっていることは犯罪以外の何ものでもなく、言ってしまえば盗撮でしかない。それも、相手のプライバシーをこれでもかと侵害する、最悪のやり方である。

 そのことについて、千雨自身、監視を行う以前から強い葛藤に苛まれ、行っている最中も罪悪感に苛まれてしまい、せっかく平静を取り戻しかけていた千雨の精神は、またもや嵐の中の葉っぱも同然となった。

 ……その監視は当然のことながら、学園長たちに対しても行っていた。それは学園長たちの信頼を裏切っているも同然であるという事実に、千雨は目を反らし続けた。

 そのせいだろう。当初の千雨は、学園長の顔を見るたびにトイレに駆け込み、ありったけの罪悪感を便器にぶちまける日常を送った。それでも、そうなっても、自身が惜しいと第一に考えてしまう千雨は、押しつぶされそうな心の痛みから目を反らした。そして、ようやく千雨なりに大丈夫だと思ったとき、学園長らに対しての監視を解いた。

 ……あの日から何度かタカミチ先生と学園長の姿を見たが、一度として千雨を特別視はしなかった。学園長らは、千雨のことを思って、あくまであのときのことを無かったことにしてくれていたのだ(後日、そのことに気づいた千雨は、のた打ち回る程の罪悪感に不眠症を患ってしまうのだが、それは別の話)

 ……ならば、ネギたちも監視しなくてもいいのではないだろうか。学園長らの監視を解いた千雨は考えたが、しばらくして考えを改めた。

 相手は千雨の想像の斜め上を行く(千雨主観による)能天気だ。今のところ、千雨の方から自分のことは口外しないで(図書館島騒動の件)ほしいと口止めをしているが、あいつらのことだ。何かの拍子に、口を滑らしかねない。

 ある意味、学園長たちとは比べ物にならないぐらいの警戒が必要であるだろうと、千雨は結論付けていた。

 けれども。

 だからといって。

 千雨の気も知らず、笑顔を向けてくれるネギたちの姿に、千雨は何度も『やめろ、私に笑顔を向けるな!』、と口走ってしまいそうになったのも、一度や二度ではない。

 放課後、ネギたちから逃げるように自室に戻っても、当然、いつものようにネットをする気にはなれず……吐き気すら催してしまう程の自身への怒りと嫌悪感に、頭を掻き毟ったのは一度や二度ではない。

 あまりに強く掻き毟ったことで、両手の指を血だらけにしてしまった(治れ、と念じたら、治った。つくづく千雨の身体はデタラメである)ことを、クラスメイトが知ることは決してないだろう。

 そして、エヴァは……とりあえず、千雨の方からは何もしなかった。というより、何も出来なかった、というのが正しい……いや、正確に言えば、一度だけスパイ粒子を使用したことがある。

 それは、何もエヴァたちが千雨の正体に気づいたから、とか、そういう話ではない。既に何度も実感していることだが、千雨の肉体は地球の科学力を鼻で笑ってしまう程の、はるか彼方に存在するハイパースペックボディ。

 たとえ24時間体制で監視をされたとしても、千雨が能力を使用しなければ、決してバレることはないのだが……千雨に、それを知る術は無かった。

 とはいえ、元々の根元が心配性な千雨である。例えバレないと分かっていたとしても、千雨は遅かれ早かれ、そうせずにはいられなかっただろう。

 では、なぜスパイ粒子を使ったのだろうか、だ。一言で言えば、エヴァたちに非常に親切にされたから、である。

 ……最初にエヴァに声を掛けられたとき、千雨は恥ずかしくも、涙を流しそうになった。なにせ、あの騒動の三日後である。千雨の主観から言えば、ついに見つかった!? と勘繰っても仕方がないだろう。

 

「おい、長谷川千雨」

 

 それが、掛けられたときの言葉。恐る恐る、千雨がエヴァの方へ振り返った後に掛けられた言葉は、「なにやら思い悩んだ顔をしているが、大丈夫なのか? お前らぐらいの年頃は些細なことで体調を崩すから、気を付けるべきだぞ」という、千雨を労わる言葉であった。

 その瞬間の、千雨の内心を語れる人物は、誰も存在しないだろう。なぜならば、それは千雨自身、良く分かっていなかったのだから。

 痛みすら感じてしまいそうなぐらいに高鳴っている心臓が、激しく千雨を急き立てる。千雨はなんとか涙を見せないようにそっぽを向いて、「大丈夫だ、問題ない」とだけ答えることしか出来なかった。

 そう答えた千雨の姿は、はた目にも大丈夫には見えなかっただろう。なにせ、声は震えていたし、角度によっては、目じりに涙が浮かんでいるのが見えていたのだから。

 もちろん、数百年の時を生き長らえたエヴァに、それが分からない(千雨は誤魔化せたと思っているが)はずはない。

 はずはないのだが、エヴァは何も言わなかった。千雨が何かに思い悩んでいることを悟ったのだが、それを知られたくないという千雨の意志をくんだのである。

 なので、エヴァは、「そうか。これでも飲んで、元気を出せ」とだけしか言わなかった。驚きに目を見開く(その目が涙で潤んでいることなど、当然エヴァは把握している)千雨の手にジュースのペットボトルを手渡して、その場を後にしたのだった。

 ……後に残された千雨が我に返ったとき、手渡されたジュースをどうするか、しばらく悩んだ。どこからどう見ても、それはタダのジュースで、封すら開いていなかった。

 道中、捨てるわけにもいかなかった千雨は、それを自室に持ち帰ることにした。

 

 何か薬が入っている? 

 それとも何かの暗喩? 

 あるいはもっと、別の何か……答えは、分からない。

 

 ……その答えを知る為に、千雨は何度も心の中で頭を下げながら、『広範囲観測粒子』を発動し、スパイ粒子を使用した。

 発射した瞬間に感じる、現実時間と体感時間の、僅かなタイムラグ。送られてくる映像を処理し、エヴァたちの様子を盗み見たとき……千雨は翌日、学校を休んだ。そして、一日かけて、ゆっくりとエヴァから貰ったジュースを飲み干した。

 そのようにして、激動と言っていい千雨の精神状態が落ち着きを見せ始めたのは、修学旅行の行き先が決まった日

『せっかくの修学旅行、この日は勉学を一旦忘れて、たくさんの思い出を作ろう!』

 そう、楽しそうに笑うクラスメイトの姿を見たのが、平静への切っ掛けであったのは、千雨だけしか知らない。

 クラスメイトは知らないだろうが、その言葉のおかげで、千雨はようやく気持ちの切り替えが出来たのである。前日の夜、千雨は久しぶりに、悪夢以外の夢を見た。

 

 

 

 

 翌朝、カーテンの隙間から差し込んでくる日差しを前に、千雨は固く瞑っていた瞼を開いた。見慣れた天井が、朝日によって薄暗く照らされている。体を起こして、時間を確認する。いつもよりも、はるかに早い時刻であった。

 ……ほう、と千雨の唇からため息が零れる。精神状態は、どう贔屓目に見ても良い状態ではない。だが、それでも肉体の方は相も変わらない絶好調に、千雨は思わず足を抓った。

 覚悟を決めよう。そう、千雨は頷いた。

 

 自分は、もう、関わってしまったのだ。

 自分は、もう、関わる道を選んだのだ。

 自分は、もう、知らないフリは出来ないのだ。

 自分は、もう、見て見ぬフリは、出来そうにないのだ。

 

 そこまで自答した時点で、千雨は苦笑した。あれほどかかわりを持たないと決めていたのに、たった一日でこの様だ。こんなに意志の弱い人間であったのかと、千雨はふと頭を振る。その直後、考えるまでも無い、と千雨は納得した。

 意志が強かったら、どうして自分はこんなに迷っているのか。どうしてこんなに苦しんでいるのか。どうしてこんなに……あいつらのことを考えているのか。

 そっと、二段ベッドから降りて、カーテンを開ける。ふりかえってベッドを見ると、いつもと同じように、綺麗に布団が畳まれて置かれていた。昨夜も同居人は帰った様子はなさそうであった。

 ……こんなとき、同居人が居たら、相談出来たのだろうか。ふと、千雨の脳裏に考えが過る。

 けれども、すぐに千雨は頭を振って否定した。どのみち同居人が居たところで、黙っていたはずだ。この期に及んで、もしもを考えても意味は無い。

 視線を下ろして、両手を見つめる。いつもと変わらない、見慣れた両手。指紋の一つ一つが、くっきり見える。これが、千雨の意志一つで、銃口にも、盾にも変わるなど、誰が想像しようか。

 まるで麻薬だな。千雨はそう例えた。麻薬のように、千雨の意識をそれから外してくれない。事あるごとに、それを使えばいい。それを使えば、面倒ではなくなる。そう考えてしまうこの力を、麻薬以外の何に例えたら合うだろうかと、千雨は思った。

 ならば、使ってやろうじゃないか。そうだ、使ってやるさ。今まで何度も使って来たんだ。今更良い子ぶったところで、自分はもう、そうなってしまったんだ。

 

「せっかく手に入れた力なんだ……せいぜい、有意義に使ってやるさ」

(どうせ、ロボットや魔法使いがいるんだ。私みたいなやつが1人いたとしても、大した違いはないさ)

 

 そう、心に言い訳を一つ。能力を使用する基準は、全て私の心持一つ。

 全ての責任は、私が負うのだ。負わなければ、ならないのだ。

 誰にも話すことはない。話せるわけがない。この秘密を抱えて、一生を生きて行くのだ。どれだけ己にとって不本意なことを知っても、決してそれを表に出さず、知らないフリを通さなければならないのだ。

 そう結論付けた千雨は、目を瞑って、己の頬を強く叩いた。

 ぱちん、と室内に響く。頬に感じる痛みに、千雨はひとつ、頷いた。体が、軽くなったような気がした……いつもの自分に戻れそうだと、千雨は思った。

 千雨は意識を集中させる。千雨の意志に従った千雨の肉体は、実にスムーズに『広範囲観測粒子』を発動させた。千雨を中心に、凄まじい勢いでスパイ粒子が広がっていく。あっという間に学園中に広がったそれは、千雨の脳へと夥しい情報を送り込んでくる。

 常人ならば一瞬で発狂してしまう程の情報を、千雨は慣れた様子で瞬く間に処理をしていく……その過程で、ふと、千雨はあることに気づき、首を傾げた。

 

「おかしい……なんか、いつもと少し違う」

 

 静かな湖に浮かぶ、僅かな波紋のような違和感。最初、千雨はそれが何なのか検討も付かなかった。

 けれども、よく、よく、よく、ゆっくりと思考を回転させて……千雨は違和感の正体に気づいた。

 その瞬間、千雨は思わず腹を抱えて蹲った。肩がびくつき、横隔膜がひくひくと痙攣する。歪に歪んだ表情は異形そのもので、唇からは、ひっ、ひっ、ひっ、と引き攣る様な呻き声しか出てこない。呼吸がまるで出来なかったが、それでも苦しさを覚えないことが、さらに千雨の状態を悪化させた。

 別段、吐き気を催したわけではない。それは、千雨の顔を見れば、すぐに誰もが理解出来ることであった。そこに浮かんだものは、苦悶にも似た笑顔であった。千雨は、ただ、可笑しかったのだ。

 ……しばらくの間。千雨(と、もう一人の)の自室に千雨の笑い声が響いた。ようやく波が過ぎ去って、千雨が立ち上がったときには、彼女の目じりにうっすらと涙の痕が浮かんでいた。

 どうしようもない、アホだな。わたしは。

 目じりの涙を拭いながら、千雨は笑顔を浮かべた。

 

(だって、そうだろ。覚悟を決めた途端、知られて欲しくないであろう情報にだけ、フィルターを掛けることが出来るようになったんだ。こんなアホな話、笑わないでいられるか)

 

 情報そのものは、確かに送られてきている。千雨自身、確かにその情報が送られてきたということだけは分かっていた。だが、変わったのはその後。

 思い出せないのだ……その情報のことを。逆の立場であったなら、まず知られて欲しくないであろう……トイレや入浴中の姿。それらの光景が、どう頑張っても脳裏に映像を出すことが出来なくなっているのだ。

 フィルターが掛けられていることは、すぐに気づいた。潜在意識が、『それらの映像を、見てはいけないもの、知ってはいけないもの』として分類したのだろう。千雨は、そう結論付ける。

 何のことは無い。何のことは無いのだ。今まで、散々プライバシーやら何やらほざいていたが……結局、心のどこかで考えていたのだ。他人の秘密を覗き見たい、と。

 心の奥底で喜んでいたのだ。見たくない、見たくないと考えていたのは表面的な部分で……本心では、そうだったのだ。そう、望んでいたのだ。

 

「ほんとう、バカだよな……」

 

 送られてくる映像を見つめる。そこに映った……クラスメイトの寝顔を前に、千雨はため息を吐く。傾けた意識を霧散させ、観測粒子を解除する。瞬く間に姿を消していく粒子を、千雨は知覚していた。

 

(バカだと思っていたあいつらの方が、よっぽど賢いじゃないか。だって、あいつらはわたしのような遠回りなんかしないんだから)

「……でも、先生。厄介事は勘弁だぞ。わたしは、わたしのことで手一杯だからな。私が負った責任分のお返しはするつもりだけど、それ以上は勘弁だぞ、本当に」

 

 まあ、それと、これは別の話だし。自分の身の安全を確保するのは、当然の権利だよな。

 結局、最後にそう考えてしまうあたりが、千雨らしい……といえば、千雨らしいのかもしれない。

 それから数時間後の女子中等部学園寮。その入口を出発したときの千雨の顔には、笑顔が浮かんでいた。すっかりいつもの調子を取り戻した千雨の、その笑顔の意味を知る者は、誰もいなかった。

 

 

 

 JR大宮駅。通勤に向かうスーツ姿の人たちやら私服の人たちやらが早足で改札口を出入りしている中、集合時間となる9:00になると、ホームの一角は騒がしさと慌ただしさでごった返しになっていた。

 『麻帆良学園女子中等部京都行ご一行』と書かれたプラカードを持つ教師たちの間を、一人の小さな影が通り過ぎる。子供用に特注したスーツに身を包み、背中に背丈よりも大きい杖を背負ったネギ・スプリングフィールドは、ひらひらと『3-A』と書かれた旗を振った

 

「おはようございまーす!! みなさん、今日は待ちに待った修学旅行ですよー!!」

 

 がやがやと制服を身にまとった学生たちに、元気な挨拶が響いた。それに呼応するように、旗を持つ少年に3-Aの生徒たちはいっせいに声を張り上げた。

 

「「「「おはようございまーす、ネギせんせーーい!!!」」」」

 

 うわぁ、ウゼェ。

 ネギ以上に元気に返事をするクラスメイトを見て、千雨はそう思った。これから、このクラスメイトと共に行動することを思うと、ため息が零れそうだ。同じ班のクラスメイトが比較的常識人(あくまで比較的である。千雨の基準から言えば、それでもギリギリだ)なのが唯一の救い……か。

 言葉にはしなかったが、そんな千雨の思いが、引き攣った頬や、そっぽを向いた顔などの態度に出ていた。それを誰かに見られなかったのは、幸運であった。

 

(まったく、勘弁してくれよ……ん?)

 

 ……ふと、そっぽを向いた先。何気なく目をやった先にいた男性が、露骨にこちらへ視線を向けていることに、千雨の注意が引かれた。気になって男性を見つめていると、男性は何度かクラスメイトの間を何度か見回していた。

 男性の恰好は、別段おかしいものではないし、不信感を煽るものでもない。パーカー姿の、どこにでもいそうな普通の男性であった。

 

(……?)

 

 男性の視線を追うと、向かう先はテンションを著しく上昇させているクラスメイトの後ろ姿。今にでも飛び跳ねそうなテンションの高さだ。

 何やら違和感を覚えた千雨は、自然を装って周囲に視線をやる。『スパイ粒子』を周囲に散布すれば一発で原因が分かるのだが、多用はしないと昨日決めたばかりなので、まだ使わない。

 ……1、2、3、4……4人か。一人か二人、微妙な男もいたが、確実にこちら(正確に言えば、女子たち)を見つめ続けている男性が、それだけいた。

 そして、人数が分かったころ、男性たちの視線の意味も、薄々分かった。一言で言えば、パンツである。

 

(……お前ら、修学旅行だからって、テンション上げすぎだろ、おい)

 

 ……気が乗らない。本来なら、こんなことで能力を使うのはどうかと思うが、だからといって、下手にクラスメイトに伝えて騒動を起こせば、せっかくの旅行に水を差すだろう。なにせ、一部は加減というものをまるで分かっていないのだから。

 さて、どうしようか。千雨は首を傾げた。悲しいことに千雨は、能力を使わない状態だと、身体能力の面では一般女子とほぼ同等だ。

 麻帆良にて時折見かける、正拳突きで人一人を数メートル吹っ飛ばすような力も無ければ、論文をいくつも発表する天才的な頭脳も無い。どこにでもいる、根暗な少女でしかないのである。

 

(やっぱ、やるしかないのか……なあ)

 

 少し、憂鬱になる。既に能力を使うことに対して抵抗感は無くなったが、まさかこんなしょうもないことでスタートするとは思ってもみなかった。

 だが、パンツを撮られるのはもっと嫌なのも当然であり、それとなく教えて場の空気を悪くするのも……気のまわし過ぎかもしれないが……はあ。

 そう判断した千雨は、『観測粒子』を発動。チラリと、千雨はあたりへスパイ粒子を散布した。

『観測粒子』と名付けているが、特に深い意味は無い。『広範囲観測粒子』の範囲をグッと縮めただけのものである。

 比較的使用した回数が多かったおかげだろうか。あまり意識せずとも使用することが出来るようになっていることに、改めて気づく。送られてくる情報選択もスムーズになり、ほぼ無意識で処理できるようにもなった。

 それが幸か不幸か、千雨には判断しにくい。とりあえず、一部の不届きな視線(総じて邪な目線である)がこちらへ向いているのを把握できるあたり、まだ幸福……とは言い難いが、対処できる分はマシなのかもしれない。

 意識を、スパイ粒子に傾ける。命令を受けた粒子の一部が、造形を変えて、瞬く間に邪なる者の傍に集まっていく。教師陣はもちろんのこと、魔法使いであるネギも、それらの動きに気づいた様子は無い。

 さすがの彼らも、極小サイズの粒子を視認することは不可能ということか。粒子は音も無く邪なやつらの眼球に付着すると……耳ではとらえられない程の小さな振動と共に、作動した。

 

 痛っ! いて! うわ! うっ!

 

 途端、女子生徒の周囲に居た男たちの何人かが、目を押さえた。しかし、誰も彼も、それらの男たちに目をやる様子はなく、件の男たちも、鬱陶しげに目じりを擦っていた。彼らの目元は、皆一様に涙で濡れて、わずかに充血していた。

 

(どうやら、上手くいったみたいだな)

 

 狙い通りに上手くいったのをスパイ粒子越しに確認した千雨は、ほう、とため息を吐いた。見れば、男たちは例外なく目じりを擦っており、一部擦るのを止めた男も、痒そうに目じりを揉んでいた。

 スパイ粒子を自由自在に操れるようになったのを切っ掛けに会得した、新機能。盗撮野郎対策の『催涙ビット』は、千雨の想像以上に効力を発揮したようだ。

 これは、スパイ粒子を元に改良したもので、停電前から密かに開発していた能力である。対象の眼球の粘膜に付着し、意志に従って一斉に振動するというものだ。振動するといっても、極微力であり、対象者はせいぜい強い目の痒みや軽い目の痛みを感じる程度。

 言うなれば、目にゴミが入ったのと同じ感覚を味わわせるというものだ。しかも、眼球そのものには全くダメージは無く、催涙スプレーよりもよほど安全に対象の行動を阻害出来る、画期的な能力なのである。あんまり使う機会が無かったので使用しなかったが、これからはちょくちょく使うことになるかもしれない。

 

(これでちょっとは懲りただろ……というか、お前ら、ちょっとはテンションを下げろよ。位置によっては、普通にパンツ見えるぞ、お前)

 

 クラスメイトに視線を戻した千雨は、今度は先ほどとは別の理由でため息を吐いた。人がせっかく乙女の純情を守ってやったというのに、気楽なものである。スパイ粒子の散布を中止しながら、また別の理由でため息を吐く。

 ……ため息も出るだろう。生徒の中に、真剣を帯刀している女子がいるのが分かったのだから。それがクラスメイトの一人と言うのだから、千雨へと掛かる(個人的な)心労は大きい。とはいっても、そう思っているのは千雨の勝手だが。

 先ほど、スパイ粒子から送られてきた映像には、クラスメイトである桜咲刹那の後ろ姿があった。決して刹那に視線を向けないように映像を確認(基本的に、スパイ粒子の散布を中止しても、送られてきた映像を脳内へ保存できるのである)すると、どうも刹那はクラスメイトである近衛木乃香に注意を払っていることが分かった。

 桜咲と言えば、と、千雨は停電時のことを思い出す。あの時、スパイ粒子から送られてくる映像の中に、異形の化け物と戦う教師陣の姿があった。

 その教師陣の中に、桜咲の姿があったような……アメリカンコミック並みのスーパーアクションを披露し、刀を振り回して縦横無尽の活躍をしていたような……。

 

(知らなかったことにしよう。うん、そうしよう)

 

 ぶるりと背が震えるのは、寒気のせいか。千雨には判断が付かなかったが、とりあえずネギ先生に報告するようなことはしなかった。下手に教えたら、どう突っ走るか分かったものでは無いからだ。

 それは、幼さ特有の、何の気構えも無く危険に足を踏み入れる(ネギ本人にはそのつもりがないのだろうけど)無鉄砲さと危うさを案じていたのもそうだが、なによりネギのスーツ内側の胸ポケットに仕舞ってある、『親書』の存在が理由であった。

 

(……親書って、なんだよ。関西呪術協会って、なんだよ。もうやめてくれよ、ファンタジーは……そういうのは二次元で十分なんだよ……)

 

 いくら何でも、好き好んで厄介事を背負いたいとは思わない。さすがに、そこまで責任を負うつもりは、千雨には毛頭ないのだ。

 もしかして。千雨は唇を噛み締める。

 今朝方習得した、この脳内フィルターは、あくまで己の羞恥心が基準になっているのかもしれない。そう、千雨は考える。でなければ、色々説明が付かない。

 現に、たったいま散布した粒子から送られてくる、クラスメイトの秘部に関する部分は、フィルターが掛けられていて確認することは出来ない(ただし、送られてきていることだけは分かっている)が、それ以外の部分はしっかり映像で確認出来たのだ。

 千雨の常識の範囲内においての、乙女のプライバシーや、男のプライバシーはフィルターによって自動的に守られるが、それから外れると、途端に素通りしてしまうということか(千雨の常識では、少なくとも武器を持って旅行に出かけるやつはいない)

 そのおかげで、クラスメイトの数人が何かしらの武器を保有しているのが分かってしまった……ことに、千雨はくらりと眩暈を覚える。

『観測粒子』など使うべきではなかったかもしれない。それを身に染みて痛感してしまった千雨は、先ほどの男性たちに目をやった。

 目頭を押さえている男性たちを見て「少し、やり過ぎかな」とも思ったが、スパイ粒子を介して得た情報を知った後には、そんな罪悪感も無くなった。

とりあえず千雨は八つ当たりも兼ねて、まともに目が開けられない程度の『催涙ビット』を男性たちにふるまってやった。

 

 

 

 ついに、出発の時刻が差し迫ってきた。メガネの位置を合わせながら、千雨はポケットから音楽プレイヤーを取り出す。手慣れた動作で絡まったイヤホンを解き始める。

 

(……けど、まあ)

 

 千雨は、すん、と鼻を鳴らした。

(あの二人には悪いことだけど、とりあえず心配事が一つ無くなって、よかった)

 先ほどの点呼確認にて分かったことだが、どうやら今回の修学旅行では、エヴァと茶々丸の両名は不参加であるらしい。

 理由は分からない。ただ休むとだけ、同じ班の桜咲刹那と、ザジ(千雨のルームメイトである。どこで荷物を用意したのか、しっかり準備を整えていた)に茶々丸経由で伝えてきたらしい。

 とりあえず、目下の悩みは一時お預け……かな、と、千雨は胸を撫で下ろす。直後、エヴァから貰ったジュースの件を思い出し、今度は胸の痛みに胸を押さえる。

 

(……まあ、お土産ぐらいは、あっても不思議じゃないよな。うん、クラスメイトだし……)

「せんせーい! 早く行こうよ!」

 

 ネギよりも大きな、それでいて姦しい声がホームに響き渡る。ネギの隣にいた、指導教員のしずな先生は、「みなさん、ここは学園ではありませんので、声は落としてくださいね」、と注意を述べた。

 見れば、通り過ぎていく大多数の通行人は微笑ましげに見ているが、一部の人たちは不機嫌に目じりを釣り上げている。当然だ、ここは学校ではない、公共の場である。

 それを悟ったネギは、慌てて声を落とした……それでもまだ大きかったが、先ほどよりは幾分落ち着いた様子で、「それでは、これから新幹線に乗車しますので、3-Aの皆さまは僕に続いて1班から順番に進んでください」と指示をした。

 それに合わせて、女子中学生の群れがぞろぞろと歩き出す。姦しい集団は、改札口脇に開けられた通路を通って、プラットホームへと進んでいく。「ねえねえ、お菓子何持ってきた?」「やばい、緊張して眠れなかった」

「どうしよう、トイレ行きたくなっちゃった」等、騒がしい集団が列を成していく。

 3-Aの3班に所属する千雨も、同じく3班の班長を務める(教師陣に連絡等を行い、また、所属する班に欠員が居ないかを確認する人。たいていは嫌がられるのだが、不思議なことに、3-Aでは真っ先に埋まる役割である)雪広あやかの指示に従って、列についていく。

 イヤホンを耳に当てて、お気に入りの曲を一番に選曲する。この日の為に、プレイヤーには容量の許す限りの音楽と、充電用の外部装置と電池を用意してあるおかげで、とりあえず今日一日は電池を気にしなくてよさそうだ。ホテルに着けば、充電はできるだろう。

 もちろん、荷物の中には持ち運び用のノートパソコン一式が入っており、こちらも充電用のアダプタは搭載済み。とりあえず、電車の中では仮眠するので、明日までは十分持ちそうである。

 

(しかし、京都か……観光するのはいいけど、もう少し静かにやりたいもんだ)

 

 イヤホンから曲が流れ始める。何やら浮き足立っているネギの後ろ姿を、遠目で確認する。外国人にとって、京都は素晴らしい観光スポットらしいのだが、どうやらそれはネギも例外ではないらしい。

 まあ、相手はガキなんだし、こちらに迷惑が来なければ、好きに楽しんでくれよ。

 そう思いつつ、前を歩く那波千鶴に続いて乗車する。「へえ」と、千雨の口からため息が零れる。新幹線というものに初めて乗車するが、思っていたよりも車内は綺麗だ。入口すぐに設置された自販機を見て、違いを改めて確認する。

 空気も、千雨が普段利用している電車とは少し違う。どことなく、整然とした車内の雰囲気に、千雨は我知らず唾を飲み込んだ。

 とくん、とくん、と心臓が鳴る。どことなく落ち着かない、浮き足立つ自分に違和感を覚えるが、これも修学旅行の力なのか……千雨は気持ちを引き締めた。

 

(あぶねえ。あいつらじゃねえんだし、ちゃんと節度を守った行動をしないと……)

 

 そう決意する千雨だったが、「ネギ先生、どうぞこちらへ!」と鼻息荒くグリーン車へネギを連れ込もうとするあやか(ショタコン)の姿をみて、千雨は『平穏に終われば、それでいい』とハードルを下げた。

 さすがに思うところ(おもに性犯罪的な意味で)があるのだろう。千雨と同じ班に所属する朝倉和美も、苦笑交じりに「いいんちょー、昼間っから犯罪行動は慎んでよー」と、あやかの行動を静止していた。

 我関せず。見ざる聞かざる言わざるを決め込んだ千雨は、さっさとネギとあやかの横を通り抜けて、扉の前に立つ。シュー、と空気が循環すると、座席に続く扉が開かられた。

 

(へえ、思ったよりも……大して変わらんな)

 

 最初に思い浮かんだ感想は、乗車したときとだいたい同じであった。整然とした印象を覚える車内には、なんともいえない、独特の空気が流れていた。ただ、きっちりと並べられた座席を見て、少し窮屈だな、と思った。

 先に入ったクラスメイトが嬌声をあげながら、荷物を座席上に設置された荷物入れに放り入れている。中には一度放り入れた後、慌てて下ろしている者もいるが……どうせ、お菓子を取り忘れたのだろう。想像するまでもない。

 少し位置が高いので、背の低いクラスメイトは悪戦苦闘しているようだ……いや、よく見ると、クラスでも長身に位置する長瀬楓が手渡された荷物を次々に放り入れていた。

 背の高いというのは、こういうとき便利である。こんなとき、なんともいえない不便性を覚えるのは、表だって能力を使えないことから来るのか……千雨には判断が付かなかった。

 立ち止まっていた足を動かし、あらかじめ指定された座席へ移動する。幸いにも千雨の座席は窓側。おかげで、乗車中はのんびり外の景色を見て過ごせそうである。

「大きい荷物は任せるでござるよ」と手を振って催促している楓に荷物を預けて、さっさと席に腰を下ろす。もたもたしていると、後ろに差支えるからだ。

 ギシっと音を立てて、千雨の身体が座席のシートに収まる。思いの他、しっかりしたクッションの弾力がお尻と背中に伝わってくる。なんとなく、心地よく思えるそれに、千雨は微笑んだ。別段、パイプ椅子だろうが何だろうが、全く疲れない千雨としては、どっちでもよい話なのだが……気持ちの問題である。

 

「あ、ようやく笑いましたわね」

 

 突然掛けられた声に、千雨は意識を浮上させる。ハッと顔を上げると、先ほどまで騒いでいたあやかが、微笑ましげに隣に腰を下ろしていた。

 

(そういえば、隣は委員長だったか。こいつも、ガキが関わらなければ、真っ当なやつなんだけどなあ)

 

 改めて彼女を見つめて、千雨はそう思った。ハーフだという彼女の造形は美少女という形容詞が当てはまり、スタイルはもちろん、煌めく金髪は、日の光に勝るとも劣らない見事な輝きを放っている。立ち振る舞い一つとっても美しいの一言である彼女は、シミ一つない顔に確かな喜色を浮かばせて、笑顔を見せた。

 そんな彼女が放つ、言葉の一つ一つには深い思慮の色が滲んでおり、彼女が本気で千雨を案じているのだと、千雨自身、それが良く分かった。

「……まるで、ずっと仏頂面だったみたいな言い方じゃないか」と、そっぽを向きながら答える。良く分かったところで、天邪鬼の一面がある千雨に、それを素直に見せる勇気もなければ、度胸も無いのだ。

 しかし、そんな千雨の思惑も見透かしているのか、「あら、お気づきになられていませんでしたのね」とあやかは笑顔で返した。こうなれば、もう千雨に勝てる要素は無い。というより、幼いころから英才教育を施されているあやかに、口で勝てるわけがないのだ。

 どことなく恥ずかしげにあやかを見やると、目が合った。にこりと微笑まれて、千雨は唇を尖らした。あやかの奥で、「やっぱり映るんデスじゃあ、撮りがいが無いなあ」と、ぼやきながら、クラスメイトを撮影している和美の姿があった。

 

「安心しましたわ。朝から一度たりとも笑ったところを見せていないんですもの……もしかしたら、旅行に行くのを嫌がっているのかと思っていましたのよ」

「さすがの私も、そこまで天邪鬼でもなければ、捻くれてもいないよ」

 

 そう口にしつつも、千雨は頬を赤らめて窓の向こうへと顔を背ける。なんともまあ、分かりやすい態度だ。これでは、幼稚園児でも千雨の機嫌が分かるだろう。

 もちろん、それをあやかが分からないはずも無く、彼女はクスクスと口元を隠しながら笑った。

 

「……なんだよ」

「ふふふ、そういうことにしておきましょう」

「……納得いかねえ」

 

『……ご利用、ありがとうございます。当新幹線……号は、新大阪行です。停車駅・到着時刻は……で、京都方面へは、東京駅にて乗り換えを願います……ご利用、ありがとうございます……新大阪……』

 ポツリと呟いた千雨の一言は、クラスメイトの喧騒と、アナウンスによって、誰にも聞かれることなく消され……ることもなく、しっかり聞きとめたあやかが、今度ははっきりと笑い声をあげた。

 ますます深まった自身の仏頂面を、和美がこっそり撮影していることに、千雨は気づかなかった。スパイ粒子を使わなければ、そんなものである。

 

 

 

 瞬く間に移り変わっていく景色に、意識が持って行かれる。イヤホンから聞こえてくる、久しぶりに聞く楽曲が、喧騒の煩わしさを軽減してくれる。「長谷川さん、チョコレートは要りますか?」と差し出されたあやかのチョコレートを、「ありがとう」と礼を述べてから一個だけ貰う。

 ふんわりした感触が、指先から伝わってくる。一口サイズの、鮮やかにデコレーションされたチョコレートだ。表面にチョコレートパウダーが降りかけられており、見ているだけで涎が出てきそうだ。

 そっと口に入れる。途端、蕩けるように広がるチョコレートの味わいに、千雨は目じりを下げた。普段、千雨が食べるような、どこか安っぽいものとは比べ物にならない美味さだ。思わず、これがチョコレートなのかどうか疑ってしまった。

 さすがは、雪広財閥の娘。修学旅行に持ってくる菓子一つを取ってみても、レベルが高い。おそらく、これ一個で板チョコが3枚は買えるのではないだろうか。何気なくあやかの持っているチョコレートの入った箱を見ると、有名ブランドの名前が印字されていた……やはり。

 チョコレート、美味しかったよ。と感想を述べると、「あら、珍しく素直なんですね」と返される。思わずムカッと腹を立てると、それを見越したように「それでは、もう一個好きなものをどうぞ」と箱を差し出された。

 小さい、箱だ。千雨の両手の掌を合わせたのと、同じくらいのサイズ。中はプラスチックのケースで綺麗に小分けされており、全部で8ヶ収まる作りになっていた。

 ……何やら手玉に取られているようで、居心地が悪い。なんとなく、突っぱねてやりたい気持ちになったが、目の前に存在する甘いものの力は恐ろしく、そんな千雨の葛藤をあざ笑っている……ように見えた。

 しかし、そんな千雨の葛藤すら、あやかには見透かされていたのだろう。プライドと欲求を天秤に掛けている千雨をしり目に、あやかは素知らぬ顔で、一つのチョコレートを指さした。

 

「ちなみに、これは中がイチゴクリームが入っておりますのよ」

「いただきます」

 

 気づいたとき、千雨はチョコレートを頬張っていた。頬をニヤニヤと緩ませているあやかの視線から逃れるように窓の外へ視線を向けた千雨は、コロリと舌でチョコレートを転がした。うん、美味い。

 

「それじゃあ、私はネギ先生に挨拶に向かいますので……」。そうあやかは千雨に告げると、本日7度目となる挨拶に向かった。その後ろ姿に手を振りつつ、千雨は用意しておいたお茶を一口含み、口内をゆすいだ。

 

(それにしても、新幹線って、ほとんど振動が無いんだな……まあ、高い運賃を取るわけだし、これぐらいじゃないと、客も納得しないか)

 

 一つ、欠伸が零れる。軽減された振動は、子守唄となって千雨の意識を霞の中へ運んでいく。

 時間を確認する。京都まで、まだいくばくか。一眠りするには十分な時間だ。それが分かると、途端に眠気が土砂のごとく襲いかかって来る。この眠気は、ここしばらく緊張しっぱなしだったことも影響しているのかもしれない。

 

(京都まで寝よう。どうせ、委員長が起こしてくれるだろ)

 

そう決めた千雨は、音楽を止めてからイヤホンを外した。途端、押し寄せてくるクラスメイトの喧騒に、一瞬だけ眉根をしかめたが、すぐに諦めてシートにもたれ掛った。

 もう一度、欠伸が零れる。クラスメイト達に背を向ける形で窓側に体を向けると、千雨は静かに瞳を閉じた。

 

「ギャーー!!! カエルぅぅぅ!!!???」

 

 …………かえる……カエる……カエル!?

 だが、そんな千雨の安息も、突如車内に響いた悲鳴を前に、閉じたばかりの瞼を勢いよく見開いた。慌てて体を起こすと、先ほどまで楽しげに騒いでいたクラスメイト達が皆、火が点いたかのように悲鳴をあげていた。

 その動揺の程は凄まじく、何人かはパンツが丸見えになっているにも関わらず、泣き叫んで手足を振り回していた。目を凝らすと、その子の手足には、何匹ものカエルが跳びまわっているのが見えた。

 前のシートを掴んで立ち上がる。視界に飛び込んできた車内の惨状に、千雨も思わず息を呑んだ。

 カエル。まさしくカエルである。だが、問題はその数。どこから紛れ込んできたのかは分からないが、至る所から夥しい数のカエルが、クラスメイトの中を縦横無尽に跳び回っていた。

「キャー!! カエル、カエル!」「ヤーン、ネギ君助けてぇ!」「わーん、なんなのこれーー!?」。飛び掛れたクラスメイトが、次々悲鳴をあげていく……ある意味地獄絵図な光景が、そこらかしこに広がっていた。

 それは千雨にとっても例外ではない。カエルの一匹や二匹ぐらいなら平気だが、さすがに両手で抱えきれない程の数になると、気色悪さが先に出る。

 千雨とて、嫌いなモノや苦手なものはある。比較的平気な部類に入る千雨ではあるが、かといって、嫌いではない、ということではない。どちらかといえば、傍にいてほしくない存在であるということは、同じである。

 ……いちおう、千雨には多少ではあるが、そういった方面には耐性がある。麻帆良にてスパイ粒子を散布したとき……送られてくる映像の中には、名前すら聞きたくない害虫の姿が、いつもあるから。姿自体は嫌という程拝見しているのだ。

 だから多少のグロテスクな映像を見たところで、今更千雨の精神に負担は掛からない……と言われれば、そうではない。

 ただ、それはいつも千雨の視界(傍にはいない)には入っていないことが前提である。麻帆良で使用したときは、少なくとも千雨の傍には害虫などはいなかった。自室にて発見したときも、『フォトン・レーザー』による速やかな駆除が行っただけで、『観測粒子』は使用しなかった。

 これがもし、千雨の眼前に現れたら、どうなるか……千雨も他の女性たちと同様に、パニックを起こしてしまうのである。以前、突然現れたゴキブリを前に、千雨は悲鳴をあげて逃げ回ることしか出来なかったのだ……。

 いくら肉体がハイパースペックといえど、心は元のままなのである。あらかじめ把握できていれば、いくらでも対応は出来るのだが、突然の奇襲には、かくも脆い。

 今回の場合も、同様であった。『観測粒子』を使用していなかったのもそうだが、なまじ姿が見えているうえに、千雨自身、完全に油断していたときに起きた騒動である。

 仮に、実際の数を把握したらと思うと……鳥肌が立ちそうになる。

 千雨は己を鼓舞しつつ、千雨は跳びかかって来るカエルを手で払いつつ、備え付けられたビニール袋に放り入れ続けた。

 だが、クラスメイトの全員が、千雨のように行動できるわけではない。何人かは完全にパニックを起こし、狭い通路を右に左に走り回っていた。

 特に楓に至っては、「服の中にカエルが! カエルが入ったでござるぅ!!」と涙声になりながら、制服の上下どころか下着を通り越してパンツまで下ろしていた。「カエルだけは駄目なんでござるよーー!!」と叫びながら逃げ回るせいで、たわわに実った双山が良い具合に弾み、程よく繁茂した茂みが観衆に晒されていた。ここが女子しか乗っていない車両で助かった。これで一般客も乗っていたら、後々目も当てられなかった。

 麻帆良武闘派四天王と言われ、一部では恐れられている彼女も、女の子ということなのだろう。しかし、そんな彼女の強さが、今回は仇となっていた。「ちょっと待、待て、ま、服を着ろぉ!!」と怒声を発しながら、慌てて楓を止めようとしている長身の褐色少女の名は、龍宮真名。彼女も四天王の一人なのだが、さすがに同じ四天王であり、体格も似通っている楓を止めるのは厳しいのか……楓が脱ぎ散らかした下着を両手に握りしめ、楓の後を右に左に駆け回っていた。

 

(おいおい、いったい何が起こっているんだ)

 

 ともすれば引っ込めてしまいそうな手を気合いで誤魔化しながら、また一匹を捕まえて、袋に放り込む。肝心のネギ先生に頼ろうにも、ネギは床を跳び回るカエルを回収するのにてんてこ舞い。大人である、しずな教員に至っては、気絶しているのか、クラスメイトの佐々木まき絵にぐったりともたれ掛っていた。無理も無い。

 いよいよもって、収拾がつかなくなるのではないか。

 車内の惨状を見て、そう危惧した千雨だったが、残った四天王の二人が幸いにも、生ものが平気な性質であったおかげで、そうはならなかった。

 ツインテールの古菲(クー・フェイ)と、三つ編みの超鈴音(チャオ・リンシェン)が率先してカエルを回収してくれたおかげで、徐々に車内の状況が落ち着き始める。

 その頃になると、混乱していたクラスメイト達も、ぼちぼち互いの無事(と言う程でもないが、そういった生ものが嫌いな子にとっては、同意味だろう)を確認し始める。

 あれほど場の混乱を助長させていた楓も、ようやく自らの状態を認識出来る程度に落ち着いてきたのか、顔を真っ赤にして縮こまっていた。しかし、しゃがんだ程度で彼女の良発育な身体が隠しきれるわけもなく、腕の隙間やら太ももの隙間から、見えてはいけない尖りやら茂みやらが見え隠れしていた。

 

「や、やっと止まったか、は、早くこれを……」

 

 そんな彼女の背中に、汗だくになった真名が声を掛ける。よほど疲れたのだろう。息を荒げながら下着を楓に手渡すと、すぐそばの座席にどっかりと腰を下ろした。

「ありがとうでござる。恩に着るでござるよぅ……」。紅潮した頬をそのままに、幾分、消沈した面持ちで、楓は着替え始めた。普段からのほほんとしている彼女も、さすがに堪えたというわけか。

 車内のそこらかしこで、「大丈夫だった?」「怪我してない?」「保健委員、ヘルプミー……ありゃ、駄目だ、亜子ったら気絶しちゃっているよ」等、安堵の声が聞こえてきたあたりで、千雨は肩の力を抜いた。

 クラスメイトの誰も彼もが、疲れた顔をしている。当然だ。いきなりあのような事態になれば、疲れても不思議ではない。それは千雨も例外(気疲れ)ではなく、カエルの入った袋を古菲に手渡して、嵐のような騒動の後に訪れる安堵感に、ぐったりとシートに腰を下ろした。

 

「……疲れた……ネギ先生は何をやっているんだ?」

 

 そういえば、といった風に彼の存在を思い出した千雨は、シートからすっかり重くなった腰を持ち上げた。

 

「いいんちょさんは、生徒たち全員の点呼を! 保健委員は怪我をした生徒がいるのかどうか、確認していってください!」

「先生、保険委員も気絶しちゃってるよー!」

「ええ!? で、でしたら、怪我をしている人がいたら、運動部に所属している人に見てもらってください!」

 

 年若い声に顔をあげると、先ほどまでカエルを捕獲していたネギが、状況確認を行っていた。(おお、先生らしいことしているじゃねえか)。

 少し見直した。そうネギの評価を上方修正した千雨の目の前で、白い何かが素早く過った。反射的に身を引いた千雨の目の前で、それはいきおいよくネギのもとへ飛んで行った。

 

 ――っ、と、鳥!?

 

 常人なら、それが何なのかすら判断できない刹那の一瞬。だが、常人とはかけ離れた肉体性能を誇る千雨の肉体は、その刹那の一瞬があれば、充分であった。

 鳥が、なんで車内に? そう驚きに目を見開く千雨をよそに、鳥は音も無くネギの背後に近づく。同時に、ネギが何かを取り出しているのが、千雨には見えた。

 

「――っ、せ」

 

 ネギ先生。そう千雨が叫ぶ前に、鳥は無音のままネギのそばを通り過ぎていった……封筒らしきものを、その口に咥えて。

 

「ま、待てーー!!」

 

 先ほどのような……いや、先ほどよりもさらに血相を変えて、ネギは鳥の後を追って行った。

 その後ろ姿を呆けた様子で見つめていた千雨は、疲れ切った表情で、もう一度座席に腰を下ろす。ほう、とため息をこぼすと、何とも言えない疲労感がどっしりと肩にのしかかってきた。

 

「……ごめん、もう私は色々限界だ。手は貸せないから」

 

 あまりにも高性能な己の聴力が憎い。ネギと、その肩に乗っているオコジョの会話を、不可抗力にも、ばっちり盗み聞き(例え100メートル離れても、聞きたいと思えれば聞こえてしまう)してしまった千雨は、これからの修学旅行を思って、一人、肩を落とした。

 

 

 

 

「みなさん、もうそろそろ就寝時刻ですよー。各班部屋に戻ってくださいねー」

「あいよー」

 

 背中から掛けられた言葉に返事を返しながら、振り返る。見れば、浴衣に着替えたネギが、手を振っていた。れっきとした外国人であるネギだが、その姿に違和感は、無い。

 ……意外と似合っている。そう評価した千雨は、己の浴衣の袂を整えると、投げやりに手を振りかえした。先ほどまで一緒にくつろいでいた那波千鶴を伴って、己の寝泊まりする班部屋へと、足を進めた。

 ぺた、ぺた、ぺた。スリッパ特有の足音が、ホテルの廊下に響く。時折、押し殺したような笑い声が、通り過ぎた部屋から聞こえてくる。

 それもそのはずで、千雨たちが寝泊まりしている区画は、ほとんど麻帆良の貸し切りになっているのだ。修学旅行初日の夜など、騒がない学生の方が可笑しいのである。

 静まりながらも、どこか騒がしい廊下を、淡い光の電灯が照らしている。淡い、優しい光。自然と落ち着いてくるその光に、千雨はぐるりと肩を回した。

 

「あら、お疲れ?」

 

 掛けられた言葉に、視線を向ける。電灯よりも淡く、優しい微笑みを浮かべている千鶴の横顔を、ジッと見つめた……こいつも似合っている、な。

 同じ中学生とは思えない、色気だ。体の線が出にくい浴衣の上からでも、それが分かる。胸部の膨らみはもちろんのこと、お尻のラインもそうだが、彼女の醸し出す雰囲気が、千雨とは違っていた。何気なく見やったうなじの色っぽさに、千雨は気恥ずかしさを覚えて、視線を逸らした。

 けれども、そんな千鶴の大人顔負けの色っぽさも、千雨にはそれを羨ましいとは思わなかった。なんというか、比べる対象が違いすぎるせいなのだろうか、リアリティというものがない。

 なにせ、歩くたびに胸が揺れているのが分かるのだ。密かにスタイルには自信がある千雨だったが……もはや嫉妬を通り越し、賞賛の感情しか湧かなかった。

 

「疲れていないように見えるか?」

「見えているから、尋ねているのよ」

 

 そう微笑む千鶴の姿に……一瞬、息を止める。時折見せる、彼女の歳不相応な洞察力に、冷や汗が出る。だが、それは一瞬のことで、すぐに千雨は何事も無いかのように振る舞った。

 

「……まあ、そう見えているなら、そうなんだろうな」

 

 時刻はすっかり夜間を回り、たどり着いた班部屋は、既に消灯が落とされていた。並べられた布団のいくつかは膨らんでおり、耳を澄ませばわずかな寝息が聞こえてくる。寝ていても行儀が良いのか、班長のあやかに至っては、寝相の後すら見受けられない。

 よほど眠りが深いのだろう。枕元を千雨と千鶴が通り過ぎても、身じろぎすることなく彼女たちは寝入っていた。

 普段からこれぐらい静かだったらいいのに、と思うと同時に、室内に漂う、ほんのりとした酒気の香りに、千雨は眉根をしかめた。

 

「半日経っているっていうのに、けっこう臭いって残るんだな」

 

 そうよ、と千鶴は頷いた。

 

「本人の体質によるけど、意外とアルコールって、残る物なのよ。私も時々舐める程度には飲むけど、それでもしばらくは体からアルコールの臭いがしたわよ」

「え、飲むの?」

「お付き合い程度に少しは、ね。でも、時々よ」

「お酒ってあんまり好きじゃないわ」。そう呟きながら、ごそごそと隣の布団に潜り込んだ千鶴を見て、千雨はため息を吐いた。

 

 中学生で酒を飲むやつなんて、どこぞのDQNだ、と思っていたが、なるほど。あやか、千鶴のような実家が超お金持ちになると、そういった付き合いで飲まざるを得ない場合もあるのか。あんまり、知りたくは無かった情報だ。

 

(しかし、昼間は驚いたな……ていうか、これってもしかしなくても、ネギ先生たちが言う、関西呪術協会のやつらの仕業なんだろうな……なんていうか、やることがセコイというか、何というか……)

 

 宿泊先となる『ホテル嵐山』の一室。並べられた敷布団の一つ、もっとも窓際に近い位置を陣取っていた千雨は、メガネを外して枕元に置いた。髪の毛を束ねていたゴム紐を外すと、頭部に感じていた圧迫感が、ふわりと解放された。

 軽く、頭を掻く。一つ欠伸を零してから、千雨は布団の中に潜り込んだ。そのまま眠ろうと目を瞑る……そのまま、ゆっくりと情報を整理し始める。

 本当に、いつの間にか、だ。テンションの高いあやか(班長なので、離れるわけにはいかない)に連れられて、ネギを追いかけている途中のこと。改めて思い返せば、本当に色々なことがあった。

 清水寺を見学し、縁結びに有名な神社を回っている途中。目を瞑ったまま最後まで行くことが出来れば縁が叶うという、縁結びの岩を渡り歩いている途中にあった、謎の落とし穴。

 ご丁寧に、落とし穴の中にはカエルの大群が。これまた電車の時と同じで、誰かが人為的に行わない限り存在しないもの。思い返せば、電車の件も、これも、同一犯の仕業?

 健康、学業、縁結びの御利益があると言われている『音羽の滝』では、三筋の内のひとつである、縁結びの水を飲んだ生徒たちは、全員酔い潰れた。後々分かったのだが、どうも誰かの悪戯で、流れ落ちてくる縁結びの滝の方に、酒樽が設置されていたようであった。これも、もしかしたら……。

 おかげで千雨はもちろんのこと、水を飲んでいない生徒たちは手分けして、酔いつぶれた生徒たちをバスの中に押し込める作業を強制された。幸いにも飲んだ生徒はごく一部で、今度は武闘派全員が無事である為、他の先生方には気づかれることなく行えた。だが、下手すれば修学旅行は即中止。悪ければ停学になる危険すらあった。

 おまけに、使われた酒も、それなりに高価なものらしく、ある程度薄めれば、ほとんど水と変わらないぐらいにまで味を誤魔化せられるものだという、ある種の徹底ぶり。

 何が狙いなのか全く分からない。性質の悪い悪戯……嫌がらせ? 否、それにしては、何かが腑に落ちない……目的は、ネギ?

 

(ちょっと待て、それってつまり……私たちって、完全なとばっちりじゃねえか。え、ということは、もしかしなくても……)

 

 降って湧いた思考に、千雨はむくりと布団から体を起こした。たった今さっき取り外したゴム紐を手に取り、髪を後ろへ縛る。枕元に置いたメガネを着けて立ち上がると、隣から呻き声が上がった。

 隣から今にも寝入りそうな声で、「どうしたの?」と尋ねてくる千鶴に「トイレ」と一言だけ伝えると、彼女は「そう……」と言ったきり、寝息を立て始めた。

 足音を立てないように、こっそり布団の合間を歩く。極力室内に光が入らないように襖を開けて廊下に出る。耳を澄ませば、ぶーん、と自販機のモーター音が聞こえてくる。廊下には、人の気配は無かった。

 これで、今日二度目だ。辺りに人の気配が無いのを確認した千雨は、廊下を再び忍び足で進みながら、近くのトイレの個室に、こっそりと身を隠した。

 ……一瞬、千雨は迷いを見せた。せっかくの修学旅行、その初日にわざわざこっちを使うべきなのだろうか……そう、千雨は悩んだが、万が一を思って、千雨は唇を噛み締めた。

『広範囲観測粒子』を発動。スパイ粒子を全方位に向けて発射した。

 粒子は千雨の意志に従って、瞬く間に周囲へ拡散していき、部屋を超え、ホテルを超え、嵐山周辺にまで一気に広がる。

 と、同時に、千雨の脳裏に夥しい数の情報が、津波のごとく押し寄せてきた。数億、数兆を超える量の微粒子、その一つ一つから送られてくる、リアルタイムの情報。

 常人なら瞬時に気絶し、なまじ頭の良い人なら、脳に重大な障害が残る。場合によっては、発狂してしまう程の膨大な情報の波。

 千雨の脳(宇宙製)は、それらの情報にパンクすることなく、凄まじい速度で演算を行っていく。スーパーコンピュータでも数年は掛かるであろう計算を、数百億分の一以下の時間で計算を終えた千雨の頭は、次いで、自らの演算速度を加速させていく。

 同時に、千雨の意識にズレが生じる。それは、実時間と対外時間のズレから生じる、小さな違和感。その違和感すら、千雨の肉体は瞬く間に順応すると、千雨の脳裏に一つの映像を映し出した。

 途端、千雨はため息を吐いた。それは、映し出された映像が、千雨の予感した通りのものであったからだ。

 

(おいおい……前々から思っていたけど、あのガキ、もしかしなくても主人公体質なんじゃねえのか? 次から次へと厄介事を引き入れるなんて、ぜったいあいつ主人公だろ)

 

 主人公体質。それは、千雨が呼称している、いわゆる物語の主人公並みに騒動を起こす人のことである。

 千雨の脳裏には、ネギたち(前回に引き続き、明日菜とオコジョがいる……だけでなく、今回はクラスメイトの桜咲刹那まで参戦しているようであった)の姿がはっきりと映し出されていた。

 どうやら、刹那はネギたちの仲間のようだ(まあ、教師のやつらと一緒に戦っていたあたり、そんな気がしたけど)と、千雨はそう結論付けた。

 そうしてから改めて見れば、ネギたちは特に武装しているわけでもない(ネギは何かおもちゃのような何かを持っているが……多分、何かしらの武器だろうと千雨は当たりを付けた。少なくとも、スパイ粒子からは、ただのおもちゃにしか見えない)が、刹那は刀を帯刀しているのが分かった。

 おそらく、あのとき持っていた刀がこれだろう。旅行先まで真剣を持っていくとは……と思っていたが、どうも、こうなる事態を予感していたのかもしれない……物騒な光景だ。

 しかも、それだけではない。なにやら慌ただしく走り続けているネギたちの視線の先、はるか彼方の進行方向には、猿の着ぐるみを身にまとった若い女(スパイ粒子の前では、どんな被り物をしようが無意味である)が、可愛らしい見た目とは裏腹の身軽さで、夜の京都を駆け抜けている。その腕には、クラスメイトの近衛木乃香がぐったりと抱えられていた。

 その速度はかなりのものだ。追走するネギたちもそうだが、どう贔屓目に考えても、一般女性や一般学生の出せる速度ではない。特に着ぐるみの女に至っては、体格の小さい女子中学生とはいえ、人一人腕に抱えているというのに、下手な原チャリよりも速い。

 見た目からだいたい想像できるが、どうやら彼女も普通の一般人ではないようだ。ついでに補足するなら、ネギたちの表情から想像すると、あまり素行の良い相手ではなく、色々危険な状況であるらしい。

 

(……けど、どうしようかな? なんか、わざわざ私が行かなくてもどうにかなりそうだな。桜咲もいるみたいだし……でもなあ、何かヤバそうな感じがしてきているしなあ……)

 

 今、千雨の前に選択肢が現れた。以前、ネギたちを陰から助けたように、今回もネギたちに気づかれないように手助けするべきか。今回は学園内ではない、外だ。顔見知りにバレる危険性は、学園よりは薄い……だろう。代わりに、他人にバレる可能性は一気に高くなるが。

 あるいは、このまま何も見なかったことにして、寝るべきか。千雨の精神に多大な負担を強いるが、現状を回避することは出来る。選べる答えは一つで、どっちを選択しても、色々な意味で厄介なことになりそうである。

 ……さらにいえば、一つ、気になる情報がスパイ粒子から送られてきているのが、千雨の迷いを助長させる。

 着ぐるみの女が逃げていく先……駅内にある大階段を上った先の、そのまた向こう。そこから一人の少女が、着ぐるみの女に向かって走っているのを確認したからだった。

 その少女が普通の女の子ではないことは、すぐに分かった。見た目はどこにでもいそうな大人しい外見ではあったが、見た目とは裏腹の身のこなし(少なくとも、一回のジャンプで数メートルは跳べない)が、千雨の警戒心を刺激する。さらに言うなら、その少女の両手に握られた刃物の存在が、あまりにも凶悪であった。

 ――っと、送られてくる映像が合流した。水攻めにあっていた(大量の水が、一枚の御札から噴き出していた。おそらく、あれも魔法なのだろう)ネギたちが辛くも脱出し、いよいよもって女(着ぐるみは脱ぎ捨てたようだ)を追い詰めた一瞬。飛び出した刹那の前に、合流した少女が躍り出た。

 

(おいおい……なんか不味い展開じゃねえのか?)

 

 少女は、自らを月詠と名乗っていた。やっぱりスパイ粒子から送られてくる彼女の姿は、どこにでもいそうな、千雨よりも小柄な女の子であった。

 その両手に、キラリと光る刃物を持っていなければ、の話だが。

 

「……だ、大丈夫かよ」

 

 いよいよもって気が気でなくなった千雨を他所に、月詠は瞬時に刹那へと迫る。そこから始まる、時代劇顔負けの剣劇。金属同士が放つ、鈍い打撃音。どう楽観的に見ても、当たれば怪我では済まないだろう。

 悪いことに、腕前も相当なものらしく、あの刹那が足止めを食らっている状態だ……無理も無い。月詠という少女が繰り出している一撃、一撃が、尋常ではない威力を持っているのが、映像越しにも分かる。なにせ、コンクリートをバターのように切り裂いているのだ。まるで悪い夢をみているような光景だ。

 ならば明日菜は……と思って確認するも、明日菜も刹那と同様で、デカい猿の人形みたいなやつに、身動きを封じられているようだった。持っているハリセン(にしか千雨には見えない)も、当たれば威力があるみたいだが、動きが封じられているせいで、それも出来そうにない。

 唯一妨害を受けていないネギが、お得意の魔法で直接女を攻撃するも、木乃香を盾にされて、あっさり失敗。木乃香を無視して攻撃するわけにもいかず、事態は刻一刻と悪い方向へ進んで行っている。

 

(……どうしよう)

 

 右に左に傾いていた天秤が、ついに片方へと傾く割合が多くなる。それはもちろん、助けに行くという選択肢。どんどん、どんどん、かちん、かちん、と音を立てて傾いていく。

 少しずつ、千雨の心が、助けに行く方向へ動き出す……そのとき、スパイ粒子から送られてきた映像の一つに、変化が現れた。

 

(あれは……?)

 

 送られてきた映像に、意識を集中する。その映像には、一人の少年の姿があった。制服……なのだろうか。私服というには少し堅苦しい恰好をした白髪の、ちょうど、ネギと同じくらいの背丈の子供で……ポケットに手を突っ込んだまま、目を瞑って佇んでいた。

 映像の場所は、ネギたちが戦っている駅構内から、距離にして数百メートル。位置は……上空80メートルの地点。それが分かった時点で、千雨はこの少年も普通ではないと判断した。

 と、同時に、千雨はこの少年に対して、怖れにも似た警戒心を抱いた。それは、少年から放たれている雰囲気が、年齢不相応だったからとか、不思議であったからとか、そういう理由だけではない。

 

(こいつ……何時の間にそこに現れたんだ!?)

 

 理由は、その一言に尽きた。少年が居る位置は、映像が届いていることからも察せられるが、スパイ粒子の観測範囲内だ。当然ながら、観測範囲内の情報は全て、千雨のもとに届けられている……はずだ。

 なのに、千雨は今の今まで、少年がそこにいることに気づかなかった。一瞬、スパイ粒子が見落としたのか、とも思った。だが、すぐにそれはありえない、と否定した。

 少年のいる場所は先ほど確かに確認した地点であり、そのときは少年どころか、虫が3匹程飛行しているのを確認していたのである。虫が観測できて、少年が観測出来ない理由が無いし、麻帆良の魔法使いたちも気づかれずに観測できたのである。

 そのことから推測されることは……少年は、たった今さっき、突然そこに姿を現したというであった。

 どういう手段を用いたのか千雨には分からなかった。観測範囲外から千雨のスパイ粒子を掻い潜って来たのか、それとも、初めから姿を隠してそこにいたのか……どちらにしても、答えを決定付ける証拠は何一つない。

 

(なんだ、こいつ? こいつも、魔法使いってやつなのか……ていうか、ちょっと待て。え、これって……)

 

 その時だった。意識を少年に向け続けたせいなのか、それとも潜在的に少年を知ろうと強くイメージしたせいか。一部のスパイ粒子が、千雨にとって予想外の動きを見せたのは。

 ただ観測するだけだった粒子が、少年の身体の中を透過し、少年そのものを観測してしまったのである。

 こんなことは、初めてだった。今まで何度かスパイ粒子を使ってはきたが、ここまで深く観測出来るなど、思いもよらなかった。使いこなせていると思っていたスパイ粒子も、まだまだ、ということなのか。

 そして、透過することによってさらに深く少年を観測した粒子から、新たに情報が送られてきた……それは、千雨の混乱をさらに掻き立てた。

 

(嘘だろ……こいつ、人間じゃないのか? え、人造人間……ホムンクルス? え、ホムンクルスって、錬金術とかにある、あのホムンクルスってやつなのか?)

 

 ……幸運というべきか、不運というべきか。ある程度そういったオタク知識を有していた千雨には、その言葉の意味が理解出来た。だが、理解出来たところで、どうしたというのだろうか。

 むしろ、人間ではない、という情報が、なおのこと千雨に不安を与え、少年に対して強い警戒心を抱かせた。

 薄気味悪いやつだ。そう、少年の印象に悪感を抱いた千雨は、少年に注目する。果たして、敵か味方か……それを判断するために、あらゆる角度から少年を観察する……と、先ほどから黙って目を瞑っていた少年の瞼が、静かに開かれた。

 瞬間、映像越しに、千雨と少年の視線が交差した。

 千雨の中で、天秤が完全に傾いた。

 まあ、どうせあの二人が頑張っているから、私は知らないふりでいいんじゃないかな。そう思ってどこか楽観視していた考えが、完全に消えた。

 

「ちくしょう! なんでこう、嫌な方にばっかり話が進んでいくんだよ、ばかたれ!」

 

 思わず、そう毒気付いた千雨は、一つ、気持ちを切り替えると、加速した演算速度をさらに加速させる。思考と体外のズレが一瞬だけ顕著になるが、それもすぐに慣れた。

 

「……ちくしょう、ああもう、嫌だなあ」

 

 千雨はホテル出口へと走り出した。何をするにも、とりあえず外に出なければならない。そう判断したうえでの行動だ。

 ……もし仮に、その現場を見た人がいたなら、きっとその人は腰を抜かしていただろう。なにせ、つい今しがたトイレにいた女の子が、一瞬でその姿を消したのだから。

 なぜ、その人はそう見えたのだろうか。千雨が姿を消した? 違う。千雨は一度として姿を消してもいないし、隠れたわけでもない。

 千雨が、その場から移動しただけだ。だが、ただ移動したわけではない。常人では捉えられない速度で移動したのだ。

 思考速度を、加速させる。それは、ただ加速させるだけでなく、千雨のイメージできる限界まで、加速に加速を重ねる。極限まで加速を重ねたその時だけ、千雨の身体は周りを置き去りにする。時を、置き去りにしていく。

 それが、千雨が学校への移動時間を節約するために開発した、新機能である。

 ……ちょっと待ってほしい。なんてしょうもない機能だと思うのは早い。

 考えてほしい。朝の通学が30分だと仮定したら、毎朝29分は余裕が持てるのである。朝の1分が砂金に等しい学生たちにとって、これは大きい。

 しかも、行き帰りで約60分。一時間だ。これが一週間の内、休みを除けば、計5時間。

 5時間あれば、何が出来る?

 5時間分のんびり出来るのだ。

 思考演算速度を速めることで得られる副次能力。これによって千雨は、あらゆる物体よりも早く動くことが出来、あらゆる法則(空気抵抗や重力など)に縛られない千雨の肉体だからこそ成しえた、副産物的な加速能力。

 その名も『クイック・タイム』。この能力を使用したら最後、もはや何人たりとも千雨を捉えることは不可能である。

 

 

 命の危険を感じる程の事故に巻き込まれ、生還した人の話に、こうある。

『私は、事故の全てを目撃していた。飛んでくる鉄片。脇を通り抜けていくアスファルトの破片。そして、眼前に迫ってくる炎。それら全てを、私は知覚していた。私は、自らの足に命令した。“逃げろ、このままでは危険だ!”と。けれども、私の足は動かなかった。いや、違う。動こうとはしていた……していたんだ。とても、欠伸が出てしまうぐらいにゆっくりと、ね。結局、亀よりも鈍くなった私の身体は、襲い掛かる脅威から逃れられることは出来なかったよ』

 このメカニズムを簡単に明記すると、こうだ。

 危機的に状況に陥ったことを判断した脳が、瞬時に脳の機能を引き上げ、肉体に緊急回避を行うよう命令する→肉体は指令に従って行動しようとするが、脳の演算速度に筋肉等の組織が対応できず、動作にギャップが生じる→脳にてリアルタイムで処理できる視覚機能は、危険から逃れるために、一時的に処理速度を跳ね上げる(これにより、視界に映る物がスローモーションに見える)→結果、目では捉えられているのに、体が動かない等の異常な状態を体験する。

 これを言い換えれば、つまり筋肉等の他の組織さえ脳に対応出来れば、人間は自らを高速に移動できるということ。人間がそれを常時行えないのは、筋肉等の組織が脆いというのもそうだが、肝心の脳ですら、ほんの数分ですら、機能を上げることは出来ないのである。

 もし仮に、脳の処理速度を人的に向上させてしまったら、どうなるのか。答えは単純。重い処理負荷を掛けたコンピュータが、強い熱を放つように、人間の脳も高熱を発するのだ。そして、数分でも高熱を発したら最後、重大な脳障害を起こしてしまうのである。

 ……しかし、しかしだ。それは、普通の人間の話。物理法則とタンパク質に縛られた、地球上の住む生物の話だ。

 普通の人間とは比べ物にならない高スペックの肉体を持つ千雨ならば、それらの縛りは関係ない。思うがまま、自由自在にその世界に突入することが可能なのである!

 

 

 千雨の体感では普通に走って。第三者的体感から言えば、瞬時に外へ飛び出した千雨は、即座に『バック・ファイア』を起動させる。

 履いていたスリッパが音も無く原子分解を起こし、四散。次の瞬間には、はためく浴衣からのぞく両足には、無機質な機械の塊が装着されていた。

 千雨の意志に従い、バック・ファイアは、己の機能を発揮するため、力を充填し始める。改めて確認した、スパイ粒子からの映像は既に止まっており、画像と化していた。

 それも仕方がない。千雨にとっては普段と変わらない体感だが、世界は先ほど映像を確認したときから、コンマ1秒も経っていないのである。動いている方がおかしい。

 あの少年は? 一瞬、首をもたげた不安に駆られて確認する……ふう、と安堵のため息を吐いた。

 もしや、動けるのではないだろうか、という不安があったのだが、さすがにそこまでは出来ないらしい。映像に映っている少年も、ネギたちと同様に動きを止めていた。

 

(……とりあえず、傍で様子を見るだけにしよう。本当に危なくなったら……で、いいな、うん)

 

 簡単なプランを立てた千雨は、溜めた力を解放する。瞬時に千雨の身体がその場から消える。同時に、京都の夜空に、一筋の閃光が走った。

 その閃光は、誰にも視認されることなく、夜の闇に溶けて消えた。

 

 

 京都の街並みは、実に風情があって美しい。夜空から見下ろした京都は、麻帆良には無い景色があった。モダンな街並みと歴史の街並み、そして千雨の良く知る現代住宅の街並みが入り混じった、ある種幻想的な光景が、千雨の眼下に広がっていた。

 麻帆良のような、ヨーロッパ調を意識させた造りではないせいだろうか。歴史と今が不思議な調和によって保たれたその景色を、何に例えたらよいだろう。

 出来れば、こういう場所にはプライベートで行きたかったなあ。眼下の世界を見下ろしながら、千雨は苦笑した。思えば、自分も変わったものだ。文字通り、色々な意味で。

 チラリと、千雨は首を曲げて、自らの両足へ視線を向ける。そこには、今ではすっかり見慣れた鉄の塊『バック・ファイア』が装着されていた。青白い光を足裏から放出しており、推進力となって千雨の身体を夜空へと押し上げてくれる。

 頬に当たる風が心地よい。浴衣が乱れないように気を付ける。今更ながら、着替えてから来れば良かったと、千雨は後悔した。

 せめて、下に体操着でも着てくれば……と後悔するが、全ては遅すぎた。今、真下から千雨を伺うことが出来た人は全員、知ることが出来ただろう。現役中学生の生パンツを。

 せめてもの救いが、『バック・ファイア』使用時に身に着けていた服は、飛行による悪影響を受けないことと、旅行に備えて新品の可愛いやつにしていたぐらいか……これで使い古しの上に服がぼろぼろになったら、泣けただろう。色々な意味で。

 ……どうせほとんど時間が止まっているし、着替える時間は……とは飛び出してすぐ考えたが、止めた。コンマ何秒という時間の間に何かあったら、と思うと、どうしても引き返す気持ちにはなれなかった。

 なので、千雨はそんな後悔を振り払うように、さらに速度を上げた。瞬間、ふわりと頬に突風が当たるが、すぐに気にならなくなった。千雨が感じる感覚は、そよ風が少し強くなった程度のこと。

 本来ならば目を開けることが出来ない風圧なのだろうが、千雨にとってはその程度のことでしかない。その程度にしか思えない体に、千雨はなっているのである。

 ……それが、良いことなのか、千雨には判断が付かない。思えば、この体になってから、碌なことがないなあ、と、千雨は自虐的に笑った。

 だが、笑おうが泣こうが、事態は千雨を待ってはくれない。いくらハイパースペックの千雨とて、彼女自身以外が起こした事象を、操る力などないのだから。

 

(ええい、考えたところで仕方がないだろ。今はあの薄気味悪いガキだ)

 

 顔を上げて、少年が居るであろう場所を見つめる。スパイ粒子から送られてきている映像を見るに、少年はまだその場から動いてはいない……当然だ。

 現実の体感時間で、まだコンマ何秒も経っていないのだから。

 千雨の意志に従って、千雨の眼球はさらに己の機能を進化させる。常人とは比べ物にならない精度のピント機能とズーム機能によって、数百メートル先の豆粒すらも目の前にあるかのようにまで、自動的に拡大調整を行う。

 

(……見えた!)

 

 カシャ、カシャ、と切り替わる視界に酔いそうになりながらも、目を凝らし続けること7秒。距離にして数キロ先に滞空する少年の姿を、千雨はあっさり捉えた。

 

(よし、『バック・ファイア』、フルパワーだ!)

 

 千雨の意志に従って、足裏から放たれている光が一瞬だけ弱くなる……次の瞬間、爆発したかのような、力強い光が足裏から拡散した。

 直後、千雨の身体は音を置き去りにして、一気に加速する。うるさいぐらいに響いていた空気の壁が、無音となる。瞬く間に変わっていく視界に、千雨の意識が溶け込んでいく。

 音の壁を突き破った千雨の身体はまさしく、マッハとなって夜空を吹っ飛び、一瞬のうちに少年の眼前に到着。同時に、千雨は瞬時に減速をイメージした。

『バック・ファイア』は突然の指令にも滞りなく対応し、減速から停止までの距離をほとんど取ることなく、その場に停止した。停止に掛かった距離は、約4センチ。常人なら、停止の反動だけで20回は死ねそうなGだ。

 けれども、鬱陶しそうにメガネの位置を直した千雨には、堪えた様子は無い。そんなことよりも、眼前に佇んでいる少年の雰囲気に呑まれないようにすることの方が、千雨にとって重要なことであった。

 

「……どっからどう見ても、白髪の厨二病にしか見えない、薄気味悪いガキだな」

 

 そう呟いてから千雨は、「……あ、でもこいつ、ホムンクルスだったんだっけ」と一人頷いた。

 改めて少年を確認した千雨の感想は、少年には悪いが、あまりよいものでは無かった。といっても、映像を見ていたときから印象が最悪であったが、生身で拝見したら、さらに悪くなっただけの話だが。

 そう辛辣に評価した千雨は、背筋に走る悪寒に身震いしつつ、少年から一定の距離を保っていた。ぐるぐると少年を中心にして旋回する……やはり、印象は変わらない。

 

(なんつう、薄気味悪いガキだ。ホムンクルスってやつも半信半疑だったが、生身で見ると、実に納得だ。なんて生気のない目をしてやがる……茶々丸だって、もうちょっと色々漏れているぞ)

 

 正面から見ないように、横側からそっと覗き込む。硝子のように無機質で、鉄のように冷たく、鏡を見ているかのように色が無い。少年の瞳は、千雨のボキャブラリーでは表現できない、気持ち悪い何かが、そこにはあった。

 なぜだか、見ていて寒気を覚える。千雨の中で、何かが警報を鳴らしている。それはこの体がもたらしているものなのだろうか……。

 少年の瞳から逃れるように距離を置くと、とりあえず少年のことは確認出来たので、次いでネギたちが居るであろう駅へと、目を凝らす。

 もしや、直接行かないと見えないかも。そう危惧していたが、幸いにもネギたちがいる場所には屋根等が無く、ちょうどこの場所から拝見できる位置であった。

 カシャ、と視界に映ったネギたちの姿を見て、千雨は安堵のため息を吐いた。よかった、まだ、最悪の事態にはなっていない……と考えたあたりで、まだ自身を加速させていることを思い出した。

 だが、なってはいないだけで、脱したわけではない。それを思い出した千雨は、少年の真上……距離にして50メートル程上空まで自身を上昇させた。

 何をするにも、とりあえず思考速度を戻さなければならない。今の状態でネギたちに触れたら、とんでもないこと(一言で言えば、空気の壁にぶつかってミンチになる)になってしまうし、かといって女たちに手を出すわけにもいかない。

 いくら相手が悪者(なのかを、千雨は知らない。あくまで、見たままの判断である)とはいえ、殺人を行えるほど、千雨の思い切りは良くないし、度胸も無いのだ。

 ふわりと、千雨の身体が静止する。『バック・ファイア』は、千雨の意志に従ってホバリング・モードに機能を移行させる。

 途端、『バック・ファイア』が放っていた光が極限まで弱まり、傍によって耳を澄まさなければ聞こえないぐらいに放出音が小さくなる。

 ホバリング・モード。その場に滞空することだけを目的としている、『バック・ファイア』の機能の一つである。移動速度も早歩き程度にまで落ちてしまう欠点があるが、今のようなときには必要になる機能だ。

 

「……バレたりしないよな?」

 

 そっと、眼下の少年を見下ろす。ほとんど無音の状態な為、『バック・ファイア』の起動音に気づかれるようなことはないだろう。それこそ、真上を向かない限り分からないだろうし、そもそも明かりも無い状態では、なかなか千雨の姿を見つけられないだろう。

「よし、これでひとまず安心……て、よくよく考えたら、この位置はパンツ丸見えじゃねえか……ええい、どうせ見えないんだ、大丈夫だ、頑張れ、わたし!」と、千雨は誰に言うでもなく自身に発破を掛けると、『クイック・タイム』の使用を中止した。

 途端、千雨の体感時間が一気に遅延し、千雨の耳に、鼓膜が破れてしまいそうなほどの爆音が届く。津波のごとく押し寄せてきたそれに、眉根をしかめる。

 同時に、くにゃりと視界が歪む。『クイック・タイム』の使用を止めたときに訪れる、いつもの感覚。時間にして瞬きよりも短い時間だが、その異様な感覚に千雨は、くらりと、意識を呆けさせた。

 だが、千雨の頭はそんな異様な感覚も、すぐさま順応する。瞬時に意識を覚醒させた千雨が、少年に目をやると……そこには少年の姿が無かった。

 

「……あれ?」

 

 呆気に取られて千雨の言葉が、唇から零れる。虚空となった場所を見下ろすこと、数秒ほど……そうしてから、ハッと千雨は我に返った。

 あいつ、どこに行きやがった!? 瞬時に姿を消した少年に対して、震えあがる程の恐怖が湧き上がってきた。

 やはり、来るべきではなかった。大人しく、罪悪感に苦しみながらもホテルで寝ていれば良かった。

 後悔と焦りに、冷や汗が噴き出る。ともすれば涙がこみ上げてきそうな状況の中、千雨は慌ててスパイ粒子に指令を送って、散布した場所すべての情報を確認した。

 途端、千雨の脳裏に夥しい数の映像が送られてくる。散布した粒子、一つ一つから送られてくる情報を、一つ一つ選び取って確認していく。

 それらを一瞬で解析した千雨は……首を傾げた。

 

「……なんで、あんなところにいるんだ?」

 

 右に、左に首を傾げつつ、目頭の涙を拭い取る。送られてきた映像によると……少年は、散布流域最北端の山中にいることが分かった。それも、ただそこに居ると言うわけではなく、やたらめったら山中の木々を破壊しながら突っ込んでいったかのような、不思議な光景であった。

 何時の間にあんな場所へ……ていうか、何であんな場所へ?

 不可思議な事態に首を傾げ……数秒後、そういえば、さっきの爆音は……と思考の一部が脱線した瞬間、「……あ」という、何とも言えない声が千雨の口から零れた。

 サーッと、血の気が引いていく千雨の頬に、ひとすじの汗が伝って流れる。

 

「……もしかして、さっきの爆音って、ソニック・ブーム?」

 

 まさか……いや、でも……。千雨の脳裏に、先ほど少年のもとへ接近したときのことが浮かんでくる。

 千雨は普段、無意識的にしろ、意識的にしろ、常に思考の片隅に置いていることがある。

 それは、『他者に影響を与えるな!』という意味合いの思考である。頭の片隅に置かれているこの思考のおかげで、能力使用時における他者への影響が最小限に食い止められているのである。これが無かったら、今頃、夜の京都に悲鳴と怒声が響いていただろう。

 だが、先ほどの接近はどうだろうか。ここへ来るまでにはあった、『他者に影響を与えるな!』という思考があっただろうか?

 どうせ他人には分からないことだから……『クイック・タイム』を使用しているのだから、という安心感が、心のどこかに合ったのかもしれない。

 その考えが、今の結果……なのだろう。否定したいが、状況がそれを許してくれない……千雨は愕然とした。

 そうなると、少年は……。

 そこまで考えて、千雨は首を振った。幸いにも、山中に突っ込んだ少年は無事(この時点でおかしいが、千雨にとっては生きているだけでも良かった)らしく、全身がボロ雑巾のようになりながらも、ふらふらと飛行を再開していた。

 だが、その速度はあまりにも遅速であり、千雨の居る地点に来るまでには一時間以上掛かるだろうことが、想像出来た。

 

「……そ、そういえば、あいつらは大丈夫なのか?」

 

 色々なものから逃れる為に映像を確認すると、どうやら千雨がこの場所でモタモタしている間に逆転したようで、見事木乃香を取り戻したようであった。

 笑顔で友情に花を咲かせているネギたちを見て、安堵のため息が零れる。本当はもう少し見守っていたかったが、少年が戻ってこられては面倒な事態になることに思い至り、先ほどとは別の意味のため息が零れる。

 

 とりあえず、見つかる前に逃げるべきかな。

 

 そう思った千雨は、『クイック・タイム』を使用してから、『バック・ファイア』の出力を上げる。今度は、意識的に周りの影響を考える。

 再び、『バック・ファイア』から青白い閃光を放ち始めたのを確認した千雨は、急いでその場を後にした。

 ……帰り道、千雨は2、3度、京都の夜空を旋回した。止まった世界の中で街並みを拝見して、なにかしらの被害が出ていないのを確認した千雨は、安堵のため息を吐いた。

 


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